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〖第7話〗

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「あ、ほら、見てごらん。雪だよ」

 穏やかな男の声は、濁った水みたいな俺の気持ちが濾過するように響いた。はらはらと雪が降る。今年初めての雪だった。

「綺麗だね。初雪だ。でも、やけに早い」

「お、俺の、な、名前、雪って、言う……」

「そうか……綺麗な名前だね。雪……君は雪かぁ」

 男は俺を見て静かに微笑む。男はそれ以上何も訊かず『綺麗だなあ』と空を見上げて和やかに言った。口調とは裏腹に、男は何処か切なそうだった。

──────────

 辺りがしんしんと冷えてきて、次から次へと雪が降る。冷えた地面は、少しずつ雪を受け入れて白くまばらに染まっていく。自分の張りつめていた気持ちがほどけていくようだった。黒い気持ちが、溶けていく。

「母、さん……」

 呟くように、言った。ポツリと言った一言が張りつめていた糸を切り、涙を溢れさせた。

 もう、母さんはいない。あのまるい声も、やさしく髪を撫でてくれる手も、ない。今更、母さんが居なくなった実感がわいてきて、悲しくて、悲しくて、声をあげて泣いた。

「たくさん泣きなさい。可哀想に」
    
 男は、いきなり泣き出した俺を、抱きしめた。俺は男にしがみつき、みっともなく泣いた。何回も「母さん」と繰り返し、心の中では『ごめんなさい』と母さんに言った。男は着物の袂から手拭いを出し、俺の涙を拭いて、

「悲しいときは、泣いていいんだよ。我慢しなくていい」

 ──母さん、これは罪なのかな。俺は罰を受けるのかな。解っているんだ。『掟』には背いていないけど、俺は確かに悪いことをしてる。やさしくかけられる声に促されるように、母さんを殺した仲間の悪いひとの胸に縋って、泣いている。

 泣いても泣いても、心が少しも楽にならないのは、俺はこれはやっぱり罪だからだ。   

 母さん、ごめんなさい。俺は独りが怖かった。急に独りになって、真っ暗闇に放り出されるようで、不安でたまらなかった。

 この男は、多分悪いひとだけれど、俺の名前を呼んで笑ってくれた。「綺麗な名前だね」って。母さんが残してくれた、俺の名前を。母さん許して。弱い俺を、許して。
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