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〖第17話〗自分を必要としてくれるひと
しおりを挟むそう巌は言った。見たこともない、虚ろな巌の表情に咲也は一瞬怯んだ。
巌はポカリを一口飲み、ぼうっと何かを思い出すように視線を宙に漂わせた。
「……目の前でたくさん血を吐いて、余命がもって三ヶ月と医者に言わてね。周りからは、どうしてこうなるまで、気づかなかった?と責められた。当然だね。俺は妻に謝った。でも、彼女は俺を責めなかった。蒼白い顔で笑ってた。ちゃんと彼女のことを見ていれば、解ってたはずなんだ。仕事のせいにして見ぬふりをしてたんだよ。彼女は専業主婦で、俺は仕事バカだった。確かにあの頃は忙しかった。俺はでもそんなのは、何の言い訳にもならない。それから残された時間に彼女は俺に最低限の家事を教えた。俺は一人では何もできなかったから。自分が居なくなってからのことを考えていたんだろうね。指輪を外せないのは、怖いからだ。また、間違ってしまいそうで、怖いんだよ」
怖いんだ。もう、大切な誰かを失うのは。間違うのは。そう左手で顔を隠して、俯いた巌に咲也は小さく声をかけた。
「巌さん、じゃあ家に来るようになったのは……」
「……うん。最初は心配で、来てた。また倒れているんじゃないかって。ごめんね、勝手なお節介で。迷惑だったよね。でも、季節が変わるごとに、少しずつ表情がやわらかくなって嬉しかった。あの頃、いつも淹れてくれる紅茶に合うお茶菓子をデパ地下で選ぶのが楽しみだった。咲也くんが、喜んでくれたから。初めて咲也くんが『もう遅いから夕飯、食べてく?』って言った日のこと、今でも憶えてるよ」
「俺も、憶えてる。豚肉と牛蒡のうどん食べていったんだよね。ビールも飲んで」
「うん。初めて食べて、すごく美味しかったの憶えてる。その後、咲也くんは俺に蜜柑をくれた」
箱で買った蜜柑だった。
『最後の一つなんだ。お正月の残りで悪いけど。美味しいよ。良かったら』
そう言い、巌に手渡した、橙色の実に、少しくすんだ緑の葉がついた蜜柑。咲也も鮮明に憶えていた。巌は、
『ありがとう』
と受け取った後、ぱかっと二つに割り
『咲也くんも、半分、どうぞ』
と言い、片方を咲也に差し出して、にっこり笑った。つられて咲也も笑った。
巌と二人で分けて食べた小さな蜜柑は、ずっと何処か遠く忘れていた幸せな記憶を運んできた。
このときからだ、このひと待つようになったのは。笑窪を見せて控えめに笑うこのひとを、初めていとしいと思ってしまったのは。叶わない、不毛な恋が始まったのは。
「俺が蜜柑を割ったとき、咲也くんが、やわらかく笑ったのを憶えているよ。少し照れ臭そうで、こういうのもなんだけど、可愛らしかった。俺自身、妻がいなくなってから張りつめていた糸が、綻んだ気がした。恥ずかしそうに蜜柑を食べる咲也くんを見て、久しぶりに笑った気がした。会う約束をしなかったのは、俺が自分自身に自信が無かったから。俺はただのお節介なおじさんだって。それに『待たれる』自信が無かった。いや……『待たれる』のが、怖かったんだ」
咲也は、ぬるくなったコーヒーを一口飲み、ローテーブルに置いて、巌を見つめた。
「俺はただ『待つ』しか出来なかった。どんなときも。家にいて、家事をこなしながら絵本を書いて。ずっと、小さい頃から誰かを待ってた。ドアベルがなるのが嬉しかった。巌さんは、俺のことを『待つことを必要としない人』と思っているみたいだったから少しつらかったよ。俺は、そんなに強くないから。それに、巌さんに夕飯を作っている時も、たわいもない話をしている時も、笑っているときでさえも、巌さんには帰る家がある。奥さんもいる、巌さんは独りじゃないって思っていたから。このひとは自分とは住む世界が違うって思ってた。だから巌さんが駅まで送っていってくれたとき『待っていてほしい』って言った時、嬉しかった。必要としてくれてるひとがいるって、思って、嬉しかったんだよ。本当だよ」
自分の瞳が潤んでいくのを感じた。
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