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〖第13話〗巌との出会い
しおりを挟むぼやけた視界で、目が合った。手元の机にあった、眼鏡をかける。スーツ姿のコワモテの四十代前半くらいに見える男性だった。
「お花、買ってきたんです。ほら、可愛いでしょう?」
見知らぬ男性は顔に似合わずやさしい声をしていた。男性は慣れた手つきでガラスの花瓶に花を活けていく。淡いオレンジ色のバラだった。涙を点滴のつながってない方の手で拭き、咲也は言った。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「大家です」
そう男性は穏やかな口調で言った。笑うと右頬に笑窪ができる。その少し、いかつい顔と大柄な身体に似つかわしくない、やわらかな笑顔と声が、不思議と他人に関して頑なな咲也の警戒心を解いた。
「大家さん。お花ありがとうございます」
「えっと、ちょっと違います。大家は名前じゃなくて、アパートの大家の、赤根巌です」
「あ、ああ。一度お会いしたことが、ありましたね」
語尾が小さくなった。俊一と部屋を借りるとき、菓子折りを持って挨拶をしに行ったことを覚えている。アパートを借りるとき、自分と俊一の関係を話した。
世間一般で言われる『パートナーと住む』という深い話をしたのに巌の顔は全く覚えていなかった。体を起こそうとすると、巌に制された。
「あまり、無理をしないでください。パートナーの方が亡くなって、大変だったんですね」
「すみません」
ここまで話してやっと気づいた。まだ薬が抜け切っていないのかもしれない。
「病院に運んでくれたのは、赤根さん、ですか?」
巌は小さく頷いた。
「家賃が毎月、月締めにきちんと支払われているのに、滞納というのがひっかかって。それに村瀬さんの法要の日ということもあって気になりまして。少し遅くになりましたが伺いました。そうしたら、何だか嫌な感じがして、それで。勝手に鍵を開けて部屋に入ってすみません」
「いいんです。ありがとうございました」
天井の一点をぼんやりと見つめ呟くように言う咲也を見て、
「疲れさせてすみません。ゆっくり休んで下さい。また、来ますから」
と言い巌は病室を後にした。
──────────
『咲也、起きて』
目を開けると、結城が困惑した顔で咲也を見つめていた。
「あ、ごめん。どれくらい寝ちゃってた?」
咲也がそういうと、結城はクラシカルなベルトの腕時計を見た。
「ほんのちょっと。珍しいね、あんまり飲んでないのに」
「最近、あんまりお酒飲んでないから。お酒飲んだら薬飲めなくなるし」
嘘だった。巌を待つ間、ずっとアルコールの力で寝ていた。
「今日はいいの?」
「今日くらいは。節度を守れば」
そう言い咲也は初老のバーテンダーにマティーニを頼んだ。そういえば俊一もマティーニが好きだったな、と咲也は無言で笑う。
『ピンに刺さったオリーブが、咲也の次に好き』
なんて調子のいいことを、酔う度に、やはり綺麗な白い歯を覗かせ言っていた。
今日は楽しかった、とお互いに言い、結城と別れた。街が地元とは比べ物にならないくらい明るい。タクシーを捕まえ、咲也は予約しておいたホテルへ向かった。ホテルの部屋は角部屋だった。持ってきた洗顔フォームで顔を洗う、肌をケアする。乾燥肌気味なので、ケアは欠かせない。ヒリヒリと荒れてしまう。鏡を見る。大分、老けた。そう思い、咲也は鏡から目を逸らす。
明日は、朝、熱いシャワーを浴びて、このホテルの自慢の朝食を楽しみ、街をぶらぶらしようと思った。時間だけは、沢山ある。巌に、お土産を買おう。美味しい、巌が喜ぶもの。咲也は備え付けのガウンに着替え、清潔なベージュのカバーのベッドに倒れ込んだ。程よくアルコールが回って心地良い。咲也は、吸い込まれるように眠りについた。
結局のところ、二泊三日の東京見物になった。巌には行きの車で話をした。『何か、いいもの買ってくるから』と笑った。帰る場所があるひとを想うのは、やはり、つらいなと思った。昨日バーで見た夢。あれが『待つこと』の始まりだった。
何ヵ所か見ておきたかった美術館を見て回った。美術館は常設展ばかりで思ったよりも空いていた。混んだ美術館はあまり見た気がしないので丁度良かった。誰が設計したか解らないけれど、窓から陽の光が差し込んで、とても明るい建物だった。ゆっくり絵を楽しんだ後、併設のカフェで紅茶を飲み、マカロンを食べた。サクサクッとして、香ばしい匂いが、咲也をほっと寛がせた。
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