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〖第6話〗もう、あなたは此処には来ないの?
しおりを挟む無理な話だと解っている。それでも、一度芽ばえた行き場のない感情は、消えない。叶うはずはないことは解っている。彼は『こっち側』の人ではないのだから。
それに、自分には巌の気を引くものなんて何もない。自分は、巌の何だろう?惨めになりたくなくて、考えるのをやめた。
酔っているからだ、そう言い訳して咲也は残り少ないカンパリを飲み干した。
───────────
降り続いた雪で、駅まで道が混むだろうと思い、いつもより三十分早くバスに乗ろうと思っていた。咲也の家は郊外だ。
咲也は、手早く着替える。服はあまり流行り廃りがない定番のいい物を買う。そして、長く着る。テレビの天気予報でマイナス五度と出ていた。
窓ガラスから冷気を感じながら、咲也は、ぼんやり巌のことを考えていた。昨日の金曜日、彼は来なかった。『来れない』と、連絡のメールもなかった。メールは巌と咲也を繋ぐ最後の糸だ。
自分からは、怖くてメールは出せなかった。電話番号は知っているが私的なものではない。巌の会社のものだ。
もう、会えないのではないかと怖くなる。またいつものように来てくれるのだろうか?もし巌が来たら、何を話せば良いだろうか。ちゃんと笑えるだろうか。
果ては、おつまみや、空調まで考える。本当に咲也は『らしくない』ことを考えていた。まるで別れようとしている相手に縋りつくみたいに。
正直にいられるのは、関係性に対等である自信があるときだ。咲也にはそんな自信はもうなかった。
巌の『……それだけ』と言ったときの、ため息と共に消えてしまうような、初めて聞く失意にも似た、悲しい温度の声を、咲也は初めて聞いた。
海老を剥きながら、それからずっと、鍋を二人で囲んでも、話は途切れ、巌は俯いて難しい顔をしていた。いつも朗らかな巌をそんな風にさせていたのは自分だ。咲也は、小さく自嘲った。
「最初から俺の家になんか来ない方が、巌さんのためにも良かったんだ」
呟きは宙に煙のように漂う。支度を整えた鏡の中の自分は咲也が嫌いな卑屈な顔をしていた。少し潤んだ女々しい瞳。
ソファーの前のローテーブルに置かれた白い林檎の入った袋に巌の笑顔を思い出す。
咲也はっとする。今までを全てを否定することになる。たくさんの思い出までも。それに、巌にも失礼だ。
時計の針が七時半を指していた。鏡の中の自分を一瞥し、予定より五分遅れ、慌てながら咲也はブーツを履き、急いでアパートの階段を下りた。
今日は、仕事仲間であり親友の結城に頼まれていた原稿を届け、次回作への打ち合わせがあるので、東京へ行く。咲也の仕事は絵本作家だ。特に絵の評判がよく、大人うけも良いと結城が言っていた。
アパートの階段を下り、ビスケットを齧ったような音をたてる表面が凍った新雪をかき分けて歩く。
資料とし、少し写真を撮りたかった。鳥や猫、早朝の犬の散歩の足跡。葉を落とした木々の枝先に積もった雪は桜の花のようだった。自然と咲也の顔を綻ぶ。写真はスマートフォンで手早く撮った。最近の機種は性能が良い。ここは、時間の流れがゆっくりだ。咲也にとっては、とても住みやすい。以前、東京に居た時期もあったが、皆あくせくしていて、疲れた。あそこは観光にはいいけど、長く住むのはなあ、と思ってしまった。
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