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〖第5話〗叶わない願い
しおりを挟む「巌さん、うどん好きだよね。ちょっと味濃いけど、我慢して。ごめんね。くたくたになっちゃったね……」
眼鏡の奥の咲也は、伏し目がちで、うどんを取り皿に箸で巌の分を取り分けながら、肩を落とし、明らかに気落ちしていた。
巌は『うどんなんかより、指の怪我の方が大事だ』とは、言えなかった。
前に、
『鍋で一番うどんが好きな具材なんだ』
そう巌は咲也に言った。そのとき咲也は
『じゃあ、鍋にするときは楽しみにしてて』
と、嬉しそうに微笑んだ。海老は前に咲也が
『好きだけど、ちょっと財布がね』
と恥ずかしそうに小さい声で言った。それらを巌は思い出したからだった。あまりにも、つらかった。
「咲也くん。ありがとう……うどん、すごく美味しいよ。海老も味がしみてる、咲也くんの作る料理はいつも美味しいよ。でもね、咲也くん。もっと自分を大事にして」
きっと心配そうに見つめているだろう巌の目を、咲也は見ることが出来なかった。薄く曇る眼鏡に感謝した。くつくつと赤い鍋が弱い音を立てていた。じんわりと鍋の端に溜まっていた灰汁は、まるで自分を責めているようだった。
「……ごめん。巌さん」
「いいんだよ。謝らなくていいんだよ。俺の方こそ、さっきはきつい言い方してごめんね」
巌が帰った後、夜、静かに降る雪を見ていた。窓の外は、みっともない自分を隠すように雪が降り続き、やむことはなかった。
──────────
咲也は巌が帰ったあと、右手には煙草を、左手にはカンパリの水割りを口に運びながら、風がないせいか真っ直ぐ降る雪を、ぼんやりと見ていた。
昔から独りなんて慣れていたはずなのに、部屋が広く感じる。俊一が亡くなり、ずっと欲しかった暖かな幸せは霧散した。
それでも、一度はいわゆる『誤った選択』をしたけれど、自分なりに耐えてきた。
どんどん弱くなる自分が嫌になる。寒くなり、暖房をつけた。巌が帰ってから消したヒーター。暖まってきた部屋に、さっきまで、ここにいたひとのことを考える。咲也は頭を抱える。
「巌、さん……」
答えもしない相手を呼ぶなんて、馬鹿だと思う。それでも、咲也は声を潤ませながら、名前を呼んだ。
淋しさは自分の弱さだ。弱いから、淋しいから巌に頼りたくなる。不在が苦しいのはそのせいだ。そう咲也は思おうとした。けれど、消しても、消しても浮かび上がる、種類の違う気持ちがある。
ただ淋しいからじゃない、独りが淋しいんじゃない。巌が咲也のなかで『特別』だからだ。だから、特別に淋しい。巌がここにいないことが淋しい。咲也は瞼を伏せた。
巌に傍に居て欲しい。掴まれた右手の温度を覚えている。熱い、大きな手。少し湿っていて、肌に馴染んだ。頬に触れて欲しいと思った。逸らせない視線で見つめられ、甘い声を聞きたいと思った。
背の高い巌はどんな風に、どんな瞳で、どんなキスをするんだろう。抱きしめて欲しい。
蜘蛛の糸に絡めとられた虫のように、身動きもとれないほど、強く抱きしめて欲しい。汚く消えていく残雪みたいに扱われても構わない。邪な瞳で見て欲しい。
叶うわけ、ないのに。
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