3 / 25
〖第3話〗やさしくて切なくさせるひと
しおりを挟む「ありがとう。お鍋の海老は、巌さんがいっぱい食べてよ。俺より八つも年上なんだから。いつまでも、そのままでいてよ」
林檎、剥いてくる。そう言い、咲也は台所へ立った。薄い暗がりの中、左斜めの鏡に巌が映る。鍋に浮かぶ海老をすっとよけて、くたくたになったネギを食べている。ビールが回って少し顔が赤い。
確かに鍋は幸せかもしれない。涙が少しだけ滲んだ。けれどそんな中、頭によぎるものがあった。
「俺、俊一と二人で鍋なんて、したことない」
───────────
村瀬俊一、咲也のパートナーだ。勤めていた本屋で知り合って恋人同士になった。彼はバイセクシャルだった。元気が良く、少し楽天家で、彼の周りにはいつも人がいた。咲也は勿論その話の輪の中には居なかった。
ただ、何となく、遠くから咲也は俊一を見ていた。自分からは決して話しかけることはしなかったが、俊一は、何故かよく咲也に話しかけてきた。
段々と、俊一の持ち前の愛嬌と、見え隠れする咲也に対する興味が、話をするうちに少しづつ、それが好意に変わっていく様子を敢えて隠さず、ただ笑いながらいつも傍にいる俊一に、咲也も惹かれていった。
俊一は、陽の光と仲がいい。肌が年中焼けていた。笑うたびに覗く白い健康そうな歯が魅力的だった。恋人という関係になるのに、あまり時間はかからなかった。
抱き合うたびに咲也は俊一に言った。
「俊一からは、洗い立てのシーツの匂いがする」
そう言うと俊一が素直に喜ぶのを咲也は知っていた。俊一はその度に咲也を苦しくなるほど抱きしめることも。俊一の咲也に絡める腕の温度は、天気が良い日に干したお気に入りの毛布のように肌に合い、何より咲也を安心して眠りに誘った。
あまり人と話すことが得意ではない咲也が、何故、自分とはまるで真逆の人間と恋人という関係になれたのか。
付き合い始めの頃、訊いたことがあった。『どうして俺だったの?』と。俊一は『秘密』と言い、笑って、答えてくれなかった。
あの顔が忘れられない。あの、はにかんだ少年のように幼い顔。だから咲也は考えてしまう。俊一は十年前の自分に、何を見たのか。
そしてどうしようもない悲しみに襲われる。もう居ないのだと。死んだのだ。事故だった。ふっとした瞬間、もう俊一はここにはいないことに咲也は絶望する。
そしてあの答えが今更ながら欲しくなる。俊一、訊きたいことが、まだたくさんあるんだよ。
どうして俺だったの?
十年前の俺に何を見たの?
「咲也くん?」
視界が急に明るくなる。LEDの蛍光灯の強い光が咲也の手元を照らした。林檎を持っている左手の親指に果物ナイフが少し食い込み、じんわり血が滲んでいた。
「咲也くん!」
巌に後ろから強く右の手首を掴まれ、果物ナイフが滑り落ちた。鋭利な痛みで、現実に引き戻される。
「巌さん、痛っ」
「痛いに決まってる!血が………」
胸を掴むほど苦しくて痛かったのは、傷ついた左手より、右手の巌に掴まれた手首と、巌のあまりに切ない声だった。
巌の大きな手に掴まれた右の手首は、巌の体温を初めて感じ取る。その温かさは咲也を、よりやるせない気持ちにさせた。
巌の厚い胸に顔を埋め、巌の体温を感じたかった。甘えたかった。泣きたかった。
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

【完結】政略結婚だからこそ、婚約者を大切にするのは当然でしょう?
つくも茄子
恋愛
これは政略結婚だ。
貴族なら当然だろう。
これが領地持ちの貴族なら特に。
政略だからこそ、相手を知りたいと思う。
政略だからこそ、相手に気を遣うものだ。
それが普通。
ただ中には、そうでない者もいる。
アルスラーン・セルジューク辺境伯家の嫡男も家のために婚約をした。
相手は、ソフィア・ハルト伯爵令嬢。
身分も年齢も釣り合う二人。
なのにソフィアはアルスラーンに素っ気ない。
ソフィア本人は、極めて貴族令嬢らしく振る舞っているつもりのようだが。
これはどうもアルスラーンの思い違いとは思えなくて・・・。


【改稿版・完結】その瞳に魅入られて
おもち。
恋愛
「——君を愛してる」
そう悲鳴にも似た心からの叫びは、婚約者である私に向けたものではない。私の従姉妹へ向けられたものだった——
幼い頃に交わした婚約だったけれど私は彼を愛してたし、彼に愛されていると思っていた。
あの日、二人の胸を引き裂くような思いを聞くまでは……
『最初から愛されていなかった』
その事実に心が悲鳴を上げ、目の前が真っ白になった。
私は愛し合っている二人を引き裂く『邪魔者』でしかないのだと、その光景を見ながらひたすら現実を受け入れるしかなかった。
『このまま婚姻を結んでも、私は一生愛されない』
『私も一度でいいから、あんな風に愛されたい』
でも貴族令嬢である立場が、父が、それを許してはくれない。
必死で気持ちに蓋をして、淡々と日々を過ごしていたある日。偶然見つけた一冊の本によって、私の運命は大きく変わっていくのだった。
私も、貴方達のように自分の幸せを求めても許されますか……?
※後半、壊れてる人が登場します。苦手な方はご注意下さい。
※このお話は私独自の設定もあります、ご了承ください。ご都合主義な場面も多々あるかと思います。
※『幸せは人それぞれ』と、いうような作品になっています。苦手な方はご注意下さい。
※こちらの作品は小説家になろう様でも掲載しています。

実在しないのかもしれない
真朱
恋愛
実家の小さい商会を仕切っているロゼリエに、お見合いの話が舞い込んだ。相手は大きな商会を営む伯爵家のご嫡男。が、お見合いの席に相手はいなかった。「極度の人見知りのため、直接顔を見せることが難しい」なんて無茶な理由でいつまでも逃げ回る伯爵家。お見合い相手とやら、もしかして実在しない・・・?
※異世界か不明ですが、中世ヨーロッパ風の架空の国のお話です。
※細かく設定しておりませんので、何でもあり・ご都合主義をご容赦ください。
※内輪でドタバタしてるだけの、高い山も深い谷もない平和なお話です。何かすみません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる