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〖第3話〗やさしくて切なくさせるひと
しおりを挟む「ありがとう。お鍋の海老は、巌さんがいっぱい食べてよ。俺より八つも年上なんだから。いつまでも、そのままでいてよ」
林檎、剥いてくる。そう言い、咲也は台所へ立った。薄い暗がりの中、左斜めの鏡に巌が映る。鍋に浮かぶ海老をすっとよけて、くたくたになったネギを食べている。ビールが回って少し顔が赤い。
確かに鍋は幸せかもしれない。涙が少しだけ滲んだ。けれどそんな中、頭によぎるものがあった。
「俺、俊一と二人で鍋なんて、したことない」
───────────
村瀬俊一、咲也のパートナーだ。勤めていた本屋で知り合って恋人同士になった。彼はバイセクシャルだった。元気が良く、少し楽天家で、彼の周りにはいつも人がいた。咲也は勿論その話の輪の中には居なかった。
ただ、何となく、遠くから咲也は俊一を見ていた。自分からは決して話しかけることはしなかったが、俊一は、何故かよく咲也に話しかけてきた。
段々と、俊一の持ち前の愛嬌と、見え隠れする咲也に対する興味が、話をするうちに少しづつ、それが好意に変わっていく様子を敢えて隠さず、ただ笑いながらいつも傍にいる俊一に、咲也も惹かれていった。
俊一は、陽の光と仲がいい。肌が年中焼けていた。笑うたびに覗く白い健康そうな歯が魅力的だった。恋人という関係になるのに、あまり時間はかからなかった。
抱き合うたびに咲也は俊一に言った。
「俊一からは、洗い立てのシーツの匂いがする」
そう言うと俊一が素直に喜ぶのを咲也は知っていた。俊一はその度に咲也を苦しくなるほど抱きしめることも。俊一の咲也に絡める腕の温度は、天気が良い日に干したお気に入りの毛布のように肌に合い、何より咲也を安心して眠りに誘った。
あまり人と話すことが得意ではない咲也が、何故、自分とはまるで真逆の人間と恋人という関係になれたのか。
付き合い始めの頃、訊いたことがあった。『どうして俺だったの?』と。俊一は『秘密』と言い、笑って、答えてくれなかった。
あの顔が忘れられない。あの、はにかんだ少年のように幼い顔。だから咲也は考えてしまう。俊一は十年前の自分に、何を見たのか。
そしてどうしようもない悲しみに襲われる。もう居ないのだと。死んだのだ。事故だった。ふっとした瞬間、もう俊一はここにはいないことに咲也は絶望する。
そしてあの答えが今更ながら欲しくなる。俊一、訊きたいことが、まだたくさんあるんだよ。
どうして俺だったの?
十年前の俺に何を見たの?
「咲也くん?」
視界が急に明るくなる。LEDの蛍光灯の強い光が咲也の手元を照らした。林檎を持っている左手の親指に果物ナイフが少し食い込み、じんわり血が滲んでいた。
「咲也くん!」
巌に後ろから強く右の手首を掴まれ、果物ナイフが滑り落ちた。鋭利な痛みで、現実に引き戻される。
「巌さん、痛っ」
「痛いに決まってる!血が………」
胸を掴むほど苦しくて痛かったのは、傷ついた左手より、右手の巌に掴まれた手首と、巌のあまりに切ない声だった。
巌の大きな手に掴まれた右の手首は、巌の体温を初めて感じ取る。その温かさは咲也を、よりやるせない気持ちにさせた。
巌の厚い胸に顔を埋め、巌の体温を感じたかった。甘えたかった。泣きたかった。
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