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〖第2話〗左手の光

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「鍋って幸せじゃない?暖かくて、ほっとするよ」

    頬を緩めながら巌は『美味しい』を繰り返し、鍋をつつく。まだ熱いのに火傷しないといいけど、そう思いながら、咲也は出汁を吸ったキムチ鍋のうどんを啜る巌を湯気ごしに見つめる。とても美味しそうにうどんを食べてビールを飲んでいる。巌は食べ上手で喜び上手だ。何でも作ってあげたくなる。

「久しぶりにこんなにうまい鍋食べたよ。これ、出汁、買ってきた奴じゃないよね?」

「昆布だし、鰹だし、キムチの元、お酒とお醤油。コチュジャンも少し。かな」

    そうなんだ、今度家でもやってみようかな。そう言い巌はまた、うどんを取る。咲也の片眉が反射のようにピクリと上がる。どうせなら買ってきてくれた海老を取ればいいのに。炭水化物ばっかり食べて。太るよ。

 四十二歳、厄年なんだろ、少しは自分の身体のことくらい考えればいいのに。口にはしない、嫌味や皮肉が、お鍋の中の灰汁みたいにぶくぶくと浮かんでくる。理由は簡単だ。

 巌には帰る家がある。『おかえり』と言うひとがいる。巌を抱きしめる指がある。そのことを咲也に連想させたからだ。

 巌が帰ったあとは、咲也の家は静寂に包まれる。

『帰らないで欲しい』

 そう縋った瞬間、巌との凪いだ関係は終わってしまうのではないか。ただ、週に二度、咲也の家に夕ご飯を食べに来るお客さん。それ以上も、それ以下でもない関係。それから何を期待する?

何もないと、ため息をつき、今日、咲也はお鍋の下ごしらえをした。けれど、料理を作るなんていつものこと、それだけのことなのに咲也の心に明かりが灯った。


『巌さんこの前『鍋食べたい』って言っていたから、今日は約束通り鍋だよ』

 でも、欲を出したら、出してしまったら、やさしい色の電球が弾けて割れてしまう。巌も嫌なはずだ。そんな目で見られていたと、もう二度とこの部屋に来てくれないかもしれない。

「つらいな………」

 呟きは、グツグツという鍋の音に紛れて消える。聞こえない方がいい。
  
    左手の薬指、それが外されたことは、一度もない。内心、咲也は自分に小さく笑ってしまう。当たり前じゃないか。自分と巌の間には何の関係もない。友達でもない。約束すらない。監督者が一番近いところだ。

「あのさ、咲也くん、一つ言っていい?」

「何?」

    白菜や豆腐をつつきながら、無表情で咲也は答えた。巌はやさしい声で、

「どうして海老、食べないの?」

「え?」

    巌は少し余り気味の豚肉に手をつけながら言った。咲也が手元の空の取り皿から目をあげると、巌の困ったような顔にぶつかる。

「若い子は海老が好きなんでしょ?」

 ほら、味が染みてるよ、と言い、咲也の取り皿に巌は海老を丁寧に入れた。

「巌さん。俺、もう三十四だよ?若くない」

    巌はやわらかに微笑んで、

「俺より八つ下なら、十分若いよ。ほら。白菜ばっかり食べてないで、さ」

    と言って穏やかに言った。急に不機嫌をぶつけた自分が恥ずかしくなる。

このひとの、こういう所が好きなのかもしれない。だから、待っていない顔をして待っているんだ。咲也は、泣きたくなった。

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