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アレクの恋人であること〖第24話〗

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 行き交うひとが避けて通る、力尽き、逆さになりながらも、まだ身を震わせる蝉を、深山は指先で優しくつまみ、街路樹の根元に置いた。少年は胸が苦しくなる。僕はこういう所に惹かれたんだ、と。

 身体を起こした瞬間、ぐらりと目が回った。少年は深山を支え、心配そうな目でじっと見つめた。

『ふかやまさん。大丈夫ですか?休まれたらいかがですか?』

「すまない、君は大丈夫なのか?」

『僕はほとんど汗をかきません。かけないんです』

 深山はあの夜を思い出す。バニラエッセンスの香りが部屋を包んだあの夜。あのときは、金色の髪まで湿らせていた。陽の光を知らないような白い胸が、呼吸に合わせ上下する様さえも浮かぶ。深山は小さく、
「まったく……どうかしている」

 と言った。少年は不思議そうに深山を見る。深山は、少年の目を真っ直ぐ見ることが出来ない。

 途中、昔よく一人で行っていた喫茶店に入った。案内されたのは窓際の角の静かな席だ。少しだけ雰囲気が深山の家に似ていて落ち着く。

冷房の温度が丁度良く、深山は大きく息を吐いた。小さくジャズが流れていた。マスターが、

「お久しぶりです。深山さま」

 と、柔らかく微笑み、趣味の良いグラスに水を置いていく。随分マスターの白髪も増えた。自分も年を重ねた証拠だと、深山は笑いながら、

「お久しぶりです」

 と言った。

「綺麗なお連れ様は、絵のモデルさんですか?」

 しっかり視野に左の薬指のアレキサンドライトを目にしながらも、見ない振りをして、柔和な表情を崩さずマスターは言った。

「ええ。特別な」

「お幸せそうですね」

「今、絵がかけるのは彼のお陰です」

「深山さま、昔よりも表情が明るくなりましたね」

 マスターは、ただ笑う。そこに無駄に詮索などの意味を持たせない。だからこの店が好きだと深山は思い、良く息抜きに通ってきた。

 もちろん飲み物も美味しい。深山は置かれた水を喉をならして飲む。

「お客様は、何をお飲みになりますか?」

『何か、紅茶の甘い温かいもので』

「深山さまは?」

「彼と同じものを。あと、水をもう一杯。追加で」

「かしこまりました」

 もの珍しそうに少年は、きょろきょろ辺りを見渡す。深山は、それを楽しそうに見ていた。

 これは一応『デート』なのだが、行き先が病院では、と独り苦笑する。

 帰り際、花の鉢でも買おうと思った。時期は遅いが紫と群青を混ぜたような濃い一重のクレマチスが似合いそうだと思った。

 以前、切り花を送ったことがある。

 少年は喜んでくれたが、盛りを過ぎ、萎れていく花を寂しそうに見ていた。クレマチスが無かったら少し荷物になるが濃い紅色の、少年の口唇のように紅い朝顔でも良い。

 深山の目は無意識に少年の形の良い紅い口唇を追いかける。囁かれた、あの蕩けるような甘い声や吐息の温度までもが蘇る。

「お待たせしました。ロシアンティーです。只今ジャムもすぐにお持ちいたします」
 
 マスターのにこやかな顔と柔和な声にはっとし、深山は、ぎこちない笑顔を作る。

『ふかやまさん。顔が真っ赤です。熱に当たられましたか?』
 
 心配そうに少年は白い手を深山の額に伸ばす。深山は触れようとした少年の手を、咄嗟に加減もせず、払いのけた。少年の白い手が紅く染まる。一瞬、大きな碧い目が驚いたように見開かれ、伏せられる。

『すみません。場違いでした』
 
 少年は軽く頭を下げる。しょんぼりする碧い瞳に胸が痛む。
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