その声で抱きしめて〖完結〗

華周夏

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〖最終話〗瀬川side③──Fin─

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朱鷺の髪からそっと手を離す。手に取った封筒は思っていたよりも軽かった。

どんな旋律か。長調か、短調か。何拍子か。どんな形式か。緊張しながら丁寧に封筒を開ける。

タイトルは『朱鷺』。五線譜は、白紙だった。ずっと書きたい、けれど書けないという気持ちを表したような古びた紙だった。

「先生──」

俺は頭を抱える。朱鷺はポケットから一つトローチを差し出した。そして、パキリと半分に割った。

「最後のトローチです。半分ずつ。先輩、今だけでも、悲しさだけ、忘れましょう」

俺は朱鷺の差し出すトローチを食べた。朱鷺も食べた。お互いに涙が音もなく流れた。

「半分だからかな、効き目が悪いね。涙が止まらない」

俺は涙でぼやけた視界で朱鷺を見つめる。
 
「そうですね。僕もです」

見つめ合い泣きながら俺と朱鷺は笑った。

「先輩、今日の夕ご飯はオムライスで良いですか?美味しいですよ。先輩も好きでしょう──?」

夕食に、朱鷺は手早くオムライスを作った。しばらくお互い何も喋らず、ただ黙々と食べた。

「美味しいですか?」

「ああ。美味しいよ。ありがとう」

あっという間にお皿は空になる。朱鷺が窓の外を見て言った。もう、暗い。

「風が強くなってきましたね、雨も」

「ああ。あの日みたいだ」



───記憶が鮮明になる。思い出す。
トローチを差し出したのは、朱鷺だった。

白いシャツに赤いしみをたくさんつけた朱鷺は、やっぱり白いシャツに真っ赤なしみをたくさんつけた俺に

『忘れればいいよ』

と言った。言われるがまま、トローチを食べていると、

『悲しいこと、つらいことはみんな消えてなくなるんだよ』

と俺の頬に口づけて笑っていた。優しい、綺麗な笑顔だった

『忘れればいいよ。みんな。僕のことも。全部、忘れたらいいよ』

朱鷺は確かにそう言った。あの赤い色にまみれた夜、俺を救ったのは朱鷺だった。──────────



「ありがとう、朱鷺くん」

「急にどうしたんですか?先輩」

「何でもないんだ。何でもないんだよ」

俺は下を向き右手を額にあてる。涙が止まらなかった。

「それ、先輩の癖ですよね。本当に切ない時そうします」

朱鷺は席を立った。座ったままの俺は朱鷺に後ろから包むように抱きめられ、ずっと泣き続けた。髪を優しく撫でられる。

「泣き虫ですね」

朱鷺の言葉に涙も拭わず上を向く。

「先生が教えてくれたんです。小さな先輩は、臆病で不器用で優しくて泣き虫だったって。今日はずっとこうしていますから。ずっと泣いていて良いですよ。
先輩が眠るまで、こうしてますから。
ずっと、これからも。
あなたが望めば、僕はいつでも、どんなときでも慰めてあげますから」

「───どうして?」

朱鷺は俺の髪を撫でながら言う。

「簡単なことですよ。あなたが好きだからです。誰よりも、何よりも。ただ、僕は、あなたが好きなんですよ。
それだけじゃ、いけないですか?」




─────その声で抱きしめて《完》
  
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