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〖第33集〗
しおりを挟む陸香は寂しそうに首を振る。
「私に名前はないのです。ただ任務により名前を使い分けるだけです。主に手を汚す仕事です。『黒花の者』と呼ばれてきました。范蠡様たち直系の家を担う方々の出来ない仕事を行う影です。そんな私が、范蠡様のお心を乱れさせ、申し訳ありませんでした」
声を潤ませ、肩を震わせ、まるで溢れる感情を必死で堪えるように陸香は眼を擦った。范蠡は陸香の前に座り、俯く顔を上を向かせ、抱きしめ背を撫でる。普段大人びた陸香が童女のように見えた。
「乱雑に眼を擦るな。痛めてしまう。……謝らなくていい。陸香、もう泣かなくていい。今まで、すまなかった。意見するものがあれば私が黙らせる。この家の家長は私だ。その婦人の着物も良く似合っている。私の心を奪った女人の『桂花』である時の陸香も勿論美しかった。けれど、今『陸香』として触れる悲しいそなたが愛しい。これからは護衛でも、勿論部下でもない。何より大切な私の唯一の妻だ。任務などもう二度とさせたりしない。私にとって陸香は陸香だ。それでいい」
雨は、止むことを知らないように降り続ける。地面を打つように。風も強いままだ。湿気った風が頬を撫で、雨の飛沫が見える程の雨足だった。空は薄暗くなり、時を教える太陽はとうに隠れている。陸香は眼を伏せそれでは駄目だと言うように首を振る。
「私は范蠡様の『傾国』ですか?」
范蠡は、ふっと笑い、
「ああ、何物にも代え難い」
「………そう長い時間をかけて、私は幼い頃から黒花の者の中で『傾国』の一人としての訓練を受けてきました。殿方を籠絡させ、身体を蕩かす房中術も覚えさせられました。空いた時間は人を短時間でその場にあるもので確実に殺める訓練でした。西施と鄭旦も、私が教えられたように教えました。立派な『傾国』に仕上がりました」
陸香の言葉に范蠡の時が止まる。范蠡はこの計画を知らない。勿論、越王に人相見を使って西施と鄭旦を見つける許可を取り、西施と鄭旦の二人を見つけたと喜んでいた大夫種も知らないだろう。
一応大夫種について訊くと陸香は大夫種の前で『桂花』の姿でいたと言い、『あの二人の教育係ですから、相応しい格好を』と言ったとのことだった。
こんな、秘密裏に暗殺と傾国の訓練を行わせたのは、他の誰でもない、范蠡の家の者だ。遥か昔から踏襲された范蠡すら預かり知らない大きな力がこの家にはあった。その力は陸香の人生の全てを奪っていた。
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