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44 痩せてしまった人
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家に帰れば分かる。そう言われて、俺は大人しく史也に手を引かれて家まで帰った。
カンカンと音を立てて、アパートの階段を登り切る。節約を常日頃心がけている史也には珍しく、台所の窓から見える中の照明は点けっ放しになっていた。
玄関の前で立ち止まる。史也は俺の背中を軽く支えながら、ドアを外に開いた。
「あれ? 鍵は」
「うん」
答えになってない答えが帰ってきて、俺は戸惑う。玄関には、見慣れない黒い革靴が一式揃えてあった。……誰のだろう。どう見たって、サラリーマンが履いているような大人の男性用の靴なんだけど。
台所と部屋の間の襖は今は閉じられていて、中の様子は窺えない。でも、誰かがその中にいるっていうのは、向こうから聞こえてきた足音で分かった。襖の前あたりで立ち止まったような。
何だろう。不安で怖くなって、玄関に立ったまま史也を振り返る。すると、史也は笑顔になって俺の口にチュッとキスをしたじゃないか。
「ちょ、ちょっと!」
いくら見えないからって、襖の向こうには男の人がいるのに。史也は特に警戒している様子はなくて、穏やかな笑顔のままだ。……とりあえず変な人が向こうにいる訳じゃないんだろう。
「大丈夫、取って食われたりはしないから。俺が隣に付いてるし」
「そう……だろうけどさ」
せめて誰がいるんだとか説明してくれないものか。でも、史也は今のところ説明する気はないようだし、振り返ったらまたキスされるかもしれない。
いや、キスはいいんだけどさ。さっきのも結構、いや驚くくらい甘いやつだったから、あれ、史也ってそれなりに経験あるのかなーなんて思っちゃったくらいだし。
前の相手って、男だったのかな。それとも女だったのかな。そんなこと、どうやって聞いたらいいんだろう。根掘り葉掘り聞いても史也は答えてくれるかな。
そんなことを考えている内に、不安だった気持ちが少し薄らいできた。恐るべし好きな人のキス効果。
ここで突っ立っていても何も変わらない。俺は気合いを入れ直すと、靴を脱いで家の中に入った。それでもちょっとやっぱり怖いので、史也が靴を脱いで俺の隣に来るまでは待つ。
史也は俺の背中をさっきと同じように支えると、襖に手を掛けてスッと開けた。ちょっと、心の準備は。
「え……っ」
襖の前に立っていたのは、くたびれた顔をしたおじさんだった。
ガリガリだし顔色は悪いし、スーツはサイズが合ってんのかなって見た瞬間に思うくらい余ってる。
「陸……っ」
おじさんが、俺に向かって震えている手を伸ばしてきた。思わずビクッとすると、おじさんの目から突然涙が溢れる。そのまま嗚咽しながら畳に膝を付くと、なんと頭を擦りつけてしまった。
「済まなかった……っ! 俺が悪かった、陸……っ!」
うああ、と突然男泣きに泣き始めるおじさん。ちょっと、いきなり人の名前を呼びながら泣くとか、勘弁してほしいんだけど。
だって、俺はもうこの人とは他人になったんだってずっと自分に言い聞かせてきたのに。
三年前に見た時とあまりにも姿が違うから、別人だと思いたかったのに。
二重あごとベルトの上に乗ったお腹が心配で、家出から戻ってちょっとだけ素直になった俺が、メタボだからダイエットしなよなんて話をしたのが最後だった。だから、こんなにガリガリになるなんてある筈がないのに。
「陸、ごめん……っ! 俺はお前のたったひとりの親なのに、俺が信じてやらないといけなかったのに……っ!」
「……っ」
どうしていいか分からなくて、身体が勝手に後退る。すると、史也が俺の両肩を掴んでそれを止めてしまった。
「史也……っ俺」
助けを求めて史也を振り返ると、史也は俺の肩を慰めるように撫でながらきっぱりと言う。
「陸、お父さんの話も聞いてあげてほしい」
「だって……っ!」
どうして史也が父さんを知ってるんだよ、なんで父さんが史也の家にいるんだよ。
パニックになりかけた俺に、史也が申し訳なさそうに言った。
「やっぱりちゃんと事前に話しておいた方がよかったかな……でも、陸が逃げちゃったらと思って」
確かに、前もって言われてたら逃げてただろうな。それについては一切否定できなかったので、無言になる。
史也の手は、励ますように俺の肩を撫で続けた。
「陸、俺が隣にいるから。怖くないから、だから一緒に話を聞いてみよう?」
優しく言われて、床に伏せてしまっていた父さんが情けない泣き顔で俺のことを見上げたから、俺は――。
「……分かった」
正直な話、向き合いたくない。俺のことなんてもうどうでもよく思ってたんだろうって思ってた人が突然目の前に現れて、気分がいい筈がない。
でも、気付いたんだ。
史也が俺に言わないで何度も会っていた人。それはきっと、この人なんだと。
だからきっと、この人はもう俺に何が起きたかを全部知っている。知った上で、こうして頭を下げて泣いている。
「陸……ありがとう」
涙に滲んだ父さんの声は、三年前に比べて大分年を取ったように聞こえた。
カンカンと音を立てて、アパートの階段を登り切る。節約を常日頃心がけている史也には珍しく、台所の窓から見える中の照明は点けっ放しになっていた。
玄関の前で立ち止まる。史也は俺の背中を軽く支えながら、ドアを外に開いた。
「あれ? 鍵は」
「うん」
答えになってない答えが帰ってきて、俺は戸惑う。玄関には、見慣れない黒い革靴が一式揃えてあった。……誰のだろう。どう見たって、サラリーマンが履いているような大人の男性用の靴なんだけど。
台所と部屋の間の襖は今は閉じられていて、中の様子は窺えない。でも、誰かがその中にいるっていうのは、向こうから聞こえてきた足音で分かった。襖の前あたりで立ち止まったような。
何だろう。不安で怖くなって、玄関に立ったまま史也を振り返る。すると、史也は笑顔になって俺の口にチュッとキスをしたじゃないか。
「ちょ、ちょっと!」
いくら見えないからって、襖の向こうには男の人がいるのに。史也は特に警戒している様子はなくて、穏やかな笑顔のままだ。……とりあえず変な人が向こうにいる訳じゃないんだろう。
「大丈夫、取って食われたりはしないから。俺が隣に付いてるし」
「そう……だろうけどさ」
せめて誰がいるんだとか説明してくれないものか。でも、史也は今のところ説明する気はないようだし、振り返ったらまたキスされるかもしれない。
いや、キスはいいんだけどさ。さっきのも結構、いや驚くくらい甘いやつだったから、あれ、史也ってそれなりに経験あるのかなーなんて思っちゃったくらいだし。
前の相手って、男だったのかな。それとも女だったのかな。そんなこと、どうやって聞いたらいいんだろう。根掘り葉掘り聞いても史也は答えてくれるかな。
そんなことを考えている内に、不安だった気持ちが少し薄らいできた。恐るべし好きな人のキス効果。
ここで突っ立っていても何も変わらない。俺は気合いを入れ直すと、靴を脱いで家の中に入った。それでもちょっとやっぱり怖いので、史也が靴を脱いで俺の隣に来るまでは待つ。
史也は俺の背中をさっきと同じように支えると、襖に手を掛けてスッと開けた。ちょっと、心の準備は。
「え……っ」
襖の前に立っていたのは、くたびれた顔をしたおじさんだった。
ガリガリだし顔色は悪いし、スーツはサイズが合ってんのかなって見た瞬間に思うくらい余ってる。
「陸……っ」
おじさんが、俺に向かって震えている手を伸ばしてきた。思わずビクッとすると、おじさんの目から突然涙が溢れる。そのまま嗚咽しながら畳に膝を付くと、なんと頭を擦りつけてしまった。
「済まなかった……っ! 俺が悪かった、陸……っ!」
うああ、と突然男泣きに泣き始めるおじさん。ちょっと、いきなり人の名前を呼びながら泣くとか、勘弁してほしいんだけど。
だって、俺はもうこの人とは他人になったんだってずっと自分に言い聞かせてきたのに。
三年前に見た時とあまりにも姿が違うから、別人だと思いたかったのに。
二重あごとベルトの上に乗ったお腹が心配で、家出から戻ってちょっとだけ素直になった俺が、メタボだからダイエットしなよなんて話をしたのが最後だった。だから、こんなにガリガリになるなんてある筈がないのに。
「陸、ごめん……っ! 俺はお前のたったひとりの親なのに、俺が信じてやらないといけなかったのに……っ!」
「……っ」
どうしていいか分からなくて、身体が勝手に後退る。すると、史也が俺の両肩を掴んでそれを止めてしまった。
「史也……っ俺」
助けを求めて史也を振り返ると、史也は俺の肩を慰めるように撫でながらきっぱりと言う。
「陸、お父さんの話も聞いてあげてほしい」
「だって……っ!」
どうして史也が父さんを知ってるんだよ、なんで父さんが史也の家にいるんだよ。
パニックになりかけた俺に、史也が申し訳なさそうに言った。
「やっぱりちゃんと事前に話しておいた方がよかったかな……でも、陸が逃げちゃったらと思って」
確かに、前もって言われてたら逃げてただろうな。それについては一切否定できなかったので、無言になる。
史也の手は、励ますように俺の肩を撫で続けた。
「陸、俺が隣にいるから。怖くないから、だから一緒に話を聞いてみよう?」
優しく言われて、床に伏せてしまっていた父さんが情けない泣き顔で俺のことを見上げたから、俺は――。
「……分かった」
正直な話、向き合いたくない。俺のことなんてもうどうでもよく思ってたんだろうって思ってた人が突然目の前に現れて、気分がいい筈がない。
でも、気付いたんだ。
史也が俺に言わないで何度も会っていた人。それはきっと、この人なんだと。
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