9 / 56
9 名前
しおりを挟む
それから一週間が経った。細木史也との暮らしは平穏そのもので、最初あんなに色々考えていた自分が馬鹿みたいだと今は思う。
細木史也は、やっぱり気遣いの人だった。物の場所が分からなかったり、どうしたらいいのか遠慮して聞けずにいると、何に困っているのかをすぐに聞いてくれる。
「俺さ、察してあげるの苦手だからさ。何でも遠慮なく聞いてよね」
「は? よく言うよ。何でも先回りの癖に」
年末近い冬の日の朝。俺たちは、狭いベランダに二人並んで洗濯物を干していた。空気はキンとして冷たいけど、心は温かい。
こんな平和な時間が再び自分に訪れるなんて幸運があっていいのかな。細目でにこにこしている細木史也を、ちらりと横目で盗み見しながら思った。
細木史也は、俺を見る時は大抵にこにこしている。こういう顔なのかなと思ったりもしたけど、テレビやスマホを見てる時は無表情になったりするから、どうやら違うらしい。
なので、今もにこにこしながら俺を見て、パンツを干していた。
「違うよー。斎川くんの顔を見て『あ、何か困ってるな』とは分かるけど、それが何かまでは僕には分かんないからね」
「あはは。細木さん、本当俺のことよく見てるもんね」
お前はおかんかと言いたくなるくらい、俺がワタワタしていると細木史也はすぐに駆けつけてくる。何が分からないの? 何に困ってるの? 嫌なことは遠慮なく言ってね。事ある毎に言われてしまい、俺は子供かとつい思ってしまうくらいには、細木史也は世話焼きだった。
俺には、朧げながら実の母親の記憶はある。小学校低学年で亡くなった母は末期がんで、最後の数年は入退院を繰り返していた。もういよいよという時になって帰宅した時は、大量の痛み止めを飲みながら俺との最期の時間を過ごしてくれた。
ひんやりと冷たい手で俺を抱き寄せながら、今の細木史也みたいに、困ってることはない? お父さんに言えないことがあったらお母さんがお父さんに言ってあげる。お母さんにお願いしたいことはない? と優しい声で聞かれた。
だから俺は無神経にも、お母さんにずっと生きてほしいと答えた。ごめんねと言われながら抱き締められて、頭に濡れた温かい涙の温度。
細木史也と過ごしていると、長いこと忘れていたその温度を思い出す。
細木史也の実家は兼業農家だそうで、毎週の様に大量の野菜が送られてくるんだそうだ。細木史也は、それを「斎川くんは細すぎるからもっと食べてよ」と、俺が苦しくなるまで食べさせた。
ちなみに家事能力は、しばらく専任でやっていたからか、俺の方が上だ。だから居候している俺が掃除洗濯をするよと言っても、細木史也は首を縦には振らなかった。
家賃の代わりに何かを要求したくないんだよねと言われた時は、どう返したらいいのか分からなくなって、「ありがと」としか言えなかった。
細木史也のこの言葉は、明らかに俺が家賃代わりに涼真に抱かれていた話を聞いたからだ。俺自身にはあまりそういったつもりはなかったけど、涼真がはっきりと口にしていたのを聞いてしまったから、涼真はそういうつもりもあって俺を抱いていたのは事実なんだろう。腹立たしいを通り越して、悲しいけど。
細木史也は、俺がここに住んでいるのはあくまで俺への誕生日プレゼントである宿泊権を使っているからだと言い張った。いつまでだっていていいし、自分ちだと思って寛いでほしいとも。
どうしてそこまでしてくれるんだよと尋ねると、「頼られたのが俺で嬉しかったから」と照れくさそうに鼻の下を指で擦った細木史也。根っからの世話焼きのお人好しなんだな、というのが俺の率直な感想だ。
洗濯物を干し終えて、エアコンで温まった室内へと手を擦りながら戻る。
「コーヒーと緑茶どっちがいい?」
やかんでお湯を沸かしながら、細木史也が畳の上に胡座をかいた俺を振り返りつつ尋ねてきた。細木史也の口の端は、笑いを堪えきれず上がっている。
「……聞くなよ」
下唇を突き出してボソリと答えると、細木史也は我慢し切れなかった様子で吹き出した。
「あはは……っ! コーヒーが苦手だったなら言えばよかったのに」
「言える訳ないだろ、あの状況で」
「本当、遠慮ばっかりなんだから」
呆れた口調の中に「仕方ないなあ」という優しさを感じ取った俺は、細木史也の手のひらの上で転がされている感が否めなくて、そっぽを向く。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
緑茶入りのマグカップをちゃぶ台の上にコトリと置くと、細木史也は対面に座った。コーヒーをズズ、と啜りながら、俺の顔をじっと見ている。
「……なに?」
あまりにもじっと見つめられると、居心地はよくない。ニコニコしてる細木史也ならともかく、今の細木史也は滅多に見られない真剣な表情をしているから。
なんだろう。あまりよくないことでも言わないといけないのかな。緑茶を啜りながら内心身構えていると。
「――あのさ!」
いきなり細木史也が身を乗り出してきた。
「うわ、びっくりした」
思わずビクッとして緑茶を少し溢してしまうと、細木史也はティッシュでサッと拭いてくれる。俺の指まで丁寧に。……おかんだ。まごうことなきおかんだ。
「あ、ごめん」
「ん……」
こそばゆさに目線を伏せ気味にしていると、こほん、と細木史也が軽く咳払いをした。
「えー、改めてこういうことを言うのはどうかとも思うんだけどさ」
「……なに?」
細木史也が居住まいを正したので、俺も倣って正座になる。ナニコレ。
「り……陸って呼んでもいい?」
「へ?」
つい聞き返すと、細木史也は照れくさそうな笑みを浮かべた。……この人、こういう笑顔可愛いよな。
「その! 斎川くんっていうのもさ! 一緒に住んでるのに他人行儀じゃない!?」
声がでかい。
「ま、まあね……」
「俺のことは史也って呼び捨てでいいからさ!」
「ええ、でも……」
俺が遠慮しているからか、細木史也は拳を握り締めて言う。
「俺が呼ばれたいの! はい、史也! 言って!」
なにこの人。滅茶苦茶可愛いんだけど。焦った顔も、涼真と比べたら全然平凡だけど、涼真にはなかった温かみがあるというか。
――こんな頼まれ方をしたら、仕方ないなあ。
「ぷ……史也」
笑いを堪え切れない状態で名前を呼ぶと、史也は物凄く嬉しそうな顔になり。
「へへ、陸。よろしくね」
涼真以外の男になんて、もう二度と心を許せないんじゃないか。
そう思っていた俺の心に、史也がストンと飛び込んできた決定的瞬間だった。
細木史也は、やっぱり気遣いの人だった。物の場所が分からなかったり、どうしたらいいのか遠慮して聞けずにいると、何に困っているのかをすぐに聞いてくれる。
「俺さ、察してあげるの苦手だからさ。何でも遠慮なく聞いてよね」
「は? よく言うよ。何でも先回りの癖に」
年末近い冬の日の朝。俺たちは、狭いベランダに二人並んで洗濯物を干していた。空気はキンとして冷たいけど、心は温かい。
こんな平和な時間が再び自分に訪れるなんて幸運があっていいのかな。細目でにこにこしている細木史也を、ちらりと横目で盗み見しながら思った。
細木史也は、俺を見る時は大抵にこにこしている。こういう顔なのかなと思ったりもしたけど、テレビやスマホを見てる時は無表情になったりするから、どうやら違うらしい。
なので、今もにこにこしながら俺を見て、パンツを干していた。
「違うよー。斎川くんの顔を見て『あ、何か困ってるな』とは分かるけど、それが何かまでは僕には分かんないからね」
「あはは。細木さん、本当俺のことよく見てるもんね」
お前はおかんかと言いたくなるくらい、俺がワタワタしていると細木史也はすぐに駆けつけてくる。何が分からないの? 何に困ってるの? 嫌なことは遠慮なく言ってね。事ある毎に言われてしまい、俺は子供かとつい思ってしまうくらいには、細木史也は世話焼きだった。
俺には、朧げながら実の母親の記憶はある。小学校低学年で亡くなった母は末期がんで、最後の数年は入退院を繰り返していた。もういよいよという時になって帰宅した時は、大量の痛み止めを飲みながら俺との最期の時間を過ごしてくれた。
ひんやりと冷たい手で俺を抱き寄せながら、今の細木史也みたいに、困ってることはない? お父さんに言えないことがあったらお母さんがお父さんに言ってあげる。お母さんにお願いしたいことはない? と優しい声で聞かれた。
だから俺は無神経にも、お母さんにずっと生きてほしいと答えた。ごめんねと言われながら抱き締められて、頭に濡れた温かい涙の温度。
細木史也と過ごしていると、長いこと忘れていたその温度を思い出す。
細木史也の実家は兼業農家だそうで、毎週の様に大量の野菜が送られてくるんだそうだ。細木史也は、それを「斎川くんは細すぎるからもっと食べてよ」と、俺が苦しくなるまで食べさせた。
ちなみに家事能力は、しばらく専任でやっていたからか、俺の方が上だ。だから居候している俺が掃除洗濯をするよと言っても、細木史也は首を縦には振らなかった。
家賃の代わりに何かを要求したくないんだよねと言われた時は、どう返したらいいのか分からなくなって、「ありがと」としか言えなかった。
細木史也のこの言葉は、明らかに俺が家賃代わりに涼真に抱かれていた話を聞いたからだ。俺自身にはあまりそういったつもりはなかったけど、涼真がはっきりと口にしていたのを聞いてしまったから、涼真はそういうつもりもあって俺を抱いていたのは事実なんだろう。腹立たしいを通り越して、悲しいけど。
細木史也は、俺がここに住んでいるのはあくまで俺への誕生日プレゼントである宿泊権を使っているからだと言い張った。いつまでだっていていいし、自分ちだと思って寛いでほしいとも。
どうしてそこまでしてくれるんだよと尋ねると、「頼られたのが俺で嬉しかったから」と照れくさそうに鼻の下を指で擦った細木史也。根っからの世話焼きのお人好しなんだな、というのが俺の率直な感想だ。
洗濯物を干し終えて、エアコンで温まった室内へと手を擦りながら戻る。
「コーヒーと緑茶どっちがいい?」
やかんでお湯を沸かしながら、細木史也が畳の上に胡座をかいた俺を振り返りつつ尋ねてきた。細木史也の口の端は、笑いを堪えきれず上がっている。
「……聞くなよ」
下唇を突き出してボソリと答えると、細木史也は我慢し切れなかった様子で吹き出した。
「あはは……っ! コーヒーが苦手だったなら言えばよかったのに」
「言える訳ないだろ、あの状況で」
「本当、遠慮ばっかりなんだから」
呆れた口調の中に「仕方ないなあ」という優しさを感じ取った俺は、細木史也の手のひらの上で転がされている感が否めなくて、そっぽを向く。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
緑茶入りのマグカップをちゃぶ台の上にコトリと置くと、細木史也は対面に座った。コーヒーをズズ、と啜りながら、俺の顔をじっと見ている。
「……なに?」
あまりにもじっと見つめられると、居心地はよくない。ニコニコしてる細木史也ならともかく、今の細木史也は滅多に見られない真剣な表情をしているから。
なんだろう。あまりよくないことでも言わないといけないのかな。緑茶を啜りながら内心身構えていると。
「――あのさ!」
いきなり細木史也が身を乗り出してきた。
「うわ、びっくりした」
思わずビクッとして緑茶を少し溢してしまうと、細木史也はティッシュでサッと拭いてくれる。俺の指まで丁寧に。……おかんだ。まごうことなきおかんだ。
「あ、ごめん」
「ん……」
こそばゆさに目線を伏せ気味にしていると、こほん、と細木史也が軽く咳払いをした。
「えー、改めてこういうことを言うのはどうかとも思うんだけどさ」
「……なに?」
細木史也が居住まいを正したので、俺も倣って正座になる。ナニコレ。
「り……陸って呼んでもいい?」
「へ?」
つい聞き返すと、細木史也は照れくさそうな笑みを浮かべた。……この人、こういう笑顔可愛いよな。
「その! 斎川くんっていうのもさ! 一緒に住んでるのに他人行儀じゃない!?」
声がでかい。
「ま、まあね……」
「俺のことは史也って呼び捨てでいいからさ!」
「ええ、でも……」
俺が遠慮しているからか、細木史也は拳を握り締めて言う。
「俺が呼ばれたいの! はい、史也! 言って!」
なにこの人。滅茶苦茶可愛いんだけど。焦った顔も、涼真と比べたら全然平凡だけど、涼真にはなかった温かみがあるというか。
――こんな頼まれ方をしたら、仕方ないなあ。
「ぷ……史也」
笑いを堪え切れない状態で名前を呼ぶと、史也は物凄く嬉しそうな顔になり。
「へへ、陸。よろしくね」
涼真以外の男になんて、もう二度と心を許せないんじゃないか。
そう思っていた俺の心に、史也がストンと飛び込んできた決定的瞬間だった。
22
お気に入りに追加
407
あなたにおすすめの小説

からかわれていると思ってたら本気だった?!
雨宮里玖
BL
御曹司カリスマ冷静沈着クール美形高校生×貧乏で平凡な高校生
《あらすじ》
ヒカルに告白をされ、まさか俺なんかを好きになるはずないだろと疑いながらも付き合うことにした。
ある日、「あいつ間に受けてやんの」「身の程知らずだな」とヒカルが友人と話しているところを聞いてしまい、やっぱりからかわれていただけだったと知り、ショックを受ける弦。騙された怒りをヒカルにぶつけて、ヒカルに別れを告げる——。
葛葉ヒカル(18)高校三年生。財閥次男。完璧。カリスマ。
弦(18)高校三年生。父子家庭。貧乏。
葛葉一真(20)財閥長男。爽やかイケメン。

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
国を救った英雄と一つ屋根の下とか聞いてない!
古森きり
BL
第8回BL小説大賞、奨励賞ありがとうございます!
7/15よりレンタル切り替えとなります。
紙書籍版もよろしくお願いします!
妾の子であり、『Ω型』として生まれてきて風当たりが強く、居心地の悪い思いをして生きてきた第五王子のシオン。
成人年齢である十八歳の誕生日に王位継承権を破棄して、王都で念願の冒険者酒場宿を開店させた!
これからはお城に呼び出されていびられる事もない、幸せな生活が待っている……はずだった。
「なんで国の英雄と一緒に酒場宿をやらなきゃいけないの!」
「それはもちろん『Ω型』のシオン様お一人で生活出来るはずもない、と国王陛下よりお世話を仰せつかったからです」
「んもおおおっ!」
どうなる、俺の一人暮らし!
いや、従業員もいるから元々一人暮らしじゃないけど!
※読み直しナッシング書き溜め。
※飛び飛びで書いてるから矛盾点とか出ても見逃して欲しい。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?


【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
【完結】実はチートの転生者、無能と言われるのに飽きて実力を解放する
エース皇命
ファンタジー
【HOTランキング1位獲得作品!!】
最強スキル『適応』を与えられた転生者ジャック・ストロングは16歳。
戦士になり、王国に潜む悪を倒すためのユピテル英才学園に入学して3ヶ月がたっていた。
目立たないために実力を隠していたジャックだが、学園長から次のテストで成績がよくないと退学だと脅され、ついに実力を解放していく。
ジャックのライバルとなる個性豊かな生徒たち、実力ある先生たちにも注目!!
彼らのハチャメチャ学園生活から目が離せない!!
※小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも投稿中

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる