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42 先輩と後輩

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 鍋いっぱいの、ネムリバナ。

 小瓶ひとつ分の精油を精製するのに、それだけの量が必要になるんだ。となると、ひと月なんてとてもじゃないけど保たない。……そんな量、僕には用意できないよ。だって、今だって殿下用に育てている物の内、使えない部分だけを貰っているに過ぎないんだから。

 予想外の事実に、言葉を発することができなくなっていた。そんな僕の様子を見て、クリストフ先輩が訝しげに尋ねる。

「ん? ルカ、どうしたの?」

 泣きそうになるのを必死で堪えながら、震える声で答えた。

「そんなに一度に、用意できないんです……っ」

 結局は抑え切れずに、瞳に涙を滲ませてしまう。すると先輩が、慌てた様子で慰めるように背中を撫でてきた。

「ちょ、ちょっと、うわ、泣かないで……っ。ね、ねえ、用意できないってどういうこと?」
「できないはできないんです……簡単に入手できるものじゃないので……」

 ここのところ期待が大きかっただけに、今まで調べたことが徒労だったと判明した途端、脱力感が半端ない。僕の情けない様子を見た先輩が、「うーん」と唸りながら尋ねてきた。

「あのさ。ルカが言わないから言いたくないのかなーと思って、これまであえて聞かなかったんだけど」

 緩慢な動きで顔を上げる。困り顔の先輩が、小首を傾げていた。

「そもそもさ、ルカは一体何の植物の香りを抽出しようとしてるのかな?」
「……!」

 ――そう。ここまで先輩に協力させておいて、実は抽出したい香りがネムリバナであることをまだ話していなかった。だって、あれは元々殿下の為の物だし……。それにアリにいい印象を持っていないように思える先輩に、アリの弱点となり得る睡眠障害のことを話すのはどうしても抵抗があったんだ。アリのクマを見れば一目瞭然なんだとは思うけど。

 口をぐっと噤んでしまった僕に、先輩が顔を近付けて囁く。

「ボク、口固いよ? ルカが秘密にしてって言うなら二人だけの秘密にするから言ってよ」
「でも」

 眼鏡の奥から僕を真っ直ぐ見つめる紫眼の思わぬ圧の強さに、目を泳がせた。先輩が、僕の肩を掴んで先輩の方に向き直らせる。

「ここまで一緒に調べたんだよ? どうせならちゃんと抽出するところまでつき合わせてよ。ね? お願い」

 悪意なんて一切感じられない柔らかい笑顔に、僕の気持ちはぐらりと傾いだ。正直なところ、行き詰まり感を覚えていたから。

 ……アリと一緒にいられる時は、別にいい。問題は、僕が一緒にいられない時だ。だってさ、これまでみたいに一進一退した状況のまま卒業を迎えちゃったら、アリは一体どうなっちゃうんだよ。

 卒業したら、僕もアリも社会に出ることになる。そうしたら、これまでの長期休暇のように日中アリに膝枕をして寝かせてあげることが不可能なのは、ちょっと想像すれば分かることじゃないか。かといって、ユーネル侯爵の屋敷に戻るだろうアリと毎晩一緒に寝てあげることなんて、どう考えたってできない。しがない男爵令息である僕が侯爵家で寝泊まりなんて、どうやったっておかしいじゃないか。

 アリの卒業後のことを考えると、いつもざわざわとした不安が押し寄せてきていた。だけど、この不安をアリは勿論、他の誰にも共有することはできない。だから僕にはずっと、どこか縋りたい気持ちがあったんだと思う。

 きっと僕は、ひとりで抱えていることに限界を感じていたんだ。

「絶対、誰にも言わないで下さいね……?」
「勿論」

 意を決した僕は、ずっと自分の中に留めておいたことを、とうとう先輩に吐露し始めたのだった。



 先輩は、静かに僕の話を聞いてくれた。

 言葉に詰まる度に励ますように背中を撫でてくれて、大きな手の温かさにどれだけ勇気をもらえたことか。

「――ということなんですけど、いつも入手できるのは少量だけなんです……」

 僕の話をひと通り聞き終えた先輩が、納得したように頷く。

「ネムリバナかあ。確かにこの辺には咲いてないもんね」
「え、クリストフ先輩、ネムリバナを知ってるんですか?」

 先輩の言葉に、驚いて顔を上げた。どうして先輩が知っているんだろう。王都近郊では自生していないし、そもそもが雑草に分類される程度の認識しかされていない野花なのに。

 先輩が、にこやかに微笑む。

「うん、知ってるよ? だって、ボクの実家がある領地のあちこちに生えてるもんね」
「え!? クリストフ先輩の領地に!?」
「うん。僕の実家、王都より南の方にあるんだ。さすがに冬前には枯れちゃうけど、夏場はもういいよってくらいあちこちに生えてるのを見かけるよ」

 そんな偶然ってある!? あ、でも、南の方では割とよく生えてるんだっけ。

「ええ……なんて羨ましい……!」

 僕が目を輝かせながら身を乗り出すと、先輩がおかしそうにケラケラ笑った。

「あんなのでいいなら、夏季休暇に帰省した時に鉢植えに植え替えて持って帰ってきてあげるよ。何株くらい欲しい? いつも馬車で往復するんだけど、荷台がすっからかんだから沢山積めるよ」
「えっ!? 本当にいいんですか!?」

 なんて有り難い申し出だろう。半泣き状態で先輩を見上げる。太陽光を背にしている先輩に、後光が差しているように見えた。『天上からの贈り物』は僕じゃなくて先輩のことじゃないかな。

「うん。ボクも香りの抽出まで見届けたいしね」
「クリストフ先輩……ありがとうございますっ!」

 湧き起こる歓喜のあまり、感極まりすぎて口を押さえて泣き出してしまった。先輩が「えっ」と小さな悲鳴を漏らす。恐る恐るといった様子で僕の背中に腕を回すと、周囲をキョロキョロ見渡した。

「アルフレート、見てないよな……?」
「アリですか……? 部屋で勉強してますけど」

 この人、だから一体アリと何があったの?

「あ、そう? ならちょっとくらいはいいかな……へへ、後輩って可愛いねえ」

 先輩は緩み切った表情に変わると、嬉しそうに僕をギュッと抱き締めてくれたのだった。
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