有能すぎる親友の隣が辛いので、平凡男爵令息の僕は消えたいと思います

緑虫

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13 湯殿

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 アリが泣き止むのを待ってから、お風呂に誘った。

 脱衣場で裸になり扉を開けて風呂場に入った途端、お風呂なんて可愛らしい呼び方は間違っていることに気付かされる。余裕で泳げるだろう広さの湯船。その中心にはそれはまあ立派な噴水があって、湯気を立ち昇らせたお湯が我を見よとばかりに盛大に噴き出している。これは紛うことなき湯殿ゆどのだ。お風呂なんて呼んだら、お風呂の字の方が恥ずかしがってしまう。

 口を開けて放心していると、アリが「ルカ」と僕を手招きし、親切にも洗い場の使い方を教えてくれた。温室で掻いた汗を流すと、次はいよいよこのとんでもない湯殿の番だ。

 足の指先を浸ける。うん、熱すぎずぬるすぎず、丁度いい温度だ。奥に進むとしゃがみ、足を真っ直ぐに伸ばしてみた。

「足が伸ばせる……!」

 分不相応感を全身で感じながらも、膝を曲げないと浸かることもできない我が家の湯船では得られない開放感に、思わず感嘆の溜息を漏らす。これはいい。兄様、こんな素敵なお風呂に毎日浸かってたのか。羨ましすぎる! 僕には「学校の風呂なんてろくでもないぞ! いいかルカ、風呂はサッと洗いサッと出るのが極意だ! 長居は無用だ!」なんて目を三角にして言ってたのに!

 後ろに手を突いて上半身を仰け反らせてみる。うーん、やっぱり最高! これは毎日長湯しちゃいそうだ。

 瞼を閉じながら堪能していると、ふと何かを忘れていることに気付いた。……ええと、何だっけ。

 身体と共に弛緩していく思考を懸命に働かせている内に、「あ」と思い至る。アリの存在を忘れていた。周囲を見回してみる。いない。あれ、どこに行ったんだろう? 遠くの方に目線を移すと、風呂場から出ていこうとしているアリの後ろ姿を発見した。慌ててザバンと立ち上がる。

「ちょ、ちょっとアリ!? 浸かってないよ!?」

 思わず大声を発すると、アリが歩みを止めて振り返った。不可解そうに片眉を上げている。周囲の生徒たちの視線が痛いけど、気にしている場合じゃない。僕は湯殿から急いで出ると、滑らないようにできるだけ気を付けながら、アリの元に小走りで向かった。

「アリってば、湯船に浸からないと駄目じゃないか!」

 何となく逃げられそうな予感がして、アリの腕を掴む。肌の冷たさに、ギョッとした。お風呂から上がる時の温度じゃないよ、これ。

 アリが、少し困った様子で答える。

「実は、浸かるのが苦手なんだ。熱くてちょっとしか入っていられなくて」
「それは身体が冷えすぎてるからだよ!」
「でも」

 嫌がる素振りを見せるアリに、僕は必死で言い募った。

「今日何度か思ったんだけど、アリは身体が冷えすぎだと思う! あのね、寝る前は身体を温めないと寝にくいんだって!」
「……そうなのか?」

 アリが真顔で小首を傾げる。ちょっと興味を持ってくれたみたいだ。僕はブンブン首を上下に振ると、アリの腕を湯殿の方に引っ張り始めた。

「そうなの! だから、ちょっとでいいから浸かろう、ね!?」

 アリは迷っている風だった。でも、眠れるのならと考え直してくれたらしい。

「――分かった。挑戦してみよう……!」

 そんな戦地に赴く騎士みたいな決死の覚悟を漂わせなくてもいいんじゃないかと思ったけど、僕は何も言わずにただ引っ張って行ったのだった。



 結果として、アリは三十も数えられない短い時間しか浸かれなかった。

 正直、「こりゃ駄目だ」と思った。烏の行水にもほどがある。だけどアリ自身は「こんなに長い間浸かれたのはルカのお陰だ」と目を輝かせていたので、僕は沈黙を選択してただ頷くに留める。

 なにはともあれ、部屋に戻り歯を磨いたら、いよいよお楽しみのネムリバナの時間だ。

 僕自身はお城の花園に行く度にゲロルドさんに分けてもらっていたので、効果のほどは実証済だ。これはもう本当に、非常にとっても信じられないくらいよく眠れる。「わーいい香り……スヤア……」ってくらいの瞬殺度だ。

 平べったい水桶に薄く水を張ったものを、二つの寝台の間にあるランプが置かれた小棚の上に設置する。殿下用とは別に摘んでおいた傷物の花びらをハンカチから取り出すと、一枚ずつ水面に浮かべた。直後から、爽やかで奥深い芳醇な香りが部屋に充満していく。

 寝台に腰掛けて僕の様子を観察するように眺めていたアリが、目を見開き身を乗り出してきた。

「これだ……! この匂いだ! ああ、この日をどれだけ渇望したことか……!」

 言葉の選択がいちいち大袈裟な気もするけど、アリは目の下が真っ黒に変わるほどの睡眠障害を抱えている。彼にとってこれは、僕が想像する何倍、いや何百倍も大きな出来事なのかもしれなかった。

 アリに微笑みかける。

「ほら、身体が冷める前に布団の中に入ってよ」
「わ、分かった」

 涙ぐんで目尻を擦っていたアリは、僕の言葉に素直に従って布団に横になった。
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