上 下
9 / 107

9 俺の天使様

しおりを挟む
 アリの後に続いて、部屋の奥に向かう。

 十歩ほどで通り抜けた廊下の壁には、備え付けの靴箱に衣装棚、物置があった。トイレと洗面台もある。ちなみに、トイレ掃除は自分たちですると聞いた。これまで使用人に全て任せていた貴族令息が外の世界に出て自分の力で生きていけるようになる為の、大事な一歩なんだとか。ちなみに我が家は持ち回りで掃除をしていたので、僕に抵抗感は一切ない。

 廊下を抜けた先には、天井の高い広いひと間が広がっていた。正面には天井から床まである大きな硝子窓があって、部屋に差し込む陽光が眩しい。窓の向こうは露台になっていて、物干しのロープが張ってがあるのが見えた。ここに洗濯物を自分で干すんだろう。向かって左側の壁には、机が二脚。右側の壁には寝台が二台、少し間を開けて並んでいた。

 他に部屋はないみたいなので、これで全てらしい。僕の家の部屋より広くて立派だから僕自身は何の不満もないけど、高位貴族だと圧迫感を覚えそうではある。

 廊下側の寝台には、布団が敷いてあった。窓側の寝台の上には布団と毛布が畳まれて置いてあるだけで、敷かれていない。ということは、僕の寝台はこっちか。

 寝台に向かって歩いていくと、ふと後頭部に視線を感じ、振り返る。

 真後ろに、アリが立っていた。

「ひゃっ!」

 一歩でも下がったら、僕の背中とアリの胸がくっつく程度の距離しか離れていない。お、驚いた……! 心臓をバクバクさせながら見上げていると、アリが真顔のまま僕の鞄を軽く持ち上げる。

「これ、寝台の上に置いていいか」
「あ、う、うん、ありがとう!」

 僕の荷物を寝台に置こうとしてくれていたらしい。驚いて悪いことしちゃったな。アリは荷物を置くと、何か言いたげに口をモゴモゴさせる。荷物を置いた後も、距離は近いままだ。

「……あの、どうしたの?」

 アリがごくりと唾を呑み込む音が聞こえてきた。アリの視線は、僕から一切逸らされないままだ。

「その……ひとつ訊きたいことがある」
「うん?」

 なんだろう。イビキを掻かないかの確認かな。確かにその可能性は考えたことがなかった。兄様にイビキを指摘されたことはないので、多分大丈夫だと思うんだけど。

 もしイビキを掻いちゃったら、アリに兄様おすすめの耳栓を貸し出そう。

 アリはズボンのポケットから薄汚れた麻の布を取り出すと、僕の前で広げてみせた。侯爵令息がポケットに忍ばせておくには不釣り合いなボロキレの中には、恐らくは押し花にされたであろう、ネムリバナの花びらが一枚入っている。

「これって……」
「念の為確認したい。これに見覚えは?」

 そりゃあ勿論、ある。正直にこくんと頷くと、アリの真顔にほんのり喜色が浮かんだように見えた。

「やはりそうか……! 俺は、これを俺にくれた心優しい人に再会したいとずっと願っていたんだ」
「こ、心優しい人って」

 そんな大袈裟な、と微妙な笑みを漏らす。アルは真剣な眼差しで、僕の目を覗き込むように顔を近付けてきた。お互いの息が拭きかかるほどの距離に、僕の心臓がドクンと跳ね上がる。

「では言い換える。俺の心を救ってくれた天使様だ」
「ぶっ!? て、天使!?」

 こんな貧相で平凡真っしぐらな僕の、どこが天使!? 驚きのあまり吹き出してしまい、慌てて口の端を手の甲で拭い取った。

「待て」

 鋭い制止が入る。こ、今度はなに!?

「そんな乱暴に拭っては、ルカの柔らかそうな肌に傷がついてしまう」
「ふぇっ!?」

 アルはネムリバナの花びらを大事そうに包み直しポケットの中に戻すと、反対のポケットから真っ白なハンカチを取り出した。顔を擦っていた僕の手を、僕よりずっと大きな手でまるで壊れ物かのようにそっと包み込む。

 その手があまりにも冷たくて、内心「ひゃっ」と驚いた。まるで冷水に手を浸していたような冷たさだ。

 アリは優しい手つきで僕の口の端にハンカチを押し当てると、くすぐったそうに小さく微笑んだ。初めて見る笑顔はちょっと幼くて、さっきまでの気難しそうな雰囲気が消え失せる。

「……思った通り、滑らかで柔らかい肌だ」
「あ、あの、アリ……?」

 一体どうしちゃったんだろう、この人。

 アリは掴んでいたままの僕の手を、ハンカチごと両手で包み込む。そのままアリの口許に引き寄せると、僕の指にアリの唇を押し当てた。わ、わ、わあああっ!?

「ずっと、ありがとうと言いたかった」
「へっ!? いや、そんな大したことは……っ」
「ありがとう――ルカ」
「ひゃっ!?」

 アリは小声で囁くと、割れ物を守るような優しさで僕を抱き締めたのだった。







------------------

お読みいただきありがとうございます!
明日からはストックが溜まるまで一日二話投稿にしていく予定です。また溜まりましたら、一日三話投稿に切り替えます……!
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

実はαだった俺、逃げることにした。

るるらら
BL
 俺はアルディウス。とある貴族の生まれだが今は冒険者として悠々自適に暮らす26歳!  実は俺には秘密があって、前世の記憶があるんだ。日本という島国で暮らす一般人(サラリーマン)だったよな。事故で死んでしまったけど、今は転生して自由気ままに生きている。  一人で生きるようになって数十年。過去の人間達とはすっかり縁も切れてこのまま独身を貫いて生きていくんだろうなと思っていた矢先、事件が起きたんだ!  前世持ち特級Sランク冒険者(α)とヤンデレストーカー化した幼馴染(α→Ω)の追いかけっ子ラブ?ストーリー。 !注意! 初のオメガバース作品。 ゆるゆる設定です。運命の番はおとぎ話のようなもので主人公が暮らす時代には存在しないとされています。 バースが突然変異した設定ですので、無理だと思われたらスッとページを閉じましょう。 !ごめんなさい! 幼馴染だった王子様の嘆き3 の前に 復活した俺に不穏な影1 を更新してしまいました!申し訳ありません。新たに更新しましたので確認してみてください!

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

嫌われ公式愛妾役ですが夫だけはただの僕のガチ勢でした

ナイトウ
BL
BL小説大賞にご協力ありがとうございました!! CP:不器用受ガチ勢伯爵夫攻め、女形役者受け 相手役は第11話から出てきます。  ロストリア帝国の首都セレンで女形の売れっ子役者をしていたルネは、皇帝エルドヴァルの為に公式愛妾を装い王宮に出仕し、王妃マリーズの代わりに貴族の反感を一手に受ける役割を引き受けた。  役目は無事終わり追放されたルネ。所属していた劇団に戻りまた役者業を再開しようとするも公式愛妾になるために偽装結婚したリリック伯爵に阻まれる。  そこで仕方なく、顔もろくに知らない夫と離婚し役者に戻るために彼の屋敷に向かうのだった。

兄たちが弟を可愛がりすぎです

クロユキ
BL
俺が風邪で寝ていた目が覚めたら異世界!? メイド、王子って、俺も王子!? おっと、俺の自己紹介忘れてた!俺の、名前は坂田春人高校二年、別世界にウィル王子の身体に入っていたんだ!兄王子に振り回されて、俺大丈夫か?! 涙脆く可愛い系に弱い春人の兄王子達に振り回され護衛騎士に迫って慌てていっもハラハラドキドキたまにはバカな事を言ったりとしている主人公春人の話を楽しんでくれたら嬉しいです。 1日の話しが長い物語です。 誤字脱字には気をつけてはいますが、余り気にしないよ~と言う方がいましたら嬉しいです。

【完結】婚約破棄された僕はギルドのドSリーダー様に溺愛されています

八神紫音
BL
 魔道士はひ弱そうだからいらない。  そういう理由で国の姫から婚約破棄されて追放された僕は、隣国のギルドの町へとたどり着く。  そこでドSなギルドリーダー様に拾われて、  ギルドのみんなに可愛いとちやほやされることに……。

別れの夜に

大島Q太
BL
不義理な恋人を待つことに疲れた青年が、その恋人との別れを決意する。しかし、その別れは思わぬ方向へ。

【完結済み】乙男な僕はモブらしく生きる

木嶋うめ香
BL
本編完結済み(2021.3.8) 和の国の貴族の子息が通う華学園の食堂で、僕こと鈴森千晴(すずもりちはる)は前世の記憶を思い出した。 この世界、前世の僕がやっていたBLゲーム「華乙男のラブ日和」じゃないか? 鈴森千晴なんて登場人物、ゲームには居なかったから僕のポジションはモブなんだろう。 もうすぐ主人公が転校してくる。 僕の片思いの相手山城雅(やましろみやび)も攻略対象者の一人だ。 これから僕は主人公と雅が仲良くなっていくのを見てなきゃいけないのか。 片思いだって分ってるから、諦めなきゃいけないのは分ってるけど、やっぱり辛いよどうしたらいいんだろう。

ヒロイン不在の異世界ハーレム

藤雪たすく
BL
男にからまれていた女の子を助けに入っただけなのに……手違いで異世界へ飛ばされてしまった。 神様からの謝罪のスキルは別の勇者へ授けた後の残り物。 飛ばされたのは神がいなくなった混沌の世界。 ハーレムもチート無双も期待薄な世界で俺は幸せを掴めるのか?

処理中です...