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9 俺の天使様
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アリの後に続いて、部屋の奥に向かう。
十歩ほどで通り抜けた廊下の壁には、備え付けの靴箱に衣装棚、物置があった。トイレと洗面台もある。ちなみに、トイレ掃除は自分たちですると聞いた。これまで使用人に全て任せていた貴族令息が外の世界に出て自分の力で生きていけるようになる為の、大事な一歩なんだとか。ちなみに我が家は持ち回りで掃除をしていたので、僕に抵抗感は一切ない。
廊下を抜けた先には、天井の高い広いひと間が広がっていた。正面には天井から床まである大きな硝子窓があって、部屋に差し込む陽光が眩しい。窓の向こうは露台になっていて、物干しのロープが張ってがあるのが見えた。ここに洗濯物を自分で干すんだろう。向かって左側の壁には、机が二脚。右側の壁には寝台が二台、少し間を開けて並んでいた。
他に部屋はないみたいなので、これで全てらしい。僕の家の部屋より広くて立派だから僕自身は何の不満もないけど、高位貴族だと圧迫感を覚えそうではある。
廊下側の寝台には、布団が敷いてあった。窓側の寝台の上には布団と毛布が畳まれて置いてあるだけで、敷かれていない。ということは、僕の寝台はこっちか。
寝台に向かって歩いていくと、ふと後頭部に視線を感じ、振り返る。
真後ろに、アリが立っていた。
「ひゃっ!」
一歩でも下がったら、僕の背中とアリの胸がくっつく程度の距離しか離れていない。お、驚いた……! 心臓をバクバクさせながら見上げていると、アリが真顔のまま僕の鞄を軽く持ち上げる。
「これ、寝台の上に置いていいか」
「あ、う、うん、ありがとう!」
僕の荷物を寝台に置こうとしてくれていたらしい。驚いて悪いことしちゃったな。アリは荷物を置くと、何か言いたげに口をモゴモゴさせる。荷物を置いた後も、距離は近いままだ。
「……あの、どうしたの?」
アリがごくりと唾を呑み込む音が聞こえてきた。アリの視線は、僕から一切逸らされないままだ。
「その……ひとつ訊きたいことがある」
「うん?」
なんだろう。イビキを掻かないかの確認かな。確かにその可能性は考えたことがなかった。兄様にイビキを指摘されたことはないので、多分大丈夫だと思うんだけど。
もしイビキを掻いちゃったら、アリに兄様おすすめの耳栓を貸し出そう。
アリはズボンのポケットから薄汚れた麻の布を取り出すと、僕の前で広げてみせた。侯爵令息がポケットに忍ばせておくには不釣り合いなボロキレの中には、恐らくは押し花にされたであろう、ネムリバナの花びらが一枚入っている。
「これって……」
「念の為確認したい。これに見覚えは?」
そりゃあ勿論、ある。正直にこくんと頷くと、アリの真顔にほんのり喜色が浮かんだように見えた。
「やはりそうか……! 俺は、これを俺にくれた心優しい人に再会したいとずっと願っていたんだ」
「こ、心優しい人って」
そんな大袈裟な、と微妙な笑みを漏らす。アルは真剣な眼差しで、僕の目を覗き込むように顔を近付けてきた。お互いの息が拭きかかるほどの距離に、僕の心臓がドクンと跳ね上がる。
「では言い換える。俺の心を救ってくれた天使様だ」
「ぶっ!? て、天使!?」
こんな貧相で平凡真っしぐらな僕の、どこが天使!? 驚きのあまり吹き出してしまい、慌てて口の端を手の甲で拭い取った。
「待て」
鋭い制止が入る。こ、今度はなに!?
「そんな乱暴に拭っては、ルカの柔らかそうな肌に傷がついてしまう」
「ふぇっ!?」
アルはネムリバナの花びらを大事そうに包み直しポケットの中に戻すと、反対のポケットから真っ白なハンカチを取り出した。顔を擦っていた僕の手を、僕よりずっと大きな手でまるで壊れ物かのようにそっと包み込む。
その手があまりにも冷たくて、内心「ひゃっ」と驚いた。まるで冷水に手を浸していたような冷たさだ。
アリは優しい手つきで僕の口の端にハンカチを押し当てると、くすぐったそうに小さく微笑んだ。初めて見る笑顔はちょっと幼くて、さっきまでの気難しそうな雰囲気が消え失せる。
「……思った通り、滑らかで柔らかい肌だ」
「あ、あの、アリ……?」
一体どうしちゃったんだろう、この人。
アリは掴んでいたままの僕の手を、ハンカチごと両手で包み込む。そのままアリの口許に引き寄せると、僕の指にアリの唇を押し当てた。わ、わ、わあああっ!?
「ずっと、ありがとうと言いたかった」
「へっ!? いや、そんな大したことは……っ」
「ありがとう――ルカ」
「ひゃっ!?」
アリは小声で囁くと、割れ物を守るような優しさで僕を抱き締めたのだった。
------------------
お読みいただきありがとうございます!
明日からはストックが溜まるまで一日二話投稿にしていく予定です。また溜まりましたら、一日三話投稿に切り替えます……!
十歩ほどで通り抜けた廊下の壁には、備え付けの靴箱に衣装棚、物置があった。トイレと洗面台もある。ちなみに、トイレ掃除は自分たちですると聞いた。これまで使用人に全て任せていた貴族令息が外の世界に出て自分の力で生きていけるようになる為の、大事な一歩なんだとか。ちなみに我が家は持ち回りで掃除をしていたので、僕に抵抗感は一切ない。
廊下を抜けた先には、天井の高い広いひと間が広がっていた。正面には天井から床まである大きな硝子窓があって、部屋に差し込む陽光が眩しい。窓の向こうは露台になっていて、物干しのロープが張ってがあるのが見えた。ここに洗濯物を自分で干すんだろう。向かって左側の壁には、机が二脚。右側の壁には寝台が二台、少し間を開けて並んでいた。
他に部屋はないみたいなので、これで全てらしい。僕の家の部屋より広くて立派だから僕自身は何の不満もないけど、高位貴族だと圧迫感を覚えそうではある。
廊下側の寝台には、布団が敷いてあった。窓側の寝台の上には布団と毛布が畳まれて置いてあるだけで、敷かれていない。ということは、僕の寝台はこっちか。
寝台に向かって歩いていくと、ふと後頭部に視線を感じ、振り返る。
真後ろに、アリが立っていた。
「ひゃっ!」
一歩でも下がったら、僕の背中とアリの胸がくっつく程度の距離しか離れていない。お、驚いた……! 心臓をバクバクさせながら見上げていると、アリが真顔のまま僕の鞄を軽く持ち上げる。
「これ、寝台の上に置いていいか」
「あ、う、うん、ありがとう!」
僕の荷物を寝台に置こうとしてくれていたらしい。驚いて悪いことしちゃったな。アリは荷物を置くと、何か言いたげに口をモゴモゴさせる。荷物を置いた後も、距離は近いままだ。
「……あの、どうしたの?」
アリがごくりと唾を呑み込む音が聞こえてきた。アリの視線は、僕から一切逸らされないままだ。
「その……ひとつ訊きたいことがある」
「うん?」
なんだろう。イビキを掻かないかの確認かな。確かにその可能性は考えたことがなかった。兄様にイビキを指摘されたことはないので、多分大丈夫だと思うんだけど。
もしイビキを掻いちゃったら、アリに兄様おすすめの耳栓を貸し出そう。
アリはズボンのポケットから薄汚れた麻の布を取り出すと、僕の前で広げてみせた。侯爵令息がポケットに忍ばせておくには不釣り合いなボロキレの中には、恐らくは押し花にされたであろう、ネムリバナの花びらが一枚入っている。
「これって……」
「念の為確認したい。これに見覚えは?」
そりゃあ勿論、ある。正直にこくんと頷くと、アリの真顔にほんのり喜色が浮かんだように見えた。
「やはりそうか……! 俺は、これを俺にくれた心優しい人に再会したいとずっと願っていたんだ」
「こ、心優しい人って」
そんな大袈裟な、と微妙な笑みを漏らす。アルは真剣な眼差しで、僕の目を覗き込むように顔を近付けてきた。お互いの息が拭きかかるほどの距離に、僕の心臓がドクンと跳ね上がる。
「では言い換える。俺の心を救ってくれた天使様だ」
「ぶっ!? て、天使!?」
こんな貧相で平凡真っしぐらな僕の、どこが天使!? 驚きのあまり吹き出してしまい、慌てて口の端を手の甲で拭い取った。
「待て」
鋭い制止が入る。こ、今度はなに!?
「そんな乱暴に拭っては、ルカの柔らかそうな肌に傷がついてしまう」
「ふぇっ!?」
アルはネムリバナの花びらを大事そうに包み直しポケットの中に戻すと、反対のポケットから真っ白なハンカチを取り出した。顔を擦っていた僕の手を、僕よりずっと大きな手でまるで壊れ物かのようにそっと包み込む。
その手があまりにも冷たくて、内心「ひゃっ」と驚いた。まるで冷水に手を浸していたような冷たさだ。
アリは優しい手つきで僕の口の端にハンカチを押し当てると、くすぐったそうに小さく微笑んだ。初めて見る笑顔はちょっと幼くて、さっきまでの気難しそうな雰囲気が消え失せる。
「……思った通り、滑らかで柔らかい肌だ」
「あ、あの、アリ……?」
一体どうしちゃったんだろう、この人。
アリは掴んでいたままの僕の手を、ハンカチごと両手で包み込む。そのままアリの口許に引き寄せると、僕の指にアリの唇を押し当てた。わ、わ、わあああっ!?
「ずっと、ありがとうと言いたかった」
「へっ!? いや、そんな大したことは……っ」
「ありがとう――ルカ」
「ひゃっ!?」
アリは小声で囁くと、割れ物を守るような優しさで僕を抱き締めたのだった。
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