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蛮族の祝祭
デュラオッへ藩王国 共和国協定千四百四十七年晴明
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ステアの空の旅は実のところ呑気なものだ。
圧力や体積ではなくふたつの混合気体で比重を調整しながら高度を調整するというちょっとややこしい気分のする手法だったが、構造上は巨大な筒を使った単純なもので動くところはひどく小さなバルブが幾つかと工場の冷凍庫で使っている巨大なコンプレッサーで動いていた。少し前までは巨大な深皿状の円盤が円筒の中を滑るように動いていたが、様々な見直しがあって機構が大幅に整理されていた。いずれにせよ気嚢全体をふくらませたりたわめたりという仕事がない分、機構の動力機械いっぱいの性能を浮力の調整に回せる自由度がある。
上空二リーグを越える高空はしばしば二酸化炭素が液化してしまう外気温になるわけだが、気嚢内温度が確保出来れば窒素よりは二酸化炭素のほうが扱いは簡単でそうあるために配管制御系が氷点下を下回らないように、気嚢表面が氷結しないように推進系のガスタービンから伸びるヒートポンプが保護をしていた。
炭酸ガスの気嚢内での凝集はもちろん飛行船にとって致命的な意味合いを持っていたが、それ以前に大気空気中に大量に含まれる水蒸気が高速で運動する飛行船に衝突することで水となり更に氷の核になるという事態は巡航状態の飛行船の浮力を削り安定した航行を妨げる原因でもあった。
対策として飛行船外殻や気嚢表面或いは配管系制御系の温度を確保する努力が必要であったから、外殻内部はもちろんヒトが過ごすには酸素が不足してまた運行中過ごす寒くはあったが、減圧下の氷点を下回らない程度の温度が確保され、安全装具なしでもヒトが直ちに昏倒するような環境ではないようになっていた。
配管上はややこしい造りをしているが少なくとも以前のステアのように直径をチャージで測るような巨大なピストンを使わないだけ、整備の上で気楽な作りになっていた。
六機備えられた巨大なターボファンエンジンは老人たちの会心の作で貨物車よりも大きな原動機筐体を飛行船本体と回転軸で支えつつ燃料やら油圧やら熱交換器配管やら電気系やらというごちゃごちゃとした様々を運行動作で千切らせることなくつなぐことに成功していた。
ステアの巨体は空を舞う鳥のように軽快に飛ぶというものではないし、蝶や蝙蝠のように舞うという種類のものでもないが、それらよりもかなり早く飛ぶ。
音よりも早く飛ぶことは到底出来なかったが、風よりも早く飛ぶことは容易くて、自動車よりもかなり早く、巨大で優雅にのんびりと動いてみえるステアはおよそのところでマスケットの銃弾と同じくらいの早さで飛んでいた。
もちろんそれはこの時代の共和国において、誇るべき偉業と謳うに足る成果ではあったが、一品物も同然のマジンからすると人の目に触れさせても面倒なばかりのシロモノであったので、社内では公然も同然の社外秘という扱いのまま、公式には知らぬ存ぜぬで通している乗り物でもある。
理由は幾つもあるわけだが、結局ヘリウムガスの安定的な十分な確保ができないままに二隻目三隻目を就航させる目処がないことが大きな理由で、二気分圧式気嚢の運用を始めたばかりのステアの運行実績はやはりそれほどの期間が経っていないことも理由ではある。
というのは、もちろんマジンの気分の上で面倒くささが先にたってのいいわけである。
空飛ぶ機械というもののもたらす衝撃やその扱いをめぐっての様々の波及は自動車一つ鉄道一つを考えても相応に大きなものになるはずであったことが、誉に浴するよりも面倒厄介を抱え込むことの鬱陶しさが先に立ったということである。
操縦に向けた操作は単純だったし、その基礎的な概念もやはり単純なものだが、巨大な構造物が相応の速度と高度を自由に飛行するためには工学的に乗り越えるべき話題も多く、それぞれ単純とはいっても、共和国の水準で言えば相応に高度な装置機構が運行に供されていた。
帝国の城塞を雪崩で吹き飛ばした乗り物。
それをローゼンヘン工業が隠している。
という噂もある程度さけられないものだったが、マジンは知らぬ存ぜぬで通していた。
認めたとして碌な流れにならないことは自明に過ぎた。
もちろんそんな怠惰な気分を誰もが許していたわけではない。
ローゼンヘン館に住まう老人たちは更に早く飛ぶ乗り物を作ろう作ろう、とせがんでいた。
上がるところと下りるところが準備されていれば、空を飛ぶこと自体は実はそれほどに難しいことではない。
極論、巨大な凧にヒトが飛び乗れば良いのだが、もちろん老人たちが描いているのはそんな生易しい単純なものではない。
飛行船や熱気球のような金魚やクラゲのようなものですらない。
音の壁を突き破り或いはトビウオのように空を空気の界面を突き破り、星への階を駆け上れる様な機械を考えていた。
老人たちは設計の上ではというか、軸流圧縮噴流機関としてのガスタービンの試作や設計の前段階の検討を通して、計算の上では音を超えて空を飛べる乗り物の可能性に気がついていた。そして音速を超えると空気そのものが機関の吸気に蓋をし始め、さらに極超音速においては、手頃な燃料の爆発を吹きこぼさない様になることも計算上突き止めていた。
それはひどく単純な弁のない圧縮機が燃料と口から流れ込む空気とだけで巨大な力を発揮する機関に至るという理屈であって、老人たちは発見した計算上の境界拘束条件を決裁執務中のマジンの部屋に押しかけるようにして成果を見せ検算検討を求めた。
それは年甲斐もない、外見からすればムクイヌか毛膨れしたネコが立ち歩くような風景であるわけだが、もちろん日常風景としては頭を悩ませる事柄につながるわけでもある。
妄想と云うには根拠が揃いすぎている老人たちの構想は、もちろん欠けも多いが根源としての要素に誤りはない。
全く物理の有り様の範囲で、音の壁を超え星の軛を超え、空を飛ぶ機械機構を作るための条件を示していた。
今のところは単に空を飛べることそのための条件範囲が数値上確認できたというだけに過ぎない。
数値上の条件を実際の工作に工学的に落とし込む作業はまた別の方向の構想が必要になり、当然に工作にかかる準備には資材とその扱いという問題が立ちはだかる。
様々な材料の資料から設計を始めているが、今のところそれを取りまとめて一つの形の機械、飛行機にまとめることはできないでいる。
というよりは、人を載せるような機械にするためには乗り物としての要素が必要で、単純な運動機械を超えた要素が必要でそこは必ずしも老人たちが得意とする分野ばかりではない。
乗り物として取りまとめをおこなえ、と生ぬるくマジンにサインを送って寄越していて、或いは長い休みに入る度にルミナスに売り込みをかけていた。
全く勤勉な亜人の老人たちは党首が投げ与えるようにして好きに使わせている様々な機材から或いは作業に必要な膨大な資料から、日々の様々を離れて全く自由に想像の翼をはためかせ独自の工学の世界を切り開いている開拓者たちでもあった。
それは故ジェーヴィー教授とは全く異なる才能の顕現であったが、ともかく驚くべき天才の発露であってそれが一人ではなく十六名がそれぞれ多少興味の範囲がズレているという事実が素晴らしい副次効果を生んでいた。
ジェットバーナーやガスタービンという燃焼と運動の次の帰結として飛翔という、彼らのもともとの生業であった鉄砲づくり大砲づくりに根っこを戻していた。
ステアの推進器がステアの巨体を風よりも早く推している事実は、かつて彼らが全く不当な扱いを受けていた、という物証にはなるのだが、それはそれとして飛行機の問題は面倒くさいことが多かった。
個人がこっそり好きに楽しむ範囲でならば飛行機はなんの問題もない機械だったが、組織として一気に整備するには自動車や鉄道よりも一回り問題が大きい。
実を云えば自動車用の内燃機関でも空を飛ぶには足りるだけのポテンシャルはあり、その試みに人々が目を向けていない以上、焦ってその次を示すつもりはマジンにはなかった。
小さな機関で膨大な燃料を燃やしきるという意味において全く正直な単純な作りをしているガスタービンは運転機関全体における燃焼室の空間の比率がとてつもなく大きかった。
それは単純に直感できるまま膨大な燃料を巨大な熱と力に転換することが出来る、ということを意味していて、つまりは大食らいの怪力であるというわかりやすい証明でもあった。
粉末状の火薬の代わりに液体気体の燃焼材料に空気の酸素を適量混ぜ込み連続的に点火する軸流圧縮熱機関の構造はつまりは空気を尾栓代わりに寸刻途切れずに号砲を放つ大砲のようなものである。
それはつまり膨大な威力の代わりに莫大な量の燃料を僅かな時間で定量として食らう機関ということでもある。
マジンの持っている油井には或いは製油所には今のところそんなものを野放しにするほどの余裕はなかった。共和国全土の未だ前工業的な自噴に頼る油井ではまともな油質管理もおこなわれていない。
空をとぶ機械がどういう大きさの産業事業になるにせよ、鉄道網自動車網が流通を支えることが当然に陳腐化するまでは、面白半分で事業を展開すると首を絞めかねない。
仮に航空事業を本格化させるとして、拠点となる基地となる空港の整備が必要だったし、その整備のためにはまず第一に燃料や整備部品を始めとする消耗品の供給計画が必要になる。
精油事業の展開も必要だが、規格確立まで投資をある程度制御する必要もある。
庭先で飛んで落として泣き言を言う子供の遊びに付き合う気はマジンにはなかったし、それが子供の遊びで収まらないだろうことも想像に難くない。
そしてそういう手元の話の他に、空には空の問題もあった。
夜退屈しのぎに空を眺める者ならば誰もが知っていることだが、空の向こう側には膨大な量の星屑が舞っていて、それは雲というほど柔らか気なものではなく、綿飴のような軽いものではなく、速度と重さを見れば戦場の弾幕のような、もちろんその場に立っただけで死ぬようなものではないが、ぶらりと星空につっかけいっぱいというほどに気楽なものではなかった。
その頻度は運の悪い鳥が隕石に落とされることがあるほどには多く、民家や物置の屋根を銃弾ならぬ星の欠片が打ち破ることは珍しくはあっても、不思議には思わない程度に多い。
もちろんそんなモノの被害よりは庭先で狼藉に及ぶならず者の方が間違い無く多く、デカートであってさえも通りすがりの刃傷沙汰を目にしたことのない箱入りのほうが珍しがられるような国情であれば、天の星に天井を撃ちぬかれ命があるなら幸運が舞い込むと言われるような程度の話でもある。
だが、空をゆくものにとってひとつ常に覚悟しておくべき話題ではある。
月に振り回され地球に振り回された、チリというよりは砂利のような星屑はゆらゆらと幅を持って動いていて外から見れば青く煌く星に、白く或いは青く翠に揺らめく雲をかけているはずだが、この星を出入りしようとすればその雲は雪山の嵐のように旅人を襲うことになる。
そしてその星屑の雲の端は極偶になにもなくても空に落ちてくる。
現にステアの巨大な船体は砂浜で車を遊ばせた時のような細かな傷がなにもないはずの空の旅の何処かでついていることが多い。
ステアの倍では効かない早さで空を飛ぶということは砂浜の浅瀬で遊ばせるくらいの傷を年中覚悟する必要があり、誰かれ構わず打ちかけている鳥撃ち銃の弾幕に遊ぶということで、単にできる飛べることの証明にはあまり興味が無いマジンにとっては少し準備が必要な事柄でもあった。
退屈しのぎに庭先で飛んでみることは実のところ本当に容易い。
だがその退屈しのぎが誰かの目に触れれば、そしてその誰かが必死の何かを思いつけば事業を求め、その事業の必死さはそれだけで退屈を星の彼方に吹き飛ばすほどの大事業になる。
とりあえず今のところ空の旅はもうしばらく間はちょっと優雅なままにしておきたいというのがマジンの意向であった。
対向揚力を使った推進式の飛行機を作る気はマジンには今しばらくなかった。
ともあれ今しばらく空の旅は幾らかの例外を除きゲリエ卿の手の内にあった。
ショアトアがマリールの実家への空の旅に同行したのは、とくに意味があるわけではない。
ゴルデベルグ准将の従兵ということで兵長としての身分はあったものの、部隊配属ではなかったので装甲歩兵旅団に彼女の配置がなかったためでもあった。というのが、説明としては分かりやすいのだろうが、一旦ローゼンヘン館に戻ってきて、軍靴軍装を解いていては従兵勤めもないものだから、なんとなくというしかない。
そもそも彼女はまともな意味での徴兵基準を満たしておらず、一般部隊に転属したとして身体検査を受けた途端に身長が足りないことが発覚すれば傷病扱いで弾きだされかねず、それも気の毒と思った旅団幹部の計らいで従兵の配置のまま離隊することになり、准将の大元帥府参事拝命に併せ、大元帥府の生温い温情配置によって准将預かり従兵配置を申し付けられて旅団に帰ることはできなくなっていた。
自分は色々できることを実績として示していたと自認しているショアトアは色々唸ったり地団駄を踏んだりしていたわけだが、共和国軍はそんな程度で横車が押せるような組織ではなく、家に帰ってきたのになんだか上手く腰の落ち着けどころを見つけられないショアトアを眺めてゴルデベルグ准将がつまりはリザが年度明けまで気が変わらないなら軍学校の士官過程に教官配置でねじ込んでやると告げた事で落ち着いた。
ショアトアを特務少尉として任官配置して軍学校の教官室に突っ込むことくらいは、准将としての身分を得たリザには容易いことだったし、軍学校の教官職は実戦経験のある若い士官下士官を常に求めてもいた。
ショアトアの全く勝気な譲らなさは教官として衝突が多いのは間違いないが、当然に必要なところでもあって、軍組織の拡張方針を考えても自動車化部隊にいた実際を知るという人材が軍学校に配置されることは当面殆どないはずだったから、部隊長幕僚経験者でなくとも軍学校が喜んで教官の席を与えるだろうというリザの言葉は別段口からの出任せではなかった。
ゴルデベルグ准将には今後必要とされるだろう軍政上の技術的な改革の研究を指導してもらっては如何かというような意見も参事として大元帥府に席を置くことになったことで軍政本部や参謀本部からは出ていて、それは当然に今日明日というものでもなかったが、ある意味で当然と誰もが考えている共和国軍の改革の中での自然な成行きの一つと考えられてもいた。
他にもゴルデベルグ准将を名誉旅団長としてデカート駐留聯隊を預けては如何、というような政治的機運もあって、それはそれで一つであったが、ともかくもリザが共和国軍内で宙ぶらりんな扱いになったことで、ショアトアも全く宙ぶらりんの扱いになっていた。
二三年のうちに身長が伸びれば、旅団で下士官兵の配置を探してやろう、と現場士官が考えるくらいにはショアトアの働きは優れていたし、そうはあっても便利使いの配置に置くには言い訳が面倒くさすぎるほどに彼女の体格は細く小さかったので、ゴルデベルグ准将預かりというところは旅団主計幹部の総意でもあった。
それなら会社でも村でも屋敷でも色々やれることやるべきことは多いのだが、ショアトアの気分や周りの雰囲気には噛み合わなかった。
理不尽な命令以外で自分と周囲の折り合いを自ら見つけるには彼女は幼すぎた、というものが分かりやすい説明だろうか。
ショアトアとしてはいきなり戦争からはじき出された気分で困った挙句にリザにくっついて、アシュレイ家デゥラォッヘ族の地所に向う旅についたのは、戦争から帰ってくると他の姉妹たちが何やら忙しげにしていて突然仕事がなくなった形のショアトアは宙ぶらりんに仕事がなくなった気分だったからだった。
ローゼンヘン館は幾人かの傷病兵となった装甲歩兵旅団の将兵として従軍した者たちが一足先に帰ってきていて、相応に明るい雰囲気を作っていたのだが、ショアトアの今の気分にそぐう場所ではなかった。
ゴルデベルグ准将閣下は館に帰ってくるなりネコかヘビかというような状態でだらしなくしていたし、縄張りを示すように見せつけていた。
ローゼンヘン館の人々がきっちりと仕事の割当があるわけではなく、ライアとアミラが館の内々のことを切り盛りして、セントーラが会社のことを差配して、男たちは旦那に頼まれていることを始末する、という以外には特段に仕事の日課や進捗を気にする必要もないのだが、要するにそういう紐の抜けたような感じに若く生真面目なショアトアは耐えられなくなっていた。
戦争も下火になるだろう中で現役配置を辞する前に、味方を文字通り墓穴から掘り起こし眼前に迫り来る十万の帝国軍を阻止する指揮をとったことで気分良く満足したマリールは軍隊よりも会社のほうがきっと楽しいですよ、等とショアトアに忠告をしてもいた。
マリール自身は共和国軍の軍歴は楽しむだけ楽しんだし、もう結構、という気分でいたわけだが、彼女の思惑や気分はさておいて、連絡参謀として部隊配置は解かれたものの魔導士官としてのアシュレイ少佐は共和国軍内においては秘密兵器も同然の重要人物であることは否定出来ない。
公式には共和国軍の命令系統に魔導士官が正規の権限関与することはないとされていたが、かつてそういった宣言がなされる以前にはしばしばあったことだったし、中隊大隊という戦闘単位の危機において、兵科を問わず士官というものが存命健在というだけで権利としてではなく下士官兵より生きのびるための方便として指揮を求められる事は必然でもあった。
一方で魔導士官が正規の軍令経路から切り離される経緯になった理由は、魔導師の魔術が時に戦況を一転させる大威力の兵器であり、またそれをなした魔導師がおよそまともな指揮を取れる状態ではなくなるという文字通りの使い捨ての必殺兵器という面が知られているからでもある。
作戦戦況を優先した場合に配下部隊は統率を失い、配下統率を維持した場合作戦は破綻する、という二律背反を指揮官に背負わせる危険を嫌った、という理解が一般的である。
だがもちろん一般則には例外もある。
アシュレイ少佐の実績は戦場に在っての根源的な士官の資質のほとんどすべてを二度の大作戦で示していたから、軍令や各種規則といった建前がどうあれ、共和国軍が逓信院が彼女を黙って手放すわけはなかった。
魔導士官の消耗は使えば磨り減るという以上の把握は逓信院では出来ていなかったし、そういう中で大きな作戦を終えた連絡参謀は部隊の展開が終われば、部隊から切り離された形で長期の休養が与えられるのは当然とも考えられていた。それが贅沢とか怠慢と考えるには魔道士はあまりに貴重な重要兵器であった。
アシュレイ少佐は心身共に健康であることを当人も含め誰もが認めていたが、こと魔道の根源たる魔力の実存については当の本人さえも確実なことが言えないような性質のものであったから、客観とか主観とかそういう感覚さえも怪しいモノにふさわしく、前例に倣った規則で配置解除と休養が認められた。
マリールは戦争の終決を予感したことと部隊を指揮して赫々たる大戦果を非公式に上げたことで満足したまま待役手続きをとっていたが、実戦を経た魔導士官が消耗したときに見られる達成感満足感虚脱感や欝症状と看做され、逓信院では休養配置ということになった。
幾度かの逓信院との健康診断で三ヶ月ばかりのまとまった休みを手に入れたマリールが実家に赴くことを提案したのは特段に深い意味があったわけではないが、なんとなくの気分としてシャオトアの気分に合致していたから、シャオトアは奇妙に毅然とした態度でマリールの里帰りに同行することを主張した。
素直に学志館に押し込まれていれば今頃ロゼッタを助けてやれたものを等とマジンは思わないでもないわけだが、反対する材料というわけではなく、ともかくぼんやりと手の空いてしまったショアトアはリザにくっついて空の旅に同行することになった。
浮力に余裕のある飛行船の旅は天候風向が荒れなければ、面倒なところは特段にない。
上がって定針して風に合わせて目的地上空に至り止まって下りる、というだけのステアの旅は一旦飛んでしまえば、操縦は湖面に浮かぶ船よりも容易なくらいだ。そして下りる先に水面があれば巨大な船としてしれっと水面に浮かんで見せればそれでよかった。
荷物をやり取りすることを考えなければ、全く面倒なことはないし、人の乗り降りくらいのことであれば、動力付きの艀と自動車を使いやすい位置にしまっておくくらいの図体の大きさに余裕があったから、本当に面倒の少ない乗り物だった。
もちろん補給とか整備とかを考え始めるととたんに面倒くさくなるわけだが、旅行の足としてはそれほどに面倒くさい作りはしていないし、雨ざらしでひとつきぐらい放っておいても腐るような種類のシロモノでもない。
ただひたすら巨大な作りとその巨体に比して荷の余裕が小さい、というところが面倒くさいだけで、かつてトンネルカッターを始めミョルナの山岳工事に使えるくらいには能力としても実証できていた。
強いてあげれば悪天候での着陸が面倒くさいということだった。
デゥラォッヘの庄は時ならぬ山の嵐に見舞われていた。
空の上であれば風まかせに流されても風の流れの落ち着いた高さに留まって回復を待って降りれば良いだけのことで、ぼんやりとどうするかと考えていたが、流石に山の上まで入り込むと嵐の余波が空の上まで巻き起こっていた。
一日一晩待てば大方の嵐は去るものでよろめかせて無理やりおろしても、荒れた湖面で流されるのは面倒くさかったので、空の上で嵐が去るのを待つか、という話をしているとマリールが何やらやっていた。
「嵐を追い払ってくれるそうです。その、妙なものが飛んできたので警戒して、雲を寄せただけのつもりが嵐になっていたようです」
「魔法の雲ってことか」
「魔法で寄せたってことだと思いますが、私がやったことじゃないんで、説明は下で聞いたほうがいいと思います」
「そんなこと出来るの。あなたの邦の人は」
呆れたようにリザが言うのにマリールがすまし顔のまま首を傾げる。
「知らないですけど、そういうことみたいですね。私がやってるわけじゃないんでわかりません。他所の人のやってる魔法なんてわかりませんよ」
空で待つ間にひとしきり雨を降らせたらしい雲は小一時間でみるみる消えていった。
空の上ではそれほどに大きいというわけではないステアも山間に入り込むと次第にその大きさが意識されるようになる。
眼下に見えるようになってきた湖も別段ステアより小さいというわけではないのだが、下ろすとなるとどこの岸でも寄せられるというわけではなく迂闊におろしにくい水深の浅いところが多そうだった。
結局あまり往来に都合の宜しくない湖の真ん中にステアをみせびらかすようにして下ろすことになった。
ステアの白く焼き付けた艶のある真珠のようにやや赤や紫の光を還す船体は、山間の湖の午後の光のなかではひときわ大きく見える。
ステアの空の旅は操船はひどく容易なものなのだが、旅そのものは一度ならずマジンは内心諦めかけていた。
それはステアの性能によるものではない。
一言で言えば共和国の野蛮。
もっと言えばマリールの土地勘の不足と自覚のなさのせいである。
自動車よりも早いとはいっても七百リーグ近い空路をあっちへふらふらこっちへふらふらと地図もなくただマリールの怪しげな勘に頼って、ステアの電探がその場で作る地上の地図の状況を眺めながら目的地を探すのでは日をまたぐだけでは足りず、更に日が昇って下り始め午後になっていた。
兵隊ぐらしや旅ぐらしをしていれば、道先案内人がついウッカリ二日三日迷子になるのはよくあることで、もちろん様々揉める原因になるのだが本当によくあることでもあった。
ついこの間まで兵隊だった女三人は全く気にしていない様子であったが、そういう愚かしさに文明の光をさす立場のマジンとしては釈然としない気分を感じてもいた。
地図として世界を見る機会のない者達に自分たちの位置を或いは行方を他人に知らせることは全く難しいことである、というだけのことで、帝国軍と共和国軍では地図の描き方が異なっていたり、というマジンの感性の中では共和国が良くもこんな地図で広大な国土の中で間に合うように軍事行動が出来ると思うような有様であるわけだが、実際に間に合ったり間に合わなかったりということを繰り返していた。
マリールの家に行く、マリールが家への道案内をするという自信満々の様子を見たときにはあまりなにも疑っていなかったのだが、空から帰るなどということを考えているはずもなく、巨大なステアを地上から眺めれば軍隊の噂の目玉の映るスープの中の肉の粒のような有様だったから、彼女が普段歩く光景を思い出して案内をしようとしてもそれは無理だった。
昼間じゃないと流石に道がわからないというマリールに、朝食を終えてからステアを空に浮かばせ、空の上で昼の食事がすんだ頃にはギゼンヌの上空にいたのだが、電探によって作られてゆく地上の地図をマリールに見せてもまるで要領を得ないままだった。
どこそこの集落がとか小川がとか滝がとかマリールは云うわけだが、上空から眺めていると実はいくつかのそれらしい地形がそれらしい順番に繋ぐことが出来て、また悪いことにマリールの一族の住んでいる山間の複雑さは彼らを圧倒的な軍勢から守っていたように迷宮のような有様であったから、たとえ一族の者でも普段と違う手順でたどり着けるとは限らなかった。
こうあっては仕方がない考え方を変えよう、マリールの家のそばにある湖とやらを探そう、とシャオトアが言い出し、上空から見つけた四つ五つのそれらしい大きさの湖をめぐってみてマリールの家らしいものがあるかないかを探すという方法に切り替えた。
驚くべきことに、というか山間で水源があってそれなりに開けていれば定住している者達は多いということで、ウロウロしている幾つもの湖にはそれらしい大きさの家屋敷が幾つもあってマリールのいう城塞のようなものも当然に幾つもあった。
それらしい湖水の上であがって下がってを繰り返し、マリールは結局一晩かかって諦めて、母親に魔法で手を引いてもらって自宅の位置を発見するのだが、全く全然とんでもない位置だった。
そういう空の旅の挙句に魔法の嵐に出くわして女達の云ったことには、空の旅も存外面倒がかかるものですね、というものだったのでマジンとしては憤りをどこに持ってゆけばよいのか困るところだった。
言い出したのが帝国出身で相当に理知的な少女であるシャオトアだったのでてっきり共和国の国土の地図の未整理に驚いたということだと思っていたら、空の上だから邪魔するものはなにもないかと思っていたら山間だと揺れるし嵐だとおりられないし自由自在というわけではないんですね、ということで、空の旅が二日かかったことについては、食事も寝床も便所まで整っててびっくりしました~、という喜びの声で時間についてはあまり気にしていない様子だった。
往って還れば一日ということは飛行船の旅でもまずなく、今回の旅のように乗客が僅かに七名などということも普通はありえなかったから、水食料や寝床などの手間も余裕があったし、幾度かの改装で随分と抑えられるようになっているとはいえ安いものでもないステアの運行経費はあまりおいそれと動かすような種類の金額でも手間でもなかった。
「それはアレですね。私の里帰りはやはり特別ってことですねっ」
等とマリールは目を輝かせたわけだが、彼女の里帰りはともかくリザの蘇りの一件は早めに専門家と目せる人々の意見を聞いておくべきであろうということだった。
マリールの実家はなるほど城塞だった。
尖塔があって胸壁のついた城壁があって、ローゼンヘン館にも塔と胸壁はついているがああいう実用と飾りの中間のこじんまりとした砦風の建物ではなく、湖からの流れ口を塞ぐような堰堤のような位置にまさに堰堤とその両岸を繋ぐような位置に張り出した郭があり流れの上と下を睨む位置に物見の尖塔がありその間を胸壁が繋ぎ、湖の岸とその上に城塞がつながっていた。
第四堰堤とその浄水設備を武張った形に置き換えればこうなるのかというような配置で、共和国でもたまにある水利を抑えた特権階級のおすまいという風情であった。
クライに手伝わせて端艇を下ろしていると岸から二杯の舟がこちらを目指していた。
一杯は明らかに優雅なゴンドラで明るい黄色と草色の帆が目立つ帆船で、もう一杯は三十ばかりの櫓が突き出し鋤のような衝角が突き出し甲板の上に薄金張りの櫓が低く組まれた砲門らしきものも見える軍船だった。着水してしまうと操船甲板は展望甲板と同じく水中に潜ってしまう作りのステアは乗降経路のレイアウトが飛行場と水面とで随分と異なり、セメエとコワエにはあちこちの水密状況を確認させていた。
クライは力仕事はともかく書類仕事よりはこういう身体を動かす作業のほうが好きらしく、しばしば工場とか現場仕事がやりたいというようなことを口にしていた。
いつも不機嫌そうなコワエは別段不機嫌というわけでなく表情に気を使うのが面倒くさい種類の無愛想な美人さんであるらしいことがようやく最近つかめていて、よく見れば不機嫌そうな顔も大中小というか喜怒哀楽と思しきものもあり、彼女もお愛想のようなことをやるのだが、それが却って怒っているのか脅しているのかというようなチグハグな感じが可愛らしい風情になってきた。
そういう意味ではセメエは全く普通に淡々と秘書業をこなす育ちの良さがあった。
肩で息をしながら荷物を無理やり抱えたシャオトアに遅れてセメエが要領よく台車に荷物を載せて現れたのが印象的で、昇降機があるだろうというにという言葉はなかなかいい出しにくかった。
ともかく、ステアの戸締まりをして端艇を岸に向けると途中で軍船の舳先から呼び止められた。
「空からお越しの其許方はどちらに出向かれるどなたのご一行か」
軍船の櫓からの呼ばわりにマリールがズイと舳先に身を乗り出した。
「ライデール。まずはあなたの名前と御役目を口上なさいな。お行儀悪いわよ」
十何年かぶりの声だろうに覚えがあるのか、マリールが名指しで応じた。
「おや、これは本当に姫様ののりものでしたか。奥方様から聞いてはおりましたが、肝を冷やしましたぞ」
如何にも水軍の将という身軽さで櫓を滑るように駆け下りた人物は嬉しそうな大声のままに答えた。
バタバタと軍船の旗竿が上げ下ろしされると、遠巻きにしていた帆船が帆を上げて近づいてきた。
甲板に立っていた貴婦人は軍船とこちらの端艇の間に帆船が滑りこむと、舟が寄るのも待たずに宙を駆けた。
それは宙を舞う、という演劇や舞踊の達人の跳躍の優雅な動きというよりは、どちらかといえば、運動競技で鍛えた選手が見せたり、或いは障害競技で馬が見せたり、という一種途方もない種類の躍動で、端艇には違いないがそれなりに優雅な作りの帆船がグワリと帆柱を傾け揺らめかせるほどの蹴り足と距離を感じるにもかかわらず高さのわかる跳躍は、軍馬の力を人が発したという以外に表現することが難しい、ああなるほどマリールのご母堂様であるらしいというものだった。そして目測を誤ったらしいだいぶ高い位置を通過する母の手をマリールは自身も軽く飛んで受け止めた。
「ありがとう。孫の顔が見たくて跳んできちゃった。アーシュラちゃんはどこ。あの娘、じゃないわよね」
マリールを多少色濃くしたような、年齢という意味では動きも声も全く想像を許さないマリールの母は端艇の中を軽く見回してショアトアを見つけて尋ねた。
「今日は連れて来ていませんよ。アーシュラは学校があります。学業優秀であることを飛び級をして証明したいそうですから」
少し呆れたようにマリールが言った。
「あらあら、頑張っているのね」
少し残念そうな響きでマリールの母は言った。
「お母様もお元気そうで安心いたしました。ですが湖はまだ少し冷たいですよ。落ちてお風邪を召されないように舟遊びは謹んでいただきたく思います」
「なぁにいってるのよ。この娘は落ちたら乾かせばいいだけじゃないの」
あっはっは、と大口を開けて笑う壮年の貴婦人を困った顔と驚いた顔が出迎えていることを気が付かないままにマリールの母は笑った。
少し待つと帆船が主に追いつき船縁を寄せた。
「奥方様、ご無事ですか」
衛兵と思しきいささか時代がかった装束の女戦士が帆船から声を駆けた。
「娘の舟でご無事もないわよ。やぁね、マリール。ウチの兵隊、空からなんか攻めてきたって大騒ぎしてんのよ。あなたの乗ってきた乗り物、四六時中なんか投げてるでしょ。アレが攻撃だって騒いでる連中がいるのよね。神経質にもホドがあるわ。あの程度で攻撃だってなら太陽なんか見られないじゃないのよね。今朝方あなたが迷子になったって泣きついてきた時ピンときましたよ。あなたが空から帰ってくることにしたのはいいけど、うちが見つからなくてウロウロしているんだってね。昨日のうちに二三度ウチの上も通ったでしょ。バカね。この娘は」
そう言うと婦人はマリールを抱きしめた。
「奥方様、よろしければお戻りください。マリール様もご一緒に」
「なぁに言ってるのよ。久しぶりに娘が帰ってきたのよ。しかも旦那様連れて。私もこちらの婿殿の舟で帰ります。いいでしょ。そんな顔しないでも。なんでライデールがついてきていると思ってるのよ」
マリールの母マージュは帆も漕ぎ手もない舟を興味深く覗き周り、家の舟を振り切るように命じた。
衛兵と軍船がいる中でそこまで煽ることはしたくなかったマジンは多少の優速を見せて船足があることまで示しただけで、振り切るような全力は見せなかった。手札がどうこうというよりも、逗留することになるだろうご家中を煽るような真似はあまりしたくなかった。
空から押しかけておいてなにを今更という気分もあるのだろうが、用のないところでは温厚なマジンとしては騒ぎや注目がほしいわけではなかった。
求めれば湖面を駆けてみせそうなマリールの母上には退屈かもしれないが、多少ちぐはぐであっても来客の礼儀というものもある。
マリールの家は湖から川の口を塞ぐ川城としての性質とその河原を見下ろす山城としてのふたつを備えた巨城だった。水利としての水門を連ね三リーグあまりの土地をその直接の地所として周辺三十リーグほどの山襞を含む土地を地領としていた。大雑把にデカートまるごと一つ分程を自分の地領としているということだ。
千幾らかの兵隊と云うよりは山窩の戦士を束ねるマリールの父親ヴェルモンアシュレイは逆巻く炎のような黒く強いくせ毛とそれを支えるような角が目立つ厚みのある体格の人物だった。
どうも親子の対面というよりは領主と伝令の謁見というような風情の、寒々しくもないほどの広さではあるが、長竿を持った槍兵の間合いに実の都合のよさ気な、軽業やヤットウの道場のような作りは、敵意や武装の有無にかかわらず緊張を要求する。
謁見の間にいる兵がマリールの母上のような身体能力を持った者達であれば、実際にマリール自身が例外でないことを示しているわけで、緊張せざるをえない。
「父上、マリール帰参いたしました」
「十年ぶりか。久しぶりだな。戦死したと聞いていたぞ」
聞いていた、というより婚約者とともに確かめに来たという話を聞いていたマジンとしては実に殺伐とした雰囲気のやりとりに思えた。
「父上にはお変わりないようで安心いたしました」
「娘らしかったおまえは老けたな」
「娘が生意気を言い出す年頃になり出しましたから」
そうマリールが言ったところでチラリと椅子の上で身動ぎしない目がマジンを一瞬とらえた。
「どこぞの私生児を産んだか」
「私生児などと、どこぞの田舎のヤギだか牛だかのアイノコの子供であるまいことはわかっております。子の質は祖父母に似るなどというそうですが、私は父上の種ではないらしいと安心しました」
マリールの父親はそれを聞くと手の中で弄んでいた閉じたままの扇子を投げつけた。
膝まづいていたマジンが立ち上げる勢いのまま、襟首をつまみ上げてマリールを宙に舞わせるとマリールの足が跳んできた扇を蹴った。
「こちらの親子喧嘩もマリールの無礼も知ったことではないが、ボクの娘をバカにするのはつきあっていられない。アーシュラの種も血も知ったことではないが、あれはボクの娘だ。礼儀と思い付き合っていたが聞くに堪えん。お家の喧嘩の桟敷に興味はない。失礼する。……マリール。お前はきちんと話して決着をつけてこい」
云うだけ言ってマジンは背を向け出口に向かった。
退出の合図がなく閂を外さない衛兵を見やるが、特段に合図のないままでは衛兵は無礼討どころか身じろぎもしない。
マジンは溜息と同時に段平を抜き打って扉の内外の閂を戸口ごと断ち斬った。
蛤様の刃先から身の中ほどまでを肩の厚み分だけねじ込んで向こう側にあったカンヌキ替わりの鉄の塊を探るように断ち割ると鈍い音が扉の向こうで響き、中の様子を知らぬ戸口の向こうの衛兵こそが驚いた顔をして戸口から飛び退いていた。
どんな顔をしていいのか困った様子の執事たちがリザとともについてくるのを確認して、マジンはすっかり山の日が落ちた船着場まで出てきてしまった。
「この後どうされるか、考えていらっしゃいますか」
ショアトアが伺うような確かめるような顔でマジンの背中に声をかけた。
「そんなの考えているわけないじゃない。考えがあったらこの人こんなところでぼんやり湖眺めたりしないわよ」
リザが笑うような声でショアトアに答えた。
「それじゃぁ」
「親子喧嘩に桟敷席で付き合うのはバカバカしすぎるだろう。それもあんな堅い冷たいところで膝ついたままじゃ、流石に面白くもない」
ショアトアの咎めるような声にマジンが膨れるように言った。
「それは、まぁ、そうです」
敷地の中にいれば、城内だろうと外だろうとこういう城であれば関係ないわけだが、家出の子供の気分というしかない。
来訪の挨拶やら土産の品やらの口上もなしに腹が立ったの一言で扉を打ち破って出てきてしまったマジンの行為はよく云っても考えなしの子供の所作であった。
「寒くなるまでここにいて、冷えたらステアに帰ればいいさ。どの道この城の連中には僕達の居場所はわかっているだろう。マリールの父上の沙汰が定まれば呼びに来るさ。マリールがどんな折檻を受けるか知らんが命までは取られないだろう」
マジンの言葉はそれなりに説得力もあったが、クライのお腹が鳴った。彼女はステアの操船の都合で他の者達と食事と休憩のタイミングがずれていた。
「端艇にもビスケットやチーズとソーセージのいくらかもあるはずだったな。食事にしよう」
「こんな大きなお城だから、きっと料理も面白く珍しいものだと思って楽しみにしていたんだけどなぁ。短気のせいでご相伴に預かり残ったわね」
リザがなぶるようにマジンの首に腕をかけて言った。
「ああいう口上がこの土地の流儀だとしてつきあっていられるか」
「まぁそれはないわね。よそ者としては」
「あれ、ボクに決闘させるつもりだったとして全然驚かない展開だったよ。さっさと逃げて来ちゃったけどさ」
「ああ。なんかピリピリしていると思ったらそういうことだったの。アレ」
リザが奇妙に納得したように言った。
「だって、おかしいだろ、扉の内側と外側に閂なんて。アレは、どういう理由でも無礼討ちするつもりだとしか思えない。おもしろトンチ大会のような和やかな演芸の空気というよりは取り込めて殺してしまえって雰囲気だったぞ」
「こちらは何かでおいでになったことがあるのでしょうか」
マジンの言葉に首をひねるようにショアトアが尋ねた。
「あったら、あんなに空の上をウロウロするわけないだろ」
「そしたら、なにかアナタに恨みでもあったのかしらね。それともアレかしら。異種族に一族の頭領の娘を寝取られた親の悲しみが苦しみがわかるのかって舞台とかで偶にある、悲恋ものの定番の流れ。今までピンときてなかったけど、アレでやっぱりマリールってお姫様だったみたいじゃない。あそこの段に並んでいたのがお兄さまたちと弟君たちなんでしょ」
気楽そうにいうリザの言葉に流石にマジンは嫌な顔をする。
「十年も家の外に放っておいた娘に虫がついたとして今更それはないだろう」
「ああ。自分が悪い虫だって印象はあるんだ」
端艇にのりこみながらリザは相変わらず気楽そうに酷いことを云う。
客人が呑気に自分の船に乗り込むのを船着を預かっているらしい老人が鷹揚に手を降っていた。
「十年も前にオマエの無茶に付きあわせて娘が半分死んだようになったのを諦めてたんだろ。悪い虫ってのはボクのことよりはむしろお前のことだと思うね」
「それで、陣地にいた半分をカッコよく助けたんだから良いじゃないのよ。この間も半かけの聯隊で十万だかもっとだかの帝国軍の兵隊と渡り合ったのよ。あの娘、あれはアレでもうちょっと軍でも威張って宜しい将星の端くれだったのよ。まぁ軍の魔導師なんてぽっくり逝くのが商売だから、将軍様みたいな組織の柱梁には全然向かないわけで、まかり間違っても将軍に据えたら魔導師なんかやらせられないわけだけどさ。因果なものよね」
「恨まれてるとして、ボクに話があるとも思えんがね」
クライが舟の非常食セットを開いてラードを黒パンに塗りつけ始めた。
「さっきの話はマリール嬢ちゃんの話かね。なかなかの将星だとかってのは。共和国軍に入ってたってのは聞いているが、そんな大したものなのかね」
船着場の老人が桟橋に現れて尋ねた。
「騒がしたかな。申し訳ない」
「イヤイヤ。客人が少ない土地だからね。面白い話を聞けるならと思ってこちらがおじゃましているわけだがね。で、どうなんだね。マリール嬢ちゃんは」
老人は舟の中での夕餉に興味が有るように覗きこんで尋ねた。
「まぁ、魔導師なんかやっててあの娘あんな性格だから、昇進とは縁がないけどなかなか大したものよ」
「性格がダメかね」
「ダメってか、辺りを説得するのが向いていないのよね。自分のわかってることをわからないお前らが悪い、みたいな。まぁ一旦将軍になっちゃえばそれはそれでアリかもだけど、山登るには向いていない性格よね。お姫様気分が抜けないっていうか」
フム。と老人が鼻を鳴らした。
「子供産んだと聞いていたが、性格は変わらじか」
「子供産んだくらいで性格が変わるようじゃ、女も本性まだまだってことですわよね」
カラカラとリザが笑うのを老人もまた大口を開けて笑った。
「アヌシもなかなかのもののよな。で、十年前の大勝利ってのはどんなんじゃね。共和国軍の大苦戦をアヤツが支えたってところまではわりとアチコチから漏れてきているんじゃが、どうもなにがあったのかちゃんとわかっているものがおらんでな」
老人は興味津々で船縁に乗り込んできた。
「どうっていうか、士官偵察を繰り返して、帝国軍の最前線の情報を伝え続けて帝国の尖兵を叩き続けただけなのよね。帝国軍の土石流攻撃とその後の奇襲で軍団本部もなくなっちゃたし、なし崩しに偵察側に指揮権があるみたいな感じになっちゃって、誰も統制できないまま、私とふたりで直に中隊に前哨情報を与えて三日で千リーグ近く走り回って帝国軍の前線をなぞるようにして帝国の尖兵を叩き続けたっ感じかしらね。気分的にはいろんな太鼓を千くらい並べて私とマリールが演奏してみた感じ。気が付いたら途中でマリール倒れてたけど、帝国軍が共和国軍の撤退に追いつけなくなって、負けずに済みました。ッて感じで宜しいかしら。細かい話は幾らでもできるんだけど私が口にすると軍機に踏み込んじゃうことが多いのよね。……こういう茶飲み話のときに困るのよね。軍機ってさ。あたし将官になったから、変なこと云うと信用問題にも繋がるし。出し惜しみしているとか云われたりさ」
「フムん。するとオヌシがリザゴルデベルグ准将か。昨今死んだの生きたので大騒ぎになっていた」
老人は心当たりがあった様子でリザの名前を口にした。
「おじいさん詳しいのね。准将になったのも生きた死んだの騒ぎもふたつきみつきぐらいこの冬の出来事よ」
「帝国との戦争の帰趨はこの辺じゃ、よその話題の中心だけな。城塞が吹っ飛んだ騒ぎも知っとる。南の城塞は渓谷が入り組んでて被害が小さかったやが、エランゼン渓谷側の城塞の方は年に百万も人が通れるような立派な道だったのが災いしてまるごめふっとんだぬだに」
「おじいさん本当に早耳ね。年の頭の出来事よ、それ。軍の詳報もまだ回ってない話題だわ」
「そっちは見ん行ったウチの若いのがおる。まぁみんごと雪崩をうまいこと使こてまるごめならしてみせたちうこって、ちょっきりおどろいてたが、あの白いのが空から来たちうんであんだきのもんがその気になんば、雪崩を狙ってやるのはやるにしくなかろうと納得いった。共和国軍はあれを何杯もっとうか」
老人はステアを鼻先に示し尋ねた。
「アレはこの人の持ち物よ。ウチの旦那様。ココらへんは一夫多妻でも気にしないみたいだから、マリールを三号さんに収めてやろうと思ったんだけど、なんかお父上のピリピリした感じ見てると当て外れかしらね」
「オマエ、まだそんなこと考えてたのか」
「考えてたっていうか、事実としてアーシュラがもういるんだから、事後報告よ。姑と仲良く出来るかどうかはまた別だけど、アーシュラにも次産みたいって子供にも罪はないでしょ」
リザの言葉に老人の目がマジンに向く。
「すうとアヌシがゲリエ卿か。ローゼンヘン工業の社主の」
「本当にご老人は世間に通じた方のようだ。よろしくお見知り置きを願います。こちらはウチの家人たちです」
「ああ。綺麗どころばかりで、噂に違わぬ好色ぶりだ。頼もしい」
そう云って老人は笑った。
「まぁ、城塞の方は私はお話できるようなことはなにも知りませんわ。最近のマリールの大活躍ってのも、実は細かいところは私、土に埋まって助けられた側なのでちゃんと知らないんですけど、何やら大掛かりな魔法を使って一人で司令部のようなことをやってみせたみたいですね。兵隊の目を百だかもっと繋いで互いに見えないはずの敵を見せてやるような」
「どういうことさ」
わかるようなわからないようなリザの言葉にマジンが尋ねた。
「そういうのは本人に聞きなさいよ。兵隊の幾人かの目で見えている風景をたくさん繋いで戦場の風景を地図みたいにして鳥瞰させたってことみたい。味方の位置をそういう風に使って共和国軍は部隊行動を円滑におこなわせているんだけど、マリールは視覚をそういう風に繋いで戦場全体の動きを現場に把握させてみせたってことみたいよ。まぁそうしてみせても、これまでは打手がなくて敵に届かないわけだけど、今回は配下に一リーグも遠矢を放てる魔弾の射手が大隊単位でいたからさ、敵を見つけて突っかかっているところに側面からやりたい放題で食い荒らしてみせたってことみたいね。まぁなにをどうやったって話は逓信院が独占しているんでしょうけど、どのみち魔法のことなんて本人以外はわかるわけないわ」
「そんで半欠けの聯隊で十万の帝国軍をってことかね」
老人が興味のあったうわさ話をリザに確かめた。
「推計で二十万くらいいた帝国軍を、一万に足りない兵隊のうち半分が土砂に埋もれた状態の友軍を掘り起こしながらの三日間の戦闘で弾薬がほとんど切れた三日目の戦闘と往来を仕切っていたのが、マリールってことのようですわね」
「戦死が五名ってのは本当かね」
老人が全くどこで仕入れたのかリザに尋ねる。
「帝国の土石流による大掛かりな作戦があったことを考えれば、彼らの死は全く気の毒な必然でしたわ。帝国軍がもう少し頑健に抵抗していれば土石流で我々を殲滅できていたかもしれませんが、それは我軍の早さが帝国軍の判断に勝ったと誇っておきます」
老人は特段に軍記物のような語りを聞きたかったわけではないようで、大雑把なと言うにも断片的なリザの言葉にうなずいた。
「戦車っちうものは一リーグも狙ったところに弾が飛ぶのかね」
「なにこの爺さん。本当に共和国の最新事情に詳しいのね」
流石にリザは鼻しらんだ。
「そらまぁ、土地のもんなら東部戦線で起きてる新しい動きは大方追っちょるよ。なんせ、割と死活に関わる話だ。この後リザール界隈で星が稼げないとなれば、帝国の暇な連中がウチラの山に手を出さない理由はない。鉄道ちうものをこちらの会社がゴリゴリ伸ばしているのも知っとるよ。何百リーグも遠くから何百グレノルもの荷物をその日のうちに運ぶもんだとか。共和国軍が荷物の量を舐めてかかって、着いた荷物を何度もそのまま腐らせる騒ぎになったとか、帝国軍がその荷の山に目をつけて火付けをして飛んで回ってたとか。里のもんでも鉄道が欲しいっちうもんと、んなもん迷惑じゃちうもんで、グダグダ言い争っとるが、商売がらみの話に土地のもんの欲得だけで話が進むわけもないにな」
老人は笑うようにいった。
共和国の往来事情からステアから離れて三日四日移動することくらいは考えていたから、食べ物は日持ちをするものであったが、非常食という種類のものではない。
一行はマリールの父君の沙汰が出るまで待つ間に、そう云うジャムだかバターだかの甘い脂の塊のようなもので簡素な食事を始めていた。
端艇の中には台所と呼べるものはないわけだが、兵隊や商隊が使うような固形燃料を詰めた小さなコンロや浄水を保証した使い捨ての水筒は積んでいて、湯を沸かしてお茶の準備くらいは出来る。雪解けもあらかたすんだ春先の湖水の上はマリールが自慢したとおり、あちこちで花が咲き綻んでかすかな人の明かりと月と星の光でほのかに白く輝いて見える。
湖水を渡る風は昼の暖かさと雪解けの冷たさとをないまぜにした、すがしいというよりは人を油断させる寒さを持っていて、ときにゾクリと震えるわけだが、それでも冬の厳しい油断を許さない寒風とは全く質が異なっている。
一行は歓待を受ける前、旅装を解く前の謁見であったことで寒さに震えるようなこともない。
ビスケットの上にハードチーズとドライソーセージをバターで抑えただけの簡素な食事とヤカンに直に茶葉をぶち込んだ乱暴なお茶でもまぁ良いかというくらいには寒くない。
「それで爺さんとしては鉄道は来たほうが良いのか悪いのか」
「どっちでも宜しいが、アチコチの往来は鉄道があったほうがそりゃ楽になるんじゃろうな」
「まぁそれはそうだ」
「じゃぁワシ個人としてはあったほうが都合がよろしい。じゃが、鉄道を敷くちう事になれば、どうあっても共和国がこの土地に入るのは避けられん。危うく成り立ってるこの地が共和国に太く繋がるのはそして、ここが端っことして繋がるちうことは、土地の腸を抜かれるのも同然じゃ。往来ちうのは往くのと来るのが同じ数で初めて成り立つ。端っこの土地っちうのは、どうあっても往来を支える事はできん。太って腐れるか痩せて枯れるかだ。そういうわけで、鉄道の話はウチの土地ではどうあっても荒れる」
「共存このままってのはないのかね」
老人の思いの外、理知的な究極を突き詰めた言葉にマジンは問いかけた。
「なくはない。だが、そのためには努力がいるし、努力を無駄だという者も多かろう。そういう他人の努力を笑う連中を愚かと笑うことが出来ない以上、いずれ鉄道ももろともに滅ぶ。それは道というものの性質じゃよ。お若いの。必要とわかっていてなお利他を利己と結びつける努力がなくては道は支えられん。倫理法理の哲学に永遠の価値を謳いながらそこに背を向けんのを止められんのと同じっちゃ。すべての知性すべての努力は無為無駄を重ねた結果ようやく意味を成す全く糞神のよな存在よ。それでも尚、ちうなら生きてん間だけよろしう使えれば全く便利で宜しかろう。その場にある者がその場の良いように考え、好きに生きれぁそんでいいっちゃ。どの道、力あるものが本気でなすこつぁどこん誰にも妨げられぬ。修羅の巷よ。腐れ滅ぶ芽があるものはいずれ腐れ滅ぶだけっち」
「とても文明とは思えんな」
嫌そうにいったマジンの言葉を老人は笑った。
「文明なぞ誇る者こそ愚か者よ。文明なぞゴミとクソを山と積んで誇った者達の過去の栄華にすぎん。倫理法理などと理の上で永遠を悟ってみても結局文明自らがそいら踏みにじっちょる。魔法なるもんがあって尚ヒトは過去に背を向ける。そもそも事の始まりを理解しちょる者がおらん。世俗を学ぶつもりでその魔族のご婦人が軍に加わりアヌシの婦人に収まったちうなら、人の世はさして変わっておらん。星なりどこなりと帰るが良いさ」
老人は皮肉に饒舌に言った。
「彼女を魔族だと」
「まぁ生き物でもなく、カラクリでもなく、しゃべり考えるものは大方魔族だ。まさか共和国軍に魔族がシレッと参加しているとは知らなかったが、そういうことであればこの十年で様々が一転した理由もわかる。言葉をしゃべる魔族の大方は多くの知恵を蓄えていることも多い。そういうこともあるだろう」
マジンとリザは顔を見合わせた。
「やっぱり、私魔族らしいわね」
改めて他人に指摘されたことで、リザは何やらおかしくなったらしい。ニヤニヤと鼻で笑いだした。
「――魔族って結局何なの」
リザは自分よりは詳しいらしい老人にヤカンのお茶のおかわりを継ぎながら尋ねた。
「詳しくは知らん。伝承によれば過去の文明の永遠を望んで作られた者、過去人ということであるようで、魔法魔力の起源根源とも関係があるようだが本当のところは知らない。オヌシのように自分の存在について実感や理解のない魔族も多い。多くは自分の使う魔術魔法についてさえ理解がない。……オヌシいつこの男に拾われた」
老人は興味の対象をリザに向けて尋ねた。
「拾われたって。物じゃあるまいし。ああ、まぁ魔族がヒトじゃないからモノだって理屈なら物には違いないですけどね」
「ご老人は魔族には詳しいのか」
多少気分を害したらしいリザが立ち直るまでのつもりでマジンが尋ねた。
「魔族に詳しいなんモンはまぁ詐欺師かなんぞと思ったが良いぞ、と言うのはさておき多少は知っちょることもある。この庄にも魔族はある。まぁこちらのご婦人のように自分で立ち歩くことは好まない様子だが、戦の折には動いたりというもある」
「武具ということか」
マジンが尋ねたのに老人が頷いた。
「察しが良いな」
「マリールから聞いた」
老人が頷いて鼻を鳴らした。
「まぁそういうわけで魔族だからどうということは別段ワシも騒ぎ立てる必要を感じない。が、その質には重々気をつける必要がある。特にさっきの話の流れを考えるならな」
「過去の文明の話か、それとも道の話か、それとも努力を笑う連中の話か、この里が鉄道で腸抜かれるだろうって話か」
マジンが一気に尋ねたのを老人が少し驚きニヤニヤと笑った。
「マリール嬢ちゃんの婿殿はなかなか大した者よな。まぁ全部だ。魔族とはそういう人の無力を嘆いた者たちが生み出した文明の残滓だ」
「なに、結局失敗ってこと」
リザがバカにしたように言った。
「まぁそう聞いている。というか、そもそも魔族を生み出した文明が持っていた矛盾が魔族を残して破綻したいうことのようが、具体的にはよくわからん。強いて想像を云えば、文明の住民の全員のやりたいことをやれるようにした結果、文明を維持することを放棄したということじゃなかろうかと考えている」
老人はリザの様子に頷いていった。
「死にたくないから戦争は嫌だって兵隊が逃げ出して国が負ける、みたいな感じかしら」
「そこまで単純な話じゃなかろうが、煮詰めてしまえばそういう面もあるだろうな。わしの理解の及ぶところでは魔族は文明ひとつを内包している。結果として、他の文明を必要としなくなったということのようだが、別種の文明が隣り合って存在していることなぞそれほどに珍しいというわけでもない。わしらも共和国と同盟しておる。そういうわけでわしも矛盾なく説明できるほどにわかっているわけではない」
「魔族はわりと一緒くたに存在していることが多い気がするな。別種の文明ってほど差があるようにも思えない。まぁ見かけややれることは違う様子だが」
マジンがぼんやりとした感想を口にした。
「フム。魔族の巣も見たことがあるのか」
「そうでなければ彼女は作れなかった。……作ったという自覚があるわけでもないんだが」
「なんと。オヌシが彼女を作ったのか」
流石にそこまで言ってしまうと女達の目が痛い。
特に三人は義眼を入れていた。三人とも失った目で世界が見えることに疑問を感じなかったわけではないが、それが魔法によるものというのはさておき魔族によるものだと言われてしまうと帝国の騎士としてはいささか心が波打つ。
「魔族とはそもそも人を害するものなのか」
「いや。別段。実のところおおかた人に害をなすような魔族は十万年も前に互いに討ち果たし合って滅んだ。帝国はまぁ要するにその頃に起こった国だ。言い伝えが本当なら百万年も魔族同士が争っていた挙句に共倒れをした頃、わずかに残っていた人々が起こした国だが、どうやって百万年もの間、人々が生き延びていたのかは伝わっておらんし、本当に百万年も魔族が争っていたかもわからん。だがまぁうんと長いことということでいいと思うし、帝国の皇帝が一万人以上名前の記録があることを考えると、まぁそういう感じの国であることもそれほど間違いというわけではない。幾度か皇統は途絶えているはずだが、国としてはそういうことだ。建前の上では帝国は魔族を討滅するという目的を掲げているが、帝国を支えたのも魔族でまぁどっちかというと平らげて独占したいというのが本音よな。大陸にいるような大多数の者共は直に魔族の騒乱を知るものは生き残っておらず、本土の者共もとうに代を超えすぎていて、なにを伝えるもんがあるとも思えんが、おそらくな」
老人の説明は矛盾を指摘できるほど明瞭なものではなかった。
「だけれどアタシの村は魔族に襲われたわよ」
ステアの記憶のあるリザが老人の説明の矛盾を突くように言った。
「どういうことじゃ」
「私の村は、たしかに魔族に襲われて、私は呪いをかけられたし、夫は殺されたわよ」
「彼女には誰か人間の記憶があるのか」
「説明が必要なら後で改めてゆっくり説明するが、ボクは彼女を治療するつもりで魔族にしてしまった、ということのようだ。彼女の中にはボクの二人の妻の魂がある」
「それはアレだな。こんなところでつまみのようなもので腹をふくらませている場合ではないな。そちらの方々も我が家にご招待しよう。どうせ我が婿殿と揉めてこんなところで熱りを冷ましているのだろう。あれも強く賢い良い御仁なのだが、折り合いというものの不器用な御仁でな。マリール嬢ちゃんとの話がついたら迎えもよこすじゃろ。ところでゲリエ卿、夜目に自信はおアリかな」
マジンは軽く首を傾げた。
「どの程度というところがありますが、飛行船にご案内せよということであれば船を着けるのは容易いくらいには」
「それほど遠くにというわけではない。対岸の船着に漕船が二杯ついている桟橋が見えるじゃろか。あそこまで送っていただきたい。ま、わしの漕船でも容易い距離だが、噂のゲリエ卿の乗り物に興味がある。圧縮熱機関だか蒸気圧機関だかなんぞう」
とてもギゼンヌまでも歩いてひとつきだかという山の中に住まわっているとは思えない老人の言葉にマジンは笑わざるをえない。
「これは軸流熱機関ですが、中を開くつもりでなければ大した差はありませんな」
今度は昼間と違って道中の僅かに数十秒の間だが全力航行を披露した。
刃のような回転羽が自らわずかに水面を離れ空転し着水する間に減速するような、飛び石のように水の上を跳ねる感触を老人は喜んだ。
対岸の船着場から岸に上がって案内されたところは立派な郭をもつ戦闘的な城塞だった。向かいの城も立派なものであるがどちらかと言うとこちらのほうがさらに武張った造りで、マリールの父上と謁見した城よりも兵士の姿が多く見える。女官たちも優雅に時代がかって着飾っていても短銃や短刀を飾りとしてそればかりでなく、槍と見まごうような銃剣を携えていることもあった。
短銃や短刀は抜き放ち威力を示すまでは飾りか否かの区別はつかないわけだが、銃剣の禍々しさは飾りがあろうがなかろうが、その重みや煤け具合までは消せない。手入れされ焦げた油の匂いがすれば、それは宮廷女官の杖と云うには禍々しい。
庄内といえ城の外で武装している女性はあまり多くない印象だったが、こちらの城の中は男も女も役目のない者は或いは役目のある者はその身分役目として武装を携えている様子である。
そして老人に扱いは明らかにこの城内での上位者の扱いであった。作りはだいぶしっかりしたものの汚れを気にしないもっさりとした服は礼を捧げる兵士のものより一段簡素な作務衣のたぐいと思えるが、兵は老人をよく見知っているようで兵の目の良さを考えても動揺もなく全く自然に礼を捧げていた。
「ご老人、あなたがこちらのお城の主ですか」
「実はこの庄では城の主などというのは割合と多いのじゃが、騎士総長と役職を名乗っているのはワシ一人だ。まぁ表では将軍だな。ワシの名はダシャールエルダビアス。マリールの母方の祖父じゃ。マリール嬢ちゃんの婿殿が来るって話を今朝方娘から聞いてはいたんじゃが、嬢ちゃんのことだからこちらの殿様と揉めるだろうと思っていたら、やっぱし揉めたというところよな。まぁ話を聞く限り、悪くないスジの活躍をしておって大したジャジャ馬ぶりというところで、男運は悪くなさそうだ。男の子ができたらぜひ連れてきたまえ。アーシュラは軍才があるのならばウチの庄では却って扱いかねるかもしれない。今更そういう時代ではないのかもしれぬが、女性の将軍を我らが求めるのは少し先になるじゃろう」
ダビアス老はカラカラと笑いながら一行を案内した。
ダビアス老の居城の食卓は五回目の食卓、夜食の席が準備されていた。
突然の来客や飛び込みの伝令が多い騎士の詰める城では突然の客の来訪もどうということはなく、むしろたったの十人に足りない一桁しかも殆どが女性ということで、多少首をひねるほどに拍子抜けした様子だったが、湖のステアのことを気が付かない者はなかったので、ああなるほどと納得をされた様子でもあった。
城主の食事の間というものは思ったよりも随分と簡素で、数名の婦人と従僕が食事に同席するだけであった。
食事は暖かく美味しくはあったがなんというべきか城主と婦人の食事の席に並べられた静かな食卓は、修道騎士団の食事、というべき消化の宜しい質素なもので、年齢の彩りのある五人の夫人は一言も発さず、ダビアス老も同様に一言も発さず、問いを発しようとした口を城主閣下直々に身振りで制されてしまえば、食事の席は全く静かなものだった。
それはそれで結構なのだが、さて、一体我らはどうすれば、と食事を終えて困っていると年若い夫人が手招きしているのに気がついた。ついていってみると閨房だった。正確には閨房の前室のなんというべきか着替えの間のような大きな鏡のある居間のような部屋だった。つまりは城主と夫人の私室であるという。
食堂での会食では全く置物のように押し黙っていた夫人たちは全くここでは活き活きとしていた。
「まぁ、食事の様子を確認するのも日課なのよね。ごめんなさいね。家々にそれぞれいろいろ流儀があるんでしょうけど、うちは人の出入りが多いから、用人やらお客人やらがなに食べているか味見する必要があるのね。まぁそう云う中で色々しゃべくっちゃうと面倒だし、下のむっさい騎士連中に放り込むわけにもゆかなかったから、若い人には気の毒な食事をさせたけど、ここはお酒もあるし他に食事もできるから、気楽にしてちょうだい」
一番年かさの夫人は先ほどとは打って変わって気楽そうにそう言った。
「ところでお姉さま方、こちらのお嬢様方、義眼のようですわよ」
「眼の色が違うなぁと思ってたけど、たしかにそのようね」
「こちらの黒髪の方はバービーのようね」
「まぁ、若い男性はバービー好きですわね。いまどき外にバービーを連れ出す方がいるとは珍しいけど」
「マリール様も気の毒に」
「でも確かお嬢さんを産んだとか」
「こちらの可愛らしいお嬢さんは、そう云う感じではないようね」
「お嬢さん、お酒とお茶はどちらが宜しい。バラの香りの炭酸水もあるわよ」
「本人に合わせてちゃんと動くのね。よくできた義眼ね。これはあなたがこしらえたの」
マジンと家人が食事の席では彫像のようだった夫人方との距離感の激変に戸惑っているとダビアス老が部屋に現れた。
「小娘じゃあるまいしお客様になにやっとるかね、お前たちは」
「お客様との歓談を楽しもうとしていたところですよ。ちゃんと館の主人として私達の紹介をしてくださいな」
「年かさの方からファルテナ、サルート、アウテナ、エルタ、エランだ。一番上にマリールというのがうちにもいたんだが、一昨年亡くなった」
愚痴るというわけでもなく、しかし止められなかったようにダビアス老は言った。
「一番若いのがショアトア、あとは黒髪の方からリザ、クライ、セメエ、コワエです。リザ以外とは結婚していませんが、なんというか、皆、僕の妻みたいなものです」
「こんな小さい子まで奥さんにしてらっしゃるの」
「お姉様、小さいって。五年もすれば立派な奥勤めが務まるようになりますよ」
「リザさんってバーバラだけを奥様にしてらっしゃるのはどうしてなの。正式な跡取りのお子さんはいらないって言うことなのかしら」
「バーバラってのは、バービーと同じ意味ですか」
マジンは耳慣れない単語を改めた。
「女魔族って程度の意味だ。人型の魔族っていう意味で色々意味が乗ることも多いが」
「ああ。彼女は治療事故で魔族になったんです。こちらはそう云う魔法や細工物に詳しい方が多いと聞いて何かお話を聞ければと思ってお邪魔いたしました」
「あらあら。なにが聞きたいのかしら」
「彼女が、その魔族であるのは間違いないところですか」
マジンの質問に夫人たちは不思議そうな顔をした。
「まぁ人間じゃないわよね」
「ゼンマイとかそんな感じのカラクリでもない」
「魔族よね」
「みなさんはどういう風に人間じゃないところを見分けているんですか」
首をひねるほどアッサリと夫人方の意見が一致したことにマジンは質問を重ねた。
「どうって言われても」
「魔力かしらね」
「子供は作れるんですか」
夫人方があまりに明らかなことを問われて口々に応える中でリザが問いかけた。
「作れるわよ。女ですもの。まぁそう云う風になっていればですけど、バーバラの極端なものだとなんというか大きな豚の子宮みたいなのもいて、ちょっとあまりに戯画的というか、女性としてはどうかと思うんですけど、そういうのを母というか先祖というかまぁ、そんな感じで維持している人たちもいました。今もそう云うバービーが動いているか生きているかはわかりませんが、そんなふうに魔族が使われていた事実は間違いないわ」
「まぁ普通はバービーって云うとあなたみたいに男性の理想の女性みたいな感じで老けない優しい強い美人な女性であることが多いわね」
マジンはまぁたしかにリザを気に入ってはいるが、理想の女性像というわけではないなぁと思いながら、望外の言葉に驚いているリザと目があった。
リザが機嫌よく得意満面であればそれはそれで構わないことだった。
「肌のたるみや伸びによるシワとかザラメってのは表面処理技術的に表現が難しい部分でもあるからね、一般的な話題として加工処理指定と計算が面倒っていうのがあるのかもしれないわね」
「肌のくすみも角質層の不連続な巻き込みによる色素化だし、計算が厄介なものよね」
「大抵の男性はバーバラが老いないことで奇妙に引け目を感じるのよね。ケンっていう似たような男性版があるわけだけど、あっちはたいてい子供が作れないのよね。男の嫉妬なのかなぁって思ってたけど、まぁそういうのが必要な男性と女性との生き方や価値観の違いよね。たぶん」
「だいたい、元気過ぎるなんでもできる女性なんて子供が欲しければいつでも作れるって思うものですからね。そう云う自分が輝いているときに夫や子供なんて挿手口と私財を食い荒らす害虫にしか思えないものでしょ。そう云う意味じゃ男どもは割と半端なところがあるから女や子供にいろいろ求めたがるのよね」
夫人方はまぁそれはさておきという感じで近くにいる女性客に自分の興味の話を問い始めた。
「ああ、ええと、なんで皆様方は魔族について詳しいんですか。そういうのを集めていた一族とか」
「帝国が恩着せがましくそういうのを口上に使って色々碌でもないことをやらかすのよ。正しく人類に貢献せよっていう感じでね。まぁこの辺り一帯の人々はおよそ帝国を避難先にして生き延びた人々の子孫であるのは間違いないところで、私達の先祖がそう云う目的のために作られたというか、バービーやケンから生まれたのは事実だけどそんなの今更言われてもお前らの権勢の玩具に振り回されるのはゴメンだって話よね」
「帝国には魔族や記録が残っているということですか」
「帝国本土には残っているかもしれないけど、帝国軍の連中が言ってるのは単に言い伝えの言いがかりよ。ちょっと真に受けた先祖が真面目に調べた時期があって、私たちは自分たちの出自や帝国の歴史には多少詳しいの」
「今の帝国軍が謳っている内容なんかは針小棒大もいいところって感じね。小さな本土軍にさんざん叩きのめされた大陸軍が鬱憤ばらしにいろいろやっているって感じよ」
「百万年も前のことを探すのは無理じゃないかしら。なにを探したいのかわからないけど、多分こんな完成したバービーやら義眼の形で使えるように魔族を細工するなんて技術は今更帝国にもないと思うわよ」
「そうなんですか」
バラバラと夫人方が口々に意見を述べた。
「帝国の近衛軍はともかく侍衛隊が本土の外に出てこなくなって久しいですからね。まぁああいうモノたちが完全にいなくなったってわけじゃないんでしょうけど、みせびらかすほどヒトと同じ魔族は多くないってことでしょう」
「そのなんとかってのは、魔族なんですか」
「そうよ。なんというか、兵隊としての究極の兵器としての人間をそのまま魔族にしたものよ。寝ない食べない恐れない愛を知り理を守り礼を尊ぶ。おサムライってそういうモノね」
「なんか、矛盾があるような気がしますが」
「強力な兵隊だってのは間違いないわよ。風の如く敵陣を襲い、ひとなぎで林を払い、つつむ炎もものとせず、天険山脈を一跨ぎにする。ということらしいわ」
ますます胡散臭い口上に首を傾げるしかない。
「ああ、ええと、つまり、人型の魔族も珍しくない、無害だということでしょうか」
「珍しいし、無害かどうかなんてわかるわけないけど、ありえない話ってわけじゃないし、つい百年前くらい前には我が家にもいたわよ、というところね」
「私が魔族だというのは間違いないというところなんですね」
「それは間違いないわね」
「私は寝たり食べたりおならや厠の必要もあるんですけど」
「それはそう云う風にできているのね。子供の姿で出てきて大人になる魔族もいるようだから、そこはそういうものと思ったほうが良いわね」
「そしたらこのヒトは人間なんですか魔族なんですか」
リザの矛先が自分に向いたことでマジンは目をむいた。
「人間ね」
「人間だわね」
「変な魔力の流れ方しているけど、人間ね」
「まぁ魔力は強すぎるけど、人間ね」
「変なっておっしゃいますけど魔法使えないヒトが大きな魔力持っているとこんな感じですよ」
アッサリと夫人たちの見解は揃った。
「魔族ってのは結局なんなんですか」
改めてマジンが尋ねた。
「質量を持った現象としての魔法よ」
「魔法で水を作ったりということですかね」
「うーん。説明しにくいんだけど、魔界というか異界にあるものの影がこっちの世界に影響を及ぼしているのよね。多元世界解釈だとね。まぁなんというか、レース地があるとして糸の部分が模様なのか抜けた部分が模様なのか、だまし絵のどちらの模様が本来の意図かというような感じね。で、その認識の切り替わるときに魔法が起こるっていう感じ」
「世界の穴ってのがまぁ一番しっくり来るんだけど説明するとなると難しいわね」
「ともかくそういうものをうまい具合に使うのが魔法だから魔族と魔法とは相性が良いし、魔法使いと魔族も似たような感じになるんだけど、根っこがどっちにあるかというところが一番の違いかしらね」
「まぁそういうことね。リザさんはこの世にはいないってところが魔族だってところね」
「私が死んでいるってことでしょうか」
「死後の世界っていう意味のあの世とか生者の世界をこの世っていうのとはちょっと違うわ。主体の存在がこの世界に属しているかっていうところがちょっと重要で、魔族は魔界に本体があるってところね。そう云う意味であなたの旦那様はこの世にあるし、義眼のあなた方の目の大部分もこちらにあるわ」
「それがなんで分かるのですか」
マジンはもう少し粘って見るように尋ねた。
夫人たちも子供のような問いに少し戸惑ったが、頭ごなしに手を払うような無礼を働きはしなかった。
「なんで、っていうか、分からなかったら魔族退治できないじゃない」
「どうして分かるのって言われると、魔力の流れ方が内向きか外向きかというところが大きく違うわね」
「ああ。なるほど。そう説明するなら、人の魔力の流れはいくつかあって、結局体の中から外に向かっているんだけど、魔族は内側、核に向かって落ちているわ。彼女たちの義眼は確かに落ち込んでいるけど、極端というわけではなく、彼女たち自身の発する魔力の一部と世界からの一部で安定している。でも、リザさんはかなり膨大な魔力を吸い集めている。ってところかしらね」
「それはマズいんですかね。例えば魔力を吸い上げすぎると作物に影響するとか」
「ないわね。魔力があっても何にもできない人もいるし、山中におおきな滝壺があっても滝があるなぁってだけで山の水が枯れたりしないのと同じように大した問題じゃないわ。それに魔力は呼吸や体温と同じような行程や結果であって生命力そのものではないわ」
「兵隊さんや未熟な方が突然死するのは知っているし、私達も油断すればそうなるけど、あれは云ってしまえば素潜りをするのに配分を間違えたくらいの感じね。任務とか御役目で魔術を使うのも気の毒だけど、できないとお味方の仲間が大勢死ぬとなればやるしかないわよね」
「周辺の魔力の多寡を見誤ると魔法の効果が偏るってのは経験的に事実だけど、その程度で引っかかるような魔術は未熟よ。こう、魔法ってのはカッカッと必要なだけ切り替えてみせるもので別段ダラダラやればいいってもんでもないわね。兵隊さんの意見はまた違うんでしょうけど」
夫人が会話の中で手を閃かせた一瞬で机の上に花びらが散り、それが消え霜が降っていた。
「エルタ。お茶が冷めちゃうわ」
「そういう意味ではマリール様の婿殿はなかなかの遣い手ともいえますわね」
「錬金術を嗜む方にはよくいるタイプともいえますね」
「我流で知らずにバービーを組み上げるとか単に妻恋しや好色なだけで出来るような業ではありませんしね」
「血晶病についてご存じですか」
「一言で血晶病っていっても色々あるのは知っているわ。あなたのおっしゃるのはどんなの」
「全身が氷砂糖のようになるものですが」
「割とあるわね。全身を糖に置き換えちゃうやつよね。嫌味なのか何なのかわかんないけど死ぬまで時間がかかる奴ね」
「ボクの前の妻がそれにやられまして二年ばかりで死んだのですが」
「アレって侵蝕型の典型的なやつよね」
「そんなに早くって、奥様強かったのね」
「その時に妻の心臓を食べたのが、ボクが魔法を使えないまま魔力がある理由かなと」
「それはない」
「関係ないわね」
「遺体を食べるっていうのは感染呪術による魔力継承の典型的な形だけど、知識や技能という魔術の欠片を継承しなかったのなら、魔力は引き継げなかったのね」
「もう魔法の方は別の人に継承されてたんじゃないかしら。妊婦なら別段死ななくても継承は出来るわよ」
「男性は一生懸命タネに魔術を描いても血脈継承は女次第だから結局別に儀式が必要だけど、女は妊娠から出産まで時間があるから、儀式なんかなくても継承自体は割と簡単にできるのよ。まぁ男性が最初から男のタネに魔術を使うとかなり自由に子供の設計ができるのはそうなんだけど、ヒトがやることだから抜けがあるととんでもない事にもなるのよね」
「それで、どうやってこちらの方をバーバラにしちゃったの」
「彼女が戦死したのが最後のキッカケだったんですが――」
執事たちに聞かせていいものか悪いものかと云うのはなくもないわけだが、既に入り口を超えてもいたし、ある程度は彼女らの目の話ともつながっていることから、隠し立てをするのも面倒くさくマジンは話の流れを辿った。
夫人方の興味にあわせて話の流れは右に左に動くわけだが、流れを聴き終わったところで夫人方は少し黙った。
「流れはわかったわ。どうやらステアさんの身体を血液にしてリザさんの身体を器にして、マジンさんが作った心臓が二人を混ぜあわせたって感じね」
「心臓を食べたってのは感染呪術の上では大方関係ないのはそれとしてそのせいで、なんかの術式が止まってたのを新しい心臓が割り込んだってところかしらね」
「血晶病の最後はどうなるんですか」
「どうっていうのも色々だけれど、まぁ塩とか灰とか糖になってオシマイね。普通は崩れて溶けちゃう。美味しく頂いちゃうってことは遺族は流石にしないけど、気がつかないで食べてることもあるかもしれないわね。この辺りだと塩も砂糖も貴重品だから」
「それでどうなんでしょう」
恐る恐るマジンは口を開いた。
「どうとは」
「彼女をどう扱えば良いかという意味ですが」
奇妙に手応えのない夫人方の雰囲気にマジンが改める。
「わかんないわね。ただバーバラをお嫁さんにしている男性は大昔は割とあったのは事実よ。まぁ要するにお嫁さん人形ってところで、馬や羊や山羊や虎や犬なんかをお嫁さんの代わりにする話と変わらないわけだけど、別段悪い話ってわけじゃないわ。共和国の法律は私達が盟約を結ぶにあたって種族について定めた条項はなくなったはずよ。まぁ土地土地で色々あるのは知っていますけど、デカートの法律上はどうなっているのかしら」
「彼女と結婚したのはリザの生前でしたから特段は」
「いちいち申告をし直すんじゃなければ問題にならないってことね。気にしないで良いんじゃないかしら。魔族っていっても時々空から降ってくるような連中を除けば長いこと地上にいるようなのは、あらかた無害のはずだし」
「夫婦喧嘩に気をつけあそばせっていうのは、別段人間同士が結婚してもよくあることで今更よね」
「奥様に飽きて離婚とかって話が最悪ね。あとは旦那様が死んだ後をどうするかはちゃんと決めておきなさい。これも人間同士でも全くあり得ることなんだけど、バービーの寿命はとんでもなく長いから、魔法使いが長生きで二百年や五百年生きるっていっても全然そんなんじゃ追いつかないくらい長生きするからね。孫子にわたって付き合うつもりでいないと碌なことにならないわよ」
「ただあんまり見せびらかすのはやめときなさいね。バービー好きの男性ってのは本当に偏執的な方もいて碌なことにならないわよ」
「人妻と見ればコナをかけたがる輩がいるのは承知していますが、そういうことですか」
意外と普通のアドバイスが続くことにマジンは少し表情をゆるめた。
「まぁそうね」
「見せびらかすなと云って、私は外出を避けたほうが良いということでしょうか。これで一応将官なので共和国軍の式典などに出席するだろうことはありえるのですが」
リザが少し気になるように尋ねた。
「アナタは少し真面目に魔法の修行をしたほうが良いかもしれませんね。別段今のままでも差し支えないのは事実でしょうけど、見る人が見ればひと目で魔族と分かるような状態もあまり好ましいとも云えません。特に公の場で騒ぎになると説明が面倒な事態になるかもしれませんね。聞けば中の人はおふたりとも魔導の素養はある様子で誰か介添えがつけば別段技術がなくともそれなりの修行には差し支えないと思います」
「マリールさんでちょうどいいじゃないの」
「日々の相手としてはそれでいいけど、最初はもうちょっとマトモな人を充てた方がいいと思うけど」
「ひょっとしてアレですか、彼女らの目もそう云う風に何かした方がいいものですか」
ふと、マジンが心配になって尋ねた。
「……ああ。まぁそうね。高価な物っていう意識があればそうね」
「でもそっちはメガネでも掛けておけば大方の人は気にしないんじゃないかしら」
「……戻ったらメガネ作るか。セントーラに負けない偉そうな秘書に見えるような奴。リザもメガネかけておけば、色々言われることも減るだろう」
如何にも軽薄な男の提案に女達は笑った。
城の朝の食卓は豆の粉の粥のようなもので始まった。
鳥のスープのようなもので味を整えてはあったが、昨日の晩と合わせて実に消化の良いもので始まり、おかわりを尋ねられた夫人方は全く作法通り石の人形のように身じろぎもせずむっつりと食事を終えた。
この城では貴婦人というものは内心が春の雪解けの滝壺のような留めようもない風景であっても、公では絵のように彫像のように普段と変わらない姿を求められ、表情のスジひとつ食器の動きまで所作と意味を求められる。ということだった。
その後、女達はご婦人方とともに過ごすことになり、食事における無言のままに良いとか悪いを告げる仕草を教わり、頬やら眉やらの僅かな動きが言葉の代わりにされているという実に様式化された様々が人々の動きを縛っていることを理解した。
符牒の中には当然のように、御役目某を誅せよ、とか、誰それを縛せよ、等というモノもあり、もちろん普段の席で意味があるようなことはないはずではあるが、そういったもので従僕を試すようなことは無論好ましくなく、いちいち動揺させないためにも所作は静かに粟立てないことが望ましい。
騎士の家にも相応に様々あるわけだが、強大な帝国の小さな隣国として尚武というよりも今なお常日臨戦の土地というべき備えで立場ある人々は縛られているということである。
ぼんやりと又聞きで男尊女卑の時代錯誤と聞いていたが、食事の作法が離縁や廃嫡或いは刑死の理由にもなりうる、全くここは戦乱風雲の洲国であった。
そして、ただ今東部戦線が晒されているような帝国の強大な、しかし目を開いて様々を求むるに猫が虫を嬲るようなそう云う動きを百年千年も或いは話によっては十万年も繰り返されていたとして、宜なるかなと云わずにはいられない。
共和国との関係も、共和国の立場では連邦だが、この国の立場では同盟であって、立場を変えぬ帝国の有様によって変わらぬ戦時であることから大きな問題にはなっていない。
しかし様々に行き違いがある中で鉄道を貫くように通せば、たしかに様々なものが一気に崩れ、この邑の有様が変わるというのは冗談ではなかったし、それは暴力的なまさに腸を抜くような有様になるとあっても不思議はなかった。
世の中をなすために周知は必要なく、ただ邪魔さえしないでくれれば良いというのは十万からの人を社員と組織したマジンの思うところで、しかし百万からいる家族もこの十年ほどの様々のすべての恩恵や意味を知っているわけもあるまいに、内と外という色分けを意識するほどに変化を起こしていた。それは共和国成立以前の血族で洲国を作り、風習の瑣末な違いに血道を上げて土地や資源を命をかけて奪い合っていた時代へと戻っているようだった。
文明の威力はつまり当人たちの気がつかない破壊を全く暴力と意識しないまま振るうということである。
鉄道がつながればそう云う動きを導火線のようにこの邑に差し入れることになることは間違いない。
それはマリールの祖父ダビアス老ほどの理知聡明の賢者たちがこの邑にどれほどいたとして、上品に云っても嵐の浜辺と大差ない光景になる。
それは、天下を取る、世界を征服する等という、大望に溢れた物語の主人公であれば全く意気上がる展望であるのだろうが、世界の秩序や人々の未来の責任に興味のないマジンとしては全く屠殺場の管理を押し付けられたような感覚でもあった。
十億なり百兆なり岸辺の砂の数だけ星の数だけ尽くを屠り鏖殺せよ、という文明の究極は全く文明の矛盾を感じさせるモノで、人の愚かさと世界の貧しさを予見させるものであったわけだが、早くもそう云う傲慢な兆候をローゼンヘン工業の社員たちは個々の悟性と関わりなく見せ始めていた。
現実に膨大に膨れ続ける各地の銀行の帳面上の額面は銀行が支払い拒否をどういう風におこなうかを試すようになり始めていたし、資材原料の付加価値も社員の技量が向上するに従って膨らみ続けていた。
幾らかの物品についてはゲップのように理由をつけて捨て値同然で切り棄てていたわけだが、それさえも帝国との戦争が一段落して世間が落ち着けば害悪になる。
城の屋上からの光景はゆるやかに照らす午前の日の光と湖水の照り返しで溶け残る雪と花の色と芽吹いた草木の若葉とで肌寒くも穏やかな風景を作っていた。
屋上にも巡回の衛士は当然にいるわけだが、大仰に誰何されることもなく、しかし衛士の申し送りには含まれていて、全く慇懃隙ない扱いを受けていた。
そう云う時計のような衛士の靴音をぼんやりと聞きながら風景を眺め時を費やしていると、土地の貴婦人の装束でリザが現れた。白と朱焼けた黄色の装束は結い残した滝のような夜の色に艶めく黒髪と合わせて、空を飛びそうな流れのある姿でフィギュアヘッドのような印象だった。
「似合ってる。春風の精霊みたいだ」
「この辺だと春風の精霊は美人で気の良い乱暴者ってことらしいわね。癇癪起こして雪崩とか突風を巻き起こすんですって。……。なによ。褒めてくれたのは伝わったわよ。照れ隠し。それくらい飲み込みなさいな。……それでなに浮かない表情で景色眺めてるのよ。マリールの心配かしらね」
そう云ったリザはするりと歩み寄り身を寄せた。
「実はそっちはあまり心配してなかったんだ。いきなり殺されるっていう流れならこちらの祖父殿も多少はなにか伝わるだろうし、ボクらものんびりと客分で扱われたりはしないよ。今頃はお城の衛士たちが乗ってきたステアを囲んで大騒ぎしているさ」
リザは意地悪そうに笑った。
「そんなんでどうにかなるようなモノなの?あの飛行船てやつは」
「彼らがどうにかするのはボクらのほうだから、どうにかするぞ、って伝わればいいんだよ。あの大きな舟に誰も残っていないと彼らは知るすべもないからね」
「で、そう云う動きがないからマリールは大丈夫ってことかしら」
「彼女が大丈夫っていうか、僕らに類が及んでいないということはむこうで即決有罪を下したわけじゃないってことだろう。この後参考人招致をされて刑場のお白州に引き立てられる沙汰になるにしてもね」
リザはフフンと鼻で笑った。
「異種族のアイノコを産んだ罪ってのはこの地じゃどうなるのかしらね」
「マリールの父君の胸の内でどうなるか知らんが、こちらのご夫人方の雰囲気じゃどうもないだろう」
リザは多少の疑問もある様子だったが特に何かを口にはしなかった。
「……。そしたら春の湖水を眺めながらなにを考えていたの。この後のことかしらね」
「この後というか、前というか。ステアが死んでから鉄砲やら鉄道やら生き返らせてしまったやらの成行きと始末がね」
そう聞くとリザは全くわかりやすく眉を顰めた。
「なに、まさか、後悔してたの」
「後悔はしていないが、考えるところは多いさ。ボクは既に十万の社員を抱え百万のその家族の先行きを示すような事業に踏み込んでいるわけだからね。昨日のご老人の言によれば、既にボクはまさに修羅の巷の矢面に立っているわけさ」
呆れたような顔をリザは隠さなかった。
「会社で別段具体的になにか起こっているわけじゃないんでしょ」
「起こっていないわけがないだろう。敢えて口に出さない努力はしているがね。バカを丸焼きにしてやりたいくらいは年中考えている」
「焼いちゃえばいいのに。我慢のし過ぎは身体に毒よ」
「他人の生死がこれほど面倒くさいものとは思わなかった、と愛の重さを考えていたところで、殺しをそそのかすな」
そう聞いてリザはカラカラと笑った。
「どうせ他人の命なんか大した気にもしてないくせに、社員様の命を大事に扱うってどういう博愛ぶりよ」
リザの言い様は鼻白むものだったが、文明の意味する処は博愛の程度と量の問題であった。
「はからずもボクは文明の祭祀の徒であるからね。祭壇に火を焚べ石臼を転がすように何者を轢き潰すかを如何に選ぶかを定める用があるんだよ」
「まるで悪魔の所業ね。それが文明とは何たる皮肉かということね。それで共和国に続いてこの邦も轢き潰すことになるのかと黄昏れていたと」
皮肉げにリザは言った。
「そこまで考えていたわけじゃないが、……オマエを魔族にしたように気が付かないうちに色々やっているだろうと思ってた。ワイルの騒ぎはむこうの暴発だって言い訳もしやすい形で起こったけど、必然でもあった。同じことが起きるだろうってことだよ。デカートでもソイルが次第に人を減らし始めている。鉄道があればソイルに拘る必要がなくなり始めたし、ソイルはデカートへの水利が良いってだけの街だからね。豊かな農地という意味では他にもある。田園の中心を鉄道が迂回したせいで利便という意味ではよそに移り始めている。ミョルナみたいにわかりやすく街が枯れた例もあるしね。隧道ができて人が消えた話も衝撃だったが、旧街道沿いはいま更に大変な有様であるらしい。コレっぱかりも用事があるわけではないが、色々話には聞いている」
そこまで聞いてリザは少し表情を改めた。
「栄枯盛衰ってやつじゃないの」
「もちろんそうだ。そしてボクの財布の紐の引っ張り方で或いはウチの秘書の誰かの気分次第で決まると考えられ始めている」
「それは誤解よね」
「もちろんそうだ。だが、あまりに短期間で起こったことでその中心に常にボクがいれば、そしてボクの代理に秘書を走らせていれば、当然に起こる誤解だ」
リザは軽くため息をついた。
「本当にアナタが土地に呪いを振りまく邪教の司祭だと思われている可能性があるのね」
「しかもある意味では事実ボクが呪いを振りまいてもいる。文明という甘い毒をね。共和国軍は危うく兵站を破綻させるところだった。なんのかんのと理由をつけて助けてやったが、鼻くそをほじる片手間で共和国軍を敗北に陥れることはありえた。軍の求めるまま善意のままになしていればそうなったろうな」
流石にリザは笑顔が消えた。
「でもそんなこと言ってたらなにもできないじゃないの」
「他の人には出来るよ。大したことができないからな。だが他の者と同じようにボクが振る舞うことは本当に世界を破壊することになる。王者の節制とか君主の寛容なんてのは理想論のひとつだけど、本当に容易なんだよ。世界を壊すことなんてね。一切他を気にしないで自分の出来ることやりたいことだけをやり続ければいいんだ。だから、ボクは魔族ではないらしいが、魔族がなぜ文明を滅ぼしたか、彼らが自ら滅んだかも想像がつく。無限に自らの理想を魔法を使ってまでもなした結果として自らの足場である世界を突き破ったんだ。考えて見ればつまらない理由で文明なぞ簡単に滅びる。それは技術とか資源の多寡の問題だけではない。構造と環境との関係の問題だ」
「私も今は魔族らしいんですけど、どう考えればいいの」
リザは揚げ足を取りやすい踵を見つけたような顔で言った。
「オマエも多分何かに特化した魔族なんだろう。なにに特化しているのか知らないけど、その相剋の果てに何かが起きるっていうことだろうな」
「アナタを愛することに特化した魔族とかだとロマンチックよね」
リザが笑顔になったのを見てマジンは少し表情を翳らせた。
「そういうのは実際多かったんじゃないかと思うよ。魔族が大量に生まれた理由としてはね。文明が滅ぶ理由としては十分だよな。愛憎相違うとか物語の定番だろう。正義が無限の力を持てば正義が世界を滅ぼすんだよ」
リザは笑顔で凍りついたままマジンの表情に答えを探した。
「そんなに簡単に世界って滅ぶものかしら」
「現にボクは共和国の財政を破壊しかけている。悪意もなくただ国家の存亡を駆けた闘いに、愛する女の唆しに苦労の少ない範囲で知る人々の命や財産にデカートの元老として慮った上で尚ね」
「……なに考えてたかはわかったわ。やめましょう」
リザはマジンの腰に手を回して寄り添った。
「多分、ボクは子供たちの誰かでも、家にいる女達の誰かでも死にかけたら助けると思う。もちろんどんな手を使ってでも。でも君はもし彼らを生き返らせる手段があるとしても手を出すな」
「男たちは助けないの」
「助ける。だが多分、男たちが死ぬときは誰の目にも明らかに死んでしまうだろう。死んだことに気が付かないかもしれない。おそらく工房の老人たちは満足気に羨ましくなるように死ぬだろうし、他の連中もボクの手元には無事な遺骸は残らないだろう。五年のうちに幾人か工房の爺さんたちも大往生したが、生き返らせようとは思わなかった。彼らの手控えを眺めることはあるけどね」
「なんか、随分感傷的で差別的ね。時代錯誤」
「そうやって自分たちの好きで死ぬ女達がいっぱいいるのも知っているよ。自分の好きに生きた挙句で死ぬのはしょうがないし、多分そう云う連中は助けようがないくらい勝手に死ぬよ。ノイジドーラとかバカだから、助けようがないくらいひどい死に様になると思うけど、野生の獣みたいに見えないところで死んじゃうのはいいんだ。でもボクが拐ってきた自分の身の上に戸惑っている女はきっと多いし、子供のうちはそんなの許せない」
混ぜっ返しの言葉に応じたマジンの生真面目な言い草にリザは少し驚いた顔をして笑った。
「わかったわ。私は女子供が死にかけても治療に手を出しちゃいけないのね」
「人を生き返らせるような真似だけしなければ手伝って欲しい時もあるだろうけどな」
「難しいわね。でも、そういうことがないことを願いましょう。戦争も下火に落ち着くってのに人が死ぬのは嬉しい話じゃないわ」
「オマエ、ボクが望んだらなんでもできるんじゃないかって少し心配なんだ」
「光栄だけど言いたいことはわかったわ」
「本当か」
鼻で溜息をつくマジンの顔を少し嫌な顔をしてリザは見返した。
「誰も彼も魔族になって永遠に過ごしました。じゃ幸せにもめでたしめでたしも程遠いっていうんでしょ。前に一回失敗している方法をなぞるのもバカバカしいって気分はわかるわ」
「全然わかってない中で云うのも何だが、キミというマグレがアッサリ出来たところを考えると、魔族というものは接ぎ木くらいの気安さで増やせるんじゃないかと思えるんだ」
「セラムとか秘書の子たちの目を抜くとか言い出すんじゃないでしょうね」
「彼女らがボクのそばで死んだら目は回収するつもりでいるけど、その後どうするべきかは悩ましいな。本当におまえが百万年も生きるなら任せていいか」
「うあ、有能参謀を襲う、大本営の暗い罠っ。見事な丸投げね。でもまぁいいわ。どうするべきかはあなたも考えておいてね。アタシがアナタより長生きするって決まったわけでもないんだから」
午前の光がやがて昼の光に変わる影の移ろいを二人でしばらく楽しんでいると、十時の鐘が響き伝令が食事の席につくように求めた。
十時の食事はこれまでの消化一辺倒の食事とは少し違って、肉がちゃんと形に見えるような食事で重みのあるやたらと味のしっかりした黒パンと、ふすまのきつい薄く堅いビスケットが塩の強いバターを塗りつけられて、喉を乾かすだけの量が出てきていた。
それだけでなくそのパンを押し流せる量の卵を流したスープが出てきていた。
さらに席付きの小姓がリンゴを剥いて出してきたときには、多少お城の食事のような雰囲気だった。
しかしなんというべきか、全く戦地の食事という質素なもので、巨大な城塞の巨大な人員を支える苦労が忍ばれる食事の内容だった。
食事を終えて席を立つとダビアス老が自分の膝横を叩いて同行を求めた。
なんとなく従卒を扱うような仕草であったが、戦場における将軍よりも偉い客分などというものは国王くらいしかいないものであったから、全く文句を言う筋ではなく素直に従うしかなかった。
「我が婿殿から先ほど使者が来た。オヌシらを改めて招待したいというものだ。まぁそういうわけでこれからその使者に会う」
「どなたか名のある方なのでしょうか」
「バリステラスルテタブル。名前は知らんだろうが、むこうの城の筆頭騎士だ。昨日の場にも控えておったらしい。ヌシにわかりやすく云えばマリール嬢ちゃんの元婚約者だ。まぁ十年も前の話だが、別段ウチの邦では重婚を禁じてはおらんから、向こうの胸の内では婚約者のまま、元はついておらぬかも知れぬ」
そう云う説明を受けて流石に心も粟立つ。
「何か私に関わるような話でもされましたか」
「いや、そういうこともない。つまりはヌシらを賓客として扱うというむこうの申し出にアタリマエに一番いい札を切ってよこした、という程度の意味だ。そういうわけでこっちも別段お前さん方を使ってどうこうしようという意志がないということをむこうに見せるために、お前さんを直に使者に会わせて口上を交わす必要があるということだ。――儀礼官マラーホフ。お客人を預ける。次第での手順を教えて差し上げろ。遠方の方だ。粗相のないように。時間はないから細かいところはいい。要点を明瞭に教えて差し上げろ」
そう云ってダビアス老は途中の部屋でマジンを預けると自分は別の部屋に急いだ。
城らしいところでの礼法にも軍隊での儀礼にもまるで縁のないマジンはマラーホフの言葉の意味が今ひとつつかめないままにともかくラッパと名前が呼ばれるまで待って、扉をくぐって真っ直ぐ前だけ見て歩いて、列から三歩前に出て止まれ、というところだけ覚えておけばいいかということにした。
圧力や体積ではなくふたつの混合気体で比重を調整しながら高度を調整するというちょっとややこしい気分のする手法だったが、構造上は巨大な筒を使った単純なもので動くところはひどく小さなバルブが幾つかと工場の冷凍庫で使っている巨大なコンプレッサーで動いていた。少し前までは巨大な深皿状の円盤が円筒の中を滑るように動いていたが、様々な見直しがあって機構が大幅に整理されていた。いずれにせよ気嚢全体をふくらませたりたわめたりという仕事がない分、機構の動力機械いっぱいの性能を浮力の調整に回せる自由度がある。
上空二リーグを越える高空はしばしば二酸化炭素が液化してしまう外気温になるわけだが、気嚢内温度が確保出来れば窒素よりは二酸化炭素のほうが扱いは簡単でそうあるために配管制御系が氷点下を下回らないように、気嚢表面が氷結しないように推進系のガスタービンから伸びるヒートポンプが保護をしていた。
炭酸ガスの気嚢内での凝集はもちろん飛行船にとって致命的な意味合いを持っていたが、それ以前に大気空気中に大量に含まれる水蒸気が高速で運動する飛行船に衝突することで水となり更に氷の核になるという事態は巡航状態の飛行船の浮力を削り安定した航行を妨げる原因でもあった。
対策として飛行船外殻や気嚢表面或いは配管系制御系の温度を確保する努力が必要であったから、外殻内部はもちろんヒトが過ごすには酸素が不足してまた運行中過ごす寒くはあったが、減圧下の氷点を下回らない程度の温度が確保され、安全装具なしでもヒトが直ちに昏倒するような環境ではないようになっていた。
配管上はややこしい造りをしているが少なくとも以前のステアのように直径をチャージで測るような巨大なピストンを使わないだけ、整備の上で気楽な作りになっていた。
六機備えられた巨大なターボファンエンジンは老人たちの会心の作で貨物車よりも大きな原動機筐体を飛行船本体と回転軸で支えつつ燃料やら油圧やら熱交換器配管やら電気系やらというごちゃごちゃとした様々を運行動作で千切らせることなくつなぐことに成功していた。
ステアの巨体は空を舞う鳥のように軽快に飛ぶというものではないし、蝶や蝙蝠のように舞うという種類のものでもないが、それらよりもかなり早く飛ぶ。
音よりも早く飛ぶことは到底出来なかったが、風よりも早く飛ぶことは容易くて、自動車よりもかなり早く、巨大で優雅にのんびりと動いてみえるステアはおよそのところでマスケットの銃弾と同じくらいの早さで飛んでいた。
もちろんそれはこの時代の共和国において、誇るべき偉業と謳うに足る成果ではあったが、一品物も同然のマジンからすると人の目に触れさせても面倒なばかりのシロモノであったので、社内では公然も同然の社外秘という扱いのまま、公式には知らぬ存ぜぬで通している乗り物でもある。
理由は幾つもあるわけだが、結局ヘリウムガスの安定的な十分な確保ができないままに二隻目三隻目を就航させる目処がないことが大きな理由で、二気分圧式気嚢の運用を始めたばかりのステアの運行実績はやはりそれほどの期間が経っていないことも理由ではある。
というのは、もちろんマジンの気分の上で面倒くささが先にたってのいいわけである。
空飛ぶ機械というもののもたらす衝撃やその扱いをめぐっての様々の波及は自動車一つ鉄道一つを考えても相応に大きなものになるはずであったことが、誉に浴するよりも面倒厄介を抱え込むことの鬱陶しさが先に立ったということである。
操縦に向けた操作は単純だったし、その基礎的な概念もやはり単純なものだが、巨大な構造物が相応の速度と高度を自由に飛行するためには工学的に乗り越えるべき話題も多く、それぞれ単純とはいっても、共和国の水準で言えば相応に高度な装置機構が運行に供されていた。
帝国の城塞を雪崩で吹き飛ばした乗り物。
それをローゼンヘン工業が隠している。
という噂もある程度さけられないものだったが、マジンは知らぬ存ぜぬで通していた。
認めたとして碌な流れにならないことは自明に過ぎた。
もちろんそんな怠惰な気分を誰もが許していたわけではない。
ローゼンヘン館に住まう老人たちは更に早く飛ぶ乗り物を作ろう作ろう、とせがんでいた。
上がるところと下りるところが準備されていれば、空を飛ぶこと自体は実はそれほどに難しいことではない。
極論、巨大な凧にヒトが飛び乗れば良いのだが、もちろん老人たちが描いているのはそんな生易しい単純なものではない。
飛行船や熱気球のような金魚やクラゲのようなものですらない。
音の壁を突き破り或いはトビウオのように空を空気の界面を突き破り、星への階を駆け上れる様な機械を考えていた。
老人たちは設計の上ではというか、軸流圧縮噴流機関としてのガスタービンの試作や設計の前段階の検討を通して、計算の上では音を超えて空を飛べる乗り物の可能性に気がついていた。そして音速を超えると空気そのものが機関の吸気に蓋をし始め、さらに極超音速においては、手頃な燃料の爆発を吹きこぼさない様になることも計算上突き止めていた。
それはひどく単純な弁のない圧縮機が燃料と口から流れ込む空気とだけで巨大な力を発揮する機関に至るという理屈であって、老人たちは発見した計算上の境界拘束条件を決裁執務中のマジンの部屋に押しかけるようにして成果を見せ検算検討を求めた。
それは年甲斐もない、外見からすればムクイヌか毛膨れしたネコが立ち歩くような風景であるわけだが、もちろん日常風景としては頭を悩ませる事柄につながるわけでもある。
妄想と云うには根拠が揃いすぎている老人たちの構想は、もちろん欠けも多いが根源としての要素に誤りはない。
全く物理の有り様の範囲で、音の壁を超え星の軛を超え、空を飛ぶ機械機構を作るための条件を示していた。
今のところは単に空を飛べることそのための条件範囲が数値上確認できたというだけに過ぎない。
数値上の条件を実際の工作に工学的に落とし込む作業はまた別の方向の構想が必要になり、当然に工作にかかる準備には資材とその扱いという問題が立ちはだかる。
様々な材料の資料から設計を始めているが、今のところそれを取りまとめて一つの形の機械、飛行機にまとめることはできないでいる。
というよりは、人を載せるような機械にするためには乗り物としての要素が必要で、単純な運動機械を超えた要素が必要でそこは必ずしも老人たちが得意とする分野ばかりではない。
乗り物として取りまとめをおこなえ、と生ぬるくマジンにサインを送って寄越していて、或いは長い休みに入る度にルミナスに売り込みをかけていた。
全く勤勉な亜人の老人たちは党首が投げ与えるようにして好きに使わせている様々な機材から或いは作業に必要な膨大な資料から、日々の様々を離れて全く自由に想像の翼をはためかせ独自の工学の世界を切り開いている開拓者たちでもあった。
それは故ジェーヴィー教授とは全く異なる才能の顕現であったが、ともかく驚くべき天才の発露であってそれが一人ではなく十六名がそれぞれ多少興味の範囲がズレているという事実が素晴らしい副次効果を生んでいた。
ジェットバーナーやガスタービンという燃焼と運動の次の帰結として飛翔という、彼らのもともとの生業であった鉄砲づくり大砲づくりに根っこを戻していた。
ステアの推進器がステアの巨体を風よりも早く推している事実は、かつて彼らが全く不当な扱いを受けていた、という物証にはなるのだが、それはそれとして飛行機の問題は面倒くさいことが多かった。
個人がこっそり好きに楽しむ範囲でならば飛行機はなんの問題もない機械だったが、組織として一気に整備するには自動車や鉄道よりも一回り問題が大きい。
実を云えば自動車用の内燃機関でも空を飛ぶには足りるだけのポテンシャルはあり、その試みに人々が目を向けていない以上、焦ってその次を示すつもりはマジンにはなかった。
小さな機関で膨大な燃料を燃やしきるという意味において全く正直な単純な作りをしているガスタービンは運転機関全体における燃焼室の空間の比率がとてつもなく大きかった。
それは単純に直感できるまま膨大な燃料を巨大な熱と力に転換することが出来る、ということを意味していて、つまりは大食らいの怪力であるというわかりやすい証明でもあった。
粉末状の火薬の代わりに液体気体の燃焼材料に空気の酸素を適量混ぜ込み連続的に点火する軸流圧縮熱機関の構造はつまりは空気を尾栓代わりに寸刻途切れずに号砲を放つ大砲のようなものである。
それはつまり膨大な威力の代わりに莫大な量の燃料を僅かな時間で定量として食らう機関ということでもある。
マジンの持っている油井には或いは製油所には今のところそんなものを野放しにするほどの余裕はなかった。共和国全土の未だ前工業的な自噴に頼る油井ではまともな油質管理もおこなわれていない。
空をとぶ機械がどういう大きさの産業事業になるにせよ、鉄道網自動車網が流通を支えることが当然に陳腐化するまでは、面白半分で事業を展開すると首を絞めかねない。
仮に航空事業を本格化させるとして、拠点となる基地となる空港の整備が必要だったし、その整備のためにはまず第一に燃料や整備部品を始めとする消耗品の供給計画が必要になる。
精油事業の展開も必要だが、規格確立まで投資をある程度制御する必要もある。
庭先で飛んで落として泣き言を言う子供の遊びに付き合う気はマジンにはなかったし、それが子供の遊びで収まらないだろうことも想像に難くない。
そしてそういう手元の話の他に、空には空の問題もあった。
夜退屈しのぎに空を眺める者ならば誰もが知っていることだが、空の向こう側には膨大な量の星屑が舞っていて、それは雲というほど柔らか気なものではなく、綿飴のような軽いものではなく、速度と重さを見れば戦場の弾幕のような、もちろんその場に立っただけで死ぬようなものではないが、ぶらりと星空につっかけいっぱいというほどに気楽なものではなかった。
その頻度は運の悪い鳥が隕石に落とされることがあるほどには多く、民家や物置の屋根を銃弾ならぬ星の欠片が打ち破ることは珍しくはあっても、不思議には思わない程度に多い。
もちろんそんなモノの被害よりは庭先で狼藉に及ぶならず者の方が間違い無く多く、デカートであってさえも通りすがりの刃傷沙汰を目にしたことのない箱入りのほうが珍しがられるような国情であれば、天の星に天井を撃ちぬかれ命があるなら幸運が舞い込むと言われるような程度の話でもある。
だが、空をゆくものにとってひとつ常に覚悟しておくべき話題ではある。
月に振り回され地球に振り回された、チリというよりは砂利のような星屑はゆらゆらと幅を持って動いていて外から見れば青く煌く星に、白く或いは青く翠に揺らめく雲をかけているはずだが、この星を出入りしようとすればその雲は雪山の嵐のように旅人を襲うことになる。
そしてその星屑の雲の端は極偶になにもなくても空に落ちてくる。
現にステアの巨大な船体は砂浜で車を遊ばせた時のような細かな傷がなにもないはずの空の旅の何処かでついていることが多い。
ステアの倍では効かない早さで空を飛ぶということは砂浜の浅瀬で遊ばせるくらいの傷を年中覚悟する必要があり、誰かれ構わず打ちかけている鳥撃ち銃の弾幕に遊ぶということで、単にできる飛べることの証明にはあまり興味が無いマジンにとっては少し準備が必要な事柄でもあった。
退屈しのぎに庭先で飛んでみることは実のところ本当に容易い。
だがその退屈しのぎが誰かの目に触れれば、そしてその誰かが必死の何かを思いつけば事業を求め、その事業の必死さはそれだけで退屈を星の彼方に吹き飛ばすほどの大事業になる。
とりあえず今のところ空の旅はもうしばらく間はちょっと優雅なままにしておきたいというのがマジンの意向であった。
対向揚力を使った推進式の飛行機を作る気はマジンには今しばらくなかった。
ともあれ今しばらく空の旅は幾らかの例外を除きゲリエ卿の手の内にあった。
ショアトアがマリールの実家への空の旅に同行したのは、とくに意味があるわけではない。
ゴルデベルグ准将の従兵ということで兵長としての身分はあったものの、部隊配属ではなかったので装甲歩兵旅団に彼女の配置がなかったためでもあった。というのが、説明としては分かりやすいのだろうが、一旦ローゼンヘン館に戻ってきて、軍靴軍装を解いていては従兵勤めもないものだから、なんとなくというしかない。
そもそも彼女はまともな意味での徴兵基準を満たしておらず、一般部隊に転属したとして身体検査を受けた途端に身長が足りないことが発覚すれば傷病扱いで弾きだされかねず、それも気の毒と思った旅団幹部の計らいで従兵の配置のまま離隊することになり、准将の大元帥府参事拝命に併せ、大元帥府の生温い温情配置によって准将預かり従兵配置を申し付けられて旅団に帰ることはできなくなっていた。
自分は色々できることを実績として示していたと自認しているショアトアは色々唸ったり地団駄を踏んだりしていたわけだが、共和国軍はそんな程度で横車が押せるような組織ではなく、家に帰ってきたのになんだか上手く腰の落ち着けどころを見つけられないショアトアを眺めてゴルデベルグ准将がつまりはリザが年度明けまで気が変わらないなら軍学校の士官過程に教官配置でねじ込んでやると告げた事で落ち着いた。
ショアトアを特務少尉として任官配置して軍学校の教官室に突っ込むことくらいは、准将としての身分を得たリザには容易いことだったし、軍学校の教官職は実戦経験のある若い士官下士官を常に求めてもいた。
ショアトアの全く勝気な譲らなさは教官として衝突が多いのは間違いないが、当然に必要なところでもあって、軍組織の拡張方針を考えても自動車化部隊にいた実際を知るという人材が軍学校に配置されることは当面殆どないはずだったから、部隊長幕僚経験者でなくとも軍学校が喜んで教官の席を与えるだろうというリザの言葉は別段口からの出任せではなかった。
ゴルデベルグ准将には今後必要とされるだろう軍政上の技術的な改革の研究を指導してもらっては如何かというような意見も参事として大元帥府に席を置くことになったことで軍政本部や参謀本部からは出ていて、それは当然に今日明日というものでもなかったが、ある意味で当然と誰もが考えている共和国軍の改革の中での自然な成行きの一つと考えられてもいた。
他にもゴルデベルグ准将を名誉旅団長としてデカート駐留聯隊を預けては如何、というような政治的機運もあって、それはそれで一つであったが、ともかくもリザが共和国軍内で宙ぶらりんな扱いになったことで、ショアトアも全く宙ぶらりんの扱いになっていた。
二三年のうちに身長が伸びれば、旅団で下士官兵の配置を探してやろう、と現場士官が考えるくらいにはショアトアの働きは優れていたし、そうはあっても便利使いの配置に置くには言い訳が面倒くさすぎるほどに彼女の体格は細く小さかったので、ゴルデベルグ准将預かりというところは旅団主計幹部の総意でもあった。
それなら会社でも村でも屋敷でも色々やれることやるべきことは多いのだが、ショアトアの気分や周りの雰囲気には噛み合わなかった。
理不尽な命令以外で自分と周囲の折り合いを自ら見つけるには彼女は幼すぎた、というものが分かりやすい説明だろうか。
ショアトアとしてはいきなり戦争からはじき出された気分で困った挙句にリザにくっついて、アシュレイ家デゥラォッヘ族の地所に向う旅についたのは、戦争から帰ってくると他の姉妹たちが何やら忙しげにしていて突然仕事がなくなった形のショアトアは宙ぶらりんに仕事がなくなった気分だったからだった。
ローゼンヘン館は幾人かの傷病兵となった装甲歩兵旅団の将兵として従軍した者たちが一足先に帰ってきていて、相応に明るい雰囲気を作っていたのだが、ショアトアの今の気分にそぐう場所ではなかった。
ゴルデベルグ准将閣下は館に帰ってくるなりネコかヘビかというような状態でだらしなくしていたし、縄張りを示すように見せつけていた。
ローゼンヘン館の人々がきっちりと仕事の割当があるわけではなく、ライアとアミラが館の内々のことを切り盛りして、セントーラが会社のことを差配して、男たちは旦那に頼まれていることを始末する、という以外には特段に仕事の日課や進捗を気にする必要もないのだが、要するにそういう紐の抜けたような感じに若く生真面目なショアトアは耐えられなくなっていた。
戦争も下火になるだろう中で現役配置を辞する前に、味方を文字通り墓穴から掘り起こし眼前に迫り来る十万の帝国軍を阻止する指揮をとったことで気分良く満足したマリールは軍隊よりも会社のほうがきっと楽しいですよ、等とショアトアに忠告をしてもいた。
マリール自身は共和国軍の軍歴は楽しむだけ楽しんだし、もう結構、という気分でいたわけだが、彼女の思惑や気分はさておいて、連絡参謀として部隊配置は解かれたものの魔導士官としてのアシュレイ少佐は共和国軍内においては秘密兵器も同然の重要人物であることは否定出来ない。
公式には共和国軍の命令系統に魔導士官が正規の権限関与することはないとされていたが、かつてそういった宣言がなされる以前にはしばしばあったことだったし、中隊大隊という戦闘単位の危機において、兵科を問わず士官というものが存命健在というだけで権利としてではなく下士官兵より生きのびるための方便として指揮を求められる事は必然でもあった。
一方で魔導士官が正規の軍令経路から切り離される経緯になった理由は、魔導師の魔術が時に戦況を一転させる大威力の兵器であり、またそれをなした魔導師がおよそまともな指揮を取れる状態ではなくなるという文字通りの使い捨ての必殺兵器という面が知られているからでもある。
作戦戦況を優先した場合に配下部隊は統率を失い、配下統率を維持した場合作戦は破綻する、という二律背反を指揮官に背負わせる危険を嫌った、という理解が一般的である。
だがもちろん一般則には例外もある。
アシュレイ少佐の実績は戦場に在っての根源的な士官の資質のほとんどすべてを二度の大作戦で示していたから、軍令や各種規則といった建前がどうあれ、共和国軍が逓信院が彼女を黙って手放すわけはなかった。
魔導士官の消耗は使えば磨り減るという以上の把握は逓信院では出来ていなかったし、そういう中で大きな作戦を終えた連絡参謀は部隊の展開が終われば、部隊から切り離された形で長期の休養が与えられるのは当然とも考えられていた。それが贅沢とか怠慢と考えるには魔道士はあまりに貴重な重要兵器であった。
アシュレイ少佐は心身共に健康であることを当人も含め誰もが認めていたが、こと魔道の根源たる魔力の実存については当の本人さえも確実なことが言えないような性質のものであったから、客観とか主観とかそういう感覚さえも怪しいモノにふさわしく、前例に倣った規則で配置解除と休養が認められた。
マリールは戦争の終決を予感したことと部隊を指揮して赫々たる大戦果を非公式に上げたことで満足したまま待役手続きをとっていたが、実戦を経た魔導士官が消耗したときに見られる達成感満足感虚脱感や欝症状と看做され、逓信院では休養配置ということになった。
幾度かの逓信院との健康診断で三ヶ月ばかりのまとまった休みを手に入れたマリールが実家に赴くことを提案したのは特段に深い意味があったわけではないが、なんとなくの気分としてシャオトアの気分に合致していたから、シャオトアは奇妙に毅然とした態度でマリールの里帰りに同行することを主張した。
素直に学志館に押し込まれていれば今頃ロゼッタを助けてやれたものを等とマジンは思わないでもないわけだが、反対する材料というわけではなく、ともかくぼんやりと手の空いてしまったショアトアはリザにくっついて空の旅に同行することになった。
浮力に余裕のある飛行船の旅は天候風向が荒れなければ、面倒なところは特段にない。
上がって定針して風に合わせて目的地上空に至り止まって下りる、というだけのステアの旅は一旦飛んでしまえば、操縦は湖面に浮かぶ船よりも容易なくらいだ。そして下りる先に水面があれば巨大な船としてしれっと水面に浮かんで見せればそれでよかった。
荷物をやり取りすることを考えなければ、全く面倒なことはないし、人の乗り降りくらいのことであれば、動力付きの艀と自動車を使いやすい位置にしまっておくくらいの図体の大きさに余裕があったから、本当に面倒の少ない乗り物だった。
もちろん補給とか整備とかを考え始めるととたんに面倒くさくなるわけだが、旅行の足としてはそれほどに面倒くさい作りはしていないし、雨ざらしでひとつきぐらい放っておいても腐るような種類のシロモノでもない。
ただひたすら巨大な作りとその巨体に比して荷の余裕が小さい、というところが面倒くさいだけで、かつてトンネルカッターを始めミョルナの山岳工事に使えるくらいには能力としても実証できていた。
強いてあげれば悪天候での着陸が面倒くさいということだった。
デゥラォッヘの庄は時ならぬ山の嵐に見舞われていた。
空の上であれば風まかせに流されても風の流れの落ち着いた高さに留まって回復を待って降りれば良いだけのことで、ぼんやりとどうするかと考えていたが、流石に山の上まで入り込むと嵐の余波が空の上まで巻き起こっていた。
一日一晩待てば大方の嵐は去るものでよろめかせて無理やりおろしても、荒れた湖面で流されるのは面倒くさかったので、空の上で嵐が去るのを待つか、という話をしているとマリールが何やらやっていた。
「嵐を追い払ってくれるそうです。その、妙なものが飛んできたので警戒して、雲を寄せただけのつもりが嵐になっていたようです」
「魔法の雲ってことか」
「魔法で寄せたってことだと思いますが、私がやったことじゃないんで、説明は下で聞いたほうがいいと思います」
「そんなこと出来るの。あなたの邦の人は」
呆れたようにリザが言うのにマリールがすまし顔のまま首を傾げる。
「知らないですけど、そういうことみたいですね。私がやってるわけじゃないんでわかりません。他所の人のやってる魔法なんてわかりませんよ」
空で待つ間にひとしきり雨を降らせたらしい雲は小一時間でみるみる消えていった。
空の上ではそれほどに大きいというわけではないステアも山間に入り込むと次第にその大きさが意識されるようになる。
眼下に見えるようになってきた湖も別段ステアより小さいというわけではないのだが、下ろすとなるとどこの岸でも寄せられるというわけではなく迂闊におろしにくい水深の浅いところが多そうだった。
結局あまり往来に都合の宜しくない湖の真ん中にステアをみせびらかすようにして下ろすことになった。
ステアの白く焼き付けた艶のある真珠のようにやや赤や紫の光を還す船体は、山間の湖の午後の光のなかではひときわ大きく見える。
ステアの空の旅は操船はひどく容易なものなのだが、旅そのものは一度ならずマジンは内心諦めかけていた。
それはステアの性能によるものではない。
一言で言えば共和国の野蛮。
もっと言えばマリールの土地勘の不足と自覚のなさのせいである。
自動車よりも早いとはいっても七百リーグ近い空路をあっちへふらふらこっちへふらふらと地図もなくただマリールの怪しげな勘に頼って、ステアの電探がその場で作る地上の地図の状況を眺めながら目的地を探すのでは日をまたぐだけでは足りず、更に日が昇って下り始め午後になっていた。
兵隊ぐらしや旅ぐらしをしていれば、道先案内人がついウッカリ二日三日迷子になるのはよくあることで、もちろん様々揉める原因になるのだが本当によくあることでもあった。
ついこの間まで兵隊だった女三人は全く気にしていない様子であったが、そういう愚かしさに文明の光をさす立場のマジンとしては釈然としない気分を感じてもいた。
地図として世界を見る機会のない者達に自分たちの位置を或いは行方を他人に知らせることは全く難しいことである、というだけのことで、帝国軍と共和国軍では地図の描き方が異なっていたり、というマジンの感性の中では共和国が良くもこんな地図で広大な国土の中で間に合うように軍事行動が出来ると思うような有様であるわけだが、実際に間に合ったり間に合わなかったりということを繰り返していた。
マリールの家に行く、マリールが家への道案内をするという自信満々の様子を見たときにはあまりなにも疑っていなかったのだが、空から帰るなどということを考えているはずもなく、巨大なステアを地上から眺めれば軍隊の噂の目玉の映るスープの中の肉の粒のような有様だったから、彼女が普段歩く光景を思い出して案内をしようとしてもそれは無理だった。
昼間じゃないと流石に道がわからないというマリールに、朝食を終えてからステアを空に浮かばせ、空の上で昼の食事がすんだ頃にはギゼンヌの上空にいたのだが、電探によって作られてゆく地上の地図をマリールに見せてもまるで要領を得ないままだった。
どこそこの集落がとか小川がとか滝がとかマリールは云うわけだが、上空から眺めていると実はいくつかのそれらしい地形がそれらしい順番に繋ぐことが出来て、また悪いことにマリールの一族の住んでいる山間の複雑さは彼らを圧倒的な軍勢から守っていたように迷宮のような有様であったから、たとえ一族の者でも普段と違う手順でたどり着けるとは限らなかった。
こうあっては仕方がない考え方を変えよう、マリールの家のそばにある湖とやらを探そう、とシャオトアが言い出し、上空から見つけた四つ五つのそれらしい大きさの湖をめぐってみてマリールの家らしいものがあるかないかを探すという方法に切り替えた。
驚くべきことに、というか山間で水源があってそれなりに開けていれば定住している者達は多いということで、ウロウロしている幾つもの湖にはそれらしい大きさの家屋敷が幾つもあってマリールのいう城塞のようなものも当然に幾つもあった。
それらしい湖水の上であがって下がってを繰り返し、マリールは結局一晩かかって諦めて、母親に魔法で手を引いてもらって自宅の位置を発見するのだが、全く全然とんでもない位置だった。
そういう空の旅の挙句に魔法の嵐に出くわして女達の云ったことには、空の旅も存外面倒がかかるものですね、というものだったのでマジンとしては憤りをどこに持ってゆけばよいのか困るところだった。
言い出したのが帝国出身で相当に理知的な少女であるシャオトアだったのでてっきり共和国の国土の地図の未整理に驚いたということだと思っていたら、空の上だから邪魔するものはなにもないかと思っていたら山間だと揺れるし嵐だとおりられないし自由自在というわけではないんですね、ということで、空の旅が二日かかったことについては、食事も寝床も便所まで整っててびっくりしました~、という喜びの声で時間についてはあまり気にしていない様子だった。
往って還れば一日ということは飛行船の旅でもまずなく、今回の旅のように乗客が僅かに七名などということも普通はありえなかったから、水食料や寝床などの手間も余裕があったし、幾度かの改装で随分と抑えられるようになっているとはいえ安いものでもないステアの運行経費はあまりおいそれと動かすような種類の金額でも手間でもなかった。
「それはアレですね。私の里帰りはやはり特別ってことですねっ」
等とマリールは目を輝かせたわけだが、彼女の里帰りはともかくリザの蘇りの一件は早めに専門家と目せる人々の意見を聞いておくべきであろうということだった。
マリールの実家はなるほど城塞だった。
尖塔があって胸壁のついた城壁があって、ローゼンヘン館にも塔と胸壁はついているがああいう実用と飾りの中間のこじんまりとした砦風の建物ではなく、湖からの流れ口を塞ぐような堰堤のような位置にまさに堰堤とその両岸を繋ぐような位置に張り出した郭があり流れの上と下を睨む位置に物見の尖塔がありその間を胸壁が繋ぎ、湖の岸とその上に城塞がつながっていた。
第四堰堤とその浄水設備を武張った形に置き換えればこうなるのかというような配置で、共和国でもたまにある水利を抑えた特権階級のおすまいという風情であった。
クライに手伝わせて端艇を下ろしていると岸から二杯の舟がこちらを目指していた。
一杯は明らかに優雅なゴンドラで明るい黄色と草色の帆が目立つ帆船で、もう一杯は三十ばかりの櫓が突き出し鋤のような衝角が突き出し甲板の上に薄金張りの櫓が低く組まれた砲門らしきものも見える軍船だった。着水してしまうと操船甲板は展望甲板と同じく水中に潜ってしまう作りのステアは乗降経路のレイアウトが飛行場と水面とで随分と異なり、セメエとコワエにはあちこちの水密状況を確認させていた。
クライは力仕事はともかく書類仕事よりはこういう身体を動かす作業のほうが好きらしく、しばしば工場とか現場仕事がやりたいというようなことを口にしていた。
いつも不機嫌そうなコワエは別段不機嫌というわけでなく表情に気を使うのが面倒くさい種類の無愛想な美人さんであるらしいことがようやく最近つかめていて、よく見れば不機嫌そうな顔も大中小というか喜怒哀楽と思しきものもあり、彼女もお愛想のようなことをやるのだが、それが却って怒っているのか脅しているのかというようなチグハグな感じが可愛らしい風情になってきた。
そういう意味ではセメエは全く普通に淡々と秘書業をこなす育ちの良さがあった。
肩で息をしながら荷物を無理やり抱えたシャオトアに遅れてセメエが要領よく台車に荷物を載せて現れたのが印象的で、昇降機があるだろうというにという言葉はなかなかいい出しにくかった。
ともかく、ステアの戸締まりをして端艇を岸に向けると途中で軍船の舳先から呼び止められた。
「空からお越しの其許方はどちらに出向かれるどなたのご一行か」
軍船の櫓からの呼ばわりにマリールがズイと舳先に身を乗り出した。
「ライデール。まずはあなたの名前と御役目を口上なさいな。お行儀悪いわよ」
十何年かぶりの声だろうに覚えがあるのか、マリールが名指しで応じた。
「おや、これは本当に姫様ののりものでしたか。奥方様から聞いてはおりましたが、肝を冷やしましたぞ」
如何にも水軍の将という身軽さで櫓を滑るように駆け下りた人物は嬉しそうな大声のままに答えた。
バタバタと軍船の旗竿が上げ下ろしされると、遠巻きにしていた帆船が帆を上げて近づいてきた。
甲板に立っていた貴婦人は軍船とこちらの端艇の間に帆船が滑りこむと、舟が寄るのも待たずに宙を駆けた。
それは宙を舞う、という演劇や舞踊の達人の跳躍の優雅な動きというよりは、どちらかといえば、運動競技で鍛えた選手が見せたり、或いは障害競技で馬が見せたり、という一種途方もない種類の躍動で、端艇には違いないがそれなりに優雅な作りの帆船がグワリと帆柱を傾け揺らめかせるほどの蹴り足と距離を感じるにもかかわらず高さのわかる跳躍は、軍馬の力を人が発したという以外に表現することが難しい、ああなるほどマリールのご母堂様であるらしいというものだった。そして目測を誤ったらしいだいぶ高い位置を通過する母の手をマリールは自身も軽く飛んで受け止めた。
「ありがとう。孫の顔が見たくて跳んできちゃった。アーシュラちゃんはどこ。あの娘、じゃないわよね」
マリールを多少色濃くしたような、年齢という意味では動きも声も全く想像を許さないマリールの母は端艇の中を軽く見回してショアトアを見つけて尋ねた。
「今日は連れて来ていませんよ。アーシュラは学校があります。学業優秀であることを飛び級をして証明したいそうですから」
少し呆れたようにマリールが言った。
「あらあら、頑張っているのね」
少し残念そうな響きでマリールの母は言った。
「お母様もお元気そうで安心いたしました。ですが湖はまだ少し冷たいですよ。落ちてお風邪を召されないように舟遊びは謹んでいただきたく思います」
「なぁにいってるのよ。この娘は落ちたら乾かせばいいだけじゃないの」
あっはっは、と大口を開けて笑う壮年の貴婦人を困った顔と驚いた顔が出迎えていることを気が付かないままにマリールの母は笑った。
少し待つと帆船が主に追いつき船縁を寄せた。
「奥方様、ご無事ですか」
衛兵と思しきいささか時代がかった装束の女戦士が帆船から声を駆けた。
「娘の舟でご無事もないわよ。やぁね、マリール。ウチの兵隊、空からなんか攻めてきたって大騒ぎしてんのよ。あなたの乗ってきた乗り物、四六時中なんか投げてるでしょ。アレが攻撃だって騒いでる連中がいるのよね。神経質にもホドがあるわ。あの程度で攻撃だってなら太陽なんか見られないじゃないのよね。今朝方あなたが迷子になったって泣きついてきた時ピンときましたよ。あなたが空から帰ってくることにしたのはいいけど、うちが見つからなくてウロウロしているんだってね。昨日のうちに二三度ウチの上も通ったでしょ。バカね。この娘は」
そう言うと婦人はマリールを抱きしめた。
「奥方様、よろしければお戻りください。マリール様もご一緒に」
「なぁに言ってるのよ。久しぶりに娘が帰ってきたのよ。しかも旦那様連れて。私もこちらの婿殿の舟で帰ります。いいでしょ。そんな顔しないでも。なんでライデールがついてきていると思ってるのよ」
マリールの母マージュは帆も漕ぎ手もない舟を興味深く覗き周り、家の舟を振り切るように命じた。
衛兵と軍船がいる中でそこまで煽ることはしたくなかったマジンは多少の優速を見せて船足があることまで示しただけで、振り切るような全力は見せなかった。手札がどうこうというよりも、逗留することになるだろうご家中を煽るような真似はあまりしたくなかった。
空から押しかけておいてなにを今更という気分もあるのだろうが、用のないところでは温厚なマジンとしては騒ぎや注目がほしいわけではなかった。
求めれば湖面を駆けてみせそうなマリールの母上には退屈かもしれないが、多少ちぐはぐであっても来客の礼儀というものもある。
マリールの家は湖から川の口を塞ぐ川城としての性質とその河原を見下ろす山城としてのふたつを備えた巨城だった。水利としての水門を連ね三リーグあまりの土地をその直接の地所として周辺三十リーグほどの山襞を含む土地を地領としていた。大雑把にデカートまるごと一つ分程を自分の地領としているということだ。
千幾らかの兵隊と云うよりは山窩の戦士を束ねるマリールの父親ヴェルモンアシュレイは逆巻く炎のような黒く強いくせ毛とそれを支えるような角が目立つ厚みのある体格の人物だった。
どうも親子の対面というよりは領主と伝令の謁見というような風情の、寒々しくもないほどの広さではあるが、長竿を持った槍兵の間合いに実の都合のよさ気な、軽業やヤットウの道場のような作りは、敵意や武装の有無にかかわらず緊張を要求する。
謁見の間にいる兵がマリールの母上のような身体能力を持った者達であれば、実際にマリール自身が例外でないことを示しているわけで、緊張せざるをえない。
「父上、マリール帰参いたしました」
「十年ぶりか。久しぶりだな。戦死したと聞いていたぞ」
聞いていた、というより婚約者とともに確かめに来たという話を聞いていたマジンとしては実に殺伐とした雰囲気のやりとりに思えた。
「父上にはお変わりないようで安心いたしました」
「娘らしかったおまえは老けたな」
「娘が生意気を言い出す年頃になり出しましたから」
そうマリールが言ったところでチラリと椅子の上で身動ぎしない目がマジンを一瞬とらえた。
「どこぞの私生児を産んだか」
「私生児などと、どこぞの田舎のヤギだか牛だかのアイノコの子供であるまいことはわかっております。子の質は祖父母に似るなどというそうですが、私は父上の種ではないらしいと安心しました」
マリールの父親はそれを聞くと手の中で弄んでいた閉じたままの扇子を投げつけた。
膝まづいていたマジンが立ち上げる勢いのまま、襟首をつまみ上げてマリールを宙に舞わせるとマリールの足が跳んできた扇を蹴った。
「こちらの親子喧嘩もマリールの無礼も知ったことではないが、ボクの娘をバカにするのはつきあっていられない。アーシュラの種も血も知ったことではないが、あれはボクの娘だ。礼儀と思い付き合っていたが聞くに堪えん。お家の喧嘩の桟敷に興味はない。失礼する。……マリール。お前はきちんと話して決着をつけてこい」
云うだけ言ってマジンは背を向け出口に向かった。
退出の合図がなく閂を外さない衛兵を見やるが、特段に合図のないままでは衛兵は無礼討どころか身じろぎもしない。
マジンは溜息と同時に段平を抜き打って扉の内外の閂を戸口ごと断ち斬った。
蛤様の刃先から身の中ほどまでを肩の厚み分だけねじ込んで向こう側にあったカンヌキ替わりの鉄の塊を探るように断ち割ると鈍い音が扉の向こうで響き、中の様子を知らぬ戸口の向こうの衛兵こそが驚いた顔をして戸口から飛び退いていた。
どんな顔をしていいのか困った様子の執事たちがリザとともについてくるのを確認して、マジンはすっかり山の日が落ちた船着場まで出てきてしまった。
「この後どうされるか、考えていらっしゃいますか」
ショアトアが伺うような確かめるような顔でマジンの背中に声をかけた。
「そんなの考えているわけないじゃない。考えがあったらこの人こんなところでぼんやり湖眺めたりしないわよ」
リザが笑うような声でショアトアに答えた。
「それじゃぁ」
「親子喧嘩に桟敷席で付き合うのはバカバカしすぎるだろう。それもあんな堅い冷たいところで膝ついたままじゃ、流石に面白くもない」
ショアトアの咎めるような声にマジンが膨れるように言った。
「それは、まぁ、そうです」
敷地の中にいれば、城内だろうと外だろうとこういう城であれば関係ないわけだが、家出の子供の気分というしかない。
来訪の挨拶やら土産の品やらの口上もなしに腹が立ったの一言で扉を打ち破って出てきてしまったマジンの行為はよく云っても考えなしの子供の所作であった。
「寒くなるまでここにいて、冷えたらステアに帰ればいいさ。どの道この城の連中には僕達の居場所はわかっているだろう。マリールの父上の沙汰が定まれば呼びに来るさ。マリールがどんな折檻を受けるか知らんが命までは取られないだろう」
マジンの言葉はそれなりに説得力もあったが、クライのお腹が鳴った。彼女はステアの操船の都合で他の者達と食事と休憩のタイミングがずれていた。
「端艇にもビスケットやチーズとソーセージのいくらかもあるはずだったな。食事にしよう」
「こんな大きなお城だから、きっと料理も面白く珍しいものだと思って楽しみにしていたんだけどなぁ。短気のせいでご相伴に預かり残ったわね」
リザがなぶるようにマジンの首に腕をかけて言った。
「ああいう口上がこの土地の流儀だとしてつきあっていられるか」
「まぁそれはないわね。よそ者としては」
「あれ、ボクに決闘させるつもりだったとして全然驚かない展開だったよ。さっさと逃げて来ちゃったけどさ」
「ああ。なんかピリピリしていると思ったらそういうことだったの。アレ」
リザが奇妙に納得したように言った。
「だって、おかしいだろ、扉の内側と外側に閂なんて。アレは、どういう理由でも無礼討ちするつもりだとしか思えない。おもしろトンチ大会のような和やかな演芸の空気というよりは取り込めて殺してしまえって雰囲気だったぞ」
「こちらは何かでおいでになったことがあるのでしょうか」
マジンの言葉に首をひねるようにショアトアが尋ねた。
「あったら、あんなに空の上をウロウロするわけないだろ」
「そしたら、なにかアナタに恨みでもあったのかしらね。それともアレかしら。異種族に一族の頭領の娘を寝取られた親の悲しみが苦しみがわかるのかって舞台とかで偶にある、悲恋ものの定番の流れ。今までピンときてなかったけど、アレでやっぱりマリールってお姫様だったみたいじゃない。あそこの段に並んでいたのがお兄さまたちと弟君たちなんでしょ」
気楽そうにいうリザの言葉に流石にマジンは嫌な顔をする。
「十年も家の外に放っておいた娘に虫がついたとして今更それはないだろう」
「ああ。自分が悪い虫だって印象はあるんだ」
端艇にのりこみながらリザは相変わらず気楽そうに酷いことを云う。
客人が呑気に自分の船に乗り込むのを船着を預かっているらしい老人が鷹揚に手を降っていた。
「十年も前にオマエの無茶に付きあわせて娘が半分死んだようになったのを諦めてたんだろ。悪い虫ってのはボクのことよりはむしろお前のことだと思うね」
「それで、陣地にいた半分をカッコよく助けたんだから良いじゃないのよ。この間も半かけの聯隊で十万だかもっとだかの帝国軍の兵隊と渡り合ったのよ。あの娘、あれはアレでもうちょっと軍でも威張って宜しい将星の端くれだったのよ。まぁ軍の魔導師なんてぽっくり逝くのが商売だから、将軍様みたいな組織の柱梁には全然向かないわけで、まかり間違っても将軍に据えたら魔導師なんかやらせられないわけだけどさ。因果なものよね」
「恨まれてるとして、ボクに話があるとも思えんがね」
クライが舟の非常食セットを開いてラードを黒パンに塗りつけ始めた。
「さっきの話はマリール嬢ちゃんの話かね。なかなかの将星だとかってのは。共和国軍に入ってたってのは聞いているが、そんな大したものなのかね」
船着場の老人が桟橋に現れて尋ねた。
「騒がしたかな。申し訳ない」
「イヤイヤ。客人が少ない土地だからね。面白い話を聞けるならと思ってこちらがおじゃましているわけだがね。で、どうなんだね。マリール嬢ちゃんは」
老人は舟の中での夕餉に興味が有るように覗きこんで尋ねた。
「まぁ、魔導師なんかやっててあの娘あんな性格だから、昇進とは縁がないけどなかなか大したものよ」
「性格がダメかね」
「ダメってか、辺りを説得するのが向いていないのよね。自分のわかってることをわからないお前らが悪い、みたいな。まぁ一旦将軍になっちゃえばそれはそれでアリかもだけど、山登るには向いていない性格よね。お姫様気分が抜けないっていうか」
フム。と老人が鼻を鳴らした。
「子供産んだと聞いていたが、性格は変わらじか」
「子供産んだくらいで性格が変わるようじゃ、女も本性まだまだってことですわよね」
カラカラとリザが笑うのを老人もまた大口を開けて笑った。
「アヌシもなかなかのもののよな。で、十年前の大勝利ってのはどんなんじゃね。共和国軍の大苦戦をアヤツが支えたってところまではわりとアチコチから漏れてきているんじゃが、どうもなにがあったのかちゃんとわかっているものがおらんでな」
老人は興味津々で船縁に乗り込んできた。
「どうっていうか、士官偵察を繰り返して、帝国軍の最前線の情報を伝え続けて帝国の尖兵を叩き続けただけなのよね。帝国軍の土石流攻撃とその後の奇襲で軍団本部もなくなっちゃたし、なし崩しに偵察側に指揮権があるみたいな感じになっちゃって、誰も統制できないまま、私とふたりで直に中隊に前哨情報を与えて三日で千リーグ近く走り回って帝国軍の前線をなぞるようにして帝国の尖兵を叩き続けたっ感じかしらね。気分的にはいろんな太鼓を千くらい並べて私とマリールが演奏してみた感じ。気が付いたら途中でマリール倒れてたけど、帝国軍が共和国軍の撤退に追いつけなくなって、負けずに済みました。ッて感じで宜しいかしら。細かい話は幾らでもできるんだけど私が口にすると軍機に踏み込んじゃうことが多いのよね。……こういう茶飲み話のときに困るのよね。軍機ってさ。あたし将官になったから、変なこと云うと信用問題にも繋がるし。出し惜しみしているとか云われたりさ」
「フムん。するとオヌシがリザゴルデベルグ准将か。昨今死んだの生きたので大騒ぎになっていた」
老人は心当たりがあった様子でリザの名前を口にした。
「おじいさん詳しいのね。准将になったのも生きた死んだの騒ぎもふたつきみつきぐらいこの冬の出来事よ」
「帝国との戦争の帰趨はこの辺じゃ、よその話題の中心だけな。城塞が吹っ飛んだ騒ぎも知っとる。南の城塞は渓谷が入り組んでて被害が小さかったやが、エランゼン渓谷側の城塞の方は年に百万も人が通れるような立派な道だったのが災いしてまるごめふっとんだぬだに」
「おじいさん本当に早耳ね。年の頭の出来事よ、それ。軍の詳報もまだ回ってない話題だわ」
「そっちは見ん行ったウチの若いのがおる。まぁみんごと雪崩をうまいこと使こてまるごめならしてみせたちうこって、ちょっきりおどろいてたが、あの白いのが空から来たちうんであんだきのもんがその気になんば、雪崩を狙ってやるのはやるにしくなかろうと納得いった。共和国軍はあれを何杯もっとうか」
老人はステアを鼻先に示し尋ねた。
「アレはこの人の持ち物よ。ウチの旦那様。ココらへんは一夫多妻でも気にしないみたいだから、マリールを三号さんに収めてやろうと思ったんだけど、なんかお父上のピリピリした感じ見てると当て外れかしらね」
「オマエ、まだそんなこと考えてたのか」
「考えてたっていうか、事実としてアーシュラがもういるんだから、事後報告よ。姑と仲良く出来るかどうかはまた別だけど、アーシュラにも次産みたいって子供にも罪はないでしょ」
リザの言葉に老人の目がマジンに向く。
「すうとアヌシがゲリエ卿か。ローゼンヘン工業の社主の」
「本当にご老人は世間に通じた方のようだ。よろしくお見知り置きを願います。こちらはウチの家人たちです」
「ああ。綺麗どころばかりで、噂に違わぬ好色ぶりだ。頼もしい」
そう云って老人は笑った。
「まぁ、城塞の方は私はお話できるようなことはなにも知りませんわ。最近のマリールの大活躍ってのも、実は細かいところは私、土に埋まって助けられた側なのでちゃんと知らないんですけど、何やら大掛かりな魔法を使って一人で司令部のようなことをやってみせたみたいですね。兵隊の目を百だかもっと繋いで互いに見えないはずの敵を見せてやるような」
「どういうことさ」
わかるようなわからないようなリザの言葉にマジンが尋ねた。
「そういうのは本人に聞きなさいよ。兵隊の幾人かの目で見えている風景をたくさん繋いで戦場の風景を地図みたいにして鳥瞰させたってことみたい。味方の位置をそういう風に使って共和国軍は部隊行動を円滑におこなわせているんだけど、マリールは視覚をそういう風に繋いで戦場全体の動きを現場に把握させてみせたってことみたいよ。まぁそうしてみせても、これまでは打手がなくて敵に届かないわけだけど、今回は配下に一リーグも遠矢を放てる魔弾の射手が大隊単位でいたからさ、敵を見つけて突っかかっているところに側面からやりたい放題で食い荒らしてみせたってことみたいね。まぁなにをどうやったって話は逓信院が独占しているんでしょうけど、どのみち魔法のことなんて本人以外はわかるわけないわ」
「そんで半欠けの聯隊で十万の帝国軍をってことかね」
老人が興味のあったうわさ話をリザに確かめた。
「推計で二十万くらいいた帝国軍を、一万に足りない兵隊のうち半分が土砂に埋もれた状態の友軍を掘り起こしながらの三日間の戦闘で弾薬がほとんど切れた三日目の戦闘と往来を仕切っていたのが、マリールってことのようですわね」
「戦死が五名ってのは本当かね」
老人が全くどこで仕入れたのかリザに尋ねる。
「帝国の土石流による大掛かりな作戦があったことを考えれば、彼らの死は全く気の毒な必然でしたわ。帝国軍がもう少し頑健に抵抗していれば土石流で我々を殲滅できていたかもしれませんが、それは我軍の早さが帝国軍の判断に勝ったと誇っておきます」
老人は特段に軍記物のような語りを聞きたかったわけではないようで、大雑把なと言うにも断片的なリザの言葉にうなずいた。
「戦車っちうものは一リーグも狙ったところに弾が飛ぶのかね」
「なにこの爺さん。本当に共和国の最新事情に詳しいのね」
流石にリザは鼻しらんだ。
「そらまぁ、土地のもんなら東部戦線で起きてる新しい動きは大方追っちょるよ。なんせ、割と死活に関わる話だ。この後リザール界隈で星が稼げないとなれば、帝国の暇な連中がウチラの山に手を出さない理由はない。鉄道ちうものをこちらの会社がゴリゴリ伸ばしているのも知っとるよ。何百リーグも遠くから何百グレノルもの荷物をその日のうちに運ぶもんだとか。共和国軍が荷物の量を舐めてかかって、着いた荷物を何度もそのまま腐らせる騒ぎになったとか、帝国軍がその荷の山に目をつけて火付けをして飛んで回ってたとか。里のもんでも鉄道が欲しいっちうもんと、んなもん迷惑じゃちうもんで、グダグダ言い争っとるが、商売がらみの話に土地のもんの欲得だけで話が進むわけもないにな」
老人は笑うようにいった。
共和国の往来事情からステアから離れて三日四日移動することくらいは考えていたから、食べ物は日持ちをするものであったが、非常食という種類のものではない。
一行はマリールの父君の沙汰が出るまで待つ間に、そう云うジャムだかバターだかの甘い脂の塊のようなもので簡素な食事を始めていた。
端艇の中には台所と呼べるものはないわけだが、兵隊や商隊が使うような固形燃料を詰めた小さなコンロや浄水を保証した使い捨ての水筒は積んでいて、湯を沸かしてお茶の準備くらいは出来る。雪解けもあらかたすんだ春先の湖水の上はマリールが自慢したとおり、あちこちで花が咲き綻んでかすかな人の明かりと月と星の光でほのかに白く輝いて見える。
湖水を渡る風は昼の暖かさと雪解けの冷たさとをないまぜにした、すがしいというよりは人を油断させる寒さを持っていて、ときにゾクリと震えるわけだが、それでも冬の厳しい油断を許さない寒風とは全く質が異なっている。
一行は歓待を受ける前、旅装を解く前の謁見であったことで寒さに震えるようなこともない。
ビスケットの上にハードチーズとドライソーセージをバターで抑えただけの簡素な食事とヤカンに直に茶葉をぶち込んだ乱暴なお茶でもまぁ良いかというくらいには寒くない。
「それで爺さんとしては鉄道は来たほうが良いのか悪いのか」
「どっちでも宜しいが、アチコチの往来は鉄道があったほうがそりゃ楽になるんじゃろうな」
「まぁそれはそうだ」
「じゃぁワシ個人としてはあったほうが都合がよろしい。じゃが、鉄道を敷くちう事になれば、どうあっても共和国がこの土地に入るのは避けられん。危うく成り立ってるこの地が共和国に太く繋がるのはそして、ここが端っことして繋がるちうことは、土地の腸を抜かれるのも同然じゃ。往来ちうのは往くのと来るのが同じ数で初めて成り立つ。端っこの土地っちうのは、どうあっても往来を支える事はできん。太って腐れるか痩せて枯れるかだ。そういうわけで、鉄道の話はウチの土地ではどうあっても荒れる」
「共存このままってのはないのかね」
老人の思いの外、理知的な究極を突き詰めた言葉にマジンは問いかけた。
「なくはない。だが、そのためには努力がいるし、努力を無駄だという者も多かろう。そういう他人の努力を笑う連中を愚かと笑うことが出来ない以上、いずれ鉄道ももろともに滅ぶ。それは道というものの性質じゃよ。お若いの。必要とわかっていてなお利他を利己と結びつける努力がなくては道は支えられん。倫理法理の哲学に永遠の価値を謳いながらそこに背を向けんのを止められんのと同じっちゃ。すべての知性すべての努力は無為無駄を重ねた結果ようやく意味を成す全く糞神のよな存在よ。それでも尚、ちうなら生きてん間だけよろしう使えれば全く便利で宜しかろう。その場にある者がその場の良いように考え、好きに生きれぁそんでいいっちゃ。どの道、力あるものが本気でなすこつぁどこん誰にも妨げられぬ。修羅の巷よ。腐れ滅ぶ芽があるものはいずれ腐れ滅ぶだけっち」
「とても文明とは思えんな」
嫌そうにいったマジンの言葉を老人は笑った。
「文明なぞ誇る者こそ愚か者よ。文明なぞゴミとクソを山と積んで誇った者達の過去の栄華にすぎん。倫理法理などと理の上で永遠を悟ってみても結局文明自らがそいら踏みにじっちょる。魔法なるもんがあって尚ヒトは過去に背を向ける。そもそも事の始まりを理解しちょる者がおらん。世俗を学ぶつもりでその魔族のご婦人が軍に加わりアヌシの婦人に収まったちうなら、人の世はさして変わっておらん。星なりどこなりと帰るが良いさ」
老人は皮肉に饒舌に言った。
「彼女を魔族だと」
「まぁ生き物でもなく、カラクリでもなく、しゃべり考えるものは大方魔族だ。まさか共和国軍に魔族がシレッと参加しているとは知らなかったが、そういうことであればこの十年で様々が一転した理由もわかる。言葉をしゃべる魔族の大方は多くの知恵を蓄えていることも多い。そういうこともあるだろう」
マジンとリザは顔を見合わせた。
「やっぱり、私魔族らしいわね」
改めて他人に指摘されたことで、リザは何やらおかしくなったらしい。ニヤニヤと鼻で笑いだした。
「――魔族って結局何なの」
リザは自分よりは詳しいらしい老人にヤカンのお茶のおかわりを継ぎながら尋ねた。
「詳しくは知らん。伝承によれば過去の文明の永遠を望んで作られた者、過去人ということであるようで、魔法魔力の起源根源とも関係があるようだが本当のところは知らない。オヌシのように自分の存在について実感や理解のない魔族も多い。多くは自分の使う魔術魔法についてさえ理解がない。……オヌシいつこの男に拾われた」
老人は興味の対象をリザに向けて尋ねた。
「拾われたって。物じゃあるまいし。ああ、まぁ魔族がヒトじゃないからモノだって理屈なら物には違いないですけどね」
「ご老人は魔族には詳しいのか」
多少気分を害したらしいリザが立ち直るまでのつもりでマジンが尋ねた。
「魔族に詳しいなんモンはまぁ詐欺師かなんぞと思ったが良いぞ、と言うのはさておき多少は知っちょることもある。この庄にも魔族はある。まぁこちらのご婦人のように自分で立ち歩くことは好まない様子だが、戦の折には動いたりというもある」
「武具ということか」
マジンが尋ねたのに老人が頷いた。
「察しが良いな」
「マリールから聞いた」
老人が頷いて鼻を鳴らした。
「まぁそういうわけで魔族だからどうということは別段ワシも騒ぎ立てる必要を感じない。が、その質には重々気をつける必要がある。特にさっきの話の流れを考えるならな」
「過去の文明の話か、それとも道の話か、それとも努力を笑う連中の話か、この里が鉄道で腸抜かれるだろうって話か」
マジンが一気に尋ねたのを老人が少し驚きニヤニヤと笑った。
「マリール嬢ちゃんの婿殿はなかなか大した者よな。まぁ全部だ。魔族とはそういう人の無力を嘆いた者たちが生み出した文明の残滓だ」
「なに、結局失敗ってこと」
リザがバカにしたように言った。
「まぁそう聞いている。というか、そもそも魔族を生み出した文明が持っていた矛盾が魔族を残して破綻したいうことのようが、具体的にはよくわからん。強いて想像を云えば、文明の住民の全員のやりたいことをやれるようにした結果、文明を維持することを放棄したということじゃなかろうかと考えている」
老人はリザの様子に頷いていった。
「死にたくないから戦争は嫌だって兵隊が逃げ出して国が負ける、みたいな感じかしら」
「そこまで単純な話じゃなかろうが、煮詰めてしまえばそういう面もあるだろうな。わしの理解の及ぶところでは魔族は文明ひとつを内包している。結果として、他の文明を必要としなくなったということのようだが、別種の文明が隣り合って存在していることなぞそれほどに珍しいというわけでもない。わしらも共和国と同盟しておる。そういうわけでわしも矛盾なく説明できるほどにわかっているわけではない」
「魔族はわりと一緒くたに存在していることが多い気がするな。別種の文明ってほど差があるようにも思えない。まぁ見かけややれることは違う様子だが」
マジンがぼんやりとした感想を口にした。
「フム。魔族の巣も見たことがあるのか」
「そうでなければ彼女は作れなかった。……作ったという自覚があるわけでもないんだが」
「なんと。オヌシが彼女を作ったのか」
流石にそこまで言ってしまうと女達の目が痛い。
特に三人は義眼を入れていた。三人とも失った目で世界が見えることに疑問を感じなかったわけではないが、それが魔法によるものというのはさておき魔族によるものだと言われてしまうと帝国の騎士としてはいささか心が波打つ。
「魔族とはそもそも人を害するものなのか」
「いや。別段。実のところおおかた人に害をなすような魔族は十万年も前に互いに討ち果たし合って滅んだ。帝国はまぁ要するにその頃に起こった国だ。言い伝えが本当なら百万年も魔族同士が争っていた挙句に共倒れをした頃、わずかに残っていた人々が起こした国だが、どうやって百万年もの間、人々が生き延びていたのかは伝わっておらんし、本当に百万年も魔族が争っていたかもわからん。だがまぁうんと長いことということでいいと思うし、帝国の皇帝が一万人以上名前の記録があることを考えると、まぁそういう感じの国であることもそれほど間違いというわけではない。幾度か皇統は途絶えているはずだが、国としてはそういうことだ。建前の上では帝国は魔族を討滅するという目的を掲げているが、帝国を支えたのも魔族でまぁどっちかというと平らげて独占したいというのが本音よな。大陸にいるような大多数の者共は直に魔族の騒乱を知るものは生き残っておらず、本土の者共もとうに代を超えすぎていて、なにを伝えるもんがあるとも思えんが、おそらくな」
老人の説明は矛盾を指摘できるほど明瞭なものではなかった。
「だけれどアタシの村は魔族に襲われたわよ」
ステアの記憶のあるリザが老人の説明の矛盾を突くように言った。
「どういうことじゃ」
「私の村は、たしかに魔族に襲われて、私は呪いをかけられたし、夫は殺されたわよ」
「彼女には誰か人間の記憶があるのか」
「説明が必要なら後で改めてゆっくり説明するが、ボクは彼女を治療するつもりで魔族にしてしまった、ということのようだ。彼女の中にはボクの二人の妻の魂がある」
「それはアレだな。こんなところでつまみのようなもので腹をふくらませている場合ではないな。そちらの方々も我が家にご招待しよう。どうせ我が婿殿と揉めてこんなところで熱りを冷ましているのだろう。あれも強く賢い良い御仁なのだが、折り合いというものの不器用な御仁でな。マリール嬢ちゃんとの話がついたら迎えもよこすじゃろ。ところでゲリエ卿、夜目に自信はおアリかな」
マジンは軽く首を傾げた。
「どの程度というところがありますが、飛行船にご案内せよということであれば船を着けるのは容易いくらいには」
「それほど遠くにというわけではない。対岸の船着に漕船が二杯ついている桟橋が見えるじゃろか。あそこまで送っていただきたい。ま、わしの漕船でも容易い距離だが、噂のゲリエ卿の乗り物に興味がある。圧縮熱機関だか蒸気圧機関だかなんぞう」
とてもギゼンヌまでも歩いてひとつきだかという山の中に住まわっているとは思えない老人の言葉にマジンは笑わざるをえない。
「これは軸流熱機関ですが、中を開くつもりでなければ大した差はありませんな」
今度は昼間と違って道中の僅かに数十秒の間だが全力航行を披露した。
刃のような回転羽が自らわずかに水面を離れ空転し着水する間に減速するような、飛び石のように水の上を跳ねる感触を老人は喜んだ。
対岸の船着場から岸に上がって案内されたところは立派な郭をもつ戦闘的な城塞だった。向かいの城も立派なものであるがどちらかと言うとこちらのほうがさらに武張った造りで、マリールの父上と謁見した城よりも兵士の姿が多く見える。女官たちも優雅に時代がかって着飾っていても短銃や短刀を飾りとしてそればかりでなく、槍と見まごうような銃剣を携えていることもあった。
短銃や短刀は抜き放ち威力を示すまでは飾りか否かの区別はつかないわけだが、銃剣の禍々しさは飾りがあろうがなかろうが、その重みや煤け具合までは消せない。手入れされ焦げた油の匂いがすれば、それは宮廷女官の杖と云うには禍々しい。
庄内といえ城の外で武装している女性はあまり多くない印象だったが、こちらの城の中は男も女も役目のない者は或いは役目のある者はその身分役目として武装を携えている様子である。
そして老人に扱いは明らかにこの城内での上位者の扱いであった。作りはだいぶしっかりしたものの汚れを気にしないもっさりとした服は礼を捧げる兵士のものより一段簡素な作務衣のたぐいと思えるが、兵は老人をよく見知っているようで兵の目の良さを考えても動揺もなく全く自然に礼を捧げていた。
「ご老人、あなたがこちらのお城の主ですか」
「実はこの庄では城の主などというのは割合と多いのじゃが、騎士総長と役職を名乗っているのはワシ一人だ。まぁ表では将軍だな。ワシの名はダシャールエルダビアス。マリールの母方の祖父じゃ。マリール嬢ちゃんの婿殿が来るって話を今朝方娘から聞いてはいたんじゃが、嬢ちゃんのことだからこちらの殿様と揉めるだろうと思っていたら、やっぱし揉めたというところよな。まぁ話を聞く限り、悪くないスジの活躍をしておって大したジャジャ馬ぶりというところで、男運は悪くなさそうだ。男の子ができたらぜひ連れてきたまえ。アーシュラは軍才があるのならばウチの庄では却って扱いかねるかもしれない。今更そういう時代ではないのかもしれぬが、女性の将軍を我らが求めるのは少し先になるじゃろう」
ダビアス老はカラカラと笑いながら一行を案内した。
ダビアス老の居城の食卓は五回目の食卓、夜食の席が準備されていた。
突然の来客や飛び込みの伝令が多い騎士の詰める城では突然の客の来訪もどうということはなく、むしろたったの十人に足りない一桁しかも殆どが女性ということで、多少首をひねるほどに拍子抜けした様子だったが、湖のステアのことを気が付かない者はなかったので、ああなるほどと納得をされた様子でもあった。
城主の食事の間というものは思ったよりも随分と簡素で、数名の婦人と従僕が食事に同席するだけであった。
食事は暖かく美味しくはあったがなんというべきか城主と婦人の食事の席に並べられた静かな食卓は、修道騎士団の食事、というべき消化の宜しい質素なもので、年齢の彩りのある五人の夫人は一言も発さず、ダビアス老も同様に一言も発さず、問いを発しようとした口を城主閣下直々に身振りで制されてしまえば、食事の席は全く静かなものだった。
それはそれで結構なのだが、さて、一体我らはどうすれば、と食事を終えて困っていると年若い夫人が手招きしているのに気がついた。ついていってみると閨房だった。正確には閨房の前室のなんというべきか着替えの間のような大きな鏡のある居間のような部屋だった。つまりは城主と夫人の私室であるという。
食堂での会食では全く置物のように押し黙っていた夫人たちは全くここでは活き活きとしていた。
「まぁ、食事の様子を確認するのも日課なのよね。ごめんなさいね。家々にそれぞれいろいろ流儀があるんでしょうけど、うちは人の出入りが多いから、用人やらお客人やらがなに食べているか味見する必要があるのね。まぁそう云う中で色々しゃべくっちゃうと面倒だし、下のむっさい騎士連中に放り込むわけにもゆかなかったから、若い人には気の毒な食事をさせたけど、ここはお酒もあるし他に食事もできるから、気楽にしてちょうだい」
一番年かさの夫人は先ほどとは打って変わって気楽そうにそう言った。
「ところでお姉さま方、こちらのお嬢様方、義眼のようですわよ」
「眼の色が違うなぁと思ってたけど、たしかにそのようね」
「こちらの黒髪の方はバービーのようね」
「まぁ、若い男性はバービー好きですわね。いまどき外にバービーを連れ出す方がいるとは珍しいけど」
「マリール様も気の毒に」
「でも確かお嬢さんを産んだとか」
「こちらの可愛らしいお嬢さんは、そう云う感じではないようね」
「お嬢さん、お酒とお茶はどちらが宜しい。バラの香りの炭酸水もあるわよ」
「本人に合わせてちゃんと動くのね。よくできた義眼ね。これはあなたがこしらえたの」
マジンと家人が食事の席では彫像のようだった夫人方との距離感の激変に戸惑っているとダビアス老が部屋に現れた。
「小娘じゃあるまいしお客様になにやっとるかね、お前たちは」
「お客様との歓談を楽しもうとしていたところですよ。ちゃんと館の主人として私達の紹介をしてくださいな」
「年かさの方からファルテナ、サルート、アウテナ、エルタ、エランだ。一番上にマリールというのがうちにもいたんだが、一昨年亡くなった」
愚痴るというわけでもなく、しかし止められなかったようにダビアス老は言った。
「一番若いのがショアトア、あとは黒髪の方からリザ、クライ、セメエ、コワエです。リザ以外とは結婚していませんが、なんというか、皆、僕の妻みたいなものです」
「こんな小さい子まで奥さんにしてらっしゃるの」
「お姉様、小さいって。五年もすれば立派な奥勤めが務まるようになりますよ」
「リザさんってバーバラだけを奥様にしてらっしゃるのはどうしてなの。正式な跡取りのお子さんはいらないって言うことなのかしら」
「バーバラってのは、バービーと同じ意味ですか」
マジンは耳慣れない単語を改めた。
「女魔族って程度の意味だ。人型の魔族っていう意味で色々意味が乗ることも多いが」
「ああ。彼女は治療事故で魔族になったんです。こちらはそう云う魔法や細工物に詳しい方が多いと聞いて何かお話を聞ければと思ってお邪魔いたしました」
「あらあら。なにが聞きたいのかしら」
「彼女が、その魔族であるのは間違いないところですか」
マジンの質問に夫人たちは不思議そうな顔をした。
「まぁ人間じゃないわよね」
「ゼンマイとかそんな感じのカラクリでもない」
「魔族よね」
「みなさんはどういう風に人間じゃないところを見分けているんですか」
首をひねるほどアッサリと夫人方の意見が一致したことにマジンは質問を重ねた。
「どうって言われても」
「魔力かしらね」
「子供は作れるんですか」
夫人方があまりに明らかなことを問われて口々に応える中でリザが問いかけた。
「作れるわよ。女ですもの。まぁそう云う風になっていればですけど、バーバラの極端なものだとなんというか大きな豚の子宮みたいなのもいて、ちょっとあまりに戯画的というか、女性としてはどうかと思うんですけど、そういうのを母というか先祖というかまぁ、そんな感じで維持している人たちもいました。今もそう云うバービーが動いているか生きているかはわかりませんが、そんなふうに魔族が使われていた事実は間違いないわ」
「まぁ普通はバービーって云うとあなたみたいに男性の理想の女性みたいな感じで老けない優しい強い美人な女性であることが多いわね」
マジンはまぁたしかにリザを気に入ってはいるが、理想の女性像というわけではないなぁと思いながら、望外の言葉に驚いているリザと目があった。
リザが機嫌よく得意満面であればそれはそれで構わないことだった。
「肌のたるみや伸びによるシワとかザラメってのは表面処理技術的に表現が難しい部分でもあるからね、一般的な話題として加工処理指定と計算が面倒っていうのがあるのかもしれないわね」
「肌のくすみも角質層の不連続な巻き込みによる色素化だし、計算が厄介なものよね」
「大抵の男性はバーバラが老いないことで奇妙に引け目を感じるのよね。ケンっていう似たような男性版があるわけだけど、あっちはたいてい子供が作れないのよね。男の嫉妬なのかなぁって思ってたけど、まぁそういうのが必要な男性と女性との生き方や価値観の違いよね。たぶん」
「だいたい、元気過ぎるなんでもできる女性なんて子供が欲しければいつでも作れるって思うものですからね。そう云う自分が輝いているときに夫や子供なんて挿手口と私財を食い荒らす害虫にしか思えないものでしょ。そう云う意味じゃ男どもは割と半端なところがあるから女や子供にいろいろ求めたがるのよね」
夫人方はまぁそれはさておきという感じで近くにいる女性客に自分の興味の話を問い始めた。
「ああ、ええと、なんで皆様方は魔族について詳しいんですか。そういうのを集めていた一族とか」
「帝国が恩着せがましくそういうのを口上に使って色々碌でもないことをやらかすのよ。正しく人類に貢献せよっていう感じでね。まぁこの辺り一帯の人々はおよそ帝国を避難先にして生き延びた人々の子孫であるのは間違いないところで、私達の先祖がそう云う目的のために作られたというか、バービーやケンから生まれたのは事実だけどそんなの今更言われてもお前らの権勢の玩具に振り回されるのはゴメンだって話よね」
「帝国には魔族や記録が残っているということですか」
「帝国本土には残っているかもしれないけど、帝国軍の連中が言ってるのは単に言い伝えの言いがかりよ。ちょっと真に受けた先祖が真面目に調べた時期があって、私たちは自分たちの出自や帝国の歴史には多少詳しいの」
「今の帝国軍が謳っている内容なんかは針小棒大もいいところって感じね。小さな本土軍にさんざん叩きのめされた大陸軍が鬱憤ばらしにいろいろやっているって感じよ」
「百万年も前のことを探すのは無理じゃないかしら。なにを探したいのかわからないけど、多分こんな完成したバービーやら義眼の形で使えるように魔族を細工するなんて技術は今更帝国にもないと思うわよ」
「そうなんですか」
バラバラと夫人方が口々に意見を述べた。
「帝国の近衛軍はともかく侍衛隊が本土の外に出てこなくなって久しいですからね。まぁああいうモノたちが完全にいなくなったってわけじゃないんでしょうけど、みせびらかすほどヒトと同じ魔族は多くないってことでしょう」
「そのなんとかってのは、魔族なんですか」
「そうよ。なんというか、兵隊としての究極の兵器としての人間をそのまま魔族にしたものよ。寝ない食べない恐れない愛を知り理を守り礼を尊ぶ。おサムライってそういうモノね」
「なんか、矛盾があるような気がしますが」
「強力な兵隊だってのは間違いないわよ。風の如く敵陣を襲い、ひとなぎで林を払い、つつむ炎もものとせず、天険山脈を一跨ぎにする。ということらしいわ」
ますます胡散臭い口上に首を傾げるしかない。
「ああ、ええと、つまり、人型の魔族も珍しくない、無害だということでしょうか」
「珍しいし、無害かどうかなんてわかるわけないけど、ありえない話ってわけじゃないし、つい百年前くらい前には我が家にもいたわよ、というところね」
「私が魔族だというのは間違いないというところなんですね」
「それは間違いないわね」
「私は寝たり食べたりおならや厠の必要もあるんですけど」
「それはそう云う風にできているのね。子供の姿で出てきて大人になる魔族もいるようだから、そこはそういうものと思ったほうが良いわね」
「そしたらこのヒトは人間なんですか魔族なんですか」
リザの矛先が自分に向いたことでマジンは目をむいた。
「人間ね」
「人間だわね」
「変な魔力の流れ方しているけど、人間ね」
「まぁ魔力は強すぎるけど、人間ね」
「変なっておっしゃいますけど魔法使えないヒトが大きな魔力持っているとこんな感じですよ」
アッサリと夫人たちの見解は揃った。
「魔族ってのは結局なんなんですか」
改めてマジンが尋ねた。
「質量を持った現象としての魔法よ」
「魔法で水を作ったりということですかね」
「うーん。説明しにくいんだけど、魔界というか異界にあるものの影がこっちの世界に影響を及ぼしているのよね。多元世界解釈だとね。まぁなんというか、レース地があるとして糸の部分が模様なのか抜けた部分が模様なのか、だまし絵のどちらの模様が本来の意図かというような感じね。で、その認識の切り替わるときに魔法が起こるっていう感じ」
「世界の穴ってのがまぁ一番しっくり来るんだけど説明するとなると難しいわね」
「ともかくそういうものをうまい具合に使うのが魔法だから魔族と魔法とは相性が良いし、魔法使いと魔族も似たような感じになるんだけど、根っこがどっちにあるかというところが一番の違いかしらね」
「まぁそういうことね。リザさんはこの世にはいないってところが魔族だってところね」
「私が死んでいるってことでしょうか」
「死後の世界っていう意味のあの世とか生者の世界をこの世っていうのとはちょっと違うわ。主体の存在がこの世界に属しているかっていうところがちょっと重要で、魔族は魔界に本体があるってところね。そう云う意味であなたの旦那様はこの世にあるし、義眼のあなた方の目の大部分もこちらにあるわ」
「それがなんで分かるのですか」
マジンはもう少し粘って見るように尋ねた。
夫人たちも子供のような問いに少し戸惑ったが、頭ごなしに手を払うような無礼を働きはしなかった。
「なんで、っていうか、分からなかったら魔族退治できないじゃない」
「どうして分かるのって言われると、魔力の流れ方が内向きか外向きかというところが大きく違うわね」
「ああ。なるほど。そう説明するなら、人の魔力の流れはいくつかあって、結局体の中から外に向かっているんだけど、魔族は内側、核に向かって落ちているわ。彼女たちの義眼は確かに落ち込んでいるけど、極端というわけではなく、彼女たち自身の発する魔力の一部と世界からの一部で安定している。でも、リザさんはかなり膨大な魔力を吸い集めている。ってところかしらね」
「それはマズいんですかね。例えば魔力を吸い上げすぎると作物に影響するとか」
「ないわね。魔力があっても何にもできない人もいるし、山中におおきな滝壺があっても滝があるなぁってだけで山の水が枯れたりしないのと同じように大した問題じゃないわ。それに魔力は呼吸や体温と同じような行程や結果であって生命力そのものではないわ」
「兵隊さんや未熟な方が突然死するのは知っているし、私達も油断すればそうなるけど、あれは云ってしまえば素潜りをするのに配分を間違えたくらいの感じね。任務とか御役目で魔術を使うのも気の毒だけど、できないとお味方の仲間が大勢死ぬとなればやるしかないわよね」
「周辺の魔力の多寡を見誤ると魔法の効果が偏るってのは経験的に事実だけど、その程度で引っかかるような魔術は未熟よ。こう、魔法ってのはカッカッと必要なだけ切り替えてみせるもので別段ダラダラやればいいってもんでもないわね。兵隊さんの意見はまた違うんでしょうけど」
夫人が会話の中で手を閃かせた一瞬で机の上に花びらが散り、それが消え霜が降っていた。
「エルタ。お茶が冷めちゃうわ」
「そういう意味ではマリール様の婿殿はなかなかの遣い手ともいえますわね」
「錬金術を嗜む方にはよくいるタイプともいえますね」
「我流で知らずにバービーを組み上げるとか単に妻恋しや好色なだけで出来るような業ではありませんしね」
「血晶病についてご存じですか」
「一言で血晶病っていっても色々あるのは知っているわ。あなたのおっしゃるのはどんなの」
「全身が氷砂糖のようになるものですが」
「割とあるわね。全身を糖に置き換えちゃうやつよね。嫌味なのか何なのかわかんないけど死ぬまで時間がかかる奴ね」
「ボクの前の妻がそれにやられまして二年ばかりで死んだのですが」
「アレって侵蝕型の典型的なやつよね」
「そんなに早くって、奥様強かったのね」
「その時に妻の心臓を食べたのが、ボクが魔法を使えないまま魔力がある理由かなと」
「それはない」
「関係ないわね」
「遺体を食べるっていうのは感染呪術による魔力継承の典型的な形だけど、知識や技能という魔術の欠片を継承しなかったのなら、魔力は引き継げなかったのね」
「もう魔法の方は別の人に継承されてたんじゃないかしら。妊婦なら別段死ななくても継承は出来るわよ」
「男性は一生懸命タネに魔術を描いても血脈継承は女次第だから結局別に儀式が必要だけど、女は妊娠から出産まで時間があるから、儀式なんかなくても継承自体は割と簡単にできるのよ。まぁ男性が最初から男のタネに魔術を使うとかなり自由に子供の設計ができるのはそうなんだけど、ヒトがやることだから抜けがあるととんでもない事にもなるのよね」
「それで、どうやってこちらの方をバーバラにしちゃったの」
「彼女が戦死したのが最後のキッカケだったんですが――」
執事たちに聞かせていいものか悪いものかと云うのはなくもないわけだが、既に入り口を超えてもいたし、ある程度は彼女らの目の話ともつながっていることから、隠し立てをするのも面倒くさくマジンは話の流れを辿った。
夫人方の興味にあわせて話の流れは右に左に動くわけだが、流れを聴き終わったところで夫人方は少し黙った。
「流れはわかったわ。どうやらステアさんの身体を血液にしてリザさんの身体を器にして、マジンさんが作った心臓が二人を混ぜあわせたって感じね」
「心臓を食べたってのは感染呪術の上では大方関係ないのはそれとしてそのせいで、なんかの術式が止まってたのを新しい心臓が割り込んだってところかしらね」
「血晶病の最後はどうなるんですか」
「どうっていうのも色々だけれど、まぁ塩とか灰とか糖になってオシマイね。普通は崩れて溶けちゃう。美味しく頂いちゃうってことは遺族は流石にしないけど、気がつかないで食べてることもあるかもしれないわね。この辺りだと塩も砂糖も貴重品だから」
「それでどうなんでしょう」
恐る恐るマジンは口を開いた。
「どうとは」
「彼女をどう扱えば良いかという意味ですが」
奇妙に手応えのない夫人方の雰囲気にマジンが改める。
「わかんないわね。ただバーバラをお嫁さんにしている男性は大昔は割とあったのは事実よ。まぁ要するにお嫁さん人形ってところで、馬や羊や山羊や虎や犬なんかをお嫁さんの代わりにする話と変わらないわけだけど、別段悪い話ってわけじゃないわ。共和国の法律は私達が盟約を結ぶにあたって種族について定めた条項はなくなったはずよ。まぁ土地土地で色々あるのは知っていますけど、デカートの法律上はどうなっているのかしら」
「彼女と結婚したのはリザの生前でしたから特段は」
「いちいち申告をし直すんじゃなければ問題にならないってことね。気にしないで良いんじゃないかしら。魔族っていっても時々空から降ってくるような連中を除けば長いこと地上にいるようなのは、あらかた無害のはずだし」
「夫婦喧嘩に気をつけあそばせっていうのは、別段人間同士が結婚してもよくあることで今更よね」
「奥様に飽きて離婚とかって話が最悪ね。あとは旦那様が死んだ後をどうするかはちゃんと決めておきなさい。これも人間同士でも全くあり得ることなんだけど、バービーの寿命はとんでもなく長いから、魔法使いが長生きで二百年や五百年生きるっていっても全然そんなんじゃ追いつかないくらい長生きするからね。孫子にわたって付き合うつもりでいないと碌なことにならないわよ」
「ただあんまり見せびらかすのはやめときなさいね。バービー好きの男性ってのは本当に偏執的な方もいて碌なことにならないわよ」
「人妻と見ればコナをかけたがる輩がいるのは承知していますが、そういうことですか」
意外と普通のアドバイスが続くことにマジンは少し表情をゆるめた。
「まぁそうね」
「見せびらかすなと云って、私は外出を避けたほうが良いということでしょうか。これで一応将官なので共和国軍の式典などに出席するだろうことはありえるのですが」
リザが少し気になるように尋ねた。
「アナタは少し真面目に魔法の修行をしたほうが良いかもしれませんね。別段今のままでも差し支えないのは事実でしょうけど、見る人が見ればひと目で魔族と分かるような状態もあまり好ましいとも云えません。特に公の場で騒ぎになると説明が面倒な事態になるかもしれませんね。聞けば中の人はおふたりとも魔導の素養はある様子で誰か介添えがつけば別段技術がなくともそれなりの修行には差し支えないと思います」
「マリールさんでちょうどいいじゃないの」
「日々の相手としてはそれでいいけど、最初はもうちょっとマトモな人を充てた方がいいと思うけど」
「ひょっとしてアレですか、彼女らの目もそう云う風に何かした方がいいものですか」
ふと、マジンが心配になって尋ねた。
「……ああ。まぁそうね。高価な物っていう意識があればそうね」
「でもそっちはメガネでも掛けておけば大方の人は気にしないんじゃないかしら」
「……戻ったらメガネ作るか。セントーラに負けない偉そうな秘書に見えるような奴。リザもメガネかけておけば、色々言われることも減るだろう」
如何にも軽薄な男の提案に女達は笑った。
城の朝の食卓は豆の粉の粥のようなもので始まった。
鳥のスープのようなもので味を整えてはあったが、昨日の晩と合わせて実に消化の良いもので始まり、おかわりを尋ねられた夫人方は全く作法通り石の人形のように身じろぎもせずむっつりと食事を終えた。
この城では貴婦人というものは内心が春の雪解けの滝壺のような留めようもない風景であっても、公では絵のように彫像のように普段と変わらない姿を求められ、表情のスジひとつ食器の動きまで所作と意味を求められる。ということだった。
その後、女達はご婦人方とともに過ごすことになり、食事における無言のままに良いとか悪いを告げる仕草を教わり、頬やら眉やらの僅かな動きが言葉の代わりにされているという実に様式化された様々が人々の動きを縛っていることを理解した。
符牒の中には当然のように、御役目某を誅せよ、とか、誰それを縛せよ、等というモノもあり、もちろん普段の席で意味があるようなことはないはずではあるが、そういったもので従僕を試すようなことは無論好ましくなく、いちいち動揺させないためにも所作は静かに粟立てないことが望ましい。
騎士の家にも相応に様々あるわけだが、強大な帝国の小さな隣国として尚武というよりも今なお常日臨戦の土地というべき備えで立場ある人々は縛られているということである。
ぼんやりと又聞きで男尊女卑の時代錯誤と聞いていたが、食事の作法が離縁や廃嫡或いは刑死の理由にもなりうる、全くここは戦乱風雲の洲国であった。
そして、ただ今東部戦線が晒されているような帝国の強大な、しかし目を開いて様々を求むるに猫が虫を嬲るようなそう云う動きを百年千年も或いは話によっては十万年も繰り返されていたとして、宜なるかなと云わずにはいられない。
共和国との関係も、共和国の立場では連邦だが、この国の立場では同盟であって、立場を変えぬ帝国の有様によって変わらぬ戦時であることから大きな問題にはなっていない。
しかし様々に行き違いがある中で鉄道を貫くように通せば、たしかに様々なものが一気に崩れ、この邑の有様が変わるというのは冗談ではなかったし、それは暴力的なまさに腸を抜くような有様になるとあっても不思議はなかった。
世の中をなすために周知は必要なく、ただ邪魔さえしないでくれれば良いというのは十万からの人を社員と組織したマジンの思うところで、しかし百万からいる家族もこの十年ほどの様々のすべての恩恵や意味を知っているわけもあるまいに、内と外という色分けを意識するほどに変化を起こしていた。それは共和国成立以前の血族で洲国を作り、風習の瑣末な違いに血道を上げて土地や資源を命をかけて奪い合っていた時代へと戻っているようだった。
文明の威力はつまり当人たちの気がつかない破壊を全く暴力と意識しないまま振るうということである。
鉄道がつながればそう云う動きを導火線のようにこの邑に差し入れることになることは間違いない。
それはマリールの祖父ダビアス老ほどの理知聡明の賢者たちがこの邑にどれほどいたとして、上品に云っても嵐の浜辺と大差ない光景になる。
それは、天下を取る、世界を征服する等という、大望に溢れた物語の主人公であれば全く意気上がる展望であるのだろうが、世界の秩序や人々の未来の責任に興味のないマジンとしては全く屠殺場の管理を押し付けられたような感覚でもあった。
十億なり百兆なり岸辺の砂の数だけ星の数だけ尽くを屠り鏖殺せよ、という文明の究極は全く文明の矛盾を感じさせるモノで、人の愚かさと世界の貧しさを予見させるものであったわけだが、早くもそう云う傲慢な兆候をローゼンヘン工業の社員たちは個々の悟性と関わりなく見せ始めていた。
現実に膨大に膨れ続ける各地の銀行の帳面上の額面は銀行が支払い拒否をどういう風におこなうかを試すようになり始めていたし、資材原料の付加価値も社員の技量が向上するに従って膨らみ続けていた。
幾らかの物品についてはゲップのように理由をつけて捨て値同然で切り棄てていたわけだが、それさえも帝国との戦争が一段落して世間が落ち着けば害悪になる。
城の屋上からの光景はゆるやかに照らす午前の日の光と湖水の照り返しで溶け残る雪と花の色と芽吹いた草木の若葉とで肌寒くも穏やかな風景を作っていた。
屋上にも巡回の衛士は当然にいるわけだが、大仰に誰何されることもなく、しかし衛士の申し送りには含まれていて、全く慇懃隙ない扱いを受けていた。
そう云う時計のような衛士の靴音をぼんやりと聞きながら風景を眺め時を費やしていると、土地の貴婦人の装束でリザが現れた。白と朱焼けた黄色の装束は結い残した滝のような夜の色に艶めく黒髪と合わせて、空を飛びそうな流れのある姿でフィギュアヘッドのような印象だった。
「似合ってる。春風の精霊みたいだ」
「この辺だと春風の精霊は美人で気の良い乱暴者ってことらしいわね。癇癪起こして雪崩とか突風を巻き起こすんですって。……。なによ。褒めてくれたのは伝わったわよ。照れ隠し。それくらい飲み込みなさいな。……それでなに浮かない表情で景色眺めてるのよ。マリールの心配かしらね」
そう云ったリザはするりと歩み寄り身を寄せた。
「実はそっちはあまり心配してなかったんだ。いきなり殺されるっていう流れならこちらの祖父殿も多少はなにか伝わるだろうし、ボクらものんびりと客分で扱われたりはしないよ。今頃はお城の衛士たちが乗ってきたステアを囲んで大騒ぎしているさ」
リザは意地悪そうに笑った。
「そんなんでどうにかなるようなモノなの?あの飛行船てやつは」
「彼らがどうにかするのはボクらのほうだから、どうにかするぞ、って伝わればいいんだよ。あの大きな舟に誰も残っていないと彼らは知るすべもないからね」
「で、そう云う動きがないからマリールは大丈夫ってことかしら」
「彼女が大丈夫っていうか、僕らに類が及んでいないということはむこうで即決有罪を下したわけじゃないってことだろう。この後参考人招致をされて刑場のお白州に引き立てられる沙汰になるにしてもね」
リザはフフンと鼻で笑った。
「異種族のアイノコを産んだ罪ってのはこの地じゃどうなるのかしらね」
「マリールの父君の胸の内でどうなるか知らんが、こちらのご夫人方の雰囲気じゃどうもないだろう」
リザは多少の疑問もある様子だったが特に何かを口にはしなかった。
「……。そしたら春の湖水を眺めながらなにを考えていたの。この後のことかしらね」
「この後というか、前というか。ステアが死んでから鉄砲やら鉄道やら生き返らせてしまったやらの成行きと始末がね」
そう聞くとリザは全くわかりやすく眉を顰めた。
「なに、まさか、後悔してたの」
「後悔はしていないが、考えるところは多いさ。ボクは既に十万の社員を抱え百万のその家族の先行きを示すような事業に踏み込んでいるわけだからね。昨日のご老人の言によれば、既にボクはまさに修羅の巷の矢面に立っているわけさ」
呆れたような顔をリザは隠さなかった。
「会社で別段具体的になにか起こっているわけじゃないんでしょ」
「起こっていないわけがないだろう。敢えて口に出さない努力はしているがね。バカを丸焼きにしてやりたいくらいは年中考えている」
「焼いちゃえばいいのに。我慢のし過ぎは身体に毒よ」
「他人の生死がこれほど面倒くさいものとは思わなかった、と愛の重さを考えていたところで、殺しをそそのかすな」
そう聞いてリザはカラカラと笑った。
「どうせ他人の命なんか大した気にもしてないくせに、社員様の命を大事に扱うってどういう博愛ぶりよ」
リザの言い様は鼻白むものだったが、文明の意味する処は博愛の程度と量の問題であった。
「はからずもボクは文明の祭祀の徒であるからね。祭壇に火を焚べ石臼を転がすように何者を轢き潰すかを如何に選ぶかを定める用があるんだよ」
「まるで悪魔の所業ね。それが文明とは何たる皮肉かということね。それで共和国に続いてこの邦も轢き潰すことになるのかと黄昏れていたと」
皮肉げにリザは言った。
「そこまで考えていたわけじゃないが、……オマエを魔族にしたように気が付かないうちに色々やっているだろうと思ってた。ワイルの騒ぎはむこうの暴発だって言い訳もしやすい形で起こったけど、必然でもあった。同じことが起きるだろうってことだよ。デカートでもソイルが次第に人を減らし始めている。鉄道があればソイルに拘る必要がなくなり始めたし、ソイルはデカートへの水利が良いってだけの街だからね。豊かな農地という意味では他にもある。田園の中心を鉄道が迂回したせいで利便という意味ではよそに移り始めている。ミョルナみたいにわかりやすく街が枯れた例もあるしね。隧道ができて人が消えた話も衝撃だったが、旧街道沿いはいま更に大変な有様であるらしい。コレっぱかりも用事があるわけではないが、色々話には聞いている」
そこまで聞いてリザは少し表情を改めた。
「栄枯盛衰ってやつじゃないの」
「もちろんそうだ。そしてボクの財布の紐の引っ張り方で或いはウチの秘書の誰かの気分次第で決まると考えられ始めている」
「それは誤解よね」
「もちろんそうだ。だが、あまりに短期間で起こったことでその中心に常にボクがいれば、そしてボクの代理に秘書を走らせていれば、当然に起こる誤解だ」
リザは軽くため息をついた。
「本当にアナタが土地に呪いを振りまく邪教の司祭だと思われている可能性があるのね」
「しかもある意味では事実ボクが呪いを振りまいてもいる。文明という甘い毒をね。共和国軍は危うく兵站を破綻させるところだった。なんのかんのと理由をつけて助けてやったが、鼻くそをほじる片手間で共和国軍を敗北に陥れることはありえた。軍の求めるまま善意のままになしていればそうなったろうな」
流石にリザは笑顔が消えた。
「でもそんなこと言ってたらなにもできないじゃないの」
「他の人には出来るよ。大したことができないからな。だが他の者と同じようにボクが振る舞うことは本当に世界を破壊することになる。王者の節制とか君主の寛容なんてのは理想論のひとつだけど、本当に容易なんだよ。世界を壊すことなんてね。一切他を気にしないで自分の出来ることやりたいことだけをやり続ければいいんだ。だから、ボクは魔族ではないらしいが、魔族がなぜ文明を滅ぼしたか、彼らが自ら滅んだかも想像がつく。無限に自らの理想を魔法を使ってまでもなした結果として自らの足場である世界を突き破ったんだ。考えて見ればつまらない理由で文明なぞ簡単に滅びる。それは技術とか資源の多寡の問題だけではない。構造と環境との関係の問題だ」
「私も今は魔族らしいんですけど、どう考えればいいの」
リザは揚げ足を取りやすい踵を見つけたような顔で言った。
「オマエも多分何かに特化した魔族なんだろう。なにに特化しているのか知らないけど、その相剋の果てに何かが起きるっていうことだろうな」
「アナタを愛することに特化した魔族とかだとロマンチックよね」
リザが笑顔になったのを見てマジンは少し表情を翳らせた。
「そういうのは実際多かったんじゃないかと思うよ。魔族が大量に生まれた理由としてはね。文明が滅ぶ理由としては十分だよな。愛憎相違うとか物語の定番だろう。正義が無限の力を持てば正義が世界を滅ぼすんだよ」
リザは笑顔で凍りついたままマジンの表情に答えを探した。
「そんなに簡単に世界って滅ぶものかしら」
「現にボクは共和国の財政を破壊しかけている。悪意もなくただ国家の存亡を駆けた闘いに、愛する女の唆しに苦労の少ない範囲で知る人々の命や財産にデカートの元老として慮った上で尚ね」
「……なに考えてたかはわかったわ。やめましょう」
リザはマジンの腰に手を回して寄り添った。
「多分、ボクは子供たちの誰かでも、家にいる女達の誰かでも死にかけたら助けると思う。もちろんどんな手を使ってでも。でも君はもし彼らを生き返らせる手段があるとしても手を出すな」
「男たちは助けないの」
「助ける。だが多分、男たちが死ぬときは誰の目にも明らかに死んでしまうだろう。死んだことに気が付かないかもしれない。おそらく工房の老人たちは満足気に羨ましくなるように死ぬだろうし、他の連中もボクの手元には無事な遺骸は残らないだろう。五年のうちに幾人か工房の爺さんたちも大往生したが、生き返らせようとは思わなかった。彼らの手控えを眺めることはあるけどね」
「なんか、随分感傷的で差別的ね。時代錯誤」
「そうやって自分たちの好きで死ぬ女達がいっぱいいるのも知っているよ。自分の好きに生きた挙句で死ぬのはしょうがないし、多分そう云う連中は助けようがないくらい勝手に死ぬよ。ノイジドーラとかバカだから、助けようがないくらいひどい死に様になると思うけど、野生の獣みたいに見えないところで死んじゃうのはいいんだ。でもボクが拐ってきた自分の身の上に戸惑っている女はきっと多いし、子供のうちはそんなの許せない」
混ぜっ返しの言葉に応じたマジンの生真面目な言い草にリザは少し驚いた顔をして笑った。
「わかったわ。私は女子供が死にかけても治療に手を出しちゃいけないのね」
「人を生き返らせるような真似だけしなければ手伝って欲しい時もあるだろうけどな」
「難しいわね。でも、そういうことがないことを願いましょう。戦争も下火に落ち着くってのに人が死ぬのは嬉しい話じゃないわ」
「オマエ、ボクが望んだらなんでもできるんじゃないかって少し心配なんだ」
「光栄だけど言いたいことはわかったわ」
「本当か」
鼻で溜息をつくマジンの顔を少し嫌な顔をしてリザは見返した。
「誰も彼も魔族になって永遠に過ごしました。じゃ幸せにもめでたしめでたしも程遠いっていうんでしょ。前に一回失敗している方法をなぞるのもバカバカしいって気分はわかるわ」
「全然わかってない中で云うのも何だが、キミというマグレがアッサリ出来たところを考えると、魔族というものは接ぎ木くらいの気安さで増やせるんじゃないかと思えるんだ」
「セラムとか秘書の子たちの目を抜くとか言い出すんじゃないでしょうね」
「彼女らがボクのそばで死んだら目は回収するつもりでいるけど、その後どうするべきかは悩ましいな。本当におまえが百万年も生きるなら任せていいか」
「うあ、有能参謀を襲う、大本営の暗い罠っ。見事な丸投げね。でもまぁいいわ。どうするべきかはあなたも考えておいてね。アタシがアナタより長生きするって決まったわけでもないんだから」
午前の光がやがて昼の光に変わる影の移ろいを二人でしばらく楽しんでいると、十時の鐘が響き伝令が食事の席につくように求めた。
十時の食事はこれまでの消化一辺倒の食事とは少し違って、肉がちゃんと形に見えるような食事で重みのあるやたらと味のしっかりした黒パンと、ふすまのきつい薄く堅いビスケットが塩の強いバターを塗りつけられて、喉を乾かすだけの量が出てきていた。
それだけでなくそのパンを押し流せる量の卵を流したスープが出てきていた。
さらに席付きの小姓がリンゴを剥いて出してきたときには、多少お城の食事のような雰囲気だった。
しかしなんというべきか、全く戦地の食事という質素なもので、巨大な城塞の巨大な人員を支える苦労が忍ばれる食事の内容だった。
食事を終えて席を立つとダビアス老が自分の膝横を叩いて同行を求めた。
なんとなく従卒を扱うような仕草であったが、戦場における将軍よりも偉い客分などというものは国王くらいしかいないものであったから、全く文句を言う筋ではなく素直に従うしかなかった。
「我が婿殿から先ほど使者が来た。オヌシらを改めて招待したいというものだ。まぁそういうわけでこれからその使者に会う」
「どなたか名のある方なのでしょうか」
「バリステラスルテタブル。名前は知らんだろうが、むこうの城の筆頭騎士だ。昨日の場にも控えておったらしい。ヌシにわかりやすく云えばマリール嬢ちゃんの元婚約者だ。まぁ十年も前の話だが、別段ウチの邦では重婚を禁じてはおらんから、向こうの胸の内では婚約者のまま、元はついておらぬかも知れぬ」
そう云う説明を受けて流石に心も粟立つ。
「何か私に関わるような話でもされましたか」
「いや、そういうこともない。つまりはヌシらを賓客として扱うというむこうの申し出にアタリマエに一番いい札を切ってよこした、という程度の意味だ。そういうわけでこっちも別段お前さん方を使ってどうこうしようという意志がないということをむこうに見せるために、お前さんを直に使者に会わせて口上を交わす必要があるということだ。――儀礼官マラーホフ。お客人を預ける。次第での手順を教えて差し上げろ。遠方の方だ。粗相のないように。時間はないから細かいところはいい。要点を明瞭に教えて差し上げろ」
そう云ってダビアス老は途中の部屋でマジンを預けると自分は別の部屋に急いだ。
城らしいところでの礼法にも軍隊での儀礼にもまるで縁のないマジンはマラーホフの言葉の意味が今ひとつつかめないままにともかくラッパと名前が呼ばれるまで待って、扉をくぐって真っ直ぐ前だけ見て歩いて、列から三歩前に出て止まれ、というところだけ覚えておけばいいかということにした。
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10年前に俺は日本から異世界に転移して来た。
異世界に転移して来たばかりの頃、辿り着いた冒険者ギルドで勇者認定されて、魔王を討伐したら家族の元に帰れるのかな、っと思って必死になって魔王を討伐したけど、日本には帰れなかった。
異世界に来てから10年の月日が流れてしまった。俺は魔王討伐の報酬として特別公爵になっていた。ちなみに領地も貰っている。
自分の領地では奴隷は禁止していた。
奴隷を売買している商人がいるというタレコミがあって、俺は出向いた。
そして1人の奴隷少女と出会った。
彼女は、お風呂にも入れられていなくて、道路に落ちている軍手のように汚かった。
彼女は幼いエルフだった。
それに魔力が使えないように処理されていた。
そんな彼女を故郷に帰すためにエルフの村へ連れて行った。
でもエルフの村は魔力が使えない少女を引き取ってくれなかった。それどころか魔力が無いエルフは処分する掟になっているらしい。
俺の所有物であるなら彼女は処分しない、と村長が言うから俺はエルフの女の子を飼うことになった。
孤児になった魔力も無いエルフの女の子。年齢は14歳。
エルフの女の子を見捨てるなんて出来なかった。だから、この世界で彼女が生きていけるように育成することに決めた。
※エルフの少女以外にもヒロインは登場する予定でございます。
※帰る場所を無くした女の子が、美しくて強い女性に成長する物語です。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
催眠アプリで恋人を寝取られて「労働奴隷」にされたけど、仕事の才能が開花したことで成り上がり、人生逆転しました
フーラー
ファンタジー
「催眠アプリで女性を寝取り、ハーレムを形成するクソ野郎」が
ざまぁ展開に陥る、異色の異世界ファンタジー。
舞台は異世界。
売れないイラストレーターをやっている獣人の男性「イグニス」はある日、
チートスキル「催眠アプリ」を持つ異世界転移者「リマ」に恋人を寝取られる。
もともとイグニスは収入が少なく、ほぼ恋人に養ってもらっていたヒモ状態だったのだが、
リマに「これからはボクらを養うための労働奴隷になれ」と催眠をかけられ、
彼らを養うために働くことになる。
しかし、今のイグニスの収入を差し出してもらっても、生活が出来ないと感じたリマは、
イグニスに「仕事が楽しくてたまらなくなる」ように催眠をかける。
これによってイグニスは仕事にまじめに取り組むようになる。
そして努力を重ねたことでイラストレーターとしての才能が開花、
大劇団のパンフレット作製など、大きな仕事が舞い込むようになっていく。
更にリマはほかの男からも催眠で妻や片思いの相手を寝取っていくが、
その「寝取られ男」達も皆、その時にかけられた催眠が良い方に作用する。
これによって彼ら「寝取られ男」達は、
・ゲーム会社を立ち上げる
・シナリオライターになる
・営業で大きな成績を上げる
など次々に大成功を収めていき、その中で精神的にも大きな成長を遂げていく。
リマは、そんな『労働奴隷』達の成長を目の当たりにする一方で、
自身は自堕落に生活し、なにも人間的に成長できていないことに焦りを感じるようになる。
そして、ついにリマは嫉妬と焦りによって、
「ボクをお前の会社の社長にしろ」
と『労働奴隷』に催眠をかけて社長に就任する。
そして「現代のゲームに関する知識」を活かしてゲーム業界での無双を試みるが、
その浅はかな考えが、本格的な破滅の引き金となっていく。
小説家になろう・カクヨムでも掲載しています!
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
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といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
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