石炭と水晶

小稲荷一照

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自動車化歩兵聯隊

共和国協定千四百四十四年夏

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 共和国軍の反撃に対して帝国軍がなにもしていなかったかというと、実を言えばそういうこともありえない。
 一般的な状況として帝国軍は歩兵火力においては、既に共和国軍歩兵に対して劣勢に立っていたが、砲兵の戦力という意味ではむしろ戦域が絞られたことで数的な密度が上がり、砲兵が元来持つ機動力以外の長所を明瞭に発揮できるようになっていた。他に彼らが装備していた戦車という野戦築城装備もある。
 リザール川を挟んでの戦いでは機動力を失った共和国軍を、数と砲力で圧している帝国軍が押していた。
 帝国軍が使っていた導火線式の榴散弾はしばしば不発や早期爆発という問題も引き起こしたが、視程限界に近い遠距離や見込み射撃を許すほどの公差射撃であれば、危険を重視するほどのものでもなかった。またそういった使い方での効果期待率を無視するだけの密度で砲運用をおこなう準備をするだけの兵站能力が帝国軍にはあった。
 それはリザール川を一気呵成に突破し切り込むことが出来なかった共和国軍に、彼らをふたたび追い落とす勢いで降り注いでいた。
 後方の連絡の不安から再び速度を失った共和国軍の歩兵戦術に対して帝国軍は砲兵を中心とした漸進戦術をとっていた。
 機関小銃の危険のひとつは銃の弾幕威力の高さもさることながら、そのことによってどこに危険な火点があるかわからないことにあったから、ともかくも突入点の両側面を前進する歩兵の頭越しに臼砲による砲支援おこなうことで火点を制圧し、正面の躍進を助け混交を作り、あわよくば盾兵と銃剣による白兵戦を強いる時代ががった戦術は一定の技術的解であった。戦地では相応に高価な鋼板を使い捨てにすることも辞さない対応策は戦線全域で常時自在におこなえる種類のものではなかったが、機関銃や歩兵砲の配置が十分でない場合、連絡と機動でどれほど優勢であっても数で劣る共和国軍を一撃で壊滅させかねない戦術でもあった。
 それは古代戦の戦術を小銃戦闘の野戦に合わせて持ちだしたようなもので、マスケット銃の登場後しばらく隆盛を極めた戦術でもあったが、野戦築城の時代に合わせて戦術の狙いの変化もあった。
 射程の長い大口径の臼砲で榴散弾を敵陣に打ち込むことで、塹壕の敵歩兵の頭を塞ぎ孤立させ、前進させた野砲と歩兵で混交撃滅する。
 そういう戦術であれば前衛歩兵の幾割かに機関小銃では貫通困難な盾を持たせることも可能だった。両肩と両腕で支えしばしば自立する脚も生えている盾は、全く中世の槍合戦の一時期に出てくる恐竜的に進化し、野戦築城隆盛以前のそれと同じ姿だったが、帝国軍の鉄琴とあだ名される小銃の戦いに適応した大盾は当然に様々に異なるところもあった。
 機関小銃は厚み八シリカの鋼板を歩兵の交戦距離で撃ち抜く力はあったが、それぞれ銃弾の長さよりも広い間隔を開けてやれば、歩兵の交戦距離では五シリカの鋼板を三枚まとめて撃ち抜くことはできなくなる。それでも三枚目が割かれることはあったので帝国軍は三枚それぞれにフェルトで裏打ちをして重ね、ひどく分厚い盾を用意して、あたかも古代の槍兵の密集方陣のような部隊を作った。帝国軍の兵站実力を持ってしても幾らかは足りなかったらしく帝国軍大隊方陣の全てを覆うことはなかったが、機動戦を重視し火力の殆どを歩兵に頼るようになった共和国軍相手であれば、防御の完璧さよりもともかく初撃に堪え得ることこそが重要だった。
 共和国軍は巧妙な陣地と圧倒的な火力を誇ってはいたが、戦力の根幹たる兵員数には欠けていた。
 鉄の薄板を重ねた盾は前線の希望を受け慌てて後方で作られた間に合わせではさすがの帝国軍も全員に持たせることはできなかったし、身を竦めれば大人も身を隠せるような鉄の大盾は鋼の薄板のがらんどうとはいえ重さはおよそ一ストンもあり、一人で運ぶには兵を選び、全員が持てば部隊の動きが鈍るような種類のものでもあったが、小銃の装填を諦め背嚢の代わりに盾を持ち、更に場合によっては鹵獲品の機関小銃を携えることもある突撃兵方陣は、共和国の分隊規模の散兵戦術を封じるだけの力を持っていた。
 機関小銃の恐ろしさは、連射の速度に物を云わせ必要なだけ同じ所に弾を集めてくるところにもあったから、手元の弾数に物を云わせて一点に撃ちかかればその程度の盾は僅かな時間でボロ布同然になるわけだが、一方でその僅かな時間を稼いで兵を流しこむことこそが狙いの盾で流し込まれる帝国軍も相応に気合の入った兵隊共であったし、そういう気合の入った兵隊はそれ相応に知恵も準備も良かったので、共和国軍が通り一遍の対処ができるような相手でもなかった。
 共和国軍歩兵は機関小銃の配備を優先することで、銃剣の準備は組織だっておこなわれていなかった。
 初期においては帝国軍は機関小銃に圧倒されていたし、最近はある程度戦術が落ち着いてきて小銃弾が撃ち尽くされるということはなくなった。銃剣をつけていると銃口の先が発射の度に振り回され、当てにくくなる等と云う文明的な意見もあった。
 マスケットを友にしていたこれまでの銃兵にとって、小銃は景気づけのラッパのついた槍以上の意味はなかったはずだったから、兵隊の意識も大きく変わっていた。
 一応かつての小銃用の銃剣は取り付けられないこともないものの、消耗した後に補充を受けていない兵や、そもそも新しく補充された部隊には最初から渡されていないこともある。
 そういう新編部隊が帝国軍の突撃兵方陣の正面に立つと、混乱から弾倉の交換すらおこなえないままに潰走壊滅することも多い。今になって改めて銃剣の装備の必要性が語られるようになり始めた。
 機関銃の二十五シリカの銃弾は歩兵が持ち歩けるような重さの鋼板なぞ濡れ紙と同様に穴だらけにしたが、機関銃の重量は全ての中隊に複数配置できるような余裕は共和国の兵站にはなかったし、その性質は複数あって初めて驚異的なものになる、一丁だけであれば単に威力のある大きな重たい機関小銃でしかなかったから、敵として対している帝国軍は味方の死者の見当も含めおよそ読みきっていた。
 かつての大盾は盾の防御力を小銃火砲の攻撃力が上回ってしまったために衰退したわけだが、帝国軍は大盾を使い捨ての一時しのぎと見切ることで再び戦場に復活させた。
 敢えて敵を素通しにして後背から敵を叩くことも、小当りして足止めすることも、散兵の当然の戦術ではあったが、最初から白兵戦を目当てに突進している一群を全て粉砕できるほどに散兵の人員は多くないし、一旦混交してしまえば、技量と気合の戦いでそれはその場の者たちの力比べであったから、部隊の人員数が大きく物を言った。
 機関小銃の火力を背景に中隊を戦術単位として、薄く広い戦線を作ることで数の不利をしのいでいた共和国軍にとっては、面倒この上ない相手だった。
 地形的な優位を十分確保している橋頭堡以外は帝国軍の濃密な砲撃と連携した強襲の前に、次第に連携も補給連絡も困難な状態に陥っていた。
 潮時だった。
 兵站に大きく負担をかけている恐怖砲撃が各橋頭堡に帝国軍をひきつけ、双方に出血を続けさせていることは北部軍団にとっては全く予定通りの苦戦であって、土地を確保できず順番に失ってはいるものの、帝国軍の動きを完全に吸い寄せることにもなっているので悪くない取引を続けているとも云えた。今のところ橋頭堡を引き上げた部隊も壊滅的な被害を受けたものは少なかったし、帝国軍にも追撃できるほどに余裕のある状態でもなかった。
 未だ陣地戦における戦術的優位は一般に共和国軍側にあった。
 最終的に即時の攻勢がおこなえない以上、防御に有利な幾つかの橋頭堡を除いて共和国軍はリザール川周辺から後退することになった。
 予定通りというと負け惜しみになりかねないが、土地を失いつつも帝国軍の余力を奪うという意味で東部戦線としては十分に意味のある状況と云えた。
 ギゼンヌ軍団の超長距離恐怖爆撃はリザール川に橋頭堡を得たことで、観測そのものは以前よりも容易くなっていたが、再び橋頭堡の殆どを放棄するに至って規模としては月に数万発の盲撃ち、季節や天候を選ぶようにしてからもせいぜい三日に数千という爆撃量では帝国軍に致命的な打撃というわけにはゆかず、単に嫌がらせに過ぎなかった。
 前線の将兵たちにとっては、単に兵を鼓舞するための悪足掻きという程度の意味合いに過ぎなかったし、主要道路を狙った帝国軍の兵站の破壊も電算車を失った後には致命的な規模には成り得なかった。
 田園に対する恐怖砲撃の延長で、帝国軍陣地に対しても電探による超長距離砲撃を試みてはいたが、電探車をも失うことを考えれば強引な進出も出来ず、およその地形と味方からの感触を元に砲撃を加えるのであれば、連絡参謀による砲爆誘導と基本的には効果は変わらない。前線の陣地も必死の砲撃をしていたが、すでに連絡が困難になり始めている陣地の砲火では効果もたかが知れていた。
 高初速砲はまる一年余りの超遠距離砲撃という本来運用外の酷使によく耐えたが、四五千もまともな整備がないままに撃ち続けると、一門また一門と櫛の歯が欠けるように辛うじて暴発をしないのが別れの務めというように焼き付いた。
 もともと量産試験品をでっち上げるようにして持ち込んだそれの半数ほどは、製造元のローゼンヘン館でも出来が怪しいとされていたもので、一リーグ先の自動車の運転手の頭を確実に吹き飛ばすことを目的にした本来の用途に比べれば、ただ向きだけ定めともかく距離を飛ばせば宜しい、という遥かに容易い用途ではあったが、整備もないまま元来の設計と違う運用をされていることも事実で、機械としては設計上の想定の半分ほどの実績で三割ほどが寿命に至った。
 未だに所定の精度を概ね保っているのは全体の三割ほどであったが、砲弾や装薬である程度の延命を図っているとはいえ、扱いや天候などのちょっとした影響でいつ寿命に至ってもおかしくないような運用を続けていることは、北部軍団司令部の大方の者達にもわかっていた。
 軍団司令部の幕僚たちの理解のうちでは、この砲は共和国軍前線部隊の悪足掻きのための魔女の護符のようなもので、戦士たる彼らが頼るべき剣でないことは明らかだった。
 だが帝国軍、殊に帝国の植民者たちにとっては戦争を強く意識させるもので全く意味が異なっていた。
 彼らのある意味で無謀なまでの楽天的な躍進も無責任なまでの自意識も、戦争の只中に放り込まれている、という現実をつきつけることで冷水をかけられたように萎縮していた。
 共和国軍はついには仕掛けた自身が出血に耐えられなくなり、兵站連絡の限界からリザール川近辺からはあらかた引き上げていたが、去年までの戦線の動きを追うような帝国軍民兵や植民者たちの活発な浸透は今年に入ってからは殆ど見られなくなった。
 少なくともペイテルやアタンズはおろかイズルークス城の見える位置まで帝国の植民者が入り込んで耕作を始めているようなことは起こらなくなっていた。
 恐怖砲撃と前線の押し上げによって帝国軍に陣地への強襲を強要する、というワージン将軍の眼目はあらかたの土地を失ったことで成果は不確かながら、しかしおよそ果たされた。
 だが一旦は確保した土地、それも全く象徴としてわかりやすいリザール川流域周辺一帯を再び譲ると云う結果は、将兵に苛立ちを与えた。
 前線を支える苦労はある意味で織り込み済みで、そこは将兵の責任と云う意識も幕僚たちにはあったが、当然に得た勝利に対する手当を仕切れていない後方大本営に対する苛立ちのほうが大きかった。
 占領地が増えれば当然に捕虜が増えることはわかりきっていたことで、それによって軍の行動が阻害されるという事態が起こることは、既に数年前に明白だったはずだったからだ。リザール川まで押し出すことが作戦の基本骨子であったのに、それを達してみれば戦果の維持の手当ができないでは苦労の甲斐がない。
 各軍団司令部でもこの事態が完全に予想外かといえば、実はそうではない。
 馬車での捕虜の移動は前線で管理できる馬匹の規模や土地の規模を考えれば、そもそもに事の初めから不可能事だったし、後方が貨物車を優先的に回しても、また相当に困難だった。更に云えば捕虜を受け入れる各地の事情もある。
 部隊の出血を兵站が支えられるかは判断が難しかった。
 それでもなお東部戦線を戦域とする共和国軍各軍団が攻勢に出たのは、帝国軍の手当がなされれば、その明白なまでの物量人員によって戦線が塗り潰されるようになり、今度は開戦時の奇襲とは全く異なり、挽回不可能な密度と圧力を持って飲み込まれることを恐れたからに他ならない。
 共和国軍が恐怖を払拭できるときは、自身の兵站で維持できる長さの戦線に敵を押し込んだとき初めてようやくに訪れるもので、それは川が深く西に動いてしまい、湿地の大半が今は農地と化してしまった以上はリザール城塞の排除とその背後のベイゼル地峡のリザール側出口を塞いだ時にようやく訪れる。
 それは、十年前であれば夢物語というのもバカバカしいものであったが、大本営では様々に登場した新技術によって可能であると考える者も多かった。
 だが、依然現実としてはやはり人員と物資の輸送の中心を馬車に頼る兵站能力の限界として、極めて困難な作戦目標でもあった。
 そういう作戦目標を打通できる可能性として軍都に到達した鉄道輸送は俄然注目を浴びていた。
 早くも起こっていた兵站本部鉄道課の失態も含め、鉄道に対する期待はいや増し、二万人規模の鉄道軍団なる部隊の創設をも含め検討が起こっていたが、およそその規模に達していたローゼンヘン工業の装備する五千両ほどの重機その他補器を含めた機材類を整備する時間と能力が共和国軍の望む速さで身につくかはかなり怪しいところでもあった。
 ローゼンヘン工業が七年にわたって営々とおこない、ここに来て彼ら自身二度目の業務整理の必要があるという事業に対して戦争を左右する短期間におこなえるのかという消極的な疑問と、その足元に絡みつくような諸州の戦争協力への足並みの揃わなさが、共和国軍を再び縛り始めていた。
 戦争推進への大きな原動力になっていたデカート州がローゼンヘン工業の様々な業態見直し期間にあることで、全体に勢いが落ちていることと、鉄道と電話を通じた各地で起きている風聞じみた抵抗感が起き始めていることが原因だった。
 それは全く皮肉なことに鉄道と電話の接続によってもたらされていた。これまでは単なる地域の銀行と身内と僅かな例外の間だけだった株式や債券の売買に州外のものが加わることであったり、或いは域外の強力な商品が流れこむことで商品の価値が急激に破綻するとか、或いはもっと端的に強力な鉄道保安隊によって州の自治が犯される可能性について語られていた。
 ワイルで起きた襲撃事件については大議会で弁明がおこなわれ、様々な見地を鑑みてもローゼンヘン工業鉄道部にも警備業務をおこなっていたペロドナー商会にも非はない、と結論されていたが、しかし同時にその威力がまかり間違って発揮された場合を考えれば恐怖を感じずにはいられなかった。
 そういう政策論や感情論を孕んだ政治議論を置き去りにしたまま、ローゼンヘン工業は鉄道を東に伸ばすことをすでに発表していて、北はすでに接続したバートンからそのままギゼンヌへほぼ一直線に伸ばす路線、その南側に緩やかに波を打つようにアミザムから東に発し、キャソウズやスゼンズなどという山間部を走る主街道南側の更に南側を抜け、ヌモゥズからウモツなどを抜けて、ペイテルからギゼンヌとアタンズを経由して南へ折れ、南街道の終点ドーソンを目指す予定だった。
 一応の終点である前線の拠点には、年内到着は当然に不可能で早くとも再来年の計画ではあるが、そこからも前線はすでに数十リーグ離れていた。リザール川を押し渡りリザール城塞を目指すとあれば、丸めて百リーグといったほうが面倒が少ない道のりだった。
 各地で鉄道に関する様々な意見があって、誰がどうするべきであるかローゼンヘン工業に任せて良いのかという問題も多く、様々な形でローゼンヘン工業も質問を投げかけられていたが、前線拠点から戦闘地域を含む前線までについては、さすがのローゼンヘン工業も計画立案は不可能とお手上げを示していた。
 今や、私企業としては屈指の軍協力者であるローゼンヘン工業といえども、軍の作戦方針に直接口を挟むことが許されるはずもないし、そうせざるを得ない状況も望ましくない。非常措置としての統帥権の範囲を超えた私的な関係は不健全な結果を生む。
 そもそもに利益を求める私企業が、公益を求める国家の大事としての戦争に首を突っ込みすぎるのは、不可避とはいえあまりに不健全だった。
 そういう状況建前で軍が鉄道の展開を早めたいと望めば、おこなえることは鉄道の展開を早めるために沿線経路の確保、ということになる。
 人員配置の上では圧迫するが、前線への道路事情の改善は補給連絡にとっても急務であったから、基礎工事としての道路整備は、敵戦力の排除が終わった占領地の捕虜の移送と同時に、或いは捕虜の労務としてローゼンヘン工業鉄道部の規格に従った道路工事がおこなわれることになった。
 鉄道基礎工事は、これまでの街道とも農地とも別の新しい土地を刻むようにして始められているが、それぞれの数千の捕虜たちを管理するために、ほぼ同数の共和国の兵隊が管理をする必要があり、再編成中の部隊がその任務に充てられた。
 それはデカート州で行われている労務に比べれば、遥かに容赦のないものであったが、敗北の記憶のある捕虜にとって或いは勝利の記憶のある兵たちにとっても当然の行為として、ただ粛々と多くの脱柵や死傷者を出しながらおこなわれることになった。
 捕虜の問題は未だに前線では重大な問題だったが、これまでの置き場に困る問題からは大きく改善したとも云えた。
 それがどういう意味を持つかといえば、これまで起きていた捕虜脱柵や処刑という処断が収監管理上の責任問題だったのに比して、全く同じ処断が労務管理上の管理事故として必然としての問題となり、監視監督責任から組織の運用上の損失危険と扱われることになったことが大きな意味を持っていた。
 東に向けて前線に向かって作業をすすめる労務者は、その歩みがたとえ蟻の歩みとさして差がないとしても、脱柵へ向けた希望を捨てるわけにはいかなかったし、南であっても不幸にして西であっても同じことだった。
 前線から西に伸びる道は元来ローゼンヘン工業で描いたものとはズレていたが、豆の蔓がいつの間にか伸び方を誤っているようなもので、摘むのも糺すのも容易なものだったし、或いは鉄道規格でならした道は共和国の道路としては相当に上等な種類のものでもあった。
 共和国軍は全般的に優勢であったが、人員の数で劣る歩兵戦闘において無傷というわけには当然ゆかず、一般的な兵站規模では劣っていた。
 死者はこれまでよりだいぶ減ったが重傷者は却って増えていた。
 軽傷者が戦力として期待できることと戦況が好転して様々な支援の密度や便が上がったことで、放置される重傷者が減ったという意味であるが、結局けが人や死者は落ち着いたところで後方に下げ補充の人員や装備の補給を得ないと、部隊の戦力を維持できないことに変化はなかった。
 これまで死んでいた者が生き残り、戦えなくなった者が命をつなぎ続けられる程に戦いが有利に進むようになった。そのことが巡り巡って物資の不足を引き起こしている、たくましく育ってシャツの首周りが合わなくなった様な兵站連絡の未熟な共和国軍にとって不快な状態ではあるが、この戦争中には二度と戦力としては期待できない重傷であっても、兵が前線の勝利を後方に伝えることの意義は必ずしも小さくはなかった。
 地方の州はともかく、大本営や共和国に広がる軍組織は明らかに勝利を意識したし、様々な形で不満を噴出す場である大議会でさえ、軍の敗北や共和国からの離脱を仄めかすような発言は鳴りを潜めていた。
 戦況の好転をようやく見た開戦から七年を迎えると、各地の軍連絡室にも戦傷を負いつつも退役を拒否する将兵たちが忙しさを増す後方事務に配置されるようになり、前線の苦闘と勝てないわけでない強敵である帝国軍の脅威を語り、しかして数で劣るも様々を駆使して国土を取り戻さんと戦線を押し返す共和国軍の勇姿を伝えることで、地方の娯楽に飢えた人々に野火のように戦争への熱を高めることになった。
 その勢いはワイルで起きた事件も含め、各州の政治的主導権を持つ人々階層からは胡乱な目で見られつつも、共和国の理念のもとに共和国軍が義務を果たす、という名分が成り立つ以上、今は先行きの不出来を占うよりは、今ある儲け話を探すほうが遥かに前向きだった。
 ダッカの港のとりあえずの不愉快ごとであった港周りでとぐろを巻いていた海賊たちが、女海賊のケツを追いかけるように南の島に出てゆき、話に乗り遅れた間抜け共が案内を求めるように私掠船免状を求めるのを、餞別代わりに持たせてやる手間で追い出せることは街の治安の上からも良いことだった。
 ついでのようにもたらされた鉄道計画について、軍都からの線が南東にまっすぐ降りてくる運びになっているという。ついては港口まで鉄道を敷きたいが、鉄道目的で土地を買い上げるにどちらがよろしいか再来年までに決めておいて欲しい、というローゼンヘン工業の申し出の通達がダッカの政庁に届いた。
 鉄道の噂は聞き羨ましくは思っていたものの、誰もが突然にすぎる話題で戸惑ってはいたが、一応二年の猶予のあることで、礼儀をわきまえた申し出であると云えないでもない。
 少なくとも無法に召し上げるという種類の話題ではないことについぞこの間の騒ぎを知る者達は内心ホッとしていた。
 海賊騒ぎの様々で歯がへし折れる勢いで飴玉を口にねじ込まれた形のダッカ元首マリポスエグラスとしては、口約束の履行を当然に疑っていたわけだが、夏が過ぎて秋の収穫の頃、鐘楼は正しく正午を告げるようになった。
 大議会で先に話題になっていたワイルでの鉄道襲撃で、ワイル州側はローゼンヘン工業がペロドナー商会なる無名の会社に街道往来の整備なる名目で土地利用を申し出させておいて、ワイル州が寛大にも無償で土地を提供するや鉄道なる長大な建物で不当に土地を占拠し、州に利益を還元せぬばかりかそれを咎めた者たちを害した、と訴えていた。
 だが、ワイル州はそれに先立ち軍にも納入していない新兵器装甲車百四十とその弾薬をはじめとする備品を受け取っており、その金額は三百億タレルに至るもので、ワイル州側が寄付であると主張するその物納された物品が時価であるとしても、常識的に支払いそのものは相応の形でおこなわれているように見えた。
 ローゼンヘン工業の弁明によれば通行税も鉄道運行の経費を無視した法外なものであるといえ、実際その金額はワイルの税収を考えてもその共和国協定による国軍協力を考えても巨額だった。
 あまつさえ先制攻撃をおこなったことへの自衛反撃によってどれほどの損害を受けようと、鉄道運行を直接に三日間妨害し、その施設人員の損害と予定されていた輸送量とを考えれば、共和国軍軍政部がどちらの弁明に寄り添うべきかは熟考の余地がなかった。
 というよりも共和国軍にとっては、よくもわずか三日で鉄道設備施設が復旧し業務復帰したというべきで、仮にワイル州側の襲撃が完全な形で成功して短期間で鉄道運行の復旧がならない状態になっていれば、戦争の継続は完全に不可能になっていただろうと共和国軍は考えていたし、そう考えればこそ大議会での多数派工作を共和国軍各部署が直接間接におこなってもいた。
 エグラスにはチルソニアデンジュウルという面倒くさいなりに話の通し方を知っている人物とゲリエマキシマジンが義兄弟であるらしいということは、ああなるほど、と頷けるところもあり、ならば義弟に言伝をお願いしたい、とリベルティラという名を与えられることになった島の様々な扱いの件についてデンジュウル大議員と面談のついでに港湾河川警備用の機関船をねだった。
 過日港の中で暴れた海賊船は、その気になれば本当に港口を丸焼きにできるほどの威力があったはずであることは、港湾警備にあたっていた者たちから報告を受けていた。
 それによほどの鉄砲撃ちでも港から鐘を鳴らすなどという芸当をそうそうおこなえるものはいなかったし、船の大砲でそんな芸当をするとすれば、それはなんというか、魔弾の射手というべき者だった。しかも、そのとき砲を扱っていた者が喚いていたことが本当だとするなら、当て方を手加減をしていたのを失敗して鐘を吹き飛ばした、ということだった。
 鉄砲撃ちの腕が船の戦いの全てでないことはそれとして、それができる船と砲がほしい、というのは私掠船免状を出している州の元首としては当然の希望だった。
 とりあえず、数が作られていて多少余裕ができ始めていたハルカゼ型を十二杯と後日プリマベラの同型の武装船を送ることで、鉄道用地の買収代金に当てることになった。物納は概ね時価だったので、さまざまに予算上都合が良いというのも大きい。強力な中央銀行は貨幣流通という意味ではひどく都合が良いが、地方行政という意味では様々に障害も多く、面倒がというよりも、解決困難な厄介を通り越して様々な危険も引き起こす。
 ワイルがなぜいまという話題についてはわかっていないことが多いが、鉄道が展開していない自分たちの価値が高い瞬間であればと考えたのかもしれないし、或いは何か別の意図があったのかも分からないが、ともかくワイルの政治的な暴発は彼らの意図とは全く別の形で決着し、各州指導階層には不安を残す結果となった。
 それだけの威力を持つ組織を、私掠船免状の騒ぎでみせつけた果断さを持った人物が采配している、と云う事実はダッカ元首としては頼もしさよりは先に脅威を感じるべき事実で、先に彼が会社の計画と約款を持って多少の時間的余裕をもって現れたということは、ひとつ安堵の溜息をついてから改めて腹を据えるべき事柄だった。
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