石炭と水晶

小稲荷一照

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ペラスアイレス収容所 共和国協定千四百四十三年立秋

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 夏の終わり秋になって堰堤の工事がいよいよ終盤大詰めになっていた。
 一部終わっていない遮水層タイルの施工を残し、堰堤内部に四本あった工事線のうち一本が撤去され始めていた。五千人分の宿舎が撤去され八千人が配置を外された。
 正直に言えば、ほとんどの労務者が工事の最後を見届けたかったし、そう出来ないことをあたかも裏切りのようにさえ感じていた。
 既に工事の現場では千五百人近くが殉職していたが、土石セメントや樹脂瀝青などに埋もれた者も含めて千人ほどは遺体を回収して収容所で葬儀をおこなっていたし、残りの者も遺品を回収して遺族がいれば遺族に渡され、いなければ墓に埋めていた。
 戦死の理不尽に比べても事故の理不尽はやり場のないものだったが、そのことに対して工事をおこなっていた者達は恨みは持っていなかった。現場そのものは危険だったが大抵の事故は危険そのものによってというより、些細な不幸の積み重ねで起こっていた。
 少なくとも会社は葬儀をおこなうことを許すくらいの配慮は見せていたし、遺品も相応に扱った。
 今は区割りが増え棟も増えた収容者たちにとっては、巨大な事業が終わりを告げようとしている事実と、それが終わった後の処遇について不安を感じていた。
 巨大事業といえば戦争の帰趨も、新たに送られてくる捕虜が再び増え、収監者が四万を越したことで、帝国の戦争指導について流石に疑問を感じる者たちが増え始めた。
 脱走の不可能性についてたかをくくっているわけではないが、人員と施設管理の都合で新旧の収容者は労務から帰るたびに区割りを入れ替わっていて、それぞれに交流をおこなっていた。
 結局、戦争は勝てないのか、そもそも何のために国を出てきたのか、という議論が歯止めをかけられない状態になり始めていた。
 これまで彼らの重石になっていた、目に見える圧倒的な大事業が完成になりそうである現実が、ブツブツとした不安をかきたて始めていた。
 久しぶりに鑑別所に千人近くが送致されることになった。
 ローゼンヘン館北側の鑑別所は今は鑑別所として機能していた。収容所内で問題を起こした収容者をひとつきから四ヶ月労務期間を基準とした期間、収容所から隔離するそういう施設だった。所内での行動は制限されていないが、私物の権利は鑑別所に保管され一時停止される。収容者の間では修道院と呼ばれていた。
 所内はかつて労務も亡命も拒否した千名ほどの軍人が運営していて、敷地の外側には警備もいる。収容所とどっちが収容所らしいかと疑うような雰囲気だったが、騒ぎがエスカレートするよりはマシだった。収監されている軍人たちはそれぞれに朝起きて走ったり体操したりと畑や施設の手入れの合間に格闘などの訓練をしてみたりと軍人らしい体動きを維持する様々をおこなっていたが、脱走については考えていない様子だった。
 大雑把に理由が二つあって、目算が立たないということと効果が見えないということが理由だった。
 一つの目算が立たないというのは、原隊復帰までの計画のあらすじが想定できないということだった。単に施設を脱柵すること自体は不可能ではない。だが、原隊復帰となれば途方も無い幸運が必要だった。本国への帰還はそれよりもやや可能性があったが、脱走兵以外の扱いを求めるための証が準備できなくてはならない。士官貴族でなければそれは極めて難しくなる。故郷で隠れて生きるのなら、多少は楽だが、それが望みか。
 効果が見えない、というのは帝国の勝利に向けた戦争協力を独自におこなうことを決意したとして、共和国の無法は帝国のそれに比べて底が知れない。粗野蛮行と云う意味も確かにそのとおりだが、そもそも住民の密度が低く住民同士で頻繁に殺し合いをしている野蛮な土地でもある。もちろん、理由がないわけではないが、つまりは互いを虎狼の類と見做した上で生活をしている。貴族の面白半分の蛮行とは訳が違う。
 人口の多い都市部においてはそうでもないが、郊外では基本的に命が軽い。
 戦争遂行のために共和国人を殺して歩いても、物狂いの類と同じように始末されるだけだ。
 そういう国の住民を一人二人殺しても戦争協力にはならない。野に伏せて過ごすならば、亡命と変わるところもない。
 それが悪いとも言わないが、それならば社員登用を受けたところで同じことだ。
 ここから脱柵するくらいなら、現場で事故を装って死んだことにしたほうがまだ目処がある。
 だが、結果は同じことだ。
 戦争が終わらなければ帰れない。
 そういう話が出れば、ここが修道院と呼ばれる理由も分かるようだった。
 帰るところや命が云々的な禅問答を除けば収容所の捕虜たちと似たような悩みをマジンも抱いていた。
 労務者として技術をつけた者たちを集中的に社員登用していたのもその一環だったが、結局このあとどういう風に離散させないまま管理するのか、最終的に永住させるのか殺処分するのか返還するのか、デカートの州としての立場を定める必要があった。多くの州のように或いは離散させてしまうというのも、国情を考えれば必ずしも悪くはない。
 どのみち彼らはゆく先なぞないわけでどこで死のうが誰が死のうが同じことだ、と云う態度も論としては、当然に一つの態度として現実的な妥当さを持っていた。
 ただ、このあと鉄道工事をおこなわせるとしても例えば、八万の人間に鉄道工事をおこなわせるつもりなら採算を考えれば十を超える線路を同時に敷かせる必要がある。
 マイルズ保安官に元老としてそろそろ次の何かを考える必要があると訴え相談した。
 マイルズ保安官は例えば四五十の線路を敷くとして何が悪いのか、と云う様子で不思議そうな顔をしていた。
 つまりそんなことをしても必要な採算区間なぞ一二年で建設を終えるつもりでないと建設費ばかりがかかって役に立たない。
 永遠に完成しない計画なぞ使いものにならない。
 そう言うと、マイルズ保安官は呆れたような顔になった。
「それはお若いの。まじめに考えすぎだ。採算とか必要なんてものは本来労務にはあってはならないものなんだ。そもそも論で働かせることに意味は無い。連中が何かをやっている、こちらが何かをやらせている、と云う関係だけが重要なんだ。労務と云う関係で言えば、あれだ。忘却の河原で石を積むと風で崩される、ああいう感じの仕事がいいんだよ。ま、一から十までそれじゃ困るわけだが」
「堰堤事業に使ったことは失敗でしたかね」
 少しすねたようにマジンが言うのにマイルズ保安官は困ったような顔をした。
「いや。あれはあれでいいと思う。というか、ああいう見上げて首を痛くするような事業はまさに労務向けだ。しかも技術がない連中も上手く使っていたみたいじゃないか。手頃に達成感があって無限に労働があるのが労務向きの作業で、そういう意味じゃあの堰堤の出来は、出来が良すぎることを除けば良いものだ。と思う」
「出来が悪ければデカートが全滅するものですからね」
「そうなんだが、まぁ、本来そういうものは労務には向かない。そういう意味じゃ鉄道は労務向きの作業ではないんじゃよ。特にお前さんがやっているような、採算を目指すものはな。堰堤が労務に嵌ったのはなんというか、こうああ。労務者がこりゃ無理だ、と云う感じが良かったのであってだな。いついつまでにとか、そういう話ではうまくまとまらなかったはずじゃよ」
「しかしそしたらボクの持っている事業は基本的に労務向きじゃないですよ」
「ふむ。まぁそうか。しかしそういうことならアレだ。新しいのを起こしたほうがいい。例えばデカートにない産業で、……例えば、むう。紡績とか、製靴とか、服飾産業、お前さんところで作っている人絹とか炭絹とかガラス繊維とかああいうもので布を作って売るとか、元来は果てしなく材料が必要なセメントとか、そういう意味じゃ鉱山とかもいいんじゃが、フラムのアレじゃまぁ。今は意外と難しいな。じゃが、基本的には最終製品ではなく、材料を作る作らせるほうが労務には向いている。紙とかもいいかな。お前さんところの紙は評判はいいが量が少ない。まぁ自前で使っている分だけだろうからアレだが、樹海に鉄道を通すつもりなら丁度いいんじゃないかね。……こう言っちゃなんだが、デカートからも遠い」
 様々に迷うようにマイルズ保安官は口にした。
「ミョルナで二万人を使って瓦礫の中から鉱石の選別をさせていますが、そういう感じですか」
「まぁ、そうだな。それはどれくらいで終わる」
「まぁ三四年というところでしょうか」
「いっそミョルナで鉱山を始めたらどうだ。何十リーグだか何百リーグだか知らんが、山を刳り貫いたなら、いくつか有望そうな土地もあったろう」
「それはまぁ」
「そこで鉱山をやるといい。どのみち鉱石の選別は必要だし、そのためにデカートには石割り職人なる妙な日雇いの下請けもいるくらいだ。お前さんとこじゃだいぶ機械でやっているようだが、今は堰堤のために瓦礫が瓦礫として必要だが、この先は少し変わるのだろう」
 我ながら名案を出したというようにマイルズ保安官が口にした。


 アリアルダガズギィがローゼンヘン館に転がり込んだのは深い理由があったわけではない。凡庸な農夫の娘として生まれた彼女はお上の命令で植民者として送り出され、戦争捕虜として捕まって、捕虜収容所で暴動があったドサクサに紛れて出てきた。そこで行き倒れて拾われた。
 広く使用人が多く出入りする割には屋敷そのものを手入れするものが少ないらしく、あちこち手入れの行き届いていない屋敷は主の無頓着を感じさせた。
 彼女は掃除女としてローゼンヘン館に住み着くことになった。
 全く館の中の掃除はいい加減で、必要であれば小銭をちょろまかすことは造作もなさそうだったが、一方で扉に触れることも許されないような部屋も幾つもあった。
 この館には入っただけで死ぬような部屋もあるという。
 どうやって死ぬかは様々だが、大方は窒息と毒で死に、目が潰れたり雷に打たれて死ぬ場合もあるという。
 ともかく、工房には一切近づくな、と厳命されていた。
 殊に赤、オレンジ、黄色の扉とノブには近づくな触れるな、と採算言われていた。
 彼女の知る限り、黄色の扉はいくつかあったが、その他の色のものはまだ見たことがない。
 そういう屋敷に突然たくさんの新入りが増えたことに、彼女は驚いていたが、好色な主が帝国本国の貴族様よろしく、大量の女をどこからか纏めて仕入れてきたことは、彼女には想像がついた。
 なんというか、ああいう女達の酒場女とは違う腐れ方をした雰囲気は、元の扱いの程度にもよるがなかなか抜けない。
 村長の妾がそんな感じだった。
 とは言えそういう何百人かのうちの何十人かとはすぐに馴染んだ。
 なんというべきか、部屋の整理をして女たちの寝床を作らなければならなかったし、全員が全員トゲトゲした野良猫のような雰囲気というばかりでもなかった。
 いってしまえば、経緯は違えど似たような立場であることはすぐ分かったから、幾人かとはすぐ打ち解けたし、打ち解けなくても顔見知りと云う程度にはすぐに馴染んだ。
 そういうわけで、彼女は不審者にすぐ気がついた。
 泥棒か。
 と思ったときには目があってしまい、逃げ出した。
 彼女の窮地を救ったのは特に仲が良いというわけでもない女達の一団だった。
 なんというか、愛想のない周囲になじまない女達で、いつも四五人の仲間内でつるんでいた。バカにされているような雰囲気がいけ好かない女達は、アリアルが必死に走っているのを見てとって事情を察したらしい。
 息が上がって事情が話せもしない状態になっているアリアルに一人が付き添い、残りがアリアルが走ってきた方へ向かった。
 ようやくアリアルが泥棒、と言った時に廊下のむこうで騒ぎが起こり、賊が女たちにひっ捕らえられていた。タマシタスズキと云う名の青年は帝国軍の上級軍曹で、つい先日の捕虜収容所で起きた暴動の中でも態度の悪かった人物として鑑別されていた。
 当人は黙秘を続けていたが、マジンには書類上の見覚えがあった。
 というより彼はかなりの努力をして収容者の顔と名前を覚えるようにしていた。おかげで最近は手配書に目を通すことがおろそかになっているほどだった。
 脱柵か。
 ということはすぐに分かったが、目的がわからなかった。
 X線で胃の中と肛門に何やら仕込んでいるらしいことがわかり、胃の中身はあっさりと引き上げられ、肛門はかなり抵抗したが浣腸をすることで取り出せた。
 自分たちがかつて故郷でさんざんおこなわれた尋問を容赦なくおこなう元女性軍人たちは全く的確にマジンの作業を手伝ってくれた。
 肛門から見つかったものは青弾と釘を蝋で固めたものだった。
 ちょっといびつな座薬のようなそれは収容所で手に入れるのはそれほど難しくない。
 山岳部の見通しの悪いところでは青弾は呼子と合わせて作業の合図として使われていたし、釘は収容所内の労務で使う分を預けられていた。ロウも靴や様々なものの手入れに必要な贅沢品として兌換券で手に入れられた。
 胃袋の中身は砂金とカミソリの刃、針金と青弾を革袋に収めまるごと蝋で固めたものを、歯から糸で胃の中に吊るしていた。
 いかにもな潜入工作を得意と手慣れている様子だった。
 アリアルを素手で殺すくらいはわけがなかっただろう。
 捕まえたデミオマツダの班に労務に差し障る程に壊さないように、と云う条件で尋問を任せてみたが、丸二日タマシタは堪えた。
 三日目からは音を聞かせて質問をしてみた。女の喘ぎ声と粘液質の水音、雑踏と砂の擦れる音。それからタマシタ自身の息遣いと声を僅かに遅らせて耳元に流した。
 二日と保たずにタマシタは彼の知るすべてを答えた。
 特に重要だったのはタマシタと同様の潜入工作を専門とする特務部隊が後方撹乱を目的に後送を受け入れたものの、予想外の位置に後送されたことで調査が遅れていることがタマシタの口から告げられた。労務終了後、破壊工作の計画を建てる予定だという。
 彼は夢うつつの中で帝国に帰って英雄として扱われ、女達にもてはやされる幸せに浸っていた。質問が終わった後、しばらく別の説得をそのまま彼におこなったところ、牢の中で目を覚ました彼はマジンに説明したいことがある、と気まずげに言った。
 彼は、帝国の後方破壊を主に行う部隊の一員であるのだが、収容所の人々の扱いを見るに彼らを危険に晒すようなことは忍びなくなった。ついては彼の部隊の者達の名前を教えるので事件を起こす前に捕縛してくれないか、と言った。どういう種類の計画であっても彼らが労務に付いた翌日に収容所内で大規模な火災が起きるように仕掛けをおこなう、すでに一部の下準備は済んでいる。と云う説明だった。
 タマシタ自身の扱いについてはできれば命は助けて欲しいが、ここまで口にしては覚悟もしている。と告げた。
 配置換えを装ってタマシタの指した三十一名が捕縛され同様に音と僅かな薬物を使った混濁と誘導とで更に所内の協力者二十五人が捕縛調査された。
 タマシタの言葉を裏付けるように収容所内の幾つかの建物から仕掛け爆弾の部品と材料が見つかった。爆弾というよりは発火装置と云う規模だが、ボヤを起こすには十分で既に十万近い収容者がいる収容所では十分に危険なものだった。
 所内の協力者を調査したところ更に四十八名が発覚し、百名余りが暴動計画に協力をしていた。
 幸い更なる協力者はいない様子だったが、所内の不満分子が専門家と接触をおこなったことで急激に核をなし始めていた実態が明らかになった。
「危ないところだったな。お手柄だった、デミ。とても助かった」
「いえ。見つけたのはアリアルですし、私たちはお手伝い以外はあまり大したことは。結局、尋問を成功されたのは御手でありますし。非力を恥じております」
「それでもアリアルの命を救ったのはお前たちだし、十万人の命を救ったのもお前たちだ。お前たちが殺さず囚えなければ、十万の収容所の労務についていない六万かそこいらは殺さなければならなかった。聞き分けが良くても三万は死んでいたろう。よくやってくれた」
 当時デミと組んでいた警備班五名を褒めると五人は帝国軍式の敬礼で応えた。
 その、とデミが意を決したように口にした。
「尋問に使われた機械の概要はご説明いただきましたが、我々に使う必要はないのでしょうか」
「ない。タマシタを尋問したのは不審な形で様々の機器を隠し持っていたからだし、アリアルが襲われた理由が知りたかったからだ。あの女が脱柵者であることは既に告げたな。今更だが当然の手引をしている者がいるのかと疑った。アリアル自身に対する尋問はやっていない。が、まぁ害があるにせよ、家の中のことだ。お前たち自身にあの機械を使うのは興味があれば使ってもいいが、希望者はいるのか。言っとくが面白半分でやるつもりならやめておけ。自分で豚小屋に戻るようなものだ」
 結局ブガディが施術を受けることになった。
 彼女は半日ばかりの施術で、マジンに百タレル借りたので、この場で自分に一発ぶち込んで永遠の愛を誓わせ受け入れるか、五百タレル払ってすべてを思いださせるか選べ、と理不尽なことをのたまった。
 ブガディが金貨五枚を受け取り五百タレル払った、とマジンが念を押した途端にブガディは床にへたり込んだ。
 ブガディは全くギリギリまでデカいギャンブルの追い込みに乗ったような気分でいた。それが金貨五枚を受け取った途端に自らが望んだペテンに気がついた。
 彼女自身永遠の愛なる軽薄なものが何を意味するのか当人にもわかってはいなかったが、ともかくそれを誓いとした以上は万難を排して努力邁進するつもりであったし、それは心地よく崇高なものだと確信していた。
 恐らくそれは碌でもない結果になっただろうと彼女自身命拾いをしたことを悟った。
 音響と酩酊、それから当人による発声による承認が引き金になって、一種の宗教的体験を完成させる。
 この技術の巧妙なところは設備が比較的単純で暴力性が低いために施術者尋問者の肉体的な疲労や精神的な呵責が少ないことにあった。そして尋問対象を誘導した後は彼ら自身の協力によって作業が継続できることにあった。
 会話によるため誘導に時間がかかる場合もあるが、音響機器からの録音再生が可能ならば尋問者が必ずしも監視同席している必要もない。
 背景音は川のせせらぎや雑踏などの日常音と欲望を連想させる食事や性交を印象させる音を混ぜ込み意識を飽和させつつ、尋問対象の呼吸や心拍という彼ら自身の存在音を遅らせ聴かせることで、存在認識をずらすことに技術的な特徴がある。
 だいたい丸一昼夜で被験者は時間間隔と自己認識を喪失する。薬物や肉体的な接触は苦痛を与えない範囲に留める。したがって注射や吸入は施術に先立っておこなう必要がある。
 あとは、彼ら自身の声をきかせてやることが重要で、一旦別の名前と人物を載せ込み話を進める。
 概ね名前を疑ってやるところから始めるのがいい。しばしばその作業は観察者尋問者の人格を預けることで面倒が減ることも多い。
 その後、彼ら自身が慣れてきたところで、本来の彼らを思い出させ説明を求める。
 そして、他人の動機を自らのものとした彼らに、彼ら本来の動機を問いかけてやることで、妥協点を彼らに示させる。
 ブガディは彼女自身の苛烈な経験からいささか極端な結論を彼女自身が引き出したが、尋問者が妥結点を妥当と判断すれば施術は終了する。
 技術の構造としてはそれほど難しくなく、潜入工作を生業とすると云っても社会性を身に着けた軍人として或いは全くの市井の人々として過ごしていた破壊工作の首謀者たちは、自らが感情のままに犯そうとしていた危険を良心の呵責として吐き出した。
 もちろん皇帝陛下の威光を遍く伝える事こそが臣民たる彼らの責務であるから、万人に恥じぬおこないを心がけるべきであった。が無論、収容所内ではそのような風紀を保つことは難しい。
 ならばせめて彼らが率先して相談を受け、不満分子が危険に至らないようにすることこそが彼ら潜入工作煽動などに知識のあるもののおこなうことだろう。と彼ら自身が納得して収容所内の風紀が暴走しないように協力してくれることになった。
 たったの百人とはいえ、収容所内に風紀を維持しようと云う耳目が存在することは看守たち管理者にとってはひどく作業が進めやすかった。
 とくに爆発物などの危険物製造の試みというのはどうしてもある程度防ぎ難く、区割りの移動や労務の配置変更などの穏やかな方法で対処する必要があって、そのための準備時間を彼らが稼いでくれた。
 打ち解けない女達の一団は帝国騎士階級の出身で、彼女ら自身に含むところはないが慣れ合うには時間が足りない、というデミの説明にアリアルはあっさりと納得した。
 お姫様を守るためとはいえ、敵に身を落とす女騎士の心情がアリアルには物語のように感じられ、彼女の内心の様々を氷解させることになった。
 大雑把な話としてデミの説明は間違っていない。
 ある種の懲罰的な取引や自らの譴責で獄に落とされてはいたものの、デミやブガディをはじめとする五百名ほどの女達は帝国の騎士階級のものたちで、身分を剥奪される前はそれぞれに部下をもつ士官でもあった。
 オーベンタージュ家の豚小屋はやや極端な例ではあったが、帝国軍の貴族は恐怖と懐柔による統治と比較的品質の安定した兵士としての資質を持つ子供の確保のために、似たような施設を構えていた。
 それぞれの貴族の領地にはそういう親の分からない子供たちが専門に集められ教育されていた。またそれが出来るだけの豊かさがほとんどの貴族の権威の源泉でもあった。
 人数で千人というと少し驚くが伯爵領の二百万のうちの千人で兵員に限っても五万のうちの千人でしかないとすれば、共和国との豊かさの基準が全く違うことに気がつく。
 帝国は国土の広さそのものは共和国の三分の二というところだが、人口という意味では三倍あまりであった。
 そういうモノがのしかかるように山を超え国境を侵しているという事実にマジンは苦笑するしかなかった。
 瘴気湿地の捕虜収容所は受け入れ収容者数を十二万人に増やした。
 大議会ではデンジュウル大議員が怪気炎を上げてこの事実を訴え、戦況についての見通しを求めていた。
 とうとう大議会の軍政参謀の報告から、ローゼンヘン工業による鉄道運行の完成を待って、と云う言葉が出た。
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