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ローゼンヘン工業
共和国協定千四百三十八年 新春
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年の瀬年明けのヴィンゼの様子は物寂しい。
冬至の祭りと云ってもヴィンゼではせいぜい家々で少し奮発した食事をするくらいだし、その準備のために店や市場が一生懸命はしゃいで見せても、手堅く苦労している開拓農民の財布がそうそう緩むわけではない。
せいぜい実用品の買い直しがお祭りの贈り物だ。
そうは云っても今年の冬は多少事情が違った。
なにがどう違うというわけではなかったが、たしかに商店の売り上げは多少伸びたし、酒場の賑わいも挨拶に顔を出す街の連中が少しだけ長居をしたような気がする。
気がする、というところがキモでよほどきちんと帳簿をつけて少しばかり前をめくってみないと、どれほど伸びたかはわからない。
酒場も同様だ。
だが、町からすこしばかり離れたところに港ができ、街の中心から少し離れたところに、数百だか数千だかの工事人夫や兵隊が屯をすれば、人夫の二十や五十や訓練途中の兵隊たちが街をひやかしに訪れ、寂れ一時は滅びかけた町であるヴィンゼも多少は賑わっていた。
賑わっていたからと売上が伸びるわけではないのが、商売の難しさでもあったが、開拓がまだ軌道に乗ったと言えない町としては、みっともなくない程度の給金の雇われでローゼンヘン館に住み込みをしている連中もいて、どこから来たのか金回りの良い亜人連中もいたりと、気のせいばかりでもなくヴィンゼの年の瀬から年明けも本当に多少は潤っていた。
ヴィンゼに港ができオゥロゥが入れるようになると、プリマベラの甲板にも多少の余裕ができ、希望者はデカートに帰省や買い物をすることができるようになった。
年末年始で十日の労務の休みを許すと、行き場のない連中でも家の掃除や手入れではちょっとばかり手持ち無沙汰でどこかに行ってみるかという気分になって、とりあえずの近場のヴィンゼ、という流れでおっかなびっくり見知らぬ街に旅をする連中が多くいた。
ヴィンゼには狼虎庵もありそういう意味で面倒も少なく、元気者の中にはその日日帰りで現場からヴィンゼで雰囲気を味わい現場に帰る、という連中もいたが、鉄道に乗って五リーグ歩いて遊んで五リーグ歩いて鉄道で帰る、という労力に見合うだけのものはヴィンゼにはあまりなかった。
工事現場には馬も大小の機関車もあったが、現場と飯場の行き来も今では歩きぬくのは辛い距離になった村との間も鉄道列車によるものだったし、もともと機関車も馬も人足がふらりと遊興に使えるほどに数の余裕があるわけもない。
とはいえ今のところは、行ける出来る、というだけでも娯楽になるらしく、鉄道利用が工員については便乗無料ということで一種の肝試しのような雰囲気でヴィンゼに足を向ける者達はかなり多かった。
肝試しというからには、当然に様々に無理のある行程があり、現場の監督をしているモイヤーやヴィンゼの保安官補であるジュールに様々な面倒をかけることになった。
しかし、今のところは他人様の生命財産に関わるような大事件には至っておらず、せいぜいは工事人夫の幾人かが無断欠勤をしたということで懲罰房の準備が必要になったくらいだった。ヴィンゼにとって亜人とはいえ食い詰め者以外の新入居者が多くいることは喜ばしいことだった。
ゲリエ村の学校にマリールが帰ってきたことは子供たちにも教師役の若者たちにもひどく心強いことで、幾人かはマリールよりも年嵩であるにもかかわらず、彼女の指図を受けることを喜んでいた。
リザが事実上の夫人であることをローゼンヘン館の住人も工房の工員たちも理解していて、更に三人も妾らしき妊婦を連れてきて侍らせていることに色々思うところがある者たちもいた。
だが、館の主がその程度のことで自分の事業を疎かにすることはないだろうという信頼もあり、いわば他人事として扱うことに慣れていた。
セラムが大本営の配置辞令を受け勤務に就いてから、屋敷の内外の仕切りがなんだかんだとセントーラに集中することが増えていて、それはそれで家令の面目だったが、急激に様々が膨張する中では事務を専門に扱うものが五人十人いたところで少々苦しくなっていたところだった。
共和国軍は妊娠した女性士官の管理には、人的資源の面から最大限の配慮を払っていて、つまりそれは評価の定まった有能な女性士官と遺伝的な可能性の安定した次世代の軍人としての胎児の価値を重視するという意味である。
ともかくもつまらない理由で身内とのイザコザを避けるように可能な限りの配慮を妊娠した女性士官には払っていて、妊娠育児中の女性士官の配置は最大限本人の希望を尊重するように動いていた。
それはおよそまる二年の四種業務配置というものになるのだが、その配属先勤務地については本人の希望が最優先される。
様々に擦った揉んだがあった後にマークス大尉、アシュレイ中尉、レンゾ中尉の三人はデカート州駐在共和国軍連絡室に配置されることになった。
既に様々に妊娠の兆候が隠せない三人は軍都での勤務も各自の任意になっていて、養育院の療院と自室を往復するような生活になっていたから、いっそローゼンヘン館で暮らしていてもあまり違いはない。
そして、妊婦が数百リーグを無理なく移動できる手段がローゼンヘン館にはあった。
愛人だか夫人だか扱いの全く曖昧な女達のローゼンヘン館への帰還は歓迎された。
今はウィル・ヘルミと一緒くたに呼ばれることの多いヴィルレム・マレリウヌとヘルミナラ・ゴシュルは半年余りも過ぎたことで多少は家のことに役に立つようになってきたが、本当に十年も学志館で何かを学んだのか、という落ち着きの無さで未だに扱いに困るところがあった。
とはいえ、軍にいた女達はこの手の子供たちになれたもので、むしろこういうのが当たり前だと言っていた。
「少数精鋭といえば聞こえがいいけど、兵隊の質を選ぶような贅沢は軍隊には許されないし、どんな阿呆がいてもそれなりにやるように考えるのが指揮官の仕事よ。それになんかに使えると思って手元においてるんでしょ」
リザは全く乱暴にマジンの愚痴を一握りに丸めて尋ねてみせた。
「まぁ他人に物怖じしないっていうのは、一種の才能だからな。それにふたりとも客受けはいい」
マジンは二人に見どころを感じているところをそのまま口にした。
「使えるじゃない」
それでおしまいというようにリザは打ち切った。
リザは年明けからウィル・ヘルミをまとめてカバン持ち兼運転手として使い、デカートを往復するような生活を始めた。
ローゼンヘン館に軍需物資向けの専用工房が立ち上がり、兵站本部の輜重連絡が風車の丘のマジンの私有地に置かれた共和国軍の輜重基地でデカートと軍都が結ばれ、年が変わり雪解けを経て今はだいぶ往復頻度も減ったが、それでも月次で確認や調整の会合があり、ふたつきに一回はマジンが軍都に通うことを求められてもいた。
ボーリトンはこの一年で体格が大きくなったというほどの変化はなかった
しかし車の運転が上手く走行中の車内でも眠れるくらいの肝の太さもあって、軍都に急ぎの用事があるときはマジンと二人で給油だけの休憩で一気に二日で走り抜けたこともある。
若さの体力というよりは才能のようなもので、ちょっと大したものだった。
マジンは手が少し空いたところを狙って軍学校に約束の工画機二十台と現像印画に関わる機材を持ち込んで、学校向けに機関小銃千丁と銃弾百万発を自転車五百両と合わせて寄付した。
軍学校長のマキサネル・スケルツォ大佐は様々な戦況報告を目に通す機会もあり、研究熱心な人物だったが、前線でさえ不足している新型小銃が軍学校に配備されることについてはそこはかとない――たとえば南の未開の地での美女との生活への憧れのような――未来の希望を抱いていたが、同じ敷地で組織上は自分の監督下にある軍大学にも研究見本以上の数の回っていない新兵器のことで、予算上も戦略上も実務上も当面先のことと諦めていた。
それが突然、まとまった数で軍学校に寄付されたことには、父兄が生産に関わっている人物であることから期待がなかったわけではないが、驚きとともに感謝をした。
とくに自転車と光画機については全く想像すらしていなかった。
ゼクローズは自分が軽い気持ちでねだったものが思いもよらない大きな荷物になって現れたことに驚いたが、良家の子弟らしく深く悩まずに礼を言うと簡単な指南をマジンに頼んだ。
マジンは百人ほどの教員と生徒に光画機の仕組みの概要と撮影現像印画のそれぞれの作業について午後いっぱいの説明をおこなった。
多くの聴衆にとっては、錬金術と高等数学の結合くらいにしか理解できない仕組みの部分はさておいて、それほど難しくない手順で細密画より細密に光景が絵になるという機械は面白く感じられた。
巨大な官僚組織の一員としての軍人として、戦場の地形情景や様々な状況装置の説明に関係者の目玉を現場に持ってゆければいいという願いは比較的日常的な問題だった。
共和国軍が共和国本体よりも実務上の理由から一足早く魔導魔法と和解して以来、似た案が逓信院でも数次にわたって議論されて実験に供されていた。
だがいまのところ適性ある人員の育成普及と運用の労力と実態から一般運用には遠く実現しない技術であった。結局は写真箱を絵心のある兵士に持たせ記録係として専任させることで対応していたが、今新たな可能性が示された。
アルジェンとアウルムはこのあとしばらく光画機の操作と現像印画という作業の教授役として教官を含めた人々に仕組みの概要や操作の指導をおこなうようになる。
共和国軍軍学校はひときわの最先端を図らずも寄付の形で手に入れることになった。
その寄付の源泉は全く個人的な事業のおすそ分けであった。
当然に事業の源泉ではより巨大な変化が起こっていた。
ローゼンヘン館の東側ザブバル川の辺りに開かれたゲリエ村は、司法行政の扱いがないから村という扱いのままだったが、人口や建築物等の風景を見ればどこの城塞を切り取って運んできたかと思うような風景が広がっていた。
それは大都市という広がりは持っていなかったが、無造作な大きさを持った漆喰と鋼鉄とガラスの建物が立ち並ぶ異世界の町並みとなっていた。
まる半年余りも大きな貨物車がデカートと軍都とを往復するようになると、あちこちから貨物車についての注文があり、軽機関車の注文があり、旅客車の注文があり、日産で合わせてだいたい三両ばかりを作っている川沿いの車輌工房では少々手狭になってきた。
鉄鋼橋脚や水中の施工の実験のために港口よりも少しばかり上流に線路が伸び、亜人集落クラウク村の北側に達し、駅も作られた。
これまでは多少強引に川を渡っていた集落の彼らも、学校への通学や工房への勤務や必要雑貨食料などの購買が楽になり喜んでいた。
橋脚の高さはプリマベラが辛うじて桁を潜って抜けられるくらい、水面からおよそ十五キュビットほどというところで決して背が高いというわけではないが、流れに抗い据えられる鉄鋼の橋脚という全く新しい物事をおこなうには面倒もあった。
もちろん下地がなかったわけではない。
橋脚の建造の直前に完成したソイルの食品倉庫は巨大な鉄筋鉄骨を基礎としたコンクリートセメント製の建物だったし、橋脚の脇にできた車輌工房も同様で、工房の内部は鉄道の線路を思わせる工作台をすべらせるような作りになっていた。
鉄橋は分かりやすく大物だったが、云うほどの難工事でも大物というわけでもなかった。
新しく巨大な車輌工房はマジン自身が張り込みすぎたかと思う様な作りになっていた。
館の敷地の外に新規に建設された車輌工房は、銃器工房の部品生産行程を部品の大型化大重量に合わせて整理したような作りになっている。
ざっと千八百種類およそ一万二千の部品を行程に合わせて鉄道駅のように順番に並べてゆく、という工房の構成は画期的とか複雑怪奇とかそういう言葉よりも、巨大、という一言のほうが適切だった。
基本的な材料そのものは鉄と石炭その生成物。
という実に大雑把な言葉で形がつく内容だったが、建物は一リーグ四方と言ってややそれにあまり、高さはおよそ百五十キュビット、内部はおよそ三十キュビットの高さを持ち三階層、経路の長さが総計で百リーグに余ると云えば伝わるだろうか。
圧縮熱機関の設計は基本的に変化がなかった。
だが、材料精錬の高回転化で様々な新素材を扱うに至っていて、メッキによる膜整形のほかに高速粒子鍛造や真空蒸着や高周波による部分溶融の工作利用という地場の鍛冶が見れば泡を吹くような手管で、密かに格段の進化をしていた。
その進化の代償としてそれなりの設備と手順が必要であった。
材料から一貫した形で車輌を組み立てる専門工房というものを考えたときに、壮絶に巨大な設備と行程が必要になる。
というただそれだけだったのだが、組立動線が完成し部品動線が完成し、材料動線が完成したとき。外では麦が緑に穂を揺らし杏の花が散り始め、デカートの元老院で今年の議事についての話題が整理され始め、カノピック大橋がデカートの人々には驚くような速さで巨大な船と鉄の荷車に乗った攻城機械のような工具で鉄の基礎が形をなし始めた頃、マジンは建設がひとまず終わり試験運転中だった車輌工房についてある重大な決意をすることにした。
運用を一旦諦めることにした。
車輪の主要部を構成する合成樹脂はコールタールからの生成物で出来ているのだが、どうあっても材料が不足していた。石炭の流通量の問題で近々に骸炭生産や鉄鋼生産を拡大したりということは無理だった。
半ば、建設の途中でわかっていたことだったが、当面の機関小銃の注文と鉄道建設資材とを考えれば製鉄炉と骸炭釜の拡張は必須だった。
炭素材用の真空釜も拡張がしたかった。
そういう気分半分で巨大な施設を文字通り寝食を削るようにして建設をしたが、見積もり通り運転するには見積もり通り材料が不足していたし、足りるように材料を集めることは難しかった。
全力発揮できない鉄鋼動線も鉄道建築向けの資材の生産に転用され、全く無駄というわけではなかったし、余裕のある骸炭動線の副生成物で小銃用の火薬は全く順調に蓄えられていた。
唸るようなマジンの様子に反し、全く順調と言っていい春の花の終わりの時期を迎えた。
冬至の祭りと云ってもヴィンゼではせいぜい家々で少し奮発した食事をするくらいだし、その準備のために店や市場が一生懸命はしゃいで見せても、手堅く苦労している開拓農民の財布がそうそう緩むわけではない。
せいぜい実用品の買い直しがお祭りの贈り物だ。
そうは云っても今年の冬は多少事情が違った。
なにがどう違うというわけではなかったが、たしかに商店の売り上げは多少伸びたし、酒場の賑わいも挨拶に顔を出す街の連中が少しだけ長居をしたような気がする。
気がする、というところがキモでよほどきちんと帳簿をつけて少しばかり前をめくってみないと、どれほど伸びたかはわからない。
酒場も同様だ。
だが、町からすこしばかり離れたところに港ができ、街の中心から少し離れたところに、数百だか数千だかの工事人夫や兵隊が屯をすれば、人夫の二十や五十や訓練途中の兵隊たちが街をひやかしに訪れ、寂れ一時は滅びかけた町であるヴィンゼも多少は賑わっていた。
賑わっていたからと売上が伸びるわけではないのが、商売の難しさでもあったが、開拓がまだ軌道に乗ったと言えない町としては、みっともなくない程度の給金の雇われでローゼンヘン館に住み込みをしている連中もいて、どこから来たのか金回りの良い亜人連中もいたりと、気のせいばかりでもなくヴィンゼの年の瀬から年明けも本当に多少は潤っていた。
ヴィンゼに港ができオゥロゥが入れるようになると、プリマベラの甲板にも多少の余裕ができ、希望者はデカートに帰省や買い物をすることができるようになった。
年末年始で十日の労務の休みを許すと、行き場のない連中でも家の掃除や手入れではちょっとばかり手持ち無沙汰でどこかに行ってみるかという気分になって、とりあえずの近場のヴィンゼ、という流れでおっかなびっくり見知らぬ街に旅をする連中が多くいた。
ヴィンゼには狼虎庵もありそういう意味で面倒も少なく、元気者の中にはその日日帰りで現場からヴィンゼで雰囲気を味わい現場に帰る、という連中もいたが、鉄道に乗って五リーグ歩いて遊んで五リーグ歩いて鉄道で帰る、という労力に見合うだけのものはヴィンゼにはあまりなかった。
工事現場には馬も大小の機関車もあったが、現場と飯場の行き来も今では歩きぬくのは辛い距離になった村との間も鉄道列車によるものだったし、もともと機関車も馬も人足がふらりと遊興に使えるほどに数の余裕があるわけもない。
とはいえ今のところは、行ける出来る、というだけでも娯楽になるらしく、鉄道利用が工員については便乗無料ということで一種の肝試しのような雰囲気でヴィンゼに足を向ける者達はかなり多かった。
肝試しというからには、当然に様々に無理のある行程があり、現場の監督をしているモイヤーやヴィンゼの保安官補であるジュールに様々な面倒をかけることになった。
しかし、今のところは他人様の生命財産に関わるような大事件には至っておらず、せいぜいは工事人夫の幾人かが無断欠勤をしたということで懲罰房の準備が必要になったくらいだった。ヴィンゼにとって亜人とはいえ食い詰め者以外の新入居者が多くいることは喜ばしいことだった。
ゲリエ村の学校にマリールが帰ってきたことは子供たちにも教師役の若者たちにもひどく心強いことで、幾人かはマリールよりも年嵩であるにもかかわらず、彼女の指図を受けることを喜んでいた。
リザが事実上の夫人であることをローゼンヘン館の住人も工房の工員たちも理解していて、更に三人も妾らしき妊婦を連れてきて侍らせていることに色々思うところがある者たちもいた。
だが、館の主がその程度のことで自分の事業を疎かにすることはないだろうという信頼もあり、いわば他人事として扱うことに慣れていた。
セラムが大本営の配置辞令を受け勤務に就いてから、屋敷の内外の仕切りがなんだかんだとセントーラに集中することが増えていて、それはそれで家令の面目だったが、急激に様々が膨張する中では事務を専門に扱うものが五人十人いたところで少々苦しくなっていたところだった。
共和国軍は妊娠した女性士官の管理には、人的資源の面から最大限の配慮を払っていて、つまりそれは評価の定まった有能な女性士官と遺伝的な可能性の安定した次世代の軍人としての胎児の価値を重視するという意味である。
ともかくもつまらない理由で身内とのイザコザを避けるように可能な限りの配慮を妊娠した女性士官には払っていて、妊娠育児中の女性士官の配置は最大限本人の希望を尊重するように動いていた。
それはおよそまる二年の四種業務配置というものになるのだが、その配属先勤務地については本人の希望が最優先される。
様々に擦った揉んだがあった後にマークス大尉、アシュレイ中尉、レンゾ中尉の三人はデカート州駐在共和国軍連絡室に配置されることになった。
既に様々に妊娠の兆候が隠せない三人は軍都での勤務も各自の任意になっていて、養育院の療院と自室を往復するような生活になっていたから、いっそローゼンヘン館で暮らしていてもあまり違いはない。
そして、妊婦が数百リーグを無理なく移動できる手段がローゼンヘン館にはあった。
愛人だか夫人だか扱いの全く曖昧な女達のローゼンヘン館への帰還は歓迎された。
今はウィル・ヘルミと一緒くたに呼ばれることの多いヴィルレム・マレリウヌとヘルミナラ・ゴシュルは半年余りも過ぎたことで多少は家のことに役に立つようになってきたが、本当に十年も学志館で何かを学んだのか、という落ち着きの無さで未だに扱いに困るところがあった。
とはいえ、軍にいた女達はこの手の子供たちになれたもので、むしろこういうのが当たり前だと言っていた。
「少数精鋭といえば聞こえがいいけど、兵隊の質を選ぶような贅沢は軍隊には許されないし、どんな阿呆がいてもそれなりにやるように考えるのが指揮官の仕事よ。それになんかに使えると思って手元においてるんでしょ」
リザは全く乱暴にマジンの愚痴を一握りに丸めて尋ねてみせた。
「まぁ他人に物怖じしないっていうのは、一種の才能だからな。それにふたりとも客受けはいい」
マジンは二人に見どころを感じているところをそのまま口にした。
「使えるじゃない」
それでおしまいというようにリザは打ち切った。
リザは年明けからウィル・ヘルミをまとめてカバン持ち兼運転手として使い、デカートを往復するような生活を始めた。
ローゼンヘン館に軍需物資向けの専用工房が立ち上がり、兵站本部の輜重連絡が風車の丘のマジンの私有地に置かれた共和国軍の輜重基地でデカートと軍都が結ばれ、年が変わり雪解けを経て今はだいぶ往復頻度も減ったが、それでも月次で確認や調整の会合があり、ふたつきに一回はマジンが軍都に通うことを求められてもいた。
ボーリトンはこの一年で体格が大きくなったというほどの変化はなかった
しかし車の運転が上手く走行中の車内でも眠れるくらいの肝の太さもあって、軍都に急ぎの用事があるときはマジンと二人で給油だけの休憩で一気に二日で走り抜けたこともある。
若さの体力というよりは才能のようなもので、ちょっと大したものだった。
マジンは手が少し空いたところを狙って軍学校に約束の工画機二十台と現像印画に関わる機材を持ち込んで、学校向けに機関小銃千丁と銃弾百万発を自転車五百両と合わせて寄付した。
軍学校長のマキサネル・スケルツォ大佐は様々な戦況報告を目に通す機会もあり、研究熱心な人物だったが、前線でさえ不足している新型小銃が軍学校に配備されることについてはそこはかとない――たとえば南の未開の地での美女との生活への憧れのような――未来の希望を抱いていたが、同じ敷地で組織上は自分の監督下にある軍大学にも研究見本以上の数の回っていない新兵器のことで、予算上も戦略上も実務上も当面先のことと諦めていた。
それが突然、まとまった数で軍学校に寄付されたことには、父兄が生産に関わっている人物であることから期待がなかったわけではないが、驚きとともに感謝をした。
とくに自転車と光画機については全く想像すらしていなかった。
ゼクローズは自分が軽い気持ちでねだったものが思いもよらない大きな荷物になって現れたことに驚いたが、良家の子弟らしく深く悩まずに礼を言うと簡単な指南をマジンに頼んだ。
マジンは百人ほどの教員と生徒に光画機の仕組みの概要と撮影現像印画のそれぞれの作業について午後いっぱいの説明をおこなった。
多くの聴衆にとっては、錬金術と高等数学の結合くらいにしか理解できない仕組みの部分はさておいて、それほど難しくない手順で細密画より細密に光景が絵になるという機械は面白く感じられた。
巨大な官僚組織の一員としての軍人として、戦場の地形情景や様々な状況装置の説明に関係者の目玉を現場に持ってゆければいいという願いは比較的日常的な問題だった。
共和国軍が共和国本体よりも実務上の理由から一足早く魔導魔法と和解して以来、似た案が逓信院でも数次にわたって議論されて実験に供されていた。
だがいまのところ適性ある人員の育成普及と運用の労力と実態から一般運用には遠く実現しない技術であった。結局は写真箱を絵心のある兵士に持たせ記録係として専任させることで対応していたが、今新たな可能性が示された。
アルジェンとアウルムはこのあとしばらく光画機の操作と現像印画という作業の教授役として教官を含めた人々に仕組みの概要や操作の指導をおこなうようになる。
共和国軍軍学校はひときわの最先端を図らずも寄付の形で手に入れることになった。
その寄付の源泉は全く個人的な事業のおすそ分けであった。
当然に事業の源泉ではより巨大な変化が起こっていた。
ローゼンヘン館の東側ザブバル川の辺りに開かれたゲリエ村は、司法行政の扱いがないから村という扱いのままだったが、人口や建築物等の風景を見ればどこの城塞を切り取って運んできたかと思うような風景が広がっていた。
それは大都市という広がりは持っていなかったが、無造作な大きさを持った漆喰と鋼鉄とガラスの建物が立ち並ぶ異世界の町並みとなっていた。
まる半年余りも大きな貨物車がデカートと軍都とを往復するようになると、あちこちから貨物車についての注文があり、軽機関車の注文があり、旅客車の注文があり、日産で合わせてだいたい三両ばかりを作っている川沿いの車輌工房では少々手狭になってきた。
鉄鋼橋脚や水中の施工の実験のために港口よりも少しばかり上流に線路が伸び、亜人集落クラウク村の北側に達し、駅も作られた。
これまでは多少強引に川を渡っていた集落の彼らも、学校への通学や工房への勤務や必要雑貨食料などの購買が楽になり喜んでいた。
橋脚の高さはプリマベラが辛うじて桁を潜って抜けられるくらい、水面からおよそ十五キュビットほどというところで決して背が高いというわけではないが、流れに抗い据えられる鉄鋼の橋脚という全く新しい物事をおこなうには面倒もあった。
もちろん下地がなかったわけではない。
橋脚の建造の直前に完成したソイルの食品倉庫は巨大な鉄筋鉄骨を基礎としたコンクリートセメント製の建物だったし、橋脚の脇にできた車輌工房も同様で、工房の内部は鉄道の線路を思わせる工作台をすべらせるような作りになっていた。
鉄橋は分かりやすく大物だったが、云うほどの難工事でも大物というわけでもなかった。
新しく巨大な車輌工房はマジン自身が張り込みすぎたかと思う様な作りになっていた。
館の敷地の外に新規に建設された車輌工房は、銃器工房の部品生産行程を部品の大型化大重量に合わせて整理したような作りになっている。
ざっと千八百種類およそ一万二千の部品を行程に合わせて鉄道駅のように順番に並べてゆく、という工房の構成は画期的とか複雑怪奇とかそういう言葉よりも、巨大、という一言のほうが適切だった。
基本的な材料そのものは鉄と石炭その生成物。
という実に大雑把な言葉で形がつく内容だったが、建物は一リーグ四方と言ってややそれにあまり、高さはおよそ百五十キュビット、内部はおよそ三十キュビットの高さを持ち三階層、経路の長さが総計で百リーグに余ると云えば伝わるだろうか。
圧縮熱機関の設計は基本的に変化がなかった。
だが、材料精錬の高回転化で様々な新素材を扱うに至っていて、メッキによる膜整形のほかに高速粒子鍛造や真空蒸着や高周波による部分溶融の工作利用という地場の鍛冶が見れば泡を吹くような手管で、密かに格段の進化をしていた。
その進化の代償としてそれなりの設備と手順が必要であった。
材料から一貫した形で車輌を組み立てる専門工房というものを考えたときに、壮絶に巨大な設備と行程が必要になる。
というただそれだけだったのだが、組立動線が完成し部品動線が完成し、材料動線が完成したとき。外では麦が緑に穂を揺らし杏の花が散り始め、デカートの元老院で今年の議事についての話題が整理され始め、カノピック大橋がデカートの人々には驚くような速さで巨大な船と鉄の荷車に乗った攻城機械のような工具で鉄の基礎が形をなし始めた頃、マジンは建設がひとまず終わり試験運転中だった車輌工房についてある重大な決意をすることにした。
運用を一旦諦めることにした。
車輪の主要部を構成する合成樹脂はコールタールからの生成物で出来ているのだが、どうあっても材料が不足していた。石炭の流通量の問題で近々に骸炭生産や鉄鋼生産を拡大したりということは無理だった。
半ば、建設の途中でわかっていたことだったが、当面の機関小銃の注文と鉄道建設資材とを考えれば製鉄炉と骸炭釜の拡張は必須だった。
炭素材用の真空釜も拡張がしたかった。
そういう気分半分で巨大な施設を文字通り寝食を削るようにして建設をしたが、見積もり通り運転するには見積もり通り材料が不足していたし、足りるように材料を集めることは難しかった。
全力発揮できない鉄鋼動線も鉄道建築向けの資材の生産に転用され、全く無駄というわけではなかったし、余裕のある骸炭動線の副生成物で小銃用の火薬は全く順調に蓄えられていた。
唸るようなマジンの様子に反し、全く順調と言っていい春の花の終わりの時期を迎えた。
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
私たちの試作機は最弱です
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SF
幼い頃から米軍で人型機動兵器【アーマード・ユニット】のパイロットとして活躍していた
主人公・城坂織姫は、とある作戦の最中にフレンドリーファイアで味方を殺めてしまう。
その恐怖が身を蝕み、引き金を引けなくなってしまった織姫は、
自身の姉・城坂聖奈が理事長を務める日本のAD総合学園へと編入する。
AD総合学園のパイロット科に所属する生徒会長・秋沢楠。
整備士の卵であるパートナー・明宮哨。
学園の治安を守る部隊の隊長を務める神崎紗彩子。
皆との触れ合いで心の傷を癒していた織姫。
後に彼は、これからの【戦争】という物を作り変え、
彼が【幸せに戦う事の出来る兵器】――最弱の試作機と出会う事となる。
※この作品は現在「ノベルアップ+」様、「小説家になろう!」様にも
同様の内容で掲載しており、現在は完結しております。
こちらのアルファポリス様掲載分は、一日五話更新しておりますので
続きが気になる場合はそちらでお読み頂けます。
※感想などももしお時間があれば、よろしくお願いします。
一つ一つ噛み締めて読ませて頂いております。
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