石炭と水晶

小稲荷一照

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リザ

セレール商会 共和国協定千四百三十四年寒露

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 セレール商会の朝は秋の収穫の直後ということで非常に忙しそうだった。
 考えてみればよくもまぁこの時期にご当主が遠い我が家まで足を向けたものだとマジンが感心するほどにセレール商会は賑わっていた。
 秋の実りの香りは埃っぽいような土臭い中に芳しい甘いとも深いとも言い難い香りを賑やかな声の中に光のように漂わせていた。
 考えてみればマジンはセレール商会と直接に取引する機会はこれまでなく、馴染みの手代番頭という人物に心当たりがなく手を開けていそうな人物に番台の受付を教えてもらうところからはじめなければならなかった。
 子供たちは珍しい野菜やキノコ果物などを見ては嬉しそうにしていた。
 とはいえ、掻き入れ時の商会の賑わいは危険なほどで、ときに娘たち四人が一株のキノコか何かのようにリザの周りに寄り添うようにして固まる必要があるほどだった。
 やがて奥の事務方が見慣れない子供たちに保護者と見えるリザに声をかけてきた。
 リザから引き継いだマジンが名乗り、グレン・セレール氏に面会を求めると身なりが不審に見えたのか、怪訝な顔をして番所に引き戻った。
 奥に追ってみたほうがいいのか待ったほうがいいのか考えながら、品目や価格を探して商会の場内をみわたして待っていると、奥の方から何故太っているのかというような機敏な動きの男が先ほどの事務方を蹴っ飛ばすようにして、飛び出してきた。切れのある動きは球撞きの球のようで、先導をする事務方が無闇にかけているのとは違う感じだった。
 太った人物は場内を進む馬車をやり過ごす間に息を整えたらしく、案内の事務方が息を弾ませているのとは対照的に落ち着いたものだった。
「おまたせいたしました。ゲリエ様でいらっしゃいますね。わたくし当店の大番頭スヌークと申します。主家の若君との面会をお望みとか。どういった御用でしょうか」
 スヌークは福々しい顔にやわらかな笑顔を浮かべながら尋ねた。
「失礼ですが、スヌークさんは私の名をどのようにご存知でしょうか」
 しばらく目をパチクリした後に、スヌークは言葉を探すように唇を少しほぐした。
「ああ、あのストーン商会の白い製氷庫を建てられた錬金術士の導師の方ですよね。お目にかかれて光栄です」
 マジンは微笑んで一礼したものの噛み合っていないように感じられた。
「実はグレン氏とご相談申し上げたいことがございまして、急ぎまかりこしたのですが、あまりに急き過ぎまして書状の類をお送りしておりません。グレン氏とお目にかかる段のご苦労をいただけないでしょうか」
「わかりました。あちらの女性とお子様はゲリエ様のお連れ様でいらっしゃいますか」
 ニッコリと微笑んでスヌークは尋ねた。
「家族です」
「そういうことでしたらご一緒にお越しください。騒がしいところですが、果物には良い時期においでになりました。出来の良い物もございます。お試しいただければと思います」
 スヌークは詳しく問いただすことはせず、作りの良い一室に一家を通した。
 しばらくするとスヌークは様々な色のリンゴやナシブドウといった果物とクルミやクリといった木の実を様々に宝石のような展示をした車棚を伴って戻ってやってきた。
 リンゴとナシの他に日持ちのする乾物とクリやクルミなどの木の実を子供たちと楽しみながら選び、穀物の値段を見せてもらうことにした。
 やはり全体に安いが運賃が乗ると逆転する。という感じの価格だった。とはいえ当然にヴィンゼの雑貨屋で買うことを考えれば遥かに安い。そういうつもりなら半分ダメに成ってもあきらめが付くような値段だ。それにどの作物商品も出来が良く張りや色艶がヴィンゼのものよりも美味しそうだった。
 茶や豆などの乾物や塩漬けの肉、チーズ・バター、油、塩や砂糖、玉葱・大蒜や芋などの日持ちする野菜を子供たちの選んだ果物と併せて頼んでみた。即金で買える金額に収まったことで桟橋の番屋預りで届けてもらうことを頼むとスヌークは少し不思議そうな顔をした。途中から船で来たということを告げると、スヌークは納得したような顔をして微笑んで、秋の魚の脂ののりの話を口にして魚の燻製と酒を薦め、マジンは買い物に加えた。
 マジンは商談が終わったところで先ほどふと気になったことを訪ねてみることにした。
「こちらセレール商会の本店ということでよろしいのですよね。ちなみにセレール商会のお店はデカートのまちなかにお幾つくらいあるのですか」
「預かりの露店の類はなんとも言い難いところですが、他に二つ支店があります。我が商会は扱い品目の多さにはもちろん自信がありますが、その中でも食べ物に関してはデカートで口にできるもので我々が扱えないものはないと自信を持っていえますし、味も値段も相応に幅広く扱っている自信を持っております。日にちに余裕があったり樽で買って困らないというお客様なら露店をめぐるよりも間違いないと胸を張って申し上げることが出来ます」
 そう言ってスヌークは言葉通りに胸を張って掛け値なしの笑顔を誇って見せた。
「市場の大門あたりにもこちらの支店がございますか」
 マジンは建設予定地について、ふと思いついて尋ねてみる。
「ああ、あれは支店というよりは、露天商に向けての卸荷の受け渡しをおこなうための倉庫ですね。一般の取引はおこなっておりません。ひょっとしてあちらにお運びいただいて無駄足を踏ませてしまいましたか」
「ああ、いえ、こちらとは離れたところで見かけたものでお尋ねしたまでです」
 帳場で代金の支払いをしていると若い用人がスヌークに言伝と紙片を手渡した。
「申し訳ございません。当家の若君はどちらか遠出をなさっているとかで、本家でもお戻りは約束できかねると言ってまいりました」
 スヌークは気の毒そうにマジンにそう告げた。
「お気になさらず。もともと約束をお願いいたしたわけでもありません。他に用がございましたついででもありますし」
「とおっしゃいますと、もしよろしければどのような」
 それなりの取引を終えた後のスヌークは多少の気安さを零したように尋ねた。
「冬越しの買い付けのついでに娘たちと舟遊びと観光をしようと思いまして。みてのとおり文字通りの若輩でして、親らしいことはあまりできていないのでまぁ罪滅ぼしといいますか、そういう風なことです。朝から子供連れで押しかけてお騒がせいたしました。ご心配ありがとうございます」
 ああ、とスヌークも合点がいったようだった。
 品物は昼までに揃え桟橋の脇に届け丁稚に番をさせておくので伝票を示してほしいという説明を受けた。
 応接室に戻ると子供たちは朝食も済ませたはずなのにパンをかじっていた。とても美味しいらしい。
 たしかに美味しかったが、売り物というわけではないようだった。
 スヌークは笑うと娘たちの舌を褒めパンを一斤分けて土産に持たせてくれた。
 そのあと、町が珍しい子供たちの問いに導かれるようにデカートの史料館にたどり着いた。上の子が下の子に色々と街の建物を説明しているのは覚えていたのか勉強したのか少し不思議だったが、素敵な光景だった。
 帽子の下でひょこひょこと動くアルジェンとアウルムの耳は頭の上から見ていると可愛らしいものだった。
 昼までは少しあったが休憩にはちょうどよい場所だったし、何より娘たちは四人とも本が好きだった。
 中では静かにしていること、とお昼の鐘がなるまで好きに本を呼んで良いこと、お昼の鐘がなったら玄関の受付の脇の談話室にくることを約束して自由に中で本を読んで良いと告げた。
 子供たちはローゼンヘン館よりも大きく見える建物のどこまでも続く書架いっぱいにかけられた見渡すかぎりの本の壁に眼を丸くし、声を上げそうになる口を手で抑えた。
 子供たちを放し飼いにするとリザと別れマジンは談話室のかわら版を行儀悪く立ったまま読み始めた。
 しばらくするとマジンの背後に男が立った。
 読みさしを新聞掛けに戻し、席に移るマジンの後を男がついてきた。
「あなたとは面識がないはずなのですが、どちらかでお会いしたでしょうか」
「お初にお目にかかります。わたくしグレン様の召使でワングと申します」
 身なりの整ったワングと名乗る男は腰を下ろしたマジンに優雅に一礼した。
「一周りしてきたけど、そのヒトだけみたい。子供たちも大丈夫」
 リザが戻ってきてそう言った。
「それで、グレン氏の使いがなんでこんなところまで付け回して、なんの話をする気になったんだ。物騒な心算ではなさそうだが、聞かせてもらおう」
「ご家族の団欒に水を指すのはと思い、少々機会を伺わせていただきましたが、害意があってのことではありません」
「だが、スヌーク氏に聞かせたい話というわけでもないのだな」
 マジンがそう言うとワングと名乗った男は頷いた。
「――氷屋の件にスヌーク氏は反対なのか。食べ物を扱う以上は便利だと思うのだが」
「価値を認めていないというわけではなく、価値を認めているからこそ飛びつくだろうと言うのが、心配の種でして」
 離れようとするリザの手を引いてマジンは隣の席に座らせ、ワングに席を勧めた。
「お店のご主人はあまり気に入っていないとか聞いたが、そういう流れか」
 マジンはワングに水を向けた。
「ああ、いえ、大旦那様もストーン商会さんの氷を見れば、もうそういう反対はしておりません。ただ、新しい事業には新しい人間をという意向はありまして、また建設をお願いしたい地所は本店とは少々離れてもおります。そんなわけでスヌークは氷屋の件からは切り離されております。本店で氷屋の話を出されなかったのは全くありがたく思います。若旦那様がお戻りになられていないのは、ゲリエ様にこれほど早くお越しいただけるとは予想だにしていなかった不覚ではありますが、これはご容赦いただければと願うばかりです」
 ワングはなめらかな声でセレール商会とグレンの状況の説明をした。
「事情は飲み込めたが、グレン氏がいないのではどうしたものかな。建屋の具合なぞも聞きたかったのだけれど」
「私共の心づもりのことであれば粗方はお応えできるかとは思います」
 ワングは大家の執事としての矜持を示してみせた。
「まずは建屋の状況を確認させていただきたいところです。半月後に仕掛けられるように準備はしておりますが、こちらの準備がどの程度か拝見しようと思っています。そろそろ資材の手配が済んだ頃でしょうか」
「手配はストーン商会さんのご協力を頂いてゲリエ様の図面を受けて済んでおります。集積はまだ終わっていませんが、二週間後には作業が始められるように、その後も滞らぬようにという予定です。順調ならあと四週間ですべての荷物が揃うはずですが、蓄えの少ない煉瓦と鉄線が思いの外集まりが悪いので、急がせております。鉄索の方は比較的順調です」
 ワングの受け答えは昨夜の食事の話をするように鮮明で連絡を任されていることを感じた。
「ワングさんのこの後のご予定はどのようになっておられますか。娘たちが本に飽きた頃に食事をしてそののちに、時間がよろしければ現地を案内していただけるとありがたいのですが、あと製氷庫の件をそちらとご相談したいときにどなたを頼ればよろしいかを教えていただければ、そちらのご心配も減るかと」
 マジンが尋ねてみた。
「私も急ぎの予定はありません。昼食はご招待させていただきたいと思います。私共自慢のデカートでも指折りの肉を扱う店です。食事の後に現地をご案内します。そのときに製氷庫の責任者になる予定のものと引き合わせましょう。……しかし、お嬢様がたはお勉強熱心でさすがと唸らされます」
「下のふたりは上の娘たちの真似をしているだけでしょう。上のふたりは放っておくと本当にいつまででも本にかじりついていますよ」
 ステアの影響かアルジェンとアウルムは本が好きだった。役に立つ本を見つけてくるのも上手かった。
「どういった分野がお好きなのですか」
「最初は辞書や辞典、図鑑を与えていたのですが、今は割と何でも良いようですよ。天文、数学、音楽、歴史や物語、手引書、手配書、本当になんでもです。我が家の帳簿も上のふたりがつけています。直接仕事に携わせているわけではありませんが、細かい数字に関してはボクよりもたぶん詳しい」
「ほう」
 そう言うとワングは感心したような声を出した。
「ところで、上のふたりは獣人ですが、肉が美味しい、というお店は大丈夫ですか」
「酔漢や身なりの整わぬ払いの怪しげな一見の客は断る店ですが、私が招待した客が改めて次に訪ねて席を準備できないと追いだすようなら、次からは使いません。なんでしたら晩でも明日でもお嬢様お一人で店に向かわせてみると良いでしょう。店のおすすめというものを頼んで、ときにとんでもない支払いを求められるかもしれませんが、そのときは私に託けていただければと思います」
 ワングはマジンの質問に少し心外そうな悲しげな表情をして応えた。
「そうであれば心強い。きちんとカネは準備して、社会勉強に向かわせましょう」
「そうしていただけると、わたくしも店も嬉しく思います。紹介したお客様が居着くと店主も喜んでくれるのですが、私も毎日通うというのは腰が引ける店なのです。今日の払いは若旦那様が保証してくださっておりますので、ご相伴させていただきます」
 ワングは目元を伏せながら口元に韜晦と諧謔を含んだ笑みを浮かべた。
「お嬢様はいつごろお戻りですか」
「お昼の鐘で戻ってくるように言ってあります」
 ワングは頷くと席をたった。
「少々用を済ませておきます。ゲリエ様の視察がおこなわれるとなれば、レンガ窯にも鉄工所にも職工衆への檄の入れようが変わってきます」
 お昼の鐘がなって出てきたソラとユエは知らないスラリとした揃いの身なりの人物がいることに驚いていた。アルジェンとアウルムは予め気がついていたが、食事の案内をしてくれることになったことを告げると、少し心配そうな目をマジンに向けた。
 史料館の出口に待っていた上等の馬車に乗り込んでたどり着いた天の階亭という名の料理屋でのゆっくりとした昼食は、なにを食べているかは、自ら料理をする者達にとってはなじみのものばかりだったが、どのようにこの食感どのようにこの味にしているのか全くわからない、美食という名の衝撃を味わっていた。
 ソラとユエは最初は美味しいと言っていたが、そのうちどうやってと尋ね始め、あまりに熱心に聞くのでとうとうシェフがやってきたが、技術的な内容については全く理解できないまま、館に帰ったら挑戦することだけ約束することになった。
 シェフはマジンの名前と氷屋を建てた人物であること新たにもう一軒建てる予定ということを知っており、食事に来たことを酷く喜んでいた。食後のデザートにアイスクリンが出てきたことに驚いたが、プロの技のソレは自分で作るものとは全く別次元の食べ物でそのことで更にマジンは打ちのめされた。
 シェフは工程や分量については教えてくれなかったが、材料のメモを追加のデザートの間に書き出してくれた。
 大部分は見知った単語だったが、一部はマジンの知らないものだった。
 アルジェンとアウルムにメモを渡すと、現物を見たことはないが、本で読んだことがあるものばかりで、使い方はわからないけど興味はあるということだった。精算の折にシェフがもう一度出てきて、時期や旬はあるがセレール商会で手配できるものばかりだと教えてくれた。
 そんな風に刺激的に充実した贅沢な食事を食べた後にやはり待っていた馬車で市場の大通りに連なる外縁の一角にある店についた。
 小さくない敷地だったが、辺りはあまり衛生的とはいえない環境だった。賑やかな人通りのある市場を表舞台とするとここは舞台裏という雰囲気で空気も腐臭をはらんでいた。
 この店も作りは立派なものだったが、本店に比べると奥行きは薄かった。そしてその薄い奥行きの一角を崩していた。
 店の人足も一部は人足とは名ばかりの警護を目的として雇われているだろう者達で本店に比べるとやはり荒れた雰囲気だった。
 馬車が車止めに止まると一人の女が二人の男を連れ馬車を出迎えた。
 老いているというほどではないが若くはない女は痩せた目つきで、身なりは上等だったがどことなく酒場女のような雰囲気だった。
「ようこそおいでくださいました。ゲリエ様。本店においでになったと聞いております。無駄足をおらせるところでございましたが、ご家族でおいででは直接こちらにお越し頂いたら朝はガラの悪さにさぞ驚かれたと思います。伝法な土地ですがご容赦をいただければと思います」
 太い張りのある声で女が挨拶をした。
 身なりを剥いだらならず者と見分けのつかなさそうな男たちふたりは女達が馬車から降りるのを綺麗に型通りの従僕の動きをして見せて、娘たちに感動の衝撃をあたえた。
「六千八百タレル」
 アルジェンが言ってアウルムが悔しそうに唇を尖らす。マジンには覚えがなかった。
「彼女の名はセリエ・アルガ。我が家のの大番頭の一人です。大番頭としては末席ですが、冷凍庫事業の責任者になります」
 ワングが女をマジンに紹介した。
「アルガ。ゲリエ様が再来週、現場を始めるにあたって地割と資材の集積をご心配なされておいでになられた。ご案内してくれ」
「分かったよ。しかし、若がお召に出てって半月もしないでご家族でお越しになるって、また噂よりもすさまじい御仁だね。こちらの坊ちゃまは。若が戻って出てってまだ二日と経ってないよ」
 ワングがカラカラと笑うアルガを睨みつけた。
「アルガ。お客様に無礼だぞ。お前たちのために若旦那様がどれだけお心を砕かれているか。なぜここにゲリエ様をお招きになられたか。その身を省みろ」
 ワングの言葉は鋭く二人の立場に上下がないことにマジンは驚いた。
「いや、まぁそうだ。ワング。アンタのいうとおりだ。……申し訳ございません。ゲリエ様。夏の氷を作られた方とお目にかかれた喜びのあまり、錬金術士といえばいかめしい老人か軽薄な詐欺師というわたくしの浅学な思い込みのあまり、年若いお姿と麗しい奥様と可愛らしいお子様方の素敵なご家族に驚きのあまり、山出しにかけたメッキが剥がれました。不調法、お詫びいたします。非才の無礼ご寛恕いただければ幸いです。役目達しいただけたとすれば、そののちどのような仕打ち裁きもお受けいたします」
 慇懃にアルガは礼をした。
「アルガ殿。この身が若輩は事実。しかも今回の訪問はそちらになんの先触れもなかったもの。驚かれるのも疑われるのも仕方ないことと思う。お気になさらず。……さて、よければ子供たち共々建設予定地を見たいと思い突然に足を運んだのです。が、よろしいだろうか」
 ワングにアルガとのスジを通して見せるためにひとくさり打った後に、マジンは本筋を頼んだ。
「是非にもおねがいいたします。まだ片付けも万全とはいえませんが、遅れるほどの何かも起こっておりません。御覧頂いてご指導いただければと思います」
 そう言ってアルガは一同を先導して歩いた。
「くさい」
 うっかり口に出してしまって慌ててソラが口を覆ったように臭かった。だが、広かった。
敷地の奥には流れの淀んだ運河が泥の匂いをさせている。
「匂いでおわかりと思いますが、ここは貧民街の一角でした」
 アルガが説明をした。
「井戸が見当たらないようだが。流石にあの運河の水は使えない」
 井戸のある土地をマジンは求めたはずだが瓦礫混じりの石ころばかりの土地に井戸らしきものは見当たらない。
「これから掘り起こします」
「この辺りの地下に遺構があるということはないのですか」
 アルガはワングと顔を見合わせた。
「さあ。寡聞にして」
「井戸があったというのは事実ですか」
 アルガの応えにマジンは重ねて問うた。
「ソレはほぼ間違いないかと」
「鉄索はいくらかきていますか」
「あちらに」
 アルガが示した一角に資材がいくらか積まれていた。着工の予定はあと二週間さきのことで、まだ始めるには色々足りていない。だが、鉄索はあった。
 五キュビットの土台用の鉄索を二本つかみマジンは歩きながら地面をつき始めた。遠目からは軽々とつついているだけにしか見えなかったが、突然轟音がして左手の鉄索が消えた。
「ここのようですね。上水か下水かは掘り返してみないとわからないところですが。明日中に職人を手配して掘り起こしてみてください。飲める水が自由に使えないと氷どころではないから、この件一旦お断りすることもありえます」
「明日中ですか」
 アルガが怪訝な声で聞き返す。
「音の感じからすると大部分は木材のようですが、なぜ埋めているのかどうやって埋めているのかわかりません。ひょっとすると飲めるような水ではないかもしれません。氷で閉じ込めて毒を撒き散らしたとあれば信用どころの騒ぎではすまない。そういうことです。資材も集まりきってはいないようですし、中止するなら早いほうが傷は少ない」
 マジンはそう言った。
「毒ですって。まさか」
「想像ですよ。たとえば、ですよ。ここが貧民窟だったとして、阿呆が井戸を糞溜にしていたとか、疫病病みの葬式に困って井戸に放り込んで蓋をしていたらどうしますか。ボクはその場に居合わせたわけではないから知りませんが。たとえばそんなことがあれば、あなたの若君は知らぬことといえ、糞まみれの水を疫病病みの腐れ肉の浸かった水を、取引先に売りつけるわけだ。そして例えば若君自身が知らずにその水を召し上がるかもしれない。一日だけなら無事かもしれない。けど、ひとつきなら?一年なら?毒の井戸は悲惨ですよ。本当に気が付かないから、美人の嫁さんもらったと言って喜んでいたら五年で毛が抜けてやつれ果てて死ぬとか鉱山のそばではあるらしい」
 アルガの顔から笑いが消えた。
「ガイラ。今すぐ手配しな。明日朝から動ける職人を募りな。急ぎだから多少弾んでやって構わない」
 控えていた男の片方が無言で頷き動き出し、輪から離れると走りだした。
「――サンダ。ここに住んでた連中を幾人か捕まえて、飲水をどうしてたかと、病気が流行ったことがあったかなかったか詳しいこと聞きな。小遣い握らせていいからできるだけたくさん聞いといで。こっちも急ぎだ。手隙のやつは使って構わない」
 もう一人も指示を受けると無言で頷き、離れるや駈け出した。
「――早速のご教授感謝いたします。他に何かありますか」
「あの運河を少しはきれいにしたいと思いますか」
 マジンは尋ねた。
「と言うと」
「表の様子やこの匂いを考えると、ここはどうやら市場のゴミためとして扱われていた様子かと。そしてこの貧民街はいわばその塵を目当てに出来上がっていたのではないでしょうか」
 マジンが辺りを突き返しながら言った。
「その通りです」
「この支店の敷地を運河まで押し広げてつなげたのは商品の流通とゴミの廃棄が目的ですね」
「まぁだいたいその通り」
「船手が水に落ちて病気を心配することないような水にしたいと願いますか。という質問です」
「そりゃ、まぁ。くさいよりは臭くないほうがマシだって話よね」
 アルガはマジンが何を言っているのか今ひとつ理解できないという顔をする。
「恐らく十年内外で、かなりマシにできる方法があるとしたらどうします」
「随分気の長い話ね」
 バカバカしい話を聞いたと言わんばかりにアルガは口を歪める。
「だが、あなたが死んでいるほど先の話でもない。そして氷屋が始まれば十年やそれ以上この運河は氷屋の玄関口なわけだ」
 そう聞いてアルガは口元をへの字に曲げる。
「費用はいかほど」
「材料その他で五十万タレル。但し、運河の上下の流域の環境が読み切れないので効果の程度は保証しかねます」
「その返事はいつまでに」
 金額にアルガの眉が動く。
「できれば建屋が組み上がる前に。必要ならいつでも相談にのることはできますが、建屋が組み上がる前なら必要な配管を少し伸ばすだけなので面倒は多くありません」
「その後だと?」
「出来上がった建屋に穴を開けないとならないのでその分手間ですし、仕事に差し支えるかと」
「分かったわ。しばらく考えます。……他には何かありますか」
 アルガは溜息をつくように促し尋ねた。
「明日また午後に参ります。先ほどの音からすると井戸があるのは間違いないようですが、状況を見て今後の作業についてお話したいと思います」
 マジンは右手の鉄索を突き抜いた穴の脇に立てる。軽く振り上げるとズルリと鉄索が半分ほども食い込んだ。
 ワングには鉄の棒がいきなり半分の長さになったように見えた。
 その後、桟橋の番屋まで馬車で送ってもらい、荷の番をしていた人足に荷物の積み込みを手伝わせて三タレルづつ支払った。
 その夜、天階亭に改めて家族で赴き舌鼓を打った。
 リザ曰く、金貨を銀貨に交換する食事、ということだったが、その価値はあるものばかりでなんとも言えない楽しさがあった。
「父様。あのくさい川。臭くなくすることができるの?」
 デザートに出てきた桃の香りのするキノコのデザートに舌鼓を打ちながら、ユエがマジンに尋ねた。
「あの川がなんでくさいんだと思う?」
「汚いから」
 断ずるようにユエは応えた。
「くさいのは汚いからなんだ?」
 マジンはユエに確認した。
「うん」
「ちがうの?」
 ユエが断じたのをソラがなにが違うのかとマジンに尋ねた。
「違わないよ。汚いのはイヤだからな。嫌だからくさいと感じるんだ。お料理の香りはいい匂いだろ。美味しいかい」
「うん。美味しい」
 ソラとユエは揃って頷いた。
「実はあのくさい匂いを美味しいそうと感じている生き物もいるんだ。例えばハエとかゴキブリとかアリとかミミズとかネズミとか、あとカビとかキノコとかもかな。あんまり綺麗な生き物じゃないよね」
 ふたりは、ええ、という顔で眉を寄せる。
「――例えば、ソラとユエは美味しい良い匂いのデザートを食べる。そうするとどうなる?」
「嬉しくなる」
「お腹いっぱいになる」
「まぁそうだね。元気になる。代わりにデザートがなくなる。良い匂いも一緒にだ。……さて、どうすれば臭い匂いがなくなるか。分かったかな」
 二人は顔を見合わせた。
「くさいのが好きな生き物に食べてもらうの?」
 ソラが答えた。
「正解だ」
「でも、ソレじゃネズミとかハエとかゴキブリとか集まってきて増えちゃうよ」
 ユエが疑問を示した。
「ゴミが増え続ければそうなるな。だから綺麗にしたければ掃除して片付ける必要はやっぱりある」
「でも川の中でしょ。どうするの?」
 ソラが尋ねた。
「水の中の生き物が元気になるようにする。水の中にもネズミやゴキブリやハエみたいな役割の生き物がいっぱいいる。そういうのが好きなモノを食べやすいようにしてやる」
 娘たちだけでなくリザも興味を示していた。
「どうやるの?」
「冬の間、凍えないようにしてやる。それと食べやすいように細かくしてやる」
 ユエに応えて説明してやる。
「お風呂みたいにお湯流したりするの?」
 ユエが尋ね返した。
「それでもいいけど、せっかく井戸から汲んだ綺麗なお水がもったいないから、暖かい空気でいいと思うよ。あぶくが周りの水をかき回してくれるようにするんだ。寝床と食事が快適になって増えた虫達は魚に食べてもらうことにしよう」
 マジンの説明に娘たちは大喜びで成功を確信しているようだったが、リザは引っかかるところがあるようだった。
「やり方は、あなたの考えは分かったけど、五十万タレルって金貨五千枚ってことでしょ。お店が傾くほどでないにせよ、結構な大金よ。やるって言うかしら」
 リザが疑問を口にした。
「大番頭として自分の店の玄関口が綺麗になるのは彼女には魅力な話だと思うよ。汚い店をただ預かるだけよりは、自分の判断で一帯を綺麗にできるなら箔がつくからそうしたいだろうし、グレン氏にも彼女がそういう度量を示す期待があるから、貧民窟を買い取り追い出してまで冷凍庫を建てることになっている筈さ。そういう中で、使える人間が掘り出せれば見っけものだ。……機械が高過ぎると思えば、河川組合に話を持っていって半分出させるくらいの交渉はするだろう。と思う。それに金額そのものはあんまりふっかけていないんだ。正直に言えば、理屈を試してみたいから持ちかけただけだし、立地を考えれば試すには都合がいい。けど断られても、まぁいいのさ。ただのボクからの遊びのお誘いだから、仕事が忙しいなら、しかたない」
 リザは熱心に説明してみせたマジンが軽い遊びの誘いのように語ったことを不思議に思った。
「それでいいの?」
「まぁ、つまらない仕事の依頼のおまけに楽しいお遊びをさせてほしい。とは思うけど、セレール商会は食料中心の商会で、アルガ氏は大番頭とは言っても露天商のための倉庫の管理人兼元締めだからね。川の清掃浄化に興味があるかどうかはよくわからないよ。テカに禊を済ませていない凶状持ちを侍らせているようじゃ、先も知れている。……最近真面目に回状に目を通していなかったからなぁ。アルジェン。手配書の綴もってきてるか」
 アルジェンは首を振った。
「もう覚えちゃったから持ってこなかった。必要だった?」
「いや。お前たちが覚えてるならいいや。あとで教えてくれ」
「どうするつもり」
 リザが尋ねた。
「どうもしないよ。ボクの仕事を邪魔するなら始末する。けど、他所の用人がどういうスジの人間でも、ボクの仕事に邪魔が入らないならそれはいいんだ。仕事の面倒を増やしてまで金稼ぎがしたいわけじゃない。ボクは楽しく仕事がしたいんだ。それだけさ」
 画期的な大仕事のはずのことを、カネがかかっていない博打であるかのように言ってマジンは肩をすくめた。
 夜、リザは少し考えてそれぞれの部屋に大人が別れていたほうがいいだろうと提案した。
 年齢別じゃんけんの勝者と敗者で部屋割りを決める厳正なる勝負の結果、階段から遠い奥の勝者部屋がリザ・アルジェン・ソラ、手前の奥ゆかしいヒトの部屋がマジン・アウルム・ユエとなった。
 ユエは最初リザの素晴らしさについて色々に語っていたが、ふと史料館のことに水を向けるとアウルムとふたりでその素晴らしさについて讃え始めた。
 翌朝、朝食の席でリザに話を聞くと勝者部屋も似たような感じだったらしい。
「よほど私をあなたの奥さんにしたいのかしら」
 リザは笑って言った。
「最初は決闘を避けるための子供の考えだったが、今はボクも君を妻にしたい」
 そう言ってマジンが唇に吸い付くと、リザは驚いていたがやがて応え、ついにはマジンの舌と唇が離れるのをリザは追った。
 朝っぱらからの仲睦まじい風景に河岸の乱暴者連中も利用する食堂は冷やかしとやっかみの声で満ちたが、それも幸せな風景だった。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

催眠アプリで恋人を寝取られて「労働奴隷」にされたけど、仕事の才能が開花したことで成り上がり、人生逆転しました

フーラー
ファンタジー
「催眠アプリで女性を寝取り、ハーレムを形成するクソ野郎」が ざまぁ展開に陥る、異色の異世界ファンタジー。 舞台は異世界。 売れないイラストレーターをやっている獣人の男性「イグニス」はある日、 チートスキル「催眠アプリ」を持つ異世界転移者「リマ」に恋人を寝取られる。 もともとイグニスは収入が少なく、ほぼ恋人に養ってもらっていたヒモ状態だったのだが、 リマに「これからはボクらを養うための労働奴隷になれ」と催眠をかけられ、 彼らを養うために働くことになる。 しかし、今のイグニスの収入を差し出してもらっても、生活が出来ないと感じたリマは、 イグニスに「仕事が楽しくてたまらなくなる」ように催眠をかける。 これによってイグニスは仕事にまじめに取り組むようになる。 そして努力を重ねたことでイラストレーターとしての才能が開花、 大劇団のパンフレット作製など、大きな仕事が舞い込むようになっていく。 更にリマはほかの男からも催眠で妻や片思いの相手を寝取っていくが、 その「寝取られ男」達も皆、その時にかけられた催眠が良い方に作用する。 これによって彼ら「寝取られ男」達は、 ・ゲーム会社を立ち上げる ・シナリオライターになる ・営業で大きな成績を上げる など次々に大成功を収めていき、その中で精神的にも大きな成長を遂げていく。 リマは、そんな『労働奴隷』達の成長を目の当たりにする一方で、 自身は自堕落に生活し、なにも人間的に成長できていないことに焦りを感じるようになる。 そして、ついにリマは嫉妬と焦りによって、 「ボクをお前の会社の社長にしろ」 と『労働奴隷』に催眠をかけて社長に就任する。 そして「現代のゲームに関する知識」を活かしてゲーム業界での無双を試みるが、 その浅はかな考えが、本格的な破滅の引き金となっていく。 小説家になろう・カクヨムでも掲載しています!

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

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