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木曜日~花祭り~
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ずん、ちゃっちゃっずん。
ずん、ちゃっちゃっずん。
――市役所。
――法務局。
――税務署。
――市役所。
ずん、ちゃっちゃっずん。
純一は幾つかの街を回って何度目かのお役所窓口サイクルを繰り返して夜月の言った、やや曖昧な取っ掛かり、というヤツを探っていた。警察だとこの辺のステップが一気に省けるらしいが、探偵業でも手間をかければ似たことはできる。
ずん、ちゃっちゃっずん。
ひとつ一つの作業は夜月の言ったとおりに進み、概ね合っているようなので不安もない。新しい項目を探る度に微妙に色々模様がずれてくる。そんな組み絵パズルのような感覚を楽しんでいた。
まぁたぶんこの辺も慣れて整理されてきたり、モノの手がかりが多ければあっという間にケリがつくんだろうなぁ。たまに同じ手がかりに戻ってしまったりするとそんなことを思いながら、しかしチェックリストは伸びてチェックマークが埋まっていっているのはある意味、結構な達成感だ。とはいえ途中まで進んだ線があっさり切れたときにはちょっとガッカリもした。
――アレ。コレは見たなぁ。
水曜日の午前中、役所で出てくる書面の形式にも純一が少し慣れてきた頃、記憶にある名前が出てきた。財布の札入れに挟んであった名刺を確認する。
武蔵数正。住所はちがったが、同じ名前、同じ字。高校生に集られていたのを散らして、その場の出口にいた男、たぶんヤクザ。
とりあえず、予定のサイクルを完了して事務所に戻り、成果の書類と名刺を夜月に示して報告した。
ついで、その名刺を貰った因縁を夜月に説明した。
夜月は少し目を丸くしたようだった。
「おや、週末までは掛かるかと思いましたが、まだ二日目ですよ?意外と早く決着しましたね。素晴らしい機運です。こういう運があるってのは、畑中さん探偵に向いてますね」
夜月は純一の示した名刺を眺めながらそう言った。
「――さて、そうすると後は倉庫の話だけなのですが、まぁコッチも目星は立って報告ができるようになったのですが、あーうーん。どうしようかなぁ。武蔵興産さんだったか。しかも社長さんか。どうしようかなぁ。まぁいいか、訊いてみようかなぁ」
夜月は後半、唸るような悩むような素振りで、らしからぬ独り言をいってから、電話口に立った。
「もしもし、こちら、阿吽魔法探偵事務所の斎と申しますが、……ああ、はいはい。そうです。お願いいたします。――畑中さん、少し待っててくださいね」
夜月は電話先の交代の合間に純一にそんなことを言った。純一としても次の展開は楽しみであったので、イヤもない。
「――ああ、どうも、お世話になっております。阿吽魔法探偵事務所の……ああ、そうです。先だってはどうも。
で、例の件ですが。
ハイハイ、あらかたメドが立ってご報告しようかと思ったのですが、実はちょっとコッチと因縁があるところが含まれていまして。
ああ?いやいや。そういう、話ではなくですね。
ええ、商売上の付き合いというヤツです。
ああ、ははは、こういう商売やっているとどうしても。スミマセン。
いやいや。
ああ、で、ですね?ひとつ新たにこちらで下請けができないかと。
ああ、いやいや、その辺の細かなところは、プロの方にお任せするとして、こちらでお使いをお手伝いするとソチラの人が省けて丁度いいのではないかと思いまして。
おそらく、その辺、ソチラもいきなり現地で交渉っていうつもりではないと思います。
はいはい。早馬の魁みたいに使っていただいて。
ああ、まぁその辺はなんともですが、さっきも言ったとおり、ちょっと因縁がありまして……悪いニュアンスと言うか、……ああ、そうです。そうです。ちょっと突っ込んでも良いかなという、雰囲気なのでコチラで差出口をしたまでで。
ええ、まぁ。そうですね。
ちょっとこのあとざっと纏めた資料をお送りいたします。まずはとりあえずファックスで、モノはこちらは不要なので資料は一切お送りいたします。バイク便で。
違法なものや過度に貴重なものは含まれていませんのでご安心を。単に私どもの作業の報告なので。
はいはい。まずは様子をご覧になってください。
はい。よろしくお願い致します。それではごきげんよう。また後ほど」
そう言って夜月は電話を切った。
「さて、じゃぁわたしはちょっと報告書書いちゃうんで、畑中さんはこれコピーしておいてください。そのままだとファックスいかないかもなんで。あと、原本とコピーと別々に封筒に入れて送るので、封筒二つ用意してくださいね。で、原本の方はコピーとったら先に送っちゃって良いです。送り状コレなんで、先にバイク便頼んじゃってください」
そう言って夜月は机でペンを握って報告書を書き始めた。純一がデスクにまわした公文書のコピーをまとめて眺めながら自分の書いた報告書をチェックすると、送り状とともにまとめて渡してファックスを送るように純一に依頼した。
ファックスを送ったあとで、資料を纏めてバイク便で発送の準備をしてからコーヒーを飲んで寛いでいると電話が鳴った。
夜月がツーコールで出る。
「はい、もしもし、お世話になっております。こちら、ああ、はいはい。そうです。
お送りした資料はご覧にいただけましたか。
あぁうん、まぁそうです。
はいはい。で、さっきの件なんですが……、ハイハイ、ご賢察のとおりです。
どうしましょう。ソチラでいきなり行かれても、まぁ慣れた方なら問題ありませんが、最初はガキの使いってのもひとつかと。
まぁ、ファックス送ってからってのもアリですが、ええ、まぁ、ムコウはそういうのが商売ですから。
ハイハイ。で、先程の話に戻る、といったご提案なんです。いかがでしょう。
まぁ、これからってのはアレですが、ソチラで問題がないようでしたら、……は?草稿を送るからって?もう準備されているんですか?はぁ、まぁ、確かに日が傾くまでには伺えるかと思います。
ああ、え?まぁそうですね。
いやいや。や。おっしゃる通りです。こちらの不明でした。いや、申し訳ありません。
いやー、参りました。はっはっは。そこまで買っていただいてたとは、もちろんそのつもりではありますが、なにぶんこちらからの急な話になってしまったので、零細のこちらと同じようなペースで考えていました。申し訳ありません。
ああ、イヤイヤ、ソチラは大丈夫です。
先方様の都合があるかと思うので、そこいらはご勘弁いただくとしても、とりあえずひと当たりしてご報告いたします。
はい。よろしくお願い致します。それではごきげんよう。また後ほど」
電話を切り、さて、と夜月は純一に切り出した。
「今の電話、どの程度聞いていましたか?」
「お使いをするというような話でしたか。……武蔵興産の件ですか。ってことは、俺が」
夜月は嬉しそうに笑みを零した。
「すばらしい洞察です。さすがは。まぁ怒鳴られて帰ってくるのが仕事みたいなものなんで、アレなんですが、出会った経緯とか訊いてみると意外とイケるのかなぁ、と思いまして。名刺を持っていく仕事とかしませんか」
夜月は純一に向かい合わせにソファーに腰をおろして笑みを消した。
「――いや、ここからはマジの話、危険はなくもないということはご理解いただいた上で、どうするか決めていただきたいと思います。……どうです。お願いできますか?畑中さん」
「断った場合、どうなるんですか」
夜月と純一はお互いが互いを監察しているのを意識しながら、視線を絡ませる。
「どうもなりません。私が行きます。私も因縁がないと言ったらウソですから。逆縁ですが、まぁ大した問題ではありません。これを機会に良縁になるかもしれないですし」
夜月が純一を試しているのは間違いないが、夜月にはそれなりの目算が合って納得した上で純一に賭けてみた。純一にはそんな感じにみえる。
純一自身が分かる範囲で考えてみる。
純一には危険の内容は不明であるが、夜月はその存在の可能性について隠していない。しかも、なお純一に選択を委ねている。夜月のこれまでの仕事の感覚によると純一でも果たせると見込んだのだろうと、純一は判断した。
武蔵数正という人物について知るところは殆どないが、あの場でみせた気前のよさから、ソコソコ以上にスジは気にする人間とみえる。持っていく書類がなんであれ、夜月が手足を失って帰ってくる可能性はほぼないだろう。
ただ武蔵数正に会えないで下っ端に差し止められてタコにされるケースは最悪だ。
そこだけ避ければ、恐怖はあるが危険は少ない。超弩級のお化け屋敷ツアー、といったところか。社会科見学にしては少しばかり嫌な気分だが、ヤクザの事務所は初めてというわけではない。あの時は興奮していたが、今回は冷静だというだけだ。
ゆっくり腹が決まってくるのを夜月は診てとったようだ。表情が緩んでいる。
「いいでしょう。やります。いってきます」
決意というほど大仰でもなく、純一は夜月に告げた。
「それではよろしくお願い致します」
珍しく夜月が純一に握手を求めた。純一が断わることを危惧して夜月が緊張していたということはないだろう。おそらく信頼してくれたのだ、と純一は解釈した。そう考えると少しばかり意外なほど元気になった。
三時前にバイク便が届いて、夜月が中身を改める。
「さて、行きますか」
てっきりそのまま封筒を受け取るものだと思っていた純一が差し出した手を無視して、夜月が言った。
「お送りしますよ。大事なモノも持ってるわけですし」
「でも、自転車ってところじゃないですよ?」
軽くヘルメットを示して純一が本気で言った。
「ヤダなぁ。分かってますよ。自動車ぐらい、私も持っています」
純一が意外そうな顔をしたのが可笑しかったのか、夜月が笑って言った。
「――たまには誰かを乗せてドライブというのもいいモンです。いきましょうか。ヘルメットは……積んで行きましょう」
夜月の車は隣のビルの地下駐車場に停めてあった。深い夜の青が艶やかなオープンスポーツ。今時珍しいマニュアルトランスミッション。低いエンジン音をコンクリートに響かせ、しかしその動きはヌルリと蛇のように滑り出した。
「いい天気だから屋根開けたい気もしますが、気合を入れなければならないときに浮かれるのも変ですからね」
そう言ったきり、夜月は黙ったまま運転した。
武蔵興産の事務所はちょっとしたオフィスビル街の一角にあった。ビルの規模は周りのものに比べ小さめで古い。そして頑丈そうだった。
「さて、それでは、御武運を。ここでお待ちしているので、なんかあったらテレパシーさえ使って呼んでください。アナタにナニかあったら、お嬢様方に私がたぶん殺されます。――そんな感じでいいでしょう。イッテラッシャイ」
純一は少し不思議な感じがしたが何となく笑った。夜月は純一が入れ込みすぎているように感じたようで、軽くそんなことを言って送り出してくれたのだと思う。
「イッテキマス」
なんかそう言えば、こんなやりとりがここしばらくできていないな。そんなことを思い出すくらいには純一は周りがみえるようになっていた。
武蔵興産は立派に営業中だった。といっても阿吽魔法探偵事務所とドッコイの営業中でコーヒーミルの音が、タバコの煙とテレビの声とジャラジャラいっている麻雀牌の音にかわったような感じだった。
「ごめんください」
純一は戸口をくぐり奥に声をかける。
「あーい、どちらさん」
奥から声が返ってきた。姿はまだ見せない。
「コチラに武蔵数正さんはいらっしゃいますか」
「あぁ?社長?」
さすがに慌ててひとり出てくる。
「アンタどちらさん?」
「先日、武蔵数正さんから用があったら訪ねてくるようにと言われまして」
武蔵から過日受け取った名刺を示すと男はひったくるように確認する。
「なんじゃ。おまぁ、なんか社長に文句でもあんのかぁ?」
「用はありますが、文句はとくに」
「で、アンタはどちらさん?取り次いでやるから待っちょれよ」
「僕はコチラから使いで参りました」
と、夜月から貰ったばかりの名刺を出す。
表には「阿吽魔法探偵事務所」と真ん中に書かれ、住所に電話番号。実にシンプルな名刺だ。
「貴様ァ、あの魔法使いか?」
夜月がナニをやったのかは知らないが、事務所がざわめく。麻雀牌の音が止まり、ドカドカと男が出てきた。
「いい度胸だな。貴様ぁ。どういうつもりだ?ぇわらぁ」
「ぁざぁれんぢゃぇえぞ、ぁらあ」
こういう展開もあるかと思ったが、流石に現物を見るとちょっと困る。名刺を出すのと自分の名前をいうのとドッチが良かったのか分からないが、あの場で名乗った覚えもないし、微妙だ。
「社長さんにお話があって来ました。駐車場の脇でお目にかかった者です。約束の学生証は持ってきませんでしたが、別件でお話がありますとお伝え下さい」
奥の方から冷たい目で観察していた男が渡した名刺二枚をひったくる様に集めると、受付の脇の電話をとった。
しばらくのやりとりの後に、電話をかけた男が顎をしゃくる。
「ついて来い。社長が会ってやるってさ」
ひとつ上のフロアに案内されると、そこには三人の男がいた。応接セットの一人がけのソファーに座っていたのは、名刺を渡した男。客用の三人がけのソファーの左右にはそれぞれ頑丈そうな男が立っている。
案内の男が一礼して去ると席に促すでもなく、武蔵数正の名刺を渡した男が無遠慮に純一を眺めた。
「なるほどな。あの魔法探偵の弟子だったか。道理でやることがエゲつねぇわけだ。――おい、コイツがあの小僧どもをまとめて泣かせた野郎だ。よく顔、覚えとけ。トッポいガキだと思ってナメるとテメェらもヤられるぞ。――で、なんだ。今日は。学生証は持って来てないって話だったが」
「先日は、よくしていただきありがとうございます。――今日はお届け物があってきました」
悪意がないことを示すために、純一は深々と頭を下げて挨拶した。
「斎とかってのもそんな感じだな。バカ丁寧で読めねぇ。カチコミって感じでもなさそうだし、いいだろう、そのお届け物ってのを見せてもらう」
純一は封筒を軽く掲げて示す。ソファーの右脇の男が純一から奪い中身を出して、武蔵に渡す。
武蔵が書類で身振りをすると、封筒を受け取った男が純一にソファーに座るように促した。
しばらく純一は見るともなく視線を泳がせないように部屋を観察する。武蔵が眼鏡をかけて書類を検分している。左の男は右腕をかばうように隠していたのはたぶん拳銃かナニか握っているんだろう。右の男は位置が悪くてよく分からない。が、純一の指の動きに注目をしているように感じる。そんなことを思うくらいには純一は状況を把握できていることを確認した。
「用事は分かった。コイツは預かって弁護士にみせる。今晩中に検討して明日には返事をする。それでいいな」
「はい。お願いします」
武蔵が眼鏡を外しながら言ったのに、ホッとしたまま純一は応える。
「明日正午きっかりにお前が返事を受け取りに来い。今度はマトモにスーツでな。いくらヤクザの事務所に来るからって、商談にそんな派手な色の革ジャンでくるヤツがあるかよ。ビビりすぎだ。――んん」
そう言うと武蔵は純一をメガネで払う。
純一は立ち上がって一礼した。右手に立っていた男が純一を促し出口まで案内するのを、夜月は車に寄りかかりながら出迎えた。
「商談にはスーツで来いと叱られました」
「あ、ぁあ、うん。コレはしまった。危うく機嫌を損ねるところだった。明日は一発二発殴られてもいいように腹のモノは減らしておいた方がいいですね」
純一が報告すると、夜月は笑って失敗を認め少し純一を脅した。
明けて木曜日。
純一がスリーピースのダークスーツに暗色のペイズリー柄のネクタイで武蔵興産の事務所の入っているビルに到着したのは十二時十分前だった。昨日と同じように夜月に送って貰ったのだが、夜月は多少時間を気にしていた。
「古風に硬い人ですからね。時間が難しいんですよ」
夜月はそう言って、少し焦っているようだった。
事務所で呼びかけると昨日とは打って変わって静かな対応で奥に案内された。
「ふん。遅れず来たか。今日はマトモな格好をしているな。ウチに来るときはちゃんとそういう格好をしろ。どうせこれからあの斎とかいう探偵がウチに用があるときは、お前が来ることになるだろうからな。――昼飯まだだろう、食え。商談は後だ」
武蔵が顎をしゃくると、右手に立っている男が純一を差し招く。
応じてソファーに腰を下ろすと重箱と大きな寿司桶が狭くもないソファーテーブル一杯に溢れんばかりに積まれて並んでいた。
「まぁ食え。――いただきます」
「いただきます」
武蔵が手を合わせるのにあわせて純一も手を合わせて食事の挨拶をする。
重箱の中身は鰻重だった。
「やげん堀の山椒だ。――使え。イケるぞ」
武蔵は若いとは思えないがかなりの健啖家で、かなりのペースで重と寿司桶を開けてゆく。純一がペースを落とすとビールを注いでさらに食べるように促した。途中からは純一もなんとなく場の意図が読めるようになってきて、マラソンのようにうな重と寿司桶を空にしつつ、あとからやってくるビール瓶を空けていった。
気がつくと座った肩まで積まれていた重箱と寿司桶は空になって次々と持ち去られ、ビールの瓶もお代わりが止まっていた。朝食を抜いたのがよかった。少し心配させたが、試練を乗り切った。たぶん、夜月にはこの展開が読めていたのだろう。純一は感謝した。
空けられた分の器から机の上よりなくなり、今やテーブルは空だった。
武蔵はソファーテーブルの上を眺め鼻を鳴らす。供した分が食べきられたことに満足したようだった。あるいは食べきれないと思っていたのかもしれない。
「しかたねぇ。食事が終わっちまったんなら、用件を進めるか」
そう武蔵は切り出した。
「昨日の条件じゃ飲めねぇ」
武蔵は結論を述べた。
「そうですか」
緊張していた純一に酔いはなかったが、さすがに食べ過ぎで奥歯をかみしめ、ゲップを抑えこむ。
その歪んだ顔を見て武蔵は鼻を鳴らす。
「なんだ。不服か。タダのガキの使いのクセに」
「いえ。お、私の仕事は使いですから、お返事をいただければそれで結構です」
また武蔵は鼻を鳴らす。
「それで話を終りにしてもいいんだが、机の上が片付いた。だからちょっと書きものをしてやる」
と言って、昨日預けた契約書の草稿を取り出し、なにやら文面を書き直している。
「おら、コレで良ければ持って帰れ。この件はコレで終いだ。他の交渉は受け付けねぇ。コレが飲めなきゃ知らん、と言ってやれ」
「あ、ありがとうございます。お預かりいたします」
純一は目を伏せ顔を抑える。緊張と満腹で胃袋が変な痙攣をしている。その様子を見て武蔵はまた鼻を鳴らす。
武蔵が昨日の封筒に改変した契約書の草稿をもどし、机の上を滑らせてよこした。
純一は受け取って立ち上がる。ふとふらついたのを見てまた武蔵が鼻を鳴らした。
昨日と同じように純一の右手背後に控えていた男が、ビルの出口まで純一を導いた。
もういいだろう、という気もしたがここまで来てという思いで純一はゲップと放屁を抑えこむ。
「斎さん、窓開けますね」
そう言って純一は少し風にゲップを散らしていたが、どうにもダメになってきた。
「二時間以上食べ続けですからねぇ。そこのコンビニでお手洗い借りましょ」
そう言って、夜月は車をコンビニの駐車場に入れた。純一は転がるようにトイレに駆け込み、腹の物を便器に空ける。
車に戻ると純一の席にはいっぱいの花が詰まっていた。苦しみに気が回らなかったがコンビニのとなりは花屋だった。花屋の店員が笑ってコチラを見ている。夜月は屋根を開ける。
「芳香剤代わりです。というと花が可哀想ですね。今日は花祭りなんで、そういうことにしておきましょう。歩いた後に花が咲くってのはアレですが、そこそこ悪くない結果に終わったようですし、お花は持って帰って女の子たちへのお土産にしてください」
最初からそのつもりだったのだろう、夜月がそう言った。
ビルの春風は少し埃っぽかったが、バラとユリとその他幾つものむせ返るような花の香りで、なんとなく春の風の雰囲気ではあった。
ずん、ちゃっちゃっずん。
――市役所。
――法務局。
――税務署。
――市役所。
ずん、ちゃっちゃっずん。
純一は幾つかの街を回って何度目かのお役所窓口サイクルを繰り返して夜月の言った、やや曖昧な取っ掛かり、というヤツを探っていた。警察だとこの辺のステップが一気に省けるらしいが、探偵業でも手間をかければ似たことはできる。
ずん、ちゃっちゃっずん。
ひとつ一つの作業は夜月の言ったとおりに進み、概ね合っているようなので不安もない。新しい項目を探る度に微妙に色々模様がずれてくる。そんな組み絵パズルのような感覚を楽しんでいた。
まぁたぶんこの辺も慣れて整理されてきたり、モノの手がかりが多ければあっという間にケリがつくんだろうなぁ。たまに同じ手がかりに戻ってしまったりするとそんなことを思いながら、しかしチェックリストは伸びてチェックマークが埋まっていっているのはある意味、結構な達成感だ。とはいえ途中まで進んだ線があっさり切れたときにはちょっとガッカリもした。
――アレ。コレは見たなぁ。
水曜日の午前中、役所で出てくる書面の形式にも純一が少し慣れてきた頃、記憶にある名前が出てきた。財布の札入れに挟んであった名刺を確認する。
武蔵数正。住所はちがったが、同じ名前、同じ字。高校生に集られていたのを散らして、その場の出口にいた男、たぶんヤクザ。
とりあえず、予定のサイクルを完了して事務所に戻り、成果の書類と名刺を夜月に示して報告した。
ついで、その名刺を貰った因縁を夜月に説明した。
夜月は少し目を丸くしたようだった。
「おや、週末までは掛かるかと思いましたが、まだ二日目ですよ?意外と早く決着しましたね。素晴らしい機運です。こういう運があるってのは、畑中さん探偵に向いてますね」
夜月は純一の示した名刺を眺めながらそう言った。
「――さて、そうすると後は倉庫の話だけなのですが、まぁコッチも目星は立って報告ができるようになったのですが、あーうーん。どうしようかなぁ。武蔵興産さんだったか。しかも社長さんか。どうしようかなぁ。まぁいいか、訊いてみようかなぁ」
夜月は後半、唸るような悩むような素振りで、らしからぬ独り言をいってから、電話口に立った。
「もしもし、こちら、阿吽魔法探偵事務所の斎と申しますが、……ああ、はいはい。そうです。お願いいたします。――畑中さん、少し待っててくださいね」
夜月は電話先の交代の合間に純一にそんなことを言った。純一としても次の展開は楽しみであったので、イヤもない。
「――ああ、どうも、お世話になっております。阿吽魔法探偵事務所の……ああ、そうです。先だってはどうも。
で、例の件ですが。
ハイハイ、あらかたメドが立ってご報告しようかと思ったのですが、実はちょっとコッチと因縁があるところが含まれていまして。
ああ?いやいや。そういう、話ではなくですね。
ええ、商売上の付き合いというヤツです。
ああ、ははは、こういう商売やっているとどうしても。スミマセン。
いやいや。
ああ、で、ですね?ひとつ新たにこちらで下請けができないかと。
ああ、いやいや、その辺の細かなところは、プロの方にお任せするとして、こちらでお使いをお手伝いするとソチラの人が省けて丁度いいのではないかと思いまして。
おそらく、その辺、ソチラもいきなり現地で交渉っていうつもりではないと思います。
はいはい。早馬の魁みたいに使っていただいて。
ああ、まぁその辺はなんともですが、さっきも言ったとおり、ちょっと因縁がありまして……悪いニュアンスと言うか、……ああ、そうです。そうです。ちょっと突っ込んでも良いかなという、雰囲気なのでコチラで差出口をしたまでで。
ええ、まぁ。そうですね。
ちょっとこのあとざっと纏めた資料をお送りいたします。まずはとりあえずファックスで、モノはこちらは不要なので資料は一切お送りいたします。バイク便で。
違法なものや過度に貴重なものは含まれていませんのでご安心を。単に私どもの作業の報告なので。
はいはい。まずは様子をご覧になってください。
はい。よろしくお願い致します。それではごきげんよう。また後ほど」
そう言って夜月は電話を切った。
「さて、じゃぁわたしはちょっと報告書書いちゃうんで、畑中さんはこれコピーしておいてください。そのままだとファックスいかないかもなんで。あと、原本とコピーと別々に封筒に入れて送るので、封筒二つ用意してくださいね。で、原本の方はコピーとったら先に送っちゃって良いです。送り状コレなんで、先にバイク便頼んじゃってください」
そう言って夜月は机でペンを握って報告書を書き始めた。純一がデスクにまわした公文書のコピーをまとめて眺めながら自分の書いた報告書をチェックすると、送り状とともにまとめて渡してファックスを送るように純一に依頼した。
ファックスを送ったあとで、資料を纏めてバイク便で発送の準備をしてからコーヒーを飲んで寛いでいると電話が鳴った。
夜月がツーコールで出る。
「はい、もしもし、お世話になっております。こちら、ああ、はいはい。そうです。
お送りした資料はご覧にいただけましたか。
あぁうん、まぁそうです。
はいはい。で、さっきの件なんですが……、ハイハイ、ご賢察のとおりです。
どうしましょう。ソチラでいきなり行かれても、まぁ慣れた方なら問題ありませんが、最初はガキの使いってのもひとつかと。
まぁ、ファックス送ってからってのもアリですが、ええ、まぁ、ムコウはそういうのが商売ですから。
ハイハイ。で、先程の話に戻る、といったご提案なんです。いかがでしょう。
まぁ、これからってのはアレですが、ソチラで問題がないようでしたら、……は?草稿を送るからって?もう準備されているんですか?はぁ、まぁ、確かに日が傾くまでには伺えるかと思います。
ああ、え?まぁそうですね。
いやいや。や。おっしゃる通りです。こちらの不明でした。いや、申し訳ありません。
いやー、参りました。はっはっは。そこまで買っていただいてたとは、もちろんそのつもりではありますが、なにぶんこちらからの急な話になってしまったので、零細のこちらと同じようなペースで考えていました。申し訳ありません。
ああ、イヤイヤ、ソチラは大丈夫です。
先方様の都合があるかと思うので、そこいらはご勘弁いただくとしても、とりあえずひと当たりしてご報告いたします。
はい。よろしくお願い致します。それではごきげんよう。また後ほど」
電話を切り、さて、と夜月は純一に切り出した。
「今の電話、どの程度聞いていましたか?」
「お使いをするというような話でしたか。……武蔵興産の件ですか。ってことは、俺が」
夜月は嬉しそうに笑みを零した。
「すばらしい洞察です。さすがは。まぁ怒鳴られて帰ってくるのが仕事みたいなものなんで、アレなんですが、出会った経緯とか訊いてみると意外とイケるのかなぁ、と思いまして。名刺を持っていく仕事とかしませんか」
夜月は純一に向かい合わせにソファーに腰をおろして笑みを消した。
「――いや、ここからはマジの話、危険はなくもないということはご理解いただいた上で、どうするか決めていただきたいと思います。……どうです。お願いできますか?畑中さん」
「断った場合、どうなるんですか」
夜月と純一はお互いが互いを監察しているのを意識しながら、視線を絡ませる。
「どうもなりません。私が行きます。私も因縁がないと言ったらウソですから。逆縁ですが、まぁ大した問題ではありません。これを機会に良縁になるかもしれないですし」
夜月が純一を試しているのは間違いないが、夜月にはそれなりの目算が合って納得した上で純一に賭けてみた。純一にはそんな感じにみえる。
純一自身が分かる範囲で考えてみる。
純一には危険の内容は不明であるが、夜月はその存在の可能性について隠していない。しかも、なお純一に選択を委ねている。夜月のこれまでの仕事の感覚によると純一でも果たせると見込んだのだろうと、純一は判断した。
武蔵数正という人物について知るところは殆どないが、あの場でみせた気前のよさから、ソコソコ以上にスジは気にする人間とみえる。持っていく書類がなんであれ、夜月が手足を失って帰ってくる可能性はほぼないだろう。
ただ武蔵数正に会えないで下っ端に差し止められてタコにされるケースは最悪だ。
そこだけ避ければ、恐怖はあるが危険は少ない。超弩級のお化け屋敷ツアー、といったところか。社会科見学にしては少しばかり嫌な気分だが、ヤクザの事務所は初めてというわけではない。あの時は興奮していたが、今回は冷静だというだけだ。
ゆっくり腹が決まってくるのを夜月は診てとったようだ。表情が緩んでいる。
「いいでしょう。やります。いってきます」
決意というほど大仰でもなく、純一は夜月に告げた。
「それではよろしくお願い致します」
珍しく夜月が純一に握手を求めた。純一が断わることを危惧して夜月が緊張していたということはないだろう。おそらく信頼してくれたのだ、と純一は解釈した。そう考えると少しばかり意外なほど元気になった。
三時前にバイク便が届いて、夜月が中身を改める。
「さて、行きますか」
てっきりそのまま封筒を受け取るものだと思っていた純一が差し出した手を無視して、夜月が言った。
「お送りしますよ。大事なモノも持ってるわけですし」
「でも、自転車ってところじゃないですよ?」
軽くヘルメットを示して純一が本気で言った。
「ヤダなぁ。分かってますよ。自動車ぐらい、私も持っています」
純一が意外そうな顔をしたのが可笑しかったのか、夜月が笑って言った。
「――たまには誰かを乗せてドライブというのもいいモンです。いきましょうか。ヘルメットは……積んで行きましょう」
夜月の車は隣のビルの地下駐車場に停めてあった。深い夜の青が艶やかなオープンスポーツ。今時珍しいマニュアルトランスミッション。低いエンジン音をコンクリートに響かせ、しかしその動きはヌルリと蛇のように滑り出した。
「いい天気だから屋根開けたい気もしますが、気合を入れなければならないときに浮かれるのも変ですからね」
そう言ったきり、夜月は黙ったまま運転した。
武蔵興産の事務所はちょっとしたオフィスビル街の一角にあった。ビルの規模は周りのものに比べ小さめで古い。そして頑丈そうだった。
「さて、それでは、御武運を。ここでお待ちしているので、なんかあったらテレパシーさえ使って呼んでください。アナタにナニかあったら、お嬢様方に私がたぶん殺されます。――そんな感じでいいでしょう。イッテラッシャイ」
純一は少し不思議な感じがしたが何となく笑った。夜月は純一が入れ込みすぎているように感じたようで、軽くそんなことを言って送り出してくれたのだと思う。
「イッテキマス」
なんかそう言えば、こんなやりとりがここしばらくできていないな。そんなことを思い出すくらいには純一は周りがみえるようになっていた。
武蔵興産は立派に営業中だった。といっても阿吽魔法探偵事務所とドッコイの営業中でコーヒーミルの音が、タバコの煙とテレビの声とジャラジャラいっている麻雀牌の音にかわったような感じだった。
「ごめんください」
純一は戸口をくぐり奥に声をかける。
「あーい、どちらさん」
奥から声が返ってきた。姿はまだ見せない。
「コチラに武蔵数正さんはいらっしゃいますか」
「あぁ?社長?」
さすがに慌ててひとり出てくる。
「アンタどちらさん?」
「先日、武蔵数正さんから用があったら訪ねてくるようにと言われまして」
武蔵から過日受け取った名刺を示すと男はひったくるように確認する。
「なんじゃ。おまぁ、なんか社長に文句でもあんのかぁ?」
「用はありますが、文句はとくに」
「で、アンタはどちらさん?取り次いでやるから待っちょれよ」
「僕はコチラから使いで参りました」
と、夜月から貰ったばかりの名刺を出す。
表には「阿吽魔法探偵事務所」と真ん中に書かれ、住所に電話番号。実にシンプルな名刺だ。
「貴様ァ、あの魔法使いか?」
夜月がナニをやったのかは知らないが、事務所がざわめく。麻雀牌の音が止まり、ドカドカと男が出てきた。
「いい度胸だな。貴様ぁ。どういうつもりだ?ぇわらぁ」
「ぁざぁれんぢゃぇえぞ、ぁらあ」
こういう展開もあるかと思ったが、流石に現物を見るとちょっと困る。名刺を出すのと自分の名前をいうのとドッチが良かったのか分からないが、あの場で名乗った覚えもないし、微妙だ。
「社長さんにお話があって来ました。駐車場の脇でお目にかかった者です。約束の学生証は持ってきませんでしたが、別件でお話がありますとお伝え下さい」
奥の方から冷たい目で観察していた男が渡した名刺二枚をひったくる様に集めると、受付の脇の電話をとった。
しばらくのやりとりの後に、電話をかけた男が顎をしゃくる。
「ついて来い。社長が会ってやるってさ」
ひとつ上のフロアに案内されると、そこには三人の男がいた。応接セットの一人がけのソファーに座っていたのは、名刺を渡した男。客用の三人がけのソファーの左右にはそれぞれ頑丈そうな男が立っている。
案内の男が一礼して去ると席に促すでもなく、武蔵数正の名刺を渡した男が無遠慮に純一を眺めた。
「なるほどな。あの魔法探偵の弟子だったか。道理でやることがエゲつねぇわけだ。――おい、コイツがあの小僧どもをまとめて泣かせた野郎だ。よく顔、覚えとけ。トッポいガキだと思ってナメるとテメェらもヤられるぞ。――で、なんだ。今日は。学生証は持って来てないって話だったが」
「先日は、よくしていただきありがとうございます。――今日はお届け物があってきました」
悪意がないことを示すために、純一は深々と頭を下げて挨拶した。
「斎とかってのもそんな感じだな。バカ丁寧で読めねぇ。カチコミって感じでもなさそうだし、いいだろう、そのお届け物ってのを見せてもらう」
純一は封筒を軽く掲げて示す。ソファーの右脇の男が純一から奪い中身を出して、武蔵に渡す。
武蔵が書類で身振りをすると、封筒を受け取った男が純一にソファーに座るように促した。
しばらく純一は見るともなく視線を泳がせないように部屋を観察する。武蔵が眼鏡をかけて書類を検分している。左の男は右腕をかばうように隠していたのはたぶん拳銃かナニか握っているんだろう。右の男は位置が悪くてよく分からない。が、純一の指の動きに注目をしているように感じる。そんなことを思うくらいには純一は状況を把握できていることを確認した。
「用事は分かった。コイツは預かって弁護士にみせる。今晩中に検討して明日には返事をする。それでいいな」
「はい。お願いします」
武蔵が眼鏡を外しながら言ったのに、ホッとしたまま純一は応える。
「明日正午きっかりにお前が返事を受け取りに来い。今度はマトモにスーツでな。いくらヤクザの事務所に来るからって、商談にそんな派手な色の革ジャンでくるヤツがあるかよ。ビビりすぎだ。――んん」
そう言うと武蔵は純一をメガネで払う。
純一は立ち上がって一礼した。右手に立っていた男が純一を促し出口まで案内するのを、夜月は車に寄りかかりながら出迎えた。
「商談にはスーツで来いと叱られました」
「あ、ぁあ、うん。コレはしまった。危うく機嫌を損ねるところだった。明日は一発二発殴られてもいいように腹のモノは減らしておいた方がいいですね」
純一が報告すると、夜月は笑って失敗を認め少し純一を脅した。
明けて木曜日。
純一がスリーピースのダークスーツに暗色のペイズリー柄のネクタイで武蔵興産の事務所の入っているビルに到着したのは十二時十分前だった。昨日と同じように夜月に送って貰ったのだが、夜月は多少時間を気にしていた。
「古風に硬い人ですからね。時間が難しいんですよ」
夜月はそう言って、少し焦っているようだった。
事務所で呼びかけると昨日とは打って変わって静かな対応で奥に案内された。
「ふん。遅れず来たか。今日はマトモな格好をしているな。ウチに来るときはちゃんとそういう格好をしろ。どうせこれからあの斎とかいう探偵がウチに用があるときは、お前が来ることになるだろうからな。――昼飯まだだろう、食え。商談は後だ」
武蔵が顎をしゃくると、右手に立っている男が純一を差し招く。
応じてソファーに腰を下ろすと重箱と大きな寿司桶が狭くもないソファーテーブル一杯に溢れんばかりに積まれて並んでいた。
「まぁ食え。――いただきます」
「いただきます」
武蔵が手を合わせるのにあわせて純一も手を合わせて食事の挨拶をする。
重箱の中身は鰻重だった。
「やげん堀の山椒だ。――使え。イケるぞ」
武蔵は若いとは思えないがかなりの健啖家で、かなりのペースで重と寿司桶を開けてゆく。純一がペースを落とすとビールを注いでさらに食べるように促した。途中からは純一もなんとなく場の意図が読めるようになってきて、マラソンのようにうな重と寿司桶を空にしつつ、あとからやってくるビール瓶を空けていった。
気がつくと座った肩まで積まれていた重箱と寿司桶は空になって次々と持ち去られ、ビールの瓶もお代わりが止まっていた。朝食を抜いたのがよかった。少し心配させたが、試練を乗り切った。たぶん、夜月にはこの展開が読めていたのだろう。純一は感謝した。
空けられた分の器から机の上よりなくなり、今やテーブルは空だった。
武蔵はソファーテーブルの上を眺め鼻を鳴らす。供した分が食べきられたことに満足したようだった。あるいは食べきれないと思っていたのかもしれない。
「しかたねぇ。食事が終わっちまったんなら、用件を進めるか」
そう武蔵は切り出した。
「昨日の条件じゃ飲めねぇ」
武蔵は結論を述べた。
「そうですか」
緊張していた純一に酔いはなかったが、さすがに食べ過ぎで奥歯をかみしめ、ゲップを抑えこむ。
その歪んだ顔を見て武蔵は鼻を鳴らす。
「なんだ。不服か。タダのガキの使いのクセに」
「いえ。お、私の仕事は使いですから、お返事をいただければそれで結構です」
また武蔵は鼻を鳴らす。
「それで話を終りにしてもいいんだが、机の上が片付いた。だからちょっと書きものをしてやる」
と言って、昨日預けた契約書の草稿を取り出し、なにやら文面を書き直している。
「おら、コレで良ければ持って帰れ。この件はコレで終いだ。他の交渉は受け付けねぇ。コレが飲めなきゃ知らん、と言ってやれ」
「あ、ありがとうございます。お預かりいたします」
純一は目を伏せ顔を抑える。緊張と満腹で胃袋が変な痙攣をしている。その様子を見て武蔵はまた鼻を鳴らす。
武蔵が昨日の封筒に改変した契約書の草稿をもどし、机の上を滑らせてよこした。
純一は受け取って立ち上がる。ふとふらついたのを見てまた武蔵が鼻を鳴らした。
昨日と同じように純一の右手背後に控えていた男が、ビルの出口まで純一を導いた。
もういいだろう、という気もしたがここまで来てという思いで純一はゲップと放屁を抑えこむ。
「斎さん、窓開けますね」
そう言って純一は少し風にゲップを散らしていたが、どうにもダメになってきた。
「二時間以上食べ続けですからねぇ。そこのコンビニでお手洗い借りましょ」
そう言って、夜月は車をコンビニの駐車場に入れた。純一は転がるようにトイレに駆け込み、腹の物を便器に空ける。
車に戻ると純一の席にはいっぱいの花が詰まっていた。苦しみに気が回らなかったがコンビニのとなりは花屋だった。花屋の店員が笑ってコチラを見ている。夜月は屋根を開ける。
「芳香剤代わりです。というと花が可哀想ですね。今日は花祭りなんで、そういうことにしておきましょう。歩いた後に花が咲くってのはアレですが、そこそこ悪くない結果に終わったようですし、お花は持って帰って女の子たちへのお土産にしてください」
最初からそのつもりだったのだろう、夜月がそう言った。
ビルの春風は少し埃っぽかったが、バラとユリとその他幾つものむせ返るような花の香りで、なんとなく春の風の雰囲気ではあった。
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