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二十九週目
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学部生にとっては長い春休みだった。
畑中純一にとっては、嬉し恥ずかし初同棲の春だった。いや、今もそのはずだ。
だが、早くもナニか違っているような気がする。
確か、こんなことはクリスマスにもあった。
バレンタインデーにはチョコレートの他に色々なバリエーションのコンドームをプレゼントされ、それはある意味の笑いの要素として受け入れた。が、いやしかし、男の性欲に対する認識が少し違うような気がする。
それより激しいものが三月十四日にもあった。お返しと称してコンドームを一回り全部試すことになった。
今回はそれよりひどかった。
淫臭を通り越して既に小水の匂いまでしてきそうな寝床で目を覚ます。
いや、意識はしばらく前からあったのだが、疲れてしまって、腹の上の紫をおろすことが億劫だったのだ。すっかり勃ちグセのついて痛みも感じなくなり始めた陰茎が、未だに柔らかく吸い付いている紫の女陰から、吸盤を剥がすような音を立てて抜けた。
――よかった。付いてた。
そんなことを純一は本気で思った。
紫を転がすと寝床はまるで湿地のような音を立てた。すっかり湿気た髪の毛が水死体みたいで怖い。光も長い手足を純一に絡みつけていてすっかり寝ている。耳元首筋から鎖骨を通って胸も臍も腰も太腿も脹脛も撫でてやるが目を覚まさない。撫でてやるついでに身を起し、時計をみる。頭をかかえる。
――月曜かよ。
目眩よりも、痛みよりも、ダルさよりも、気持ち悪い。腹の中でなんかグルグルしたものが、頭といわず肩といわず腰といわず転がりまくっている。そんな感覚に純一は襲われていた。
――便所へいって、風呂入ろう。ひとりで。
純一はともかくこの場から逃げたかった。
純一は湯船の中でテレビを観る。テレビでは旅番組をやっていた。どこかの港町で海鮮の限りを尽くした丼やら定食やらが出てきてキレイだなぁと思うが、今の純一には食欲はわかない。湯に浸かってしばらくすると、もう試練は終りかと勃起は収まったが、だからといって純一の気分が落ち着いたわけではない。
「ナニがマズいんだろうなぁ」
思わず口から出た。いくらなんでも三日間寝る間も惜しんでってのは、少しオカシイ。いや、足掛けで言えば五日間だ。それは気持ち悪くもなるわけだ。食事も便所も繋がったままってのは半日くらいの思いつきならオモシロイで済むのかもしれないが、もういいや。電池の切れた脳で純一はそう思った。
番組が一つ二つ終わっても、純一はなんとなく風呂で沈没していた。
「あー、おはよー」
だらしない挨拶で光が入ってきた。
「あー、服ないからいないかと思ってた。ゴメン」
「いいよ、ベタベタしてて気持ち悪いんだろ。入っちゃえ。今更もう」
どこから這い出てきた濡れ鼠か河童かという有様で光があらわれ、そのまま律儀に出ていこうとするのを見過ごすことは純一にはできなかった。
膜のようになった誰のとも知れない体液をシャワーで洗い流すと、それはたちまちヌルみを戻し、ソープなしでも洗えそうな雰囲気だった。
「ヤったなぁ」
「ヤッたねぇ」
ふたりで苦笑する。ふたりでお互いに胸といわず股間といわずスポンジで撫でても、さすがに今はその気にならないのにまた苦笑する。
ふたりで頭を洗いっこしても、まるで幼児が男女で風呂に入っているのと変わらない感覚だった。
「あー、オハヨウ、邪魔だった?服ないから気がつかなかった」
ベタベタに固まった髪を肩に張り付かせたまま紫が浴室の扉を開けた。
「俺、先週ミキに服剥がれてからずっと裸だよ」
「あー、アタシが洗濯したヤツか」
なんだか頭がボンヤリしているらしく普段とは紫の反応がぜんぜん違う。
「頭洗ってやるから、オイデ」
フワフワして危なっかしい紫を差し招き、頭を洗ってやる。長い髪の毛が汚れすぎてて泡立たない。
紫も上から下まで流せば流すだけベタベタヌルヌルしたモノが流れてゆく。
洗っているうちに居眠りでも始めたのか脇の下から股間までどこも隠す気もないらしく、紫は純一が洗うままぼんやりと風呂の腰掛に座っている。
足の裏まで洗った後で立たせて純一が自分で汚した尻の間まで洗ってやると、光から過剰サービスだと苦情が出た。
改めて頭を洗ってやると気持ちよさげな声を出している。やはり半分寝ぼけているようだ。
なんだか介護ヘルパーみたいだ、と純一が笑うと、みんなそう思ってる、と光はちょっと困ったように笑った。
純一にはイマイチよく分からないが、悪いニュアンスではなさそうなので笑い返した。
三人で入ると湯船はさすがに狭かったが、入れないこともなかった。
しばらくそうしていると、紫がようやく本調子に目を覚ましたようで、少し恥ずかしそうに、オハヨウ、と言った。
テレビの番組は昼食向けの料理番組をやっていた。
「着替えの浴衣出しといたから」
未来がヒョイと首をのぞかせて声をかけた。
扉を閉めるとゴトゴトと洗濯機が動いた音がしている。
「あー、シーツ、スゴいことになってたねぇ」
紫が他人事のように言う。
「毛布も。八十時間くらいヤッてたからね」
「もっとじゃん?」
「二三度お尻ん中とお腹ん中洗った。パンツ履いても台所で垂れてきちゃって」
「おしっこされるのあんなに気持ちイイと思わなかった。やたら暖かかったし。でも、普段はヤダな」
「私も気持ちよすぎて、バカになりそうだから、しばらくいいや」
純一は腕の中のふたりが勝手なことを言うのを、情けない顔で聞いていた。
「純一さん大丈夫?お疲れ様」
「お疲れ様、結構楽しかった」
「大丈夫は大丈夫だが……楽しんで頂けたようで宜しゅうございました」
純一のちょっと疲れて投げやりな答えに、光は少し心配そうな顔をした。
「少しは純一さんの好きなとことか分かってきたと思うんだけど、どうだった?気持ちよかった?」
「そうそう、それ聞きたかった。なんか私たちばっかり気持ちよくなってるンだとちょっと困るし、どうだった?上手くなってるかな?」
紫の目が戻ってきた。ふたりの興味の位置は純一には少しオカシイと思えるが、それはまぁしかたない。
「気持ちよかった。またやろうな。今度は夏休みかな。月に二回はつらすぎる」
ふたりの腹を抱いたまま陰毛を弄っていると、さっきまで無反応だった自分の股間に反応があった。それを感じた光が後頭で軽く頭突きをくれる。
この家にはリビングに大きなカレンダがある。四人が基礎体温をつけて排卵日の記録と予想をしているもので、純一は極力見ないフリをしているものだ。男にはあまりに生々しいし、リアルな努力と要求を見せつけられているようなそんな気がする。
今回のこのイベントは、四人の安全日の周期がカレンダー上で揃ったソコに斎夜月からの婚姻届の紙爆弾が降ってきたことから起きたイベントだった。
それが、あのエイプリルフールの晩の出来事だった。
浴衣では股間の状態が隠せないので着替えている純一の脇で、光と紫がベッドのシーツと毛布を張り替えていた。未来はマットレスの上のビニールシートを清拭まではしておいてくれたらしい。部屋にちょっとアルコールの匂いが混じっていた。
紙爆弾による焦土は終りを告げたことを意識して純一は身繕いをしてリビングに来た。
純一は普段視線を置くことを避けているカレンダーを忌々しく睨む。
リビングではイースターのときに作った、アクリル絵の具でカラフルに彩色された卵の殻を潰して慶子がモザイクを作っていた。中身はイースターの晩にスフレにして食べてしまったが、慶子がキレイに彩色されていた卵の殻を洗って干して潰してモザイクを作る材料にしだした。それだけではさすがに色味が色々不足しているので、慶子は卵料理の度に卵の殻を集めて洗って干して彩色してと、意外な熱心さでなにやら絵を拵えていた。
そろそろ二週間でなんとなく絵ができてきた。暗い青空に渦巻く星と、緑の大地に飛び散る花畑。イースターエッグにあった図柄をバラして組み上げている図柄は元のものとはだいぶ異なる。
その脇で折りたたみの物干し台に未来がシーツをかけている。
さすがに今はつらすぎて洋服になった純一をみて、未来は薄く笑顔を向けた。たぶん見透かされたのだろう。
「まだサカってたか、絶倫性腎リンガマン」
純一の男心をまるで無視して、ゴム糊をキャンバスに塗りながら慶子が言った。
「なんだソレ。意味は分からんが嫌な響きだ」
「私に十六回も出しといて分からんはないと思う。純一くん。アナタ、私の身体がいくらイイからって凄過ぎです」
作業に集中しているのかいないのか、慶子は視線をキャンバスから動かさずに純一に言った。
「わたしは昨日は三回。全部で何回かは……覚えてない」
「アタシは二回、だった。けど全部で十回くらい?」
慶子の言葉に光がつられて答える。紫も少し考えながら答えた。
「ほらね、記憶されているだけでも二十九回。もう普通に出しすぎです。血液の代りに精液が流れている絶倫性腎リンガマンとして十分AV男優の資格があります。ね、ミキちゃん、ジュンジュンから何回絞った?」
未来には目を向け慶子が話を振る。
「十八回頂きました。ご馳走様。ちなみに、ピカリンは昨日の記録までで十回で夜から今さっきまでに三回もらっているから十三回。ユカリンは昨日までで九回貰ってて十一回かな。お風呂ではさすがになかったみたいだから、わたしが知ってるのと一緒」
未来がカレンダーの脇でナニかを書き込みながらの返事に、なにか嫌なセリフが混じった。
「ほらね。五十八回ってオカシイって。さすがに私もヤバいと思ったもん」
「ちょっと待て、記録ってなんだ」
制作作業に戻りながら慶子が吐いたセリフを無視して、純一がその前の未来の言葉を聞きとがめる。
「愛の交歓監察日記。ぶっちゃけアタシらのセックスの計画と記録。妊娠はヤだって言ってたじゃん。ピルもインプラントもナンカって言ってたし、コンドーさんはアタシ体小さいからブワーってお腹ん中で広がるアレが苦手なんだよね、実は。だから一応、ちゃんと記録しといてヤバかったらっていう準備ね。ソコは知っていたと思うけど、当っちゃったら産みますよって言う。で、そのアタシらの体温の脇に数字が二つ書いてあるでしょ。左が純一くんで右がアタシら。まぁアタシらのは結構山が違うから割といい加減だけど、純一くんのはちゃんと分かるから割と正確」
洗濯物干しを終えてキッチンに向かう未来に代って、慶子が目も上げずにピンセットでカレンダーを指し示す。
「わたしは先に寝てて、気がついたら純一さんまだ動いてるときあるから、ときどき間違えてるかもだけど」
まるで記録が不正確なことが恥ずかしいかのように紫が言った。
「わたしも細かいところはあやしい。けど寝ててもジュンジュンの出てると目が覚めるからたぶん大丈夫」
光も似たような感じで生真面目に告げた。
「元々、私たちに月経があるように純一さんにも似たような周期が有るのかなって、感じで記録をつけてったの。ただほら基本的に純一さんは寝床とお風呂以外では求めない人じゃない。その割に私たちが求めると大抵ハイハイって感じだし、で、たまたま四人が周期がしばらく揃ってたから、じゃぁ全力でコッチが求めつづけたらどうなるのかな。って話になってそしたらハンデ戦で勝った人が斎さんのくれた婚姻届貰えるってことで」
紫が言った。
「川上光さん。お応えください。誰が言い出したことですか」
「ユカリン……、滝川紫さんです」
「滝川紫さん、間違いありませんか」
「そうです。けど、みんなも興味はあったって言ってたし、反対もしなかったし、現に純一さんもお風呂場で、またやろうなって……」
「滝川紫さん、こっちへ」
純一は言い訳を続ける紫を差し招く。
「――はい」
ナニをされるのかとトボトボと歩きよる紫。
「クリスマスの時のレイプの件も君が言い出したことらしいね」
唇を上下から指でつまんで引っ張る。
「好奇心は結構だが、付き合っているつもりなら実力行使に出る前に同意なり説明なりを求めるべきだと思う」
「ふぁい」
「でも、こういう事でもないと食道セックスとかお尻でヤッてみるとかできなかったかも」
光が成果を述べて紫の思いつきを弁護する。
「そういうテクニカルなことは、慌ててやらなくてもイイの。俺は、女子高生が化粧しているの見ると萎える人なの」
「でも、お腹のポコンってやるヤツは覚えた。あと、肋の下のところでキュキュってやるヤツとワザとイキッぱなしみたいな感じにするヤツも」
一瞬、確かに経験が少なかった光と紫もイイ感じになってきた、とか純一は反芻して股間が緩んでいることに気がついて慌てた。
「私も人の見てたら勉強になったなぁ。自分のとかも気にする機会ないからビデオ見てたら結構面白かったし、他の娘とくらべてみたりするとヤッパリ面白かった。自分が燃えてるときとかああいうのって、恥ずかしさよりも探究心が先にくるよね」
「ビデオって何」
慶子が作業をしながら、言った言葉にはまたナニか不穏当な単語が混ざっていた。
「あ、まずっ、気がついてなかった?」
「ビデオってナンダ?」
思わず力を込めてしまった指先にたまらず紫が純一の腕をタップする。純一は指を緩めてやるものの痛そうな顔をする紫に罪悪感を感じる余裕もなく、再び慶子を問い詰める。
「休憩のローテーションとかでリビング控えにしてて、食事とか飲み物とか持っててたんだけど、あると便利だからってビデオで部屋の様子をここで見てたの」
言われてみれば、なんかサービスの類が妙に行き届いているなぁと純一にも心当りがあった。
――ゴメンナサイ。モウダメデス。
純一はふらりと逃げ出した。
「この二三日でやけに精悍になりましたね」
「荒んでいるんだと思いますよ」
純一は斎夜月の批評を訂正した。
結局、純一が逃げ延びた先は阿吽魔法探偵事務所だった。
芸がないと感じないでもなかったが、自宅に押しかけるような付き合いの友人はいないし、大学も始まっていない。なによりココにくれば、味にハズレのないお茶が出る。
正直、営業中の事務所になんの用件もなく訪れるというのは十分に不自然とは思うのだが、たまに留守番を言いつけられたり、ポストになにやら投函してきたりの、小間使いを振り与えられているところをみると夜月は純一がここにいることを咎めたりする気はあまりない、ようだ。と勝手に純一は解釈している。
因みに雇用関係は最初の家系図作成の件以来、まったくない。たまに食事を奢ってもらうくらいだ。
「あの、封筒がかなりキキました」
「あぁ、うん。アレですか。注意してくださいね。アレあのまま使うと公文書偽造ってかなりグレーなところなんで、いちおう使う前にご両親と水本先生に連絡とってください。名前や住所は私が書きましたし、判子はシャチハタです。さすがにお相手を誰にするつもりかは分からなかったのでブランクにしておきましたが、いちおう使うつもりなら気をつけてください。あと自分のところにも判子がいりますね。三文判でいいです。シャチハタは嫌われるというか、お役所仕事にはダメだって建前なんですが、最近は通ちゃったりもするんですよね。アッサリ」
「……やめて下さい。その話は」
「あ、うん。コレは失礼。恋の薬は効きすぎましたか」
「立派にオーバードーズです」
「ううむ、それは悪いことをしました。ここのところ微妙なイベントが多かったようなので、ちょっと気分転換と思ったのですが、やり過ぎました。許してください」
「いえ、許すとか責めるとか、そういうつもりはあまりないんで、結構です。ところで――」
と、純一は身振りでこの話題を変えたいことを主張した。
「――あんなモノを用意してってことは、お役所関連のお使いがナニカがあったんですか」
ちょっと夜月は視線を彷徨わせて、手頃な代換の話題も見つからなかったらしく、意外とあっさりと受け入れた。
「あ、うん。手伝ってもらうつもりあまりなかったんで、アレですが、まぁいいでしょ。簡単になら。あとで手伝ってもらうことになるかも知れませんし」
そこまで言ったところで、夜月は少し考えるように間をとった。
「前にお嬢さん方の引越し先を探した話はしたと思います。――そのときに私が信用調査をおこなっていることが、まぁ話題になりまして、別口で調査を依頼されたわけです」
夜月は少し言葉が染み込んでいるのを確認するように純一を眺める。
「この辺は都心への便が悪くないわりに今ひとつペースに乗り切れない感じの発展を遂げている街です。潜在的な価値の割りには波に乗れないというか、うんまぁ、そんなかんじですよね。そういう街は大抵、地場の人間と新居の人間とで微妙な主導権争いがあって大抵は新居の人間のほうが勢いがあるんで、その辺どこかで上手く手打ちをしないといけないんですが、残念なことにイマイチ調整がうまく行っていません。だいたいそういうものの調整は四つくらいの勢力がおこなっていて、ってなんだかわかります?」
「――いえ」
「ひとつは行政。コレは市だったり県だったり国だったりします。
次は銀行。ただ最近は彼らは不動産についてかつてほど信用をしていないので、扱いは微妙です。昔は銀行が直接仕切っていたりもしたんですが、最近は懲りたのか銀行が直接土地やビルをまとめてどこかに引き渡すってパターンはないようです。
次は不動産の企画会社。コレは大手の不動産だったり、商社だったり形態は色々なんですが、土地開発って言っていることもあるようですね。ビルや施設からの収益計算を成立させてから、土地に乗り込んできます。もちろん皮算用の多いズサンな計画も多いですが、まぁそこそこ悪くないといえます。
四つ目はヤクザ。彼らが不動産を不動産屋を通じて直に管理することもありますが、大抵はそうせずにイロォイロな手を使います。 で、その勢力のどこかが本気になるとあっという間に話はまとまるんですが、対立するとロクなことになりません。さて――」
夜月は言葉を切ってカップを口に寄せる。
「――ウチの市はこれまでなんとなく安定して成長していたせいで、あまり市の行政が真面目に再開発というモノに向き合ったことがありません。実際のところ市営運動場の経緯をみても分かるとおり、そこそこ以上に健全かつ発展的な方向に成長していたので必要なかったというのが実際で、あまり経験もありません。積極的な方がいないわけでもなかったのですが、色々と乱暴な方だったので玄人評判も今いちで、正直動く度に揉めていたので却って良くなかった結果でした。
次に銀行ですが、あまりこの土地に極端な利益増を期待していないように思います。さっき少し口にした通り、この市は安定した成長をしてきたわけですが、その背景にある中小企業が彼らの安定的な資金源で、今の経済状態では完全に放置するには危険で、無視するにはやはり利益を損ねるような微妙な状態で、土地という過去に失敗した投機性のやや高い商品よりは現在ある利益装置をキチンと維持運営する方が見込みの大きな利益につながるからです。もちろんギャンブルに足るだけの根拠を得ればその限りではありませんが、自主的な努力を払うようには見えません。
次に土地開発会社ですが、実はこの土地にはかなりの期待をしていてタイミングを見計らっている段階です。ただやはり似たような会社は似たようなことを考えるもので、足の引っ張り合いをしているような状態です。この辺は市の行政も対応に苦慮しているようですが、さっき言ったとおりで今ひとつキチンとした方向を見つけられずに右往左往という感じです。で、まぁ補足ですが、私が下請けをしているのはここにつながる下請けのどこかです。
で、今回の件で行政より問題なのはヤクザです。この街が段階的に発展してきたことは述べましたが、そういう土地には複数の縄張りが発生することが多いのです。もうちょっと町の発展が進むと淘汰されて間引かれるのですが、まだその段階ではありません。実は似たような件を前に扱うことがありまして、ウチの扱い方が悪いんじゃないのか、と政盛会の方々が苦情を述べにいらしたわけですが、内ゲバ的な事件があったのでソチラとの勘違いを指摘して差し上げて手打ち、というのがクリスマスの騒動です。ちょっと講義長いですか?」
「いえ。だいじょうぶ。まだついていけています」
「あ、うん。でも講義でご説明できる概要はあまり多くなくて、この辺からは実践編になってしまうわけですが、私がお役所でやっていたのは土地開発会社が目をつけている辺りの土地の登記上の所有者と運用上の管理者の確認です。
簡単にいえば、土地の名義とそこで商売している人たちのリストの作成です。で、その両方が今も正しくソコにあるかという確認をおこなっているのが、今の私の仕事です。
ところが厄介なことにひとつは倉庫利用でひとつがペーパーカンパニーなんですよね。倉庫利用の方は時間の問題なんですが、ペーパーカンパニーの方は裏取りが面倒くさいんですよ。さすがに税務署は、会社生きてるか教えて、はいどうぞ、とはなかなか言ってはくれません。理由とタイミングを上手く作って元請けに迷惑かけないように準備しないといけないので、単に名義を調べるだけなら簡単なんですが、死んでいる物証を揃えるとなるとちょっと時間が掛かるんです。で、また、ペーパーカンパニーをそのまま放置するっていうのはヤクザの方々が再開発の尻馬に乗っかるためのひとつの方法なんで、名義人本人死んでるかも知れないんですよね。
――年末に政盛会の皆さんと揉めた理由わかりましたか?」
夜月が純一にクイズを出した。
「ひとつの再開発地区に複数のヤクザの支配下のペーパーカンパニーが複数あって、売ったところと売らなかったところとがあって、揉めた。で調査にあたった斎さんが勘違いされて問い詰められた、という感じですか」
「まぁだいたいそんなところです。私が法外な手数料をとったことになっていたとか、開発会社の採算ラインをもう一方に教えたとかそんな尾ヒレもついていたようですが、いずれにせよ、彼らの利益を損ねたという疑いに対する苦情にいらっしゃったわけです。名義を管理していた方がちょっとした資産を手土産にして、組を乗り換えようとかそんな感じだったわけですが。まぁそれらしい状況証拠を有料でお渡ししてお引き取りいただいたわけです」
「そういえば、発砲事件の同日にあった県議の事故もそんな話の一環ですか?」
「いやぁあ、うーん、さすがに事故は事故じゃないですかねぇ。なんかあったんですか」
「市川県議って知っていますか」
純一は訊いてみた。
「ああ、うん。なんて言うか。田舎のボンボンっていう感じで横に大きくなっちゃった方ですね。畑中さんを誘拐した首謀者のお父上でしたね。ああ、アレ同日でしたか。ふむん。ナルホド。……いい勘ですがなんか根拠があったんですか」
「その首謀者が市川玄太らしいのですが、彼が言うには、運転手は兄で父親の下で政治家の勉強をしていたから、将来を考えても街中でスピード違反なんかするわけがない、とまぁそんなことを言っていました」
話が出たところで一気にと純一は夜月に尋ねてみる。
夜月は話で冷めてしまったコーヒーを一気に飲んで、新たにカップに足す。
「なるほど。それで事故を演出すると。しかし……動機は分かりませんし、手段は迂遠すぎてヤクザのソレにはそぐわないですね。別件ではないかとおもいます。他に殺人事件と仮定する根拠がありますか」
「市川県議はかなり四人との示談に自信を持っていたようです。少なくとも彼女らからの告訴を取り下げさせる程度には」
「でも、集団強姦は非親告罪のはずですから……どうなんでしょうね」
「その辺は俺も分からないんですが、少なくとも水本先生が四人が納得すればと言う程度には妥当な内容だったようです」
「政治家とか弁護士なんて妥教の信徒ですからねぇ」
夜月が疑わしげに言う。
「妥協ですか」
「妥教です。求道者たる日本のプロにとっては敵と言えるモノです」
純一の確認に夜月は発音を但して応える。
「まぁ、水本先生はともかく、市川玄太はそこそこ以上に和解に自信があって、ならば俺がその和解を妨害する目的で市川県議を殺害したと思っているようでした」
「なんとまぁ。気分としては分かりますがね。頼りになる父と兄が事故で死んで母上が入院となれば残った一人は心のやりどころには困るでしょうなぁ。あぁーうん。しかしそれで、騒ぎの元になった自分を捕まえた正義の味方に逆恨みってのは、本当にただの八つ当たりですね」
「まぁ、そうなんです。ただ、市川玄太の言ったことにも引っかかるところがあって、彼の兄である運転手がなんでスピード違反を犯してバスに突っ込むことになったのか。ってところはまったく謎なんです」
むぅ。と、夜月は腕を組む。
「しかしコレは――」
夜月は組んだ腕を解きながら、言葉を選びながら続けた。
「――私の手には負えませんね。それに畑中さん、アナタもあまり考えない方がいいですよ。ひとつにはどういう結論が出てもアナタには利益がない。ひとつには警察の権能に含まれることで探偵の権能には含まれない。探偵の権能は一般市民の権能と同じなので無理に追えば違法行為に手を染める事になりかねません。最後に事故であれ事件であれ、既に結果は確定している。ついでに言えば、市川玄太はアナタを殺しかけた人物で、真実を挙げたところでアナタに感謝はしないと思いますよ」
純一はさすがに考え込んでしまう。たぶん夜月の言っていることは正解というか十分に合理的な判断で、純一のそれは思考の連鎖としては剪定されるべき要素であるという認識がある。
しかし放置できないナニカがそこにある。純一は直感していた。
夜月はそんな純一を眺め、苦笑混じりにため息をついた。
「お嬢様方によほど絞られているんですね。世の男性の多くはそんな生活を味わってみたいと考える向きが多いというのに。いや、もちろん私は御免ですが――」
夜月は努めて軽く、純一の現状を評した。
「純一さん、ちょっとしたアルバイトをしませんか。例のペーパーカンパニーの名義主を調査する仕事です。会社本体の活動は面倒ですが、名義主の方はいうほど難しくはありません。ただ、前回の家系図づくりよりはやや曖昧な取っ掛かりしかないということだけです。やり方自体は簡単です。日当は五千円、有意資料一点五百円、事務所勤務は九時五時で前回と変わりませんが、完了報酬は別に準備します。いちおう週末日曜日までというコトにいたしましょう。いかがですか」
夜月が純一の気散じを準備してくれたことくらいは分かった。
純一が喜びを隠しつつ引き受けると、夜月にこれからの方針と最初にあたるべき幾つかの役所の請求するべき書類について指示を受けた。
一部の書類は閲覧のみ可のものもあってその辺は少々時間がかかるかも知れないが、コッソリ撮影してくるように、と、夜月は言った。
ともかく、鉛筆、ノート、カメラ、印鑑は持っていくこと。そう言って、夜月はポケットから薄い一一〇カメラを取り出す。最近はすっかりデジタルカメラの信用度が上がっているが、証拠としてはイマイチよろしくないので、探偵業をやるならフイルムカメラの方が説得力があって面倒は少ない、と夜月は説明した。カメラは既に三十年以上前のものらしい。
「まぁ、今回の書類用途は単なる印象調査なんで、そこまで写真は気にしないでいいです。お金は一万円もあれば足りると思いますが、一応三万円預けておきます。使った分の代りに領収書を中に入れておいてください。直行直帰でもいいですが、進捗のやりとりがあるとアドバイスが出来るかもなんで、テキトーに事務所に来てください。コーヒーくらいは準備します」
そんな風に明日以降の概要を相談して、純一は夜月と二人で食べているだけで額がテカり出すようなラーメンを食べた。
――スッカリ忘れていた。
どんな顔をすればいいのかなぁ、と少し純一は心配になった。
基本的にこの二三日の狂った状態は彼女たちが純一との距離を測りきれていないことにある。
そんなのは分かっている。純一自身も、ナニがどうやら、マァイイジャン、的な発想と理解しかしていない。しかも悪意があるならまだしも、彼女たちは本質的に保護を求めていることは分かっていて、純一はそのことに責任も感じている。
恋愛感情というのとはかなり怪しい感じもするが、頼られて嫌な顔をする男は、正直どうかしていると思う。少なくとも、純一は困った人には可能な限り施しを与えるのが正しいと、誰彼ともなく教わって概ねそれで問題なく過ごしていた。だから、少なくとも彼女たちが求めることで純一が応えられる範囲であれば可能な限り応えようと思っていた。
たぶんソコがナニカ間違っているんだろう。ソコがどこか、ナニカがどんなものか、まるで見当はつかないが、ナニカがマズいらしい。しかも恐ろしいことに四人が四人ともそう思っている。民主的なナニかを家庭というか生活に持ち込むのは、論外というのは純一も感じてはいるが、そうはいっても当初の目的である保護欲求を果たすという純一の使命感からは乖離したところに現実はあるらしい。どうすれば良いのかサッパリ分からない、という結論のみが得られた結論であった。
一瞬元の部屋に戻ろうか。とも思ったが、意味があっての逃避ならば価値を見いだせばいいだけのことだが、意味が分からなくての逃避はタダの時間の浪費だ。と、まっすぐ四人の待っているだろう部屋に帰ることにする。
食事は外で済ませてしまったし、携帯はスッカリ忘れていたし、財布も持たない、家の鍵もない。ああ、それでは帰れもしない。と、スッカリ笑ってしまった。
――スッカリ忘れていた。
笑いが干いた。
だが玄関の鍵がかかっていなかったのでホッとしたのもつかの間、純一は笑えなかった。四人がスッカリ暗くなった玄関先で平伏していた。狭くない玄関先でも三人がきゅうきゅうだったらしく、未来は土間で文字通り土下座している。
色々な言葉が純一の頭を駆け巡った。
ナニがどうなってかは経緯は分からない。
分からないが意味するところは分かる。
意味は分かるがどうすれば良いか分からない。
どうすれば良いか分からないが、間違えればまたヒドイことになるのは間違いない。
狂気という言葉が正しいかどうか分からないが、少なくとも様々な理由で彼女らの正気はしばしばバランスを崩す。純一にもかつて身に覚えがあった。客観的な事の大小が主観の価値には値しない出来事というのはある。
だから彼女らを足蹴にするような行動は純一には取れないし、概ね誰でも同じことだ。
目眩がする。だが惚けてもいられない。
「おかえりなさいませ」
誰がともなく四人の声が揃った。
一応確認を取らないといけないことが純一にはあった。
「誰が言い出したこと?このお出迎えは」
場が緊張する。
「お昼を召し上がらずに出掛けられたので、お迎えができればと思ってお待ちしてました。後はパラパラと皆で」
未来が頭をツートンカラーの腰までの長髪を伏せたまま応えた。純一は知らぬ間に踏んでいたことに慌てて足場を変える。
「携帯を持っていかなかったから、心配だったけど、追いかけてもなんて言えばいいか分からなかったし、モウカエラナイ、イラナイって言われたらたぶんその場で死んじゃいそうだったし、どうしていいか分かんなかったから、待ってました」
紫が涙声でいった。髪の毛のせいで伏せたままの声はくぐもっている。
「死ねって言うなら死ぬから、イラナイって言わないで。調子にのってからかったのも、やり過ぎていたのも、許してもらえないかもしれないけど、オマエなんかイラナイって言うのだけは許して、もうそれだけはヤなの」
しゃべりだした途端、慶子の中のナニカが切れたように床にシニオンに結った頭を打ちつけ始める。
「純一さんが私たちの扱いに困ってたの知ってるの。ミンナ。でも、どうすれば良いのか、私たち、分からなかったの。男の人が性欲だけで生きてないってのも、分かってる。でもナニをしたら良いのか分からなかったの。ミキちゃんが言ってた、アルジ、って言葉が今は分かるの。ナニヲシタライイノ?ワタシタチ」
光が長身を小さく丸めて暗い声で言った。
「慶子、止マレ」
純一は何を言うべきなのか分からなかったが、まず命じてみた。あまり大きな声ではなかったはずだが、慶子は頭を打ち付けるのを止めた。
「ただいま。みんな」
純一は少し息を吸った。
「まずは電気を点けて、顔を見せて」
近くにいた紫が立ち上がって灯りのスイッチを入れた。
「晩ご飯の支度は?」
「ご飯はタイマーで仕掛けてあるので炊けています」
光が応えた。
「お風呂は?」
「もう洗ってあるから、お湯張るだけ、です」
紫が痺れた足をよろめかせて再び膝をたたみながら言った。
「光、晩ご飯の準備して俺はお茶漬けでいいや。紫、お湯張って」
二人は痺れた足でよろめきながら壁を伝うように玄関を離れる。
「あぁあ、慶子はバカだなぁ。オデコ真っ赤にしたって、痛くなるだけで死ねないよ。かわいい顔クチャクチャにして、しょうもない。未来、オデコ湿布してやってよ。ってか救急箱出してきて。俺がやるや」
未来は正座に慣れているのか案外しっかりした足取りだが、慶子は腰が抜けて立てないようだった。
「しかたないなぁ」
純一は鼻で笑って慶子を横抱えに胸に抱く。純一と先をゆく未来とで一瞬、目があった。
「なんだ?まずかったか?」
「いいえ、おかえりなさいませ、アルジサマ」
胸の中で、純一のシャツを遠慮がちにしかししっかりとつまむ慶子をみて純一は、森の深さと広さは知ったが事ここに至っては、何処へか参ろうぞ、と今は腹をくくる事にした。
どうせいずれスッカリ忘れることになるとしても。
畑中純一にとっては、嬉し恥ずかし初同棲の春だった。いや、今もそのはずだ。
だが、早くもナニか違っているような気がする。
確か、こんなことはクリスマスにもあった。
バレンタインデーにはチョコレートの他に色々なバリエーションのコンドームをプレゼントされ、それはある意味の笑いの要素として受け入れた。が、いやしかし、男の性欲に対する認識が少し違うような気がする。
それより激しいものが三月十四日にもあった。お返しと称してコンドームを一回り全部試すことになった。
今回はそれよりひどかった。
淫臭を通り越して既に小水の匂いまでしてきそうな寝床で目を覚ます。
いや、意識はしばらく前からあったのだが、疲れてしまって、腹の上の紫をおろすことが億劫だったのだ。すっかり勃ちグセのついて痛みも感じなくなり始めた陰茎が、未だに柔らかく吸い付いている紫の女陰から、吸盤を剥がすような音を立てて抜けた。
――よかった。付いてた。
そんなことを純一は本気で思った。
紫を転がすと寝床はまるで湿地のような音を立てた。すっかり湿気た髪の毛が水死体みたいで怖い。光も長い手足を純一に絡みつけていてすっかり寝ている。耳元首筋から鎖骨を通って胸も臍も腰も太腿も脹脛も撫でてやるが目を覚まさない。撫でてやるついでに身を起し、時計をみる。頭をかかえる。
――月曜かよ。
目眩よりも、痛みよりも、ダルさよりも、気持ち悪い。腹の中でなんかグルグルしたものが、頭といわず肩といわず腰といわず転がりまくっている。そんな感覚に純一は襲われていた。
――便所へいって、風呂入ろう。ひとりで。
純一はともかくこの場から逃げたかった。
純一は湯船の中でテレビを観る。テレビでは旅番組をやっていた。どこかの港町で海鮮の限りを尽くした丼やら定食やらが出てきてキレイだなぁと思うが、今の純一には食欲はわかない。湯に浸かってしばらくすると、もう試練は終りかと勃起は収まったが、だからといって純一の気分が落ち着いたわけではない。
「ナニがマズいんだろうなぁ」
思わず口から出た。いくらなんでも三日間寝る間も惜しんでってのは、少しオカシイ。いや、足掛けで言えば五日間だ。それは気持ち悪くもなるわけだ。食事も便所も繋がったままってのは半日くらいの思いつきならオモシロイで済むのかもしれないが、もういいや。電池の切れた脳で純一はそう思った。
番組が一つ二つ終わっても、純一はなんとなく風呂で沈没していた。
「あー、おはよー」
だらしない挨拶で光が入ってきた。
「あー、服ないからいないかと思ってた。ゴメン」
「いいよ、ベタベタしてて気持ち悪いんだろ。入っちゃえ。今更もう」
どこから這い出てきた濡れ鼠か河童かという有様で光があらわれ、そのまま律儀に出ていこうとするのを見過ごすことは純一にはできなかった。
膜のようになった誰のとも知れない体液をシャワーで洗い流すと、それはたちまちヌルみを戻し、ソープなしでも洗えそうな雰囲気だった。
「ヤったなぁ」
「ヤッたねぇ」
ふたりで苦笑する。ふたりでお互いに胸といわず股間といわずスポンジで撫でても、さすがに今はその気にならないのにまた苦笑する。
ふたりで頭を洗いっこしても、まるで幼児が男女で風呂に入っているのと変わらない感覚だった。
「あー、オハヨウ、邪魔だった?服ないから気がつかなかった」
ベタベタに固まった髪を肩に張り付かせたまま紫が浴室の扉を開けた。
「俺、先週ミキに服剥がれてからずっと裸だよ」
「あー、アタシが洗濯したヤツか」
なんだか頭がボンヤリしているらしく普段とは紫の反応がぜんぜん違う。
「頭洗ってやるから、オイデ」
フワフワして危なっかしい紫を差し招き、頭を洗ってやる。長い髪の毛が汚れすぎてて泡立たない。
紫も上から下まで流せば流すだけベタベタヌルヌルしたモノが流れてゆく。
洗っているうちに居眠りでも始めたのか脇の下から股間までどこも隠す気もないらしく、紫は純一が洗うままぼんやりと風呂の腰掛に座っている。
足の裏まで洗った後で立たせて純一が自分で汚した尻の間まで洗ってやると、光から過剰サービスだと苦情が出た。
改めて頭を洗ってやると気持ちよさげな声を出している。やはり半分寝ぼけているようだ。
なんだか介護ヘルパーみたいだ、と純一が笑うと、みんなそう思ってる、と光はちょっと困ったように笑った。
純一にはイマイチよく分からないが、悪いニュアンスではなさそうなので笑い返した。
三人で入ると湯船はさすがに狭かったが、入れないこともなかった。
しばらくそうしていると、紫がようやく本調子に目を覚ましたようで、少し恥ずかしそうに、オハヨウ、と言った。
テレビの番組は昼食向けの料理番組をやっていた。
「着替えの浴衣出しといたから」
未来がヒョイと首をのぞかせて声をかけた。
扉を閉めるとゴトゴトと洗濯機が動いた音がしている。
「あー、シーツ、スゴいことになってたねぇ」
紫が他人事のように言う。
「毛布も。八十時間くらいヤッてたからね」
「もっとじゃん?」
「二三度お尻ん中とお腹ん中洗った。パンツ履いても台所で垂れてきちゃって」
「おしっこされるのあんなに気持ちイイと思わなかった。やたら暖かかったし。でも、普段はヤダな」
「私も気持ちよすぎて、バカになりそうだから、しばらくいいや」
純一は腕の中のふたりが勝手なことを言うのを、情けない顔で聞いていた。
「純一さん大丈夫?お疲れ様」
「お疲れ様、結構楽しかった」
「大丈夫は大丈夫だが……楽しんで頂けたようで宜しゅうございました」
純一のちょっと疲れて投げやりな答えに、光は少し心配そうな顔をした。
「少しは純一さんの好きなとことか分かってきたと思うんだけど、どうだった?気持ちよかった?」
「そうそう、それ聞きたかった。なんか私たちばっかり気持ちよくなってるンだとちょっと困るし、どうだった?上手くなってるかな?」
紫の目が戻ってきた。ふたりの興味の位置は純一には少しオカシイと思えるが、それはまぁしかたない。
「気持ちよかった。またやろうな。今度は夏休みかな。月に二回はつらすぎる」
ふたりの腹を抱いたまま陰毛を弄っていると、さっきまで無反応だった自分の股間に反応があった。それを感じた光が後頭で軽く頭突きをくれる。
この家にはリビングに大きなカレンダがある。四人が基礎体温をつけて排卵日の記録と予想をしているもので、純一は極力見ないフリをしているものだ。男にはあまりに生々しいし、リアルな努力と要求を見せつけられているようなそんな気がする。
今回のこのイベントは、四人の安全日の周期がカレンダー上で揃ったソコに斎夜月からの婚姻届の紙爆弾が降ってきたことから起きたイベントだった。
それが、あのエイプリルフールの晩の出来事だった。
浴衣では股間の状態が隠せないので着替えている純一の脇で、光と紫がベッドのシーツと毛布を張り替えていた。未来はマットレスの上のビニールシートを清拭まではしておいてくれたらしい。部屋にちょっとアルコールの匂いが混じっていた。
紙爆弾による焦土は終りを告げたことを意識して純一は身繕いをしてリビングに来た。
純一は普段視線を置くことを避けているカレンダーを忌々しく睨む。
リビングではイースターのときに作った、アクリル絵の具でカラフルに彩色された卵の殻を潰して慶子がモザイクを作っていた。中身はイースターの晩にスフレにして食べてしまったが、慶子がキレイに彩色されていた卵の殻を洗って干して潰してモザイクを作る材料にしだした。それだけではさすがに色味が色々不足しているので、慶子は卵料理の度に卵の殻を集めて洗って干して彩色してと、意外な熱心さでなにやら絵を拵えていた。
そろそろ二週間でなんとなく絵ができてきた。暗い青空に渦巻く星と、緑の大地に飛び散る花畑。イースターエッグにあった図柄をバラして組み上げている図柄は元のものとはだいぶ異なる。
その脇で折りたたみの物干し台に未来がシーツをかけている。
さすがに今はつらすぎて洋服になった純一をみて、未来は薄く笑顔を向けた。たぶん見透かされたのだろう。
「まだサカってたか、絶倫性腎リンガマン」
純一の男心をまるで無視して、ゴム糊をキャンバスに塗りながら慶子が言った。
「なんだソレ。意味は分からんが嫌な響きだ」
「私に十六回も出しといて分からんはないと思う。純一くん。アナタ、私の身体がいくらイイからって凄過ぎです」
作業に集中しているのかいないのか、慶子は視線をキャンバスから動かさずに純一に言った。
「わたしは昨日は三回。全部で何回かは……覚えてない」
「アタシは二回、だった。けど全部で十回くらい?」
慶子の言葉に光がつられて答える。紫も少し考えながら答えた。
「ほらね、記憶されているだけでも二十九回。もう普通に出しすぎです。血液の代りに精液が流れている絶倫性腎リンガマンとして十分AV男優の資格があります。ね、ミキちゃん、ジュンジュンから何回絞った?」
未来には目を向け慶子が話を振る。
「十八回頂きました。ご馳走様。ちなみに、ピカリンは昨日の記録までで十回で夜から今さっきまでに三回もらっているから十三回。ユカリンは昨日までで九回貰ってて十一回かな。お風呂ではさすがになかったみたいだから、わたしが知ってるのと一緒」
未来がカレンダーの脇でナニかを書き込みながらの返事に、なにか嫌なセリフが混じった。
「ほらね。五十八回ってオカシイって。さすがに私もヤバいと思ったもん」
「ちょっと待て、記録ってなんだ」
制作作業に戻りながら慶子が吐いたセリフを無視して、純一がその前の未来の言葉を聞きとがめる。
「愛の交歓監察日記。ぶっちゃけアタシらのセックスの計画と記録。妊娠はヤだって言ってたじゃん。ピルもインプラントもナンカって言ってたし、コンドーさんはアタシ体小さいからブワーってお腹ん中で広がるアレが苦手なんだよね、実は。だから一応、ちゃんと記録しといてヤバかったらっていう準備ね。ソコは知っていたと思うけど、当っちゃったら産みますよって言う。で、そのアタシらの体温の脇に数字が二つ書いてあるでしょ。左が純一くんで右がアタシら。まぁアタシらのは結構山が違うから割といい加減だけど、純一くんのはちゃんと分かるから割と正確」
洗濯物干しを終えてキッチンに向かう未来に代って、慶子が目も上げずにピンセットでカレンダーを指し示す。
「わたしは先に寝てて、気がついたら純一さんまだ動いてるときあるから、ときどき間違えてるかもだけど」
まるで記録が不正確なことが恥ずかしいかのように紫が言った。
「わたしも細かいところはあやしい。けど寝ててもジュンジュンの出てると目が覚めるからたぶん大丈夫」
光も似たような感じで生真面目に告げた。
「元々、私たちに月経があるように純一さんにも似たような周期が有るのかなって、感じで記録をつけてったの。ただほら基本的に純一さんは寝床とお風呂以外では求めない人じゃない。その割に私たちが求めると大抵ハイハイって感じだし、で、たまたま四人が周期がしばらく揃ってたから、じゃぁ全力でコッチが求めつづけたらどうなるのかな。って話になってそしたらハンデ戦で勝った人が斎さんのくれた婚姻届貰えるってことで」
紫が言った。
「川上光さん。お応えください。誰が言い出したことですか」
「ユカリン……、滝川紫さんです」
「滝川紫さん、間違いありませんか」
「そうです。けど、みんなも興味はあったって言ってたし、反対もしなかったし、現に純一さんもお風呂場で、またやろうなって……」
「滝川紫さん、こっちへ」
純一は言い訳を続ける紫を差し招く。
「――はい」
ナニをされるのかとトボトボと歩きよる紫。
「クリスマスの時のレイプの件も君が言い出したことらしいね」
唇を上下から指でつまんで引っ張る。
「好奇心は結構だが、付き合っているつもりなら実力行使に出る前に同意なり説明なりを求めるべきだと思う」
「ふぁい」
「でも、こういう事でもないと食道セックスとかお尻でヤッてみるとかできなかったかも」
光が成果を述べて紫の思いつきを弁護する。
「そういうテクニカルなことは、慌ててやらなくてもイイの。俺は、女子高生が化粧しているの見ると萎える人なの」
「でも、お腹のポコンってやるヤツは覚えた。あと、肋の下のところでキュキュってやるヤツとワザとイキッぱなしみたいな感じにするヤツも」
一瞬、確かに経験が少なかった光と紫もイイ感じになってきた、とか純一は反芻して股間が緩んでいることに気がついて慌てた。
「私も人の見てたら勉強になったなぁ。自分のとかも気にする機会ないからビデオ見てたら結構面白かったし、他の娘とくらべてみたりするとヤッパリ面白かった。自分が燃えてるときとかああいうのって、恥ずかしさよりも探究心が先にくるよね」
「ビデオって何」
慶子が作業をしながら、言った言葉にはまたナニか不穏当な単語が混ざっていた。
「あ、まずっ、気がついてなかった?」
「ビデオってナンダ?」
思わず力を込めてしまった指先にたまらず紫が純一の腕をタップする。純一は指を緩めてやるものの痛そうな顔をする紫に罪悪感を感じる余裕もなく、再び慶子を問い詰める。
「休憩のローテーションとかでリビング控えにしてて、食事とか飲み物とか持っててたんだけど、あると便利だからってビデオで部屋の様子をここで見てたの」
言われてみれば、なんかサービスの類が妙に行き届いているなぁと純一にも心当りがあった。
――ゴメンナサイ。モウダメデス。
純一はふらりと逃げ出した。
「この二三日でやけに精悍になりましたね」
「荒んでいるんだと思いますよ」
純一は斎夜月の批評を訂正した。
結局、純一が逃げ延びた先は阿吽魔法探偵事務所だった。
芸がないと感じないでもなかったが、自宅に押しかけるような付き合いの友人はいないし、大学も始まっていない。なによりココにくれば、味にハズレのないお茶が出る。
正直、営業中の事務所になんの用件もなく訪れるというのは十分に不自然とは思うのだが、たまに留守番を言いつけられたり、ポストになにやら投函してきたりの、小間使いを振り与えられているところをみると夜月は純一がここにいることを咎めたりする気はあまりない、ようだ。と勝手に純一は解釈している。
因みに雇用関係は最初の家系図作成の件以来、まったくない。たまに食事を奢ってもらうくらいだ。
「あの、封筒がかなりキキました」
「あぁ、うん。アレですか。注意してくださいね。アレあのまま使うと公文書偽造ってかなりグレーなところなんで、いちおう使う前にご両親と水本先生に連絡とってください。名前や住所は私が書きましたし、判子はシャチハタです。さすがにお相手を誰にするつもりかは分からなかったのでブランクにしておきましたが、いちおう使うつもりなら気をつけてください。あと自分のところにも判子がいりますね。三文判でいいです。シャチハタは嫌われるというか、お役所仕事にはダメだって建前なんですが、最近は通ちゃったりもするんですよね。アッサリ」
「……やめて下さい。その話は」
「あ、うん。コレは失礼。恋の薬は効きすぎましたか」
「立派にオーバードーズです」
「ううむ、それは悪いことをしました。ここのところ微妙なイベントが多かったようなので、ちょっと気分転換と思ったのですが、やり過ぎました。許してください」
「いえ、許すとか責めるとか、そういうつもりはあまりないんで、結構です。ところで――」
と、純一は身振りでこの話題を変えたいことを主張した。
「――あんなモノを用意してってことは、お役所関連のお使いがナニカがあったんですか」
ちょっと夜月は視線を彷徨わせて、手頃な代換の話題も見つからなかったらしく、意外とあっさりと受け入れた。
「あ、うん。手伝ってもらうつもりあまりなかったんで、アレですが、まぁいいでしょ。簡単になら。あとで手伝ってもらうことになるかも知れませんし」
そこまで言ったところで、夜月は少し考えるように間をとった。
「前にお嬢さん方の引越し先を探した話はしたと思います。――そのときに私が信用調査をおこなっていることが、まぁ話題になりまして、別口で調査を依頼されたわけです」
夜月は少し言葉が染み込んでいるのを確認するように純一を眺める。
「この辺は都心への便が悪くないわりに今ひとつペースに乗り切れない感じの発展を遂げている街です。潜在的な価値の割りには波に乗れないというか、うんまぁ、そんなかんじですよね。そういう街は大抵、地場の人間と新居の人間とで微妙な主導権争いがあって大抵は新居の人間のほうが勢いがあるんで、その辺どこかで上手く手打ちをしないといけないんですが、残念なことにイマイチ調整がうまく行っていません。だいたいそういうものの調整は四つくらいの勢力がおこなっていて、ってなんだかわかります?」
「――いえ」
「ひとつは行政。コレは市だったり県だったり国だったりします。
次は銀行。ただ最近は彼らは不動産についてかつてほど信用をしていないので、扱いは微妙です。昔は銀行が直接仕切っていたりもしたんですが、最近は懲りたのか銀行が直接土地やビルをまとめてどこかに引き渡すってパターンはないようです。
次は不動産の企画会社。コレは大手の不動産だったり、商社だったり形態は色々なんですが、土地開発って言っていることもあるようですね。ビルや施設からの収益計算を成立させてから、土地に乗り込んできます。もちろん皮算用の多いズサンな計画も多いですが、まぁそこそこ悪くないといえます。
四つ目はヤクザ。彼らが不動産を不動産屋を通じて直に管理することもありますが、大抵はそうせずにイロォイロな手を使います。 で、その勢力のどこかが本気になるとあっという間に話はまとまるんですが、対立するとロクなことになりません。さて――」
夜月は言葉を切ってカップを口に寄せる。
「――ウチの市はこれまでなんとなく安定して成長していたせいで、あまり市の行政が真面目に再開発というモノに向き合ったことがありません。実際のところ市営運動場の経緯をみても分かるとおり、そこそこ以上に健全かつ発展的な方向に成長していたので必要なかったというのが実際で、あまり経験もありません。積極的な方がいないわけでもなかったのですが、色々と乱暴な方だったので玄人評判も今いちで、正直動く度に揉めていたので却って良くなかった結果でした。
次に銀行ですが、あまりこの土地に極端な利益増を期待していないように思います。さっき少し口にした通り、この市は安定した成長をしてきたわけですが、その背景にある中小企業が彼らの安定的な資金源で、今の経済状態では完全に放置するには危険で、無視するにはやはり利益を損ねるような微妙な状態で、土地という過去に失敗した投機性のやや高い商品よりは現在ある利益装置をキチンと維持運営する方が見込みの大きな利益につながるからです。もちろんギャンブルに足るだけの根拠を得ればその限りではありませんが、自主的な努力を払うようには見えません。
次に土地開発会社ですが、実はこの土地にはかなりの期待をしていてタイミングを見計らっている段階です。ただやはり似たような会社は似たようなことを考えるもので、足の引っ張り合いをしているような状態です。この辺は市の行政も対応に苦慮しているようですが、さっき言ったとおりで今ひとつキチンとした方向を見つけられずに右往左往という感じです。で、まぁ補足ですが、私が下請けをしているのはここにつながる下請けのどこかです。
で、今回の件で行政より問題なのはヤクザです。この街が段階的に発展してきたことは述べましたが、そういう土地には複数の縄張りが発生することが多いのです。もうちょっと町の発展が進むと淘汰されて間引かれるのですが、まだその段階ではありません。実は似たような件を前に扱うことがありまして、ウチの扱い方が悪いんじゃないのか、と政盛会の方々が苦情を述べにいらしたわけですが、内ゲバ的な事件があったのでソチラとの勘違いを指摘して差し上げて手打ち、というのがクリスマスの騒動です。ちょっと講義長いですか?」
「いえ。だいじょうぶ。まだついていけています」
「あ、うん。でも講義でご説明できる概要はあまり多くなくて、この辺からは実践編になってしまうわけですが、私がお役所でやっていたのは土地開発会社が目をつけている辺りの土地の登記上の所有者と運用上の管理者の確認です。
簡単にいえば、土地の名義とそこで商売している人たちのリストの作成です。で、その両方が今も正しくソコにあるかという確認をおこなっているのが、今の私の仕事です。
ところが厄介なことにひとつは倉庫利用でひとつがペーパーカンパニーなんですよね。倉庫利用の方は時間の問題なんですが、ペーパーカンパニーの方は裏取りが面倒くさいんですよ。さすがに税務署は、会社生きてるか教えて、はいどうぞ、とはなかなか言ってはくれません。理由とタイミングを上手く作って元請けに迷惑かけないように準備しないといけないので、単に名義を調べるだけなら簡単なんですが、死んでいる物証を揃えるとなるとちょっと時間が掛かるんです。で、また、ペーパーカンパニーをそのまま放置するっていうのはヤクザの方々が再開発の尻馬に乗っかるためのひとつの方法なんで、名義人本人死んでるかも知れないんですよね。
――年末に政盛会の皆さんと揉めた理由わかりましたか?」
夜月が純一にクイズを出した。
「ひとつの再開発地区に複数のヤクザの支配下のペーパーカンパニーが複数あって、売ったところと売らなかったところとがあって、揉めた。で調査にあたった斎さんが勘違いされて問い詰められた、という感じですか」
「まぁだいたいそんなところです。私が法外な手数料をとったことになっていたとか、開発会社の採算ラインをもう一方に教えたとかそんな尾ヒレもついていたようですが、いずれにせよ、彼らの利益を損ねたという疑いに対する苦情にいらっしゃったわけです。名義を管理していた方がちょっとした資産を手土産にして、組を乗り換えようとかそんな感じだったわけですが。まぁそれらしい状況証拠を有料でお渡ししてお引き取りいただいたわけです」
「そういえば、発砲事件の同日にあった県議の事故もそんな話の一環ですか?」
「いやぁあ、うーん、さすがに事故は事故じゃないですかねぇ。なんかあったんですか」
「市川県議って知っていますか」
純一は訊いてみた。
「ああ、うん。なんて言うか。田舎のボンボンっていう感じで横に大きくなっちゃった方ですね。畑中さんを誘拐した首謀者のお父上でしたね。ああ、アレ同日でしたか。ふむん。ナルホド。……いい勘ですがなんか根拠があったんですか」
「その首謀者が市川玄太らしいのですが、彼が言うには、運転手は兄で父親の下で政治家の勉強をしていたから、将来を考えても街中でスピード違反なんかするわけがない、とまぁそんなことを言っていました」
話が出たところで一気にと純一は夜月に尋ねてみる。
夜月は話で冷めてしまったコーヒーを一気に飲んで、新たにカップに足す。
「なるほど。それで事故を演出すると。しかし……動機は分かりませんし、手段は迂遠すぎてヤクザのソレにはそぐわないですね。別件ではないかとおもいます。他に殺人事件と仮定する根拠がありますか」
「市川県議はかなり四人との示談に自信を持っていたようです。少なくとも彼女らからの告訴を取り下げさせる程度には」
「でも、集団強姦は非親告罪のはずですから……どうなんでしょうね」
「その辺は俺も分からないんですが、少なくとも水本先生が四人が納得すればと言う程度には妥当な内容だったようです」
「政治家とか弁護士なんて妥教の信徒ですからねぇ」
夜月が疑わしげに言う。
「妥協ですか」
「妥教です。求道者たる日本のプロにとっては敵と言えるモノです」
純一の確認に夜月は発音を但して応える。
「まぁ、水本先生はともかく、市川玄太はそこそこ以上に和解に自信があって、ならば俺がその和解を妨害する目的で市川県議を殺害したと思っているようでした」
「なんとまぁ。気分としては分かりますがね。頼りになる父と兄が事故で死んで母上が入院となれば残った一人は心のやりどころには困るでしょうなぁ。あぁーうん。しかしそれで、騒ぎの元になった自分を捕まえた正義の味方に逆恨みってのは、本当にただの八つ当たりですね」
「まぁ、そうなんです。ただ、市川玄太の言ったことにも引っかかるところがあって、彼の兄である運転手がなんでスピード違反を犯してバスに突っ込むことになったのか。ってところはまったく謎なんです」
むぅ。と、夜月は腕を組む。
「しかしコレは――」
夜月は組んだ腕を解きながら、言葉を選びながら続けた。
「――私の手には負えませんね。それに畑中さん、アナタもあまり考えない方がいいですよ。ひとつにはどういう結論が出てもアナタには利益がない。ひとつには警察の権能に含まれることで探偵の権能には含まれない。探偵の権能は一般市民の権能と同じなので無理に追えば違法行為に手を染める事になりかねません。最後に事故であれ事件であれ、既に結果は確定している。ついでに言えば、市川玄太はアナタを殺しかけた人物で、真実を挙げたところでアナタに感謝はしないと思いますよ」
純一はさすがに考え込んでしまう。たぶん夜月の言っていることは正解というか十分に合理的な判断で、純一のそれは思考の連鎖としては剪定されるべき要素であるという認識がある。
しかし放置できないナニカがそこにある。純一は直感していた。
夜月はそんな純一を眺め、苦笑混じりにため息をついた。
「お嬢様方によほど絞られているんですね。世の男性の多くはそんな生活を味わってみたいと考える向きが多いというのに。いや、もちろん私は御免ですが――」
夜月は努めて軽く、純一の現状を評した。
「純一さん、ちょっとしたアルバイトをしませんか。例のペーパーカンパニーの名義主を調査する仕事です。会社本体の活動は面倒ですが、名義主の方はいうほど難しくはありません。ただ、前回の家系図づくりよりはやや曖昧な取っ掛かりしかないということだけです。やり方自体は簡単です。日当は五千円、有意資料一点五百円、事務所勤務は九時五時で前回と変わりませんが、完了報酬は別に準備します。いちおう週末日曜日までというコトにいたしましょう。いかがですか」
夜月が純一の気散じを準備してくれたことくらいは分かった。
純一が喜びを隠しつつ引き受けると、夜月にこれからの方針と最初にあたるべき幾つかの役所の請求するべき書類について指示を受けた。
一部の書類は閲覧のみ可のものもあってその辺は少々時間がかかるかも知れないが、コッソリ撮影してくるように、と、夜月は言った。
ともかく、鉛筆、ノート、カメラ、印鑑は持っていくこと。そう言って、夜月はポケットから薄い一一〇カメラを取り出す。最近はすっかりデジタルカメラの信用度が上がっているが、証拠としてはイマイチよろしくないので、探偵業をやるならフイルムカメラの方が説得力があって面倒は少ない、と夜月は説明した。カメラは既に三十年以上前のものらしい。
「まぁ、今回の書類用途は単なる印象調査なんで、そこまで写真は気にしないでいいです。お金は一万円もあれば足りると思いますが、一応三万円預けておきます。使った分の代りに領収書を中に入れておいてください。直行直帰でもいいですが、進捗のやりとりがあるとアドバイスが出来るかもなんで、テキトーに事務所に来てください。コーヒーくらいは準備します」
そんな風に明日以降の概要を相談して、純一は夜月と二人で食べているだけで額がテカり出すようなラーメンを食べた。
――スッカリ忘れていた。
どんな顔をすればいいのかなぁ、と少し純一は心配になった。
基本的にこの二三日の狂った状態は彼女たちが純一との距離を測りきれていないことにある。
そんなのは分かっている。純一自身も、ナニがどうやら、マァイイジャン、的な発想と理解しかしていない。しかも悪意があるならまだしも、彼女たちは本質的に保護を求めていることは分かっていて、純一はそのことに責任も感じている。
恋愛感情というのとはかなり怪しい感じもするが、頼られて嫌な顔をする男は、正直どうかしていると思う。少なくとも、純一は困った人には可能な限り施しを与えるのが正しいと、誰彼ともなく教わって概ねそれで問題なく過ごしていた。だから、少なくとも彼女たちが求めることで純一が応えられる範囲であれば可能な限り応えようと思っていた。
たぶんソコがナニカ間違っているんだろう。ソコがどこか、ナニカがどんなものか、まるで見当はつかないが、ナニカがマズいらしい。しかも恐ろしいことに四人が四人ともそう思っている。民主的なナニかを家庭というか生活に持ち込むのは、論外というのは純一も感じてはいるが、そうはいっても当初の目的である保護欲求を果たすという純一の使命感からは乖離したところに現実はあるらしい。どうすれば良いのかサッパリ分からない、という結論のみが得られた結論であった。
一瞬元の部屋に戻ろうか。とも思ったが、意味があっての逃避ならば価値を見いだせばいいだけのことだが、意味が分からなくての逃避はタダの時間の浪費だ。と、まっすぐ四人の待っているだろう部屋に帰ることにする。
食事は外で済ませてしまったし、携帯はスッカリ忘れていたし、財布も持たない、家の鍵もない。ああ、それでは帰れもしない。と、スッカリ笑ってしまった。
――スッカリ忘れていた。
笑いが干いた。
だが玄関の鍵がかかっていなかったのでホッとしたのもつかの間、純一は笑えなかった。四人がスッカリ暗くなった玄関先で平伏していた。狭くない玄関先でも三人がきゅうきゅうだったらしく、未来は土間で文字通り土下座している。
色々な言葉が純一の頭を駆け巡った。
ナニがどうなってかは経緯は分からない。
分からないが意味するところは分かる。
意味は分かるがどうすれば良いか分からない。
どうすれば良いか分からないが、間違えればまたヒドイことになるのは間違いない。
狂気という言葉が正しいかどうか分からないが、少なくとも様々な理由で彼女らの正気はしばしばバランスを崩す。純一にもかつて身に覚えがあった。客観的な事の大小が主観の価値には値しない出来事というのはある。
だから彼女らを足蹴にするような行動は純一には取れないし、概ね誰でも同じことだ。
目眩がする。だが惚けてもいられない。
「おかえりなさいませ」
誰がともなく四人の声が揃った。
一応確認を取らないといけないことが純一にはあった。
「誰が言い出したこと?このお出迎えは」
場が緊張する。
「お昼を召し上がらずに出掛けられたので、お迎えができればと思ってお待ちしてました。後はパラパラと皆で」
未来が頭をツートンカラーの腰までの長髪を伏せたまま応えた。純一は知らぬ間に踏んでいたことに慌てて足場を変える。
「携帯を持っていかなかったから、心配だったけど、追いかけてもなんて言えばいいか分からなかったし、モウカエラナイ、イラナイって言われたらたぶんその場で死んじゃいそうだったし、どうしていいか分かんなかったから、待ってました」
紫が涙声でいった。髪の毛のせいで伏せたままの声はくぐもっている。
「死ねって言うなら死ぬから、イラナイって言わないで。調子にのってからかったのも、やり過ぎていたのも、許してもらえないかもしれないけど、オマエなんかイラナイって言うのだけは許して、もうそれだけはヤなの」
しゃべりだした途端、慶子の中のナニカが切れたように床にシニオンに結った頭を打ちつけ始める。
「純一さんが私たちの扱いに困ってたの知ってるの。ミンナ。でも、どうすれば良いのか、私たち、分からなかったの。男の人が性欲だけで生きてないってのも、分かってる。でもナニをしたら良いのか分からなかったの。ミキちゃんが言ってた、アルジ、って言葉が今は分かるの。ナニヲシタライイノ?ワタシタチ」
光が長身を小さく丸めて暗い声で言った。
「慶子、止マレ」
純一は何を言うべきなのか分からなかったが、まず命じてみた。あまり大きな声ではなかったはずだが、慶子は頭を打ち付けるのを止めた。
「ただいま。みんな」
純一は少し息を吸った。
「まずは電気を点けて、顔を見せて」
近くにいた紫が立ち上がって灯りのスイッチを入れた。
「晩ご飯の支度は?」
「ご飯はタイマーで仕掛けてあるので炊けています」
光が応えた。
「お風呂は?」
「もう洗ってあるから、お湯張るだけ、です」
紫が痺れた足をよろめかせて再び膝をたたみながら言った。
「光、晩ご飯の準備して俺はお茶漬けでいいや。紫、お湯張って」
二人は痺れた足でよろめきながら壁を伝うように玄関を離れる。
「あぁあ、慶子はバカだなぁ。オデコ真っ赤にしたって、痛くなるだけで死ねないよ。かわいい顔クチャクチャにして、しょうもない。未来、オデコ湿布してやってよ。ってか救急箱出してきて。俺がやるや」
未来は正座に慣れているのか案外しっかりした足取りだが、慶子は腰が抜けて立てないようだった。
「しかたないなぁ」
純一は鼻で笑って慶子を横抱えに胸に抱く。純一と先をゆく未来とで一瞬、目があった。
「なんだ?まずかったか?」
「いいえ、おかえりなさいませ、アルジサマ」
胸の中で、純一のシャツを遠慮がちにしかししっかりとつまむ慶子をみて純一は、森の深さと広さは知ったが事ここに至っては、何処へか参ろうぞ、と今は腹をくくる事にした。
どうせいずれスッカリ忘れることになるとしても。
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