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1話 ドクダミ令嬢と呼ばれて
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シルヴェーヌが生まれたとき、産婆すら首を傾げたと言う。
それほどにシルヴェーヌの体臭は異様で、「これは病気に違いない」と、両親はすぐに医師を呼びよせた。
「これは体質で、病気ではありません」
「むしろこの匂いは、生薬に近い成分を含んでいます」
「お嬢さまの周囲にいる人は、お嬢さまを含めて健康体でいられますよ」
医師たちは口をそろえて、良い事だと診断したが、シルヴェーヌはジュネ伯爵家の長女だ。
こんな悪臭を放っていては、令嬢としての将来は期待できない。
両親はそう結論付けて、シルヴェーヌの存在を世間からひた隠した。
「また私だけ、お出かけしちゃ駄目なの?」
両親と妹が、仲良く馬車で出かけるのを見て、シルヴェーヌは寂しそうに呟く。
5歳の女の子の質問に答えるのは、育児を放棄した母親ではなく乳母だ。
「シルヴェーヌお嬢さまは、おうちで私と遊びましょうね。今日は特別に、川遊びをしましょうか?」
いつもなら、すぐに飛び上がって喜ぶのだが、シルヴェーヌはいまだ名残惜し気に動き出した馬車を目で追っている。
乳母はシルヴェーヌの境遇に同情した。
伯爵令嬢でさえなければ、医療の分野などで活躍できただろうに。
事実、シルヴェーヌのおかげで、喘息もちの乳母はずっと体調がいい。
明るい笑顔になって欲しくて、乳母はシルヴェーヌの好きなものを考える。
「料理長に、桃のタルトも焼いてもらいましょう」
波打つ黒髪に若葉色をした瞳。
外見は文句のつけようがない可憐なシルヴェーヌ。
ただ、その体からは常に異臭がしていて、いつしかドクダミ令嬢などという、不名誉なあだ名がつけられていた。
(心無い使用人が、どこかでおしゃべりしてしまったのでしょう。旦那さまと奥さまが隠し続けたシルヴェーヌお嬢さまの体質が、今ではあちこちで面白おかしく吹聴されてしまって……)
ジュネ伯爵たちが出かけた先は、親族の催すお茶会だ。
3歳になったシルヴェーヌの妹コンスタンスの、お披露目も兼ねていると聞く。
しかし、悪意ある噂の渦中へ、シルヴェーヌを送り出すわけにはいかない。
(傷つくのは、シルヴェーヌお嬢さまですから。……なにも悪くないのに)
桃のタルトを提案されて、少しだけ気分が上向いたらしいシルヴェーヌの手を、乳母は優しく引いてやる。
そしてまだ陰りの残るシルヴェーヌのために、川遊び用の服を準備するのだった。
◇◆◇◆
屋敷の外には出られないながらも、シルヴェーヌは乳母のおかげで、毎日と言っていいほど思い切り体を動かして遊んだ。
たとえ傷や打ち身をつくっても、シルヴェーヌはすぐに自然治癒してしまうから、令嬢らしくないことだって許された。
「これはシルヴェーヌお嬢さまだけの、特別な才能なんですよ」
乳母はとにかく、シルヴェーヌが生まれ持った体質を褒めた。
そして気持ちが暗く沈まないように、楽しい遊びをたくさん教えた。
そのおかげもあって、シルヴェーヌはことさら自分が不幸だとは感じなかった。
両親や妹とは、あからさまに一線を引かれた関係ではあるが、それを補って余りあるほど、乳母に愛してもらえたからだ。
「ばあや、見ててね!」
シルヴェーヌはするすると木に登ると、枝に体重をかけてゆさゆさと揺さぶった。
下で待ち構えていた乳母の持つ籠に、ころんころんと椎の実が落ちていく。
「たくさん採れましたよ」
その言葉に、シルヴェーヌは危なげなく木から飛び降りる。
そして収穫したものを炒ってもらうために、乳母と連れ立って厨房へと向かった。
一日中、立ちっぱなしで調理する料理人たちの中に、シルヴェーヌの訪れを待つ者は多い。
しかし、それでも漂う悪臭に嫌な顔をする若手は、少なからずいた。
腰痛のつらさを知らぬ者には、シルヴェーヌのありがたさが分からないのだ。
乳母はなるべく、そうした者たちからシルヴェーヌを護る盾となり、健やかな成長を見守ろうと思っていたのだが――。
「お出かけしていいの?」
シルヴェーヌが7歳になった日、乳母とふたりだけの誕生日パーティをしていたら、珍しく父親のジュネ伯爵から声がかかった。
その内容は信じられないもので、6歳の第二王子ガブリエルの話し相手にシルヴェーヌが選ばれ、これから謁見に向かうというのだ。
「失礼のないように、容姿を整えたら玄関に来なさい。王城へ向かうのに、馬車を用意している」
「わあ、馬車! 初めて乗るわ!」
いつもは両親と妹が馬車に乗って出かけるのを、うらやましく眺めるだけだった。
それが今日は、シルヴェーヌに乗車の許可がでたのだ。
喜ぶシルヴェーヌとは逆に、乳母は不安を覚えた。
この話は、おそらくシルヴェーヌの体質と関係がある。
なにしろ、ガブリエルは寝たきりの王子として有名なのだから。
「旦那さま、荷物はなにを用意したらいいでしょうか?」
そう尋ねる乳母へ、ジュネ伯爵はふむと考え込む。
どちらかというと平凡顔のジュネ伯爵は、あまり貴族らしい威厳がない。
長いものには巻かれるし、流れには逆らわないタイプだ。
「数日分の着替えがあればいいだろう。ガブリエル殿下に気に入られれば、もうシルヴェーヌは我が家へは帰ってこない」
呟かれたその言葉は、ほとんどシルヴェーヌの身売りを意味していた。
きっとシルヴェーヌにまつわる漠然とした噂が、王家まで届いたのだ。
そして王家から持ちかけられた打診に対し、ジュネ伯爵は迷うことなく首を縦に振ったのだろう。
驚愕して目を見開く乳母へ、ジュネ伯爵は少しの野心を含ませた声で伝える。
「シルヴェーヌが、ガブリエル殿下のお役に立てれば儲けものだ。どうせ屋敷にいても、扱いに困るだけなのだから」
親とは思えない冷酷な態度に、乳母は下唇を噛みしめる。
だが静かに頷き、命令に従うしかなかった。
シルヴェーヌ本人は乳母との別れになるかもしれないなどとは、考えてもいない。
「行ってくるわね! 帰ってきたら、魚釣りをしましょう!」
見送る乳母に元気に手を振り、立派な馬たちに眼を輝かせると、満面の笑顔で出発した。
それがシルヴェーヌの運命を、大きく変えるとは知らずに。
乳母は馬車が遠ざかると、そっと目頭を押さえる。
ここまでシルヴェーヌのお世話をさせてもらえたのを、嬉しく思いながら。
(どんな場所でも卑屈にならず、胸を張ってくださいね。シルヴェーヌお嬢さまは、病を抱える者にとって救世主なんです。ガブリエル殿下とも、きっと仲良くなれますよ)
◇◆◇◆
「初めまして、シルヴェーヌ・ジュネと申します」
馬車の中で覚えたばかりのシルヴェーヌの丁寧な挨拶に、ベッドに寝そべったままのガブリエルは、うっすらと眼を開くことで応えた。
世話をしやすいように短く切られた金色の髪は、枕に埋もれて艶をなくしている。
瞼の間から覗く赤い瞳も、まるで煌めきがない。
幼いシルヴェーヌにも、横たわるガブリエルは、具合が悪いのだと分かった。
「シルヴェーヌよ、これからは毎日、ガブリエル殿下のそばで過ごすのだ。その悪臭が役に立つ場面は、ここしかない」
ジュネ伯爵がしゃがみこんで、耳打ちしてくる。
言われなくても、シルヴェーヌはそうするつもりだった。
これまで、こんなにひどい病気の人は、見たことがない。
シルヴェーヌは純粋に、ガブリエルの姿に心を痛めた。
「ジュネ伯爵、今後について話し合おう」
ガブリエルにまったく似ていない頑健そうな国王が、出入り口の扉を指さす。
促されたジュネ伯爵は、嬉しそうに揉み手をしながら、国王と一緒に部屋から立ち去った。
そして場に残されたのは、シルヴェーヌとガブリエルとその側付きだけ。
どうしていいのか分からず、立ち尽くすシルヴェーヌに、側付きの青年が挨拶をしてくる。
「初めまして、ロニーと申します。主に、ガブリエル殿下の介護を担当しています」
赤茶色のふわふわした髪と、柔和なチョコレート色の瞳は、優しい声と相まってシルヴェーヌの緊張を解いた。
シルヴェーヌが肩の力を抜いたのが伝わったのか、にこりと微笑んだロニーはさらに声をかける。
「どうぞ殿下の側へお越しください、シルヴェーヌさま」
ロニーがシルヴェーヌのために、ベッドの近くへ腰かけ椅子を寄せてくれた。
幼子にちょうどいい高さのそれは、シルヴェーヌのために用意されたものだった。
座り心地のよい座面に感動していると、そっと何かがシルヴェーヌの指に触れる。
それほどにシルヴェーヌの体臭は異様で、「これは病気に違いない」と、両親はすぐに医師を呼びよせた。
「これは体質で、病気ではありません」
「むしろこの匂いは、生薬に近い成分を含んでいます」
「お嬢さまの周囲にいる人は、お嬢さまを含めて健康体でいられますよ」
医師たちは口をそろえて、良い事だと診断したが、シルヴェーヌはジュネ伯爵家の長女だ。
こんな悪臭を放っていては、令嬢としての将来は期待できない。
両親はそう結論付けて、シルヴェーヌの存在を世間からひた隠した。
「また私だけ、お出かけしちゃ駄目なの?」
両親と妹が、仲良く馬車で出かけるのを見て、シルヴェーヌは寂しそうに呟く。
5歳の女の子の質問に答えるのは、育児を放棄した母親ではなく乳母だ。
「シルヴェーヌお嬢さまは、おうちで私と遊びましょうね。今日は特別に、川遊びをしましょうか?」
いつもなら、すぐに飛び上がって喜ぶのだが、シルヴェーヌはいまだ名残惜し気に動き出した馬車を目で追っている。
乳母はシルヴェーヌの境遇に同情した。
伯爵令嬢でさえなければ、医療の分野などで活躍できただろうに。
事実、シルヴェーヌのおかげで、喘息もちの乳母はずっと体調がいい。
明るい笑顔になって欲しくて、乳母はシルヴェーヌの好きなものを考える。
「料理長に、桃のタルトも焼いてもらいましょう」
波打つ黒髪に若葉色をした瞳。
外見は文句のつけようがない可憐なシルヴェーヌ。
ただ、その体からは常に異臭がしていて、いつしかドクダミ令嬢などという、不名誉なあだ名がつけられていた。
(心無い使用人が、どこかでおしゃべりしてしまったのでしょう。旦那さまと奥さまが隠し続けたシルヴェーヌお嬢さまの体質が、今ではあちこちで面白おかしく吹聴されてしまって……)
ジュネ伯爵たちが出かけた先は、親族の催すお茶会だ。
3歳になったシルヴェーヌの妹コンスタンスの、お披露目も兼ねていると聞く。
しかし、悪意ある噂の渦中へ、シルヴェーヌを送り出すわけにはいかない。
(傷つくのは、シルヴェーヌお嬢さまですから。……なにも悪くないのに)
桃のタルトを提案されて、少しだけ気分が上向いたらしいシルヴェーヌの手を、乳母は優しく引いてやる。
そしてまだ陰りの残るシルヴェーヌのために、川遊び用の服を準備するのだった。
◇◆◇◆
屋敷の外には出られないながらも、シルヴェーヌは乳母のおかげで、毎日と言っていいほど思い切り体を動かして遊んだ。
たとえ傷や打ち身をつくっても、シルヴェーヌはすぐに自然治癒してしまうから、令嬢らしくないことだって許された。
「これはシルヴェーヌお嬢さまだけの、特別な才能なんですよ」
乳母はとにかく、シルヴェーヌが生まれ持った体質を褒めた。
そして気持ちが暗く沈まないように、楽しい遊びをたくさん教えた。
そのおかげもあって、シルヴェーヌはことさら自分が不幸だとは感じなかった。
両親や妹とは、あからさまに一線を引かれた関係ではあるが、それを補って余りあるほど、乳母に愛してもらえたからだ。
「ばあや、見ててね!」
シルヴェーヌはするすると木に登ると、枝に体重をかけてゆさゆさと揺さぶった。
下で待ち構えていた乳母の持つ籠に、ころんころんと椎の実が落ちていく。
「たくさん採れましたよ」
その言葉に、シルヴェーヌは危なげなく木から飛び降りる。
そして収穫したものを炒ってもらうために、乳母と連れ立って厨房へと向かった。
一日中、立ちっぱなしで調理する料理人たちの中に、シルヴェーヌの訪れを待つ者は多い。
しかし、それでも漂う悪臭に嫌な顔をする若手は、少なからずいた。
腰痛のつらさを知らぬ者には、シルヴェーヌのありがたさが分からないのだ。
乳母はなるべく、そうした者たちからシルヴェーヌを護る盾となり、健やかな成長を見守ろうと思っていたのだが――。
「お出かけしていいの?」
シルヴェーヌが7歳になった日、乳母とふたりだけの誕生日パーティをしていたら、珍しく父親のジュネ伯爵から声がかかった。
その内容は信じられないもので、6歳の第二王子ガブリエルの話し相手にシルヴェーヌが選ばれ、これから謁見に向かうというのだ。
「失礼のないように、容姿を整えたら玄関に来なさい。王城へ向かうのに、馬車を用意している」
「わあ、馬車! 初めて乗るわ!」
いつもは両親と妹が馬車に乗って出かけるのを、うらやましく眺めるだけだった。
それが今日は、シルヴェーヌに乗車の許可がでたのだ。
喜ぶシルヴェーヌとは逆に、乳母は不安を覚えた。
この話は、おそらくシルヴェーヌの体質と関係がある。
なにしろ、ガブリエルは寝たきりの王子として有名なのだから。
「旦那さま、荷物はなにを用意したらいいでしょうか?」
そう尋ねる乳母へ、ジュネ伯爵はふむと考え込む。
どちらかというと平凡顔のジュネ伯爵は、あまり貴族らしい威厳がない。
長いものには巻かれるし、流れには逆らわないタイプだ。
「数日分の着替えがあればいいだろう。ガブリエル殿下に気に入られれば、もうシルヴェーヌは我が家へは帰ってこない」
呟かれたその言葉は、ほとんどシルヴェーヌの身売りを意味していた。
きっとシルヴェーヌにまつわる漠然とした噂が、王家まで届いたのだ。
そして王家から持ちかけられた打診に対し、ジュネ伯爵は迷うことなく首を縦に振ったのだろう。
驚愕して目を見開く乳母へ、ジュネ伯爵は少しの野心を含ませた声で伝える。
「シルヴェーヌが、ガブリエル殿下のお役に立てれば儲けものだ。どうせ屋敷にいても、扱いに困るだけなのだから」
親とは思えない冷酷な態度に、乳母は下唇を噛みしめる。
だが静かに頷き、命令に従うしかなかった。
シルヴェーヌ本人は乳母との別れになるかもしれないなどとは、考えてもいない。
「行ってくるわね! 帰ってきたら、魚釣りをしましょう!」
見送る乳母に元気に手を振り、立派な馬たちに眼を輝かせると、満面の笑顔で出発した。
それがシルヴェーヌの運命を、大きく変えるとは知らずに。
乳母は馬車が遠ざかると、そっと目頭を押さえる。
ここまでシルヴェーヌのお世話をさせてもらえたのを、嬉しく思いながら。
(どんな場所でも卑屈にならず、胸を張ってくださいね。シルヴェーヌお嬢さまは、病を抱える者にとって救世主なんです。ガブリエル殿下とも、きっと仲良くなれますよ)
◇◆◇◆
「初めまして、シルヴェーヌ・ジュネと申します」
馬車の中で覚えたばかりのシルヴェーヌの丁寧な挨拶に、ベッドに寝そべったままのガブリエルは、うっすらと眼を開くことで応えた。
世話をしやすいように短く切られた金色の髪は、枕に埋もれて艶をなくしている。
瞼の間から覗く赤い瞳も、まるで煌めきがない。
幼いシルヴェーヌにも、横たわるガブリエルは、具合が悪いのだと分かった。
「シルヴェーヌよ、これからは毎日、ガブリエル殿下のそばで過ごすのだ。その悪臭が役に立つ場面は、ここしかない」
ジュネ伯爵がしゃがみこんで、耳打ちしてくる。
言われなくても、シルヴェーヌはそうするつもりだった。
これまで、こんなにひどい病気の人は、見たことがない。
シルヴェーヌは純粋に、ガブリエルの姿に心を痛めた。
「ジュネ伯爵、今後について話し合おう」
ガブリエルにまったく似ていない頑健そうな国王が、出入り口の扉を指さす。
促されたジュネ伯爵は、嬉しそうに揉み手をしながら、国王と一緒に部屋から立ち去った。
そして場に残されたのは、シルヴェーヌとガブリエルとその側付きだけ。
どうしていいのか分からず、立ち尽くすシルヴェーヌに、側付きの青年が挨拶をしてくる。
「初めまして、ロニーと申します。主に、ガブリエル殿下の介護を担当しています」
赤茶色のふわふわした髪と、柔和なチョコレート色の瞳は、優しい声と相まってシルヴェーヌの緊張を解いた。
シルヴェーヌが肩の力を抜いたのが伝わったのか、にこりと微笑んだロニーはさらに声をかける。
「どうぞ殿下の側へお越しください、シルヴェーヌさま」
ロニーがシルヴェーヌのために、ベッドの近くへ腰かけ椅子を寄せてくれた。
幼子にちょうどいい高さのそれは、シルヴェーヌのために用意されたものだった。
座り心地のよい座面に感動していると、そっと何かがシルヴェーヌの指に触れる。
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