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8話 決別の夜・後編
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夜会中、ジークフリートはテオドールからの伝言を、スタッフから聞かされる。
「そうか、先に帰ったのか。テオも学校を卒業したての18歳、こうした夜会はまだ荷が重いのかもしれんな」
有能と褒めそやされる弟への、ひそかな劣等感をジークフリートは払拭する。
カスナー夫妻が、家業を継ぐのは長男、という古めかしい考えの持ち主だったから良かったものの、そうでなければ、どちらがカスナー商会の商会長をしていたか分からない。
テオドールとの年齢差が大きいことも、ジークフリートには有利に働いた。
「商売をするには、頭の良さだけでは駄目だ。貴族も通う名門校で、何を教えているのか知らんが、大人の狡さまでは学べないだろう」
ニヤリと笑うと、ジークフリートは会場をぐるりと見渡し、ターゲットを探す。
次にスミレを貸し出すのは、誰にしようか。
トルファ男爵のように、若い男は候補から外す。
スミレに本気で入れ込んで、自分のものにしたいと言い出しかねない。
ジークフリートが真剣に悩んでいると、ドンと誰かがぶつかってきた。
「ねえ、ジーク、あの人の付けているネックレス、私も欲しいわ」
ほろ酔いのマルガレータが、無作法に指さしているのは、取引先の子爵令嬢だった。
ジークフリートは慌ててその指を下ろさせる。
「止めろ、失礼なことをするな。相手は貴族だぞ」
「そうなの? 貴族ってもっと、派手な人相をしているのかと思ってたわ」
マルガレータは、その子爵令嬢が地味顔だとせせら笑う。
「あのネックレスを見れば分かるだろう? その辺で売ってるものじゃない。先祖代々、受け継がれてきた名品だ。顔じゃなくて、持ち物で見分けろ」
「そんなこと言ったって、パッとは分からないわよ。宝石が大きいかどうかを、見ればいいの?」
「大きさだけじゃない。石の種類だとか、品質だとか、あるだろう?」
「私に分かるのは、自分に似合うかどうかだけよ」
ふん、とそっぽを向くと、機嫌を損ねたマルガレータは離れていく。
ジークフリートは大きな溜め息をついた。
「まったく。こんな苦労、スミレのときには無かった。小さいながらもれっきとした商会の娘だからか、スミレには品物を見る審美眼が備わっている。やっぱり俺の妻は、スミレしかいない」
マルガレータの長所は安産型の腰つきだけだな、とマルガレータが聞けば激怒しそうな台詞を、ジークフリートが小声で漏らす。
そしてスミレを探すが、どうやら会場にはいないようだ。
「テオに付き添って、スミレも帰ったのか? まあ、いい。スミレの評判はすでに、界隈に広まっている」
好色な貴族の間では、カスナー商会と大きな取引をすれば、異国情緒のある艶めいた奥方と致すことができると、秘密裏に噂になっている。
ジークフリートが持ちかけずとも、相手から打診をされる回数も増えた。
「これからもカスナー商会は安泰だ。テオを副会長に据えて、ますます事業拡大を計るぞ」
手始めに、テオドールの婚約者になれそうな貴族の娘がいないか、とジークフリートは思案して、先ほどマルガレーテが貶した子爵令嬢へと声をかけに行った。
翌朝になって、スミレとテオドールが家出をしたと知らされるまで、ジークフリートのこの世の春は続いた。
◇◆◇
「もう一度、順を追って説明しろ!」
カスナー家の執務室に、ジークフリートの怒号が響く。
尋問されて大汗をかいているのは、スミレの担当だった使用人たちだ。
いつもいい加減に仕えていたので、昨晩のスミレの動向を把握していないのだ。
「若奥さまが夜会に参加するために、家を出たのは見ました。でも……いつ帰ってきたのかは」
「朝になって、寝室のカーテンを開けに行って、そこで初めて気づいて……」
「荷物はほとんど残っています。だから、すぐに戻られるのでは……?」
見苦しい保身に、ジークフリートのこめかみに青筋が浮かぶ。
それを見た使用人たちは、ひいとすくみ上った。
「お前たちは全員クビだ。役立たずどもが!」
泣き崩れる使用人たちを無視して、次はテオドールに仕えていた元乳母に尋ねる。
「それで? テオは昨晩どうしたって?」
「お坊ちゃまは夜会から戻られると、荷解きをしていなかったトランクを持って、そのまま外出されました。そのときに、若奥さまもご一緒でした」
「なぜ、止めなかった」
小さい頃からテオドールの世話をしていた元乳母には、テオドールの心境が手に取るように分かった。
虐げられていたスミレを、いつも慮っていたテオドール。
僕がもっと大人だったら、と悔しがっていたテオドール。
そんなテオドールが、やっと大人になったのだ。
することはひとつしかない。
「私はお坊ちゃまにお仕えしていますから。お坊ちゃまのなさることを、止めたりはしません」
「ちっ! 使えないな!」
わざとらしく首を振ると、次は門番に向き直る。
「テオとスミレは、どっちへ行った?」
「お二人は徒歩で、西へ向かわれました。大通りに繋がる道です」
「徒歩か……まだ、近くに潜伏している可能性もあるな」
ジークフリートは使用人に命じて、周辺の宿やホテルを片っ端から調査させた。
スミレとテオドールは見つからなかったが、夜会のあったホテルからカスナー家へ、二人を乗せたという運転手を見つける。
きっとその後も、車に乗って逃げたのだろうと思い、二人の行く先を聞いてみるが、どうやら乗ったのは片道だけで、カスナー家で二人を下ろした後のことは知らないと言う。
「車も使わず、どこへ行ったというのだ?」
大々的に捜索をしてしまったので、すぐに新聞へ醜聞記事が掲載された。
『カスナー商会長夫人、義理の弟と駆け落ちか!?』
『兄弟で仲違い? カスナー商会、崩壊の序奏!』
それを見たカスナー夫妻が憤慨して本邸に乗り込んでくる。
「なんていうことでしょう。まだ若いテオドールは、あの女狐に、そそのかされたに違いありません!」
「ジークフリート、だから嫁にするのは貴族にしろと言ったのだ。なんて身持ちの悪さだ」
ジークフリートは心の中で舌打ちをする。
スミレは女狐でもなければ、身持ちの悪い女でもない。
どれだけ他の男に抱かれようと、いつまでも夜は初心だった。
それを売りにして、貴族たちから契約を取り付けていたのだから、きっと裏切ったのはテオドールのほうだ。
だが、スミレを悪者と決めつけている両親の前で、それを言っても無駄だろう。
「必ず二人を探し出します。スミレの容姿は目立つ。いずれ目撃者が見つかりますよ」
◇◆◇
そう豪語していたジークフリートだったが、半年が経っても捜索が捗々しくなく、さすがに焦り始めた。
というのも、この国の法律では、一年間の別居が確認された夫婦は、無条件で離縁が成立するのだ。
あいまいにして誤魔化そうにも、騒動はすでに、世間へ知れ渡ってしまっている。
「どうしたらいい?」
頭を抱えている原因は、それだけではない。
スミレの出奔を知った貴族たちが、契約を翻意し出したのだ。
スミレの体という旨味で繋ぎ止めていた関係は、あまりにも脆かった。
スキャンダルと貴族離れの二重の痛手で、カスナー商会の売上はがくりと落ちる。
こんなとき、親にその座を譲ってもらっただけで商会長になったジークフリートは、無力だった。
◇◆◇
テオドールは、とある公爵家の別荘を使用人ごと借りて、そこでスミレと何不自由のない生活を送っていた。
あと数ヶ月もすれば、スミレとジークフリートとの離縁が成立する。
それまで隠れているつもりだった。
学生時代に起業した会社には、毎日手紙で指示を出している。
おかげで資産は増える一方だ。
「お義姉さん、服を仕立てませんか?」
「夏服も冬服も、仕立てたばかりだわ」
「では、宝飾品はどうでしょう?」
何かスミレに贈りたくて、テオドールはいつもこんな感じだった。
それを見て、カスナー家をクビになった元乳母が微笑む。
職を失い路頭に迷う前に、すぐにテオドールが手を差し伸べたのだ。
そして今では、この別荘で働いてもらっている。
「良かったですね、坊っちゃん。立派な大人になって」
元乳母の言葉に、テオドールは顔を赤らめて照れる。
「坊っちゃんは止めてくれよ。僕はもう大人なんだから」
それを聞いたスミレが、ころころと声を上げて笑う。
この別荘には、幸せな時間が流れていた。
「そうか、先に帰ったのか。テオも学校を卒業したての18歳、こうした夜会はまだ荷が重いのかもしれんな」
有能と褒めそやされる弟への、ひそかな劣等感をジークフリートは払拭する。
カスナー夫妻が、家業を継ぐのは長男、という古めかしい考えの持ち主だったから良かったものの、そうでなければ、どちらがカスナー商会の商会長をしていたか分からない。
テオドールとの年齢差が大きいことも、ジークフリートには有利に働いた。
「商売をするには、頭の良さだけでは駄目だ。貴族も通う名門校で、何を教えているのか知らんが、大人の狡さまでは学べないだろう」
ニヤリと笑うと、ジークフリートは会場をぐるりと見渡し、ターゲットを探す。
次にスミレを貸し出すのは、誰にしようか。
トルファ男爵のように、若い男は候補から外す。
スミレに本気で入れ込んで、自分のものにしたいと言い出しかねない。
ジークフリートが真剣に悩んでいると、ドンと誰かがぶつかってきた。
「ねえ、ジーク、あの人の付けているネックレス、私も欲しいわ」
ほろ酔いのマルガレータが、無作法に指さしているのは、取引先の子爵令嬢だった。
ジークフリートは慌ててその指を下ろさせる。
「止めろ、失礼なことをするな。相手は貴族だぞ」
「そうなの? 貴族ってもっと、派手な人相をしているのかと思ってたわ」
マルガレータは、その子爵令嬢が地味顔だとせせら笑う。
「あのネックレスを見れば分かるだろう? その辺で売ってるものじゃない。先祖代々、受け継がれてきた名品だ。顔じゃなくて、持ち物で見分けろ」
「そんなこと言ったって、パッとは分からないわよ。宝石が大きいかどうかを、見ればいいの?」
「大きさだけじゃない。石の種類だとか、品質だとか、あるだろう?」
「私に分かるのは、自分に似合うかどうかだけよ」
ふん、とそっぽを向くと、機嫌を損ねたマルガレータは離れていく。
ジークフリートは大きな溜め息をついた。
「まったく。こんな苦労、スミレのときには無かった。小さいながらもれっきとした商会の娘だからか、スミレには品物を見る審美眼が備わっている。やっぱり俺の妻は、スミレしかいない」
マルガレータの長所は安産型の腰つきだけだな、とマルガレータが聞けば激怒しそうな台詞を、ジークフリートが小声で漏らす。
そしてスミレを探すが、どうやら会場にはいないようだ。
「テオに付き添って、スミレも帰ったのか? まあ、いい。スミレの評判はすでに、界隈に広まっている」
好色な貴族の間では、カスナー商会と大きな取引をすれば、異国情緒のある艶めいた奥方と致すことができると、秘密裏に噂になっている。
ジークフリートが持ちかけずとも、相手から打診をされる回数も増えた。
「これからもカスナー商会は安泰だ。テオを副会長に据えて、ますます事業拡大を計るぞ」
手始めに、テオドールの婚約者になれそうな貴族の娘がいないか、とジークフリートは思案して、先ほどマルガレーテが貶した子爵令嬢へと声をかけに行った。
翌朝になって、スミレとテオドールが家出をしたと知らされるまで、ジークフリートのこの世の春は続いた。
◇◆◇
「もう一度、順を追って説明しろ!」
カスナー家の執務室に、ジークフリートの怒号が響く。
尋問されて大汗をかいているのは、スミレの担当だった使用人たちだ。
いつもいい加減に仕えていたので、昨晩のスミレの動向を把握していないのだ。
「若奥さまが夜会に参加するために、家を出たのは見ました。でも……いつ帰ってきたのかは」
「朝になって、寝室のカーテンを開けに行って、そこで初めて気づいて……」
「荷物はほとんど残っています。だから、すぐに戻られるのでは……?」
見苦しい保身に、ジークフリートのこめかみに青筋が浮かぶ。
それを見た使用人たちは、ひいとすくみ上った。
「お前たちは全員クビだ。役立たずどもが!」
泣き崩れる使用人たちを無視して、次はテオドールに仕えていた元乳母に尋ねる。
「それで? テオは昨晩どうしたって?」
「お坊ちゃまは夜会から戻られると、荷解きをしていなかったトランクを持って、そのまま外出されました。そのときに、若奥さまもご一緒でした」
「なぜ、止めなかった」
小さい頃からテオドールの世話をしていた元乳母には、テオドールの心境が手に取るように分かった。
虐げられていたスミレを、いつも慮っていたテオドール。
僕がもっと大人だったら、と悔しがっていたテオドール。
そんなテオドールが、やっと大人になったのだ。
することはひとつしかない。
「私はお坊ちゃまにお仕えしていますから。お坊ちゃまのなさることを、止めたりはしません」
「ちっ! 使えないな!」
わざとらしく首を振ると、次は門番に向き直る。
「テオとスミレは、どっちへ行った?」
「お二人は徒歩で、西へ向かわれました。大通りに繋がる道です」
「徒歩か……まだ、近くに潜伏している可能性もあるな」
ジークフリートは使用人に命じて、周辺の宿やホテルを片っ端から調査させた。
スミレとテオドールは見つからなかったが、夜会のあったホテルからカスナー家へ、二人を乗せたという運転手を見つける。
きっとその後も、車に乗って逃げたのだろうと思い、二人の行く先を聞いてみるが、どうやら乗ったのは片道だけで、カスナー家で二人を下ろした後のことは知らないと言う。
「車も使わず、どこへ行ったというのだ?」
大々的に捜索をしてしまったので、すぐに新聞へ醜聞記事が掲載された。
『カスナー商会長夫人、義理の弟と駆け落ちか!?』
『兄弟で仲違い? カスナー商会、崩壊の序奏!』
それを見たカスナー夫妻が憤慨して本邸に乗り込んでくる。
「なんていうことでしょう。まだ若いテオドールは、あの女狐に、そそのかされたに違いありません!」
「ジークフリート、だから嫁にするのは貴族にしろと言ったのだ。なんて身持ちの悪さだ」
ジークフリートは心の中で舌打ちをする。
スミレは女狐でもなければ、身持ちの悪い女でもない。
どれだけ他の男に抱かれようと、いつまでも夜は初心だった。
それを売りにして、貴族たちから契約を取り付けていたのだから、きっと裏切ったのはテオドールのほうだ。
だが、スミレを悪者と決めつけている両親の前で、それを言っても無駄だろう。
「必ず二人を探し出します。スミレの容姿は目立つ。いずれ目撃者が見つかりますよ」
◇◆◇
そう豪語していたジークフリートだったが、半年が経っても捜索が捗々しくなく、さすがに焦り始めた。
というのも、この国の法律では、一年間の別居が確認された夫婦は、無条件で離縁が成立するのだ。
あいまいにして誤魔化そうにも、騒動はすでに、世間へ知れ渡ってしまっている。
「どうしたらいい?」
頭を抱えている原因は、それだけではない。
スミレの出奔を知った貴族たちが、契約を翻意し出したのだ。
スミレの体という旨味で繋ぎ止めていた関係は、あまりにも脆かった。
スキャンダルと貴族離れの二重の痛手で、カスナー商会の売上はがくりと落ちる。
こんなとき、親にその座を譲ってもらっただけで商会長になったジークフリートは、無力だった。
◇◆◇
テオドールは、とある公爵家の別荘を使用人ごと借りて、そこでスミレと何不自由のない生活を送っていた。
あと数ヶ月もすれば、スミレとジークフリートとの離縁が成立する。
それまで隠れているつもりだった。
学生時代に起業した会社には、毎日手紙で指示を出している。
おかげで資産は増える一方だ。
「お義姉さん、服を仕立てませんか?」
「夏服も冬服も、仕立てたばかりだわ」
「では、宝飾品はどうでしょう?」
何かスミレに贈りたくて、テオドールはいつもこんな感じだった。
それを見て、カスナー家をクビになった元乳母が微笑む。
職を失い路頭に迷う前に、すぐにテオドールが手を差し伸べたのだ。
そして今では、この別荘で働いてもらっている。
「良かったですね、坊っちゃん。立派な大人になって」
元乳母の言葉に、テオドールは顔を赤らめて照れる。
「坊っちゃんは止めてくれよ。僕はもう大人なんだから」
それを聞いたスミレが、ころころと声を上げて笑う。
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