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4話 6年目から7年目
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(お義姉さんを助けるには、僕が一刻も早く、大人にならなくてはいけない)
少年心に、テオドールはそう思っていた。
だから家庭教師が驚くほど勉強をして、ジークフリートよりも頭角を現そうと頑張った。
おかげで、貴族も通う名門の男子校への入学が叶ったのだが――。
「お義姉さん、行ってきます」
18歳で卒業するまでは、寄宿舎で過ごすテオドールは実家へ戻れない。
その間、スミレが無事でいてくれるだろうか。
嫁いできた頃から華奢だった体つきが、最近はまた細くなった気がする。
「テオちゃん、体に気をつけてね」
微笑むスミレからは、悲壮感はうかがえない。
だが、ジークフリートの愛人マルガレータが、もうすぐ出産するという。
そうなれば、またしてもスミレの肩身は狭くなり、この本邸は居心地の悪いものになるだろう。
大人になったテオドールが帰ってくるまで、どうか心折れずに待っていて欲しい。
スミレへの切ない想いを自覚した思春期のテオドールは、必ずスミレを救うと誓う。
「手紙を書きますから、お義姉さんもお元気で」
「私もお返事を出すわ。学校であったことを教えてね」
スミレと抱擁を交わし、テオドールは旅立つ。
テオドールの推薦状と高額な学費のために、スミレがあれから何人の貴族に抱かれたのか。
そんな悲哀は微塵も感じさせず、スミレは最後まで笑顔でテオドールを見送った。
◇◆◇
マルガレータが珠のような赤子を生んだ。
ジークフリートに似た茶髪と、マルガレータに似た緑色の瞳。
カスナー夫妻は、赤子が男児だったことを喜び、孫と孫を生んだマルガレータを労う。
男児はファビアンと名付けられ、すぐに乳母がつけられると、大切に育てられた。
その陰で、スミレは相変わらず使用人たちからの、悪質ないじめに合っていた。
「若奥さま、私たちはマルガレータさまとお坊ちゃまのお世話で、大忙しなんです」
「ご自分のことくらい、ご自分でなさってくださいな。どうせお暇でしょう?」
今日は本邸の食堂で、産後の床上げが済んだマルガレータが、ジークフリートやカスナー夫妻と一緒に食事をとっている。
そこにスミレが顔を出すのは憚られたので、客間へ食事を運んでくれるよう頼んでいた。
しかし、いつまで待っても届かないので、どうしたのかと聞いてみれば、そんな返事を投げつけられたのだ。
些細な嫌がらせはいつものことと諦めて、スミレは厨房まで夕食を取りに行った。
その帰り道――。
「あら、スミレさん、でしたっけ? こんなところで、何をなさっているの?」
両手で盆を持って歩くスミレを、マルガレータが呼び止める。
盆上に載った湯気の立つスープ皿を見れば、これからスミレが客間へ戻って食事をすると分かるだろうに。
「まあ、そんなものを召し上がるの? 私たちは先ほど、食堂でもっといい料理をいただきましたよ?」
腕を組み、覗き込むように近づいてきたマルガレータが、肘で盆をトンと押し上げた。
丸い平皿に入っていた温かいスープが、スミレの胸元にパシャリとかかる。
幸い、熱すぎなかったので火傷はしなかったが、それでもスープはすべて零れてしまった。
厨房には、スミレの分の夕食が用意されておらず、不憫に思った料理人が、まかないのスープを分けてくれたのだが、今やそれもなくなってしまった。
「心のこもったスープだったのに……」
スミレの呟きを、マルガレータは鼻で笑う。
「だったら床にぶちまけたスープを、這いつくばって舐めればいいじゃない? 誰も止めやしないわよ?」
「……どうして私に絡んでくるんですか? あなたはカスナー家の嫡男を生んだことで、不自由のない生活をしているのでしょう?」
線の細いスミレが、まさか言い返してくるとは思わなかったのだろう。
カッとなったマルガレータは、右手でドンとスミレの肩を押す。
盆を取り落とし、床に尻もちをついたスミレを、マルガレータは上から見下ろす。
「生意気ね。いつまでも正妻の座にいられると思わないで。おキレイなその顔に、傷のひとつでもつけば、ジークはあなたを見限るわ」
悪し様に言い放つと、マルガレータは足音高く立ち去った。
スミレは、そっと自分の頬に手をやる。
ここに傷がついたなら、もう貴族の相手をせずに、済むのかもしれない。
盆と一緒に落ちたスープ皿に、ちらりと目をやる。
ここで皿が割れていれば、その破片で――。
「いいえ、いけないわ、こんなことを考えては駄目。テオちゃんはまだ、学校に行ったばかりよ。あと数年は、莫大な学費が必要なのだから」
首を横に振るスミレは知らない。
この一年間でカスナー商会の年商は、飛ぶ鳥を落とす勢いの右肩上がりだった。
貴族も通う名門校といえど、テオドールの数年分の学費を、捻出できないはずがない。
そして、伸びた業績のほとんどが貴族相手の契約、つまりはスミレのおかげで締結したものだった。
その身を縛り付けるために、ジークフリートの用意した周到な嘘を、純朴すぎるスミレは信じ込まされていた。
◇◆◇
『お義姉さん、お元気ですか? こちらに来て、もうすぐ二年が経ちます。僕は今、法律と経済の授業を受けていて――』
テオドールから毎週のように届く手紙が、スミレの心の潤いだった。
何度も読み返し、男らしく力強い筆跡を頼もしく思い、その文面をそっと撫でる。
地獄とも言えるカスナー家で、スミレが生き永らえていられるのも、この身がテオドールの役に立っているという矜持があったからだ。
スミレは己に起こっている不幸を悟られぬよう、気をつけて返事を書く。
『テオちゃん、そちらは寒くないですか? 私が作ったので拙くて申し訳ないのですが、綿入りの半纏を送ります。これは私の故郷で冬を迎えるのに、必須の防寒着で――』
『お義姉さん、半纏をありがとう。こちらは凍える寒さなので、毎日愛用しています。僕が半纏を着ていると、物珍しいのかルームメイトたちが集まってきて、「それは何だ?」と聞いてきます。せっかくなので、お義姉さんの実家の商会で購入できるかもしれないよ、と教えておきました――』
続く文面には、テオドールが貴族の子息も含めた学友と仲良くしているとか、教授から将来は起業しろと勧められているとか、明るい話題ばかりだった。
親元を離れた生活は、楽しい日だけではないだろうが、テオドールはスミレになるべく、順風満帆であると伝えたいようだった。
その気持ちを、スミレはありがたく思う。
テオドールの成長だけが、今のスミレの希望だった。
◇◆◇
テオドールにとっても、スミレからの手紙は日々の活力源だった。
貴族と平民が入り乱れて過ごす男子校には、さまざまな思惑が渦巻いている。
身分を笠に着た目上の者からの嘲りや、カスナー商会の金銭を目的としたおもねりなど、決して清廉なだけではない世の中の縮図を、それまで箱入りだったテオドールは身をもって知った。
「今月はまだ、お義姉さんからの手紙が来ないな」
ここのところ、スミレからの手紙が遅れがちだった。
がっかりする気持ちよりも、スミレの身に何かあったのではないか、という不安がテオドールの胸中にこみあげる。
「卒業まで、あと二年。長いな……」
いまだスミレを助けるための、手段も力もテオドールは得ていない。
「早く大人になりたい。そうしたら、僕がお義姉さんを……」
ぐっと奥歯を噛みしめて、テオドールは遠く離れたスミレを想う。
実兄であるジークフリートを凌ぐほどの男になりたい。
そしていつか、スミレをカスナー家から助けて出して――。
(そのときは、僕の心を、お義姉さんに打ち明けてもいいですか?)
その日がやってくるまで、テオドールはここで研鑽するしかない。
少年心に、テオドールはそう思っていた。
だから家庭教師が驚くほど勉強をして、ジークフリートよりも頭角を現そうと頑張った。
おかげで、貴族も通う名門の男子校への入学が叶ったのだが――。
「お義姉さん、行ってきます」
18歳で卒業するまでは、寄宿舎で過ごすテオドールは実家へ戻れない。
その間、スミレが無事でいてくれるだろうか。
嫁いできた頃から華奢だった体つきが、最近はまた細くなった気がする。
「テオちゃん、体に気をつけてね」
微笑むスミレからは、悲壮感はうかがえない。
だが、ジークフリートの愛人マルガレータが、もうすぐ出産するという。
そうなれば、またしてもスミレの肩身は狭くなり、この本邸は居心地の悪いものになるだろう。
大人になったテオドールが帰ってくるまで、どうか心折れずに待っていて欲しい。
スミレへの切ない想いを自覚した思春期のテオドールは、必ずスミレを救うと誓う。
「手紙を書きますから、お義姉さんもお元気で」
「私もお返事を出すわ。学校であったことを教えてね」
スミレと抱擁を交わし、テオドールは旅立つ。
テオドールの推薦状と高額な学費のために、スミレがあれから何人の貴族に抱かれたのか。
そんな悲哀は微塵も感じさせず、スミレは最後まで笑顔でテオドールを見送った。
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マルガレータが珠のような赤子を生んだ。
ジークフリートに似た茶髪と、マルガレータに似た緑色の瞳。
カスナー夫妻は、赤子が男児だったことを喜び、孫と孫を生んだマルガレータを労う。
男児はファビアンと名付けられ、すぐに乳母がつけられると、大切に育てられた。
その陰で、スミレは相変わらず使用人たちからの、悪質ないじめに合っていた。
「若奥さま、私たちはマルガレータさまとお坊ちゃまのお世話で、大忙しなんです」
「ご自分のことくらい、ご自分でなさってくださいな。どうせお暇でしょう?」
今日は本邸の食堂で、産後の床上げが済んだマルガレータが、ジークフリートやカスナー夫妻と一緒に食事をとっている。
そこにスミレが顔を出すのは憚られたので、客間へ食事を運んでくれるよう頼んでいた。
しかし、いつまで待っても届かないので、どうしたのかと聞いてみれば、そんな返事を投げつけられたのだ。
些細な嫌がらせはいつものことと諦めて、スミレは厨房まで夕食を取りに行った。
その帰り道――。
「あら、スミレさん、でしたっけ? こんなところで、何をなさっているの?」
両手で盆を持って歩くスミレを、マルガレータが呼び止める。
盆上に載った湯気の立つスープ皿を見れば、これからスミレが客間へ戻って食事をすると分かるだろうに。
「まあ、そんなものを召し上がるの? 私たちは先ほど、食堂でもっといい料理をいただきましたよ?」
腕を組み、覗き込むように近づいてきたマルガレータが、肘で盆をトンと押し上げた。
丸い平皿に入っていた温かいスープが、スミレの胸元にパシャリとかかる。
幸い、熱すぎなかったので火傷はしなかったが、それでもスープはすべて零れてしまった。
厨房には、スミレの分の夕食が用意されておらず、不憫に思った料理人が、まかないのスープを分けてくれたのだが、今やそれもなくなってしまった。
「心のこもったスープだったのに……」
スミレの呟きを、マルガレータは鼻で笑う。
「だったら床にぶちまけたスープを、這いつくばって舐めればいいじゃない? 誰も止めやしないわよ?」
「……どうして私に絡んでくるんですか? あなたはカスナー家の嫡男を生んだことで、不自由のない生活をしているのでしょう?」
線の細いスミレが、まさか言い返してくるとは思わなかったのだろう。
カッとなったマルガレータは、右手でドンとスミレの肩を押す。
盆を取り落とし、床に尻もちをついたスミレを、マルガレータは上から見下ろす。
「生意気ね。いつまでも正妻の座にいられると思わないで。おキレイなその顔に、傷のひとつでもつけば、ジークはあなたを見限るわ」
悪し様に言い放つと、マルガレータは足音高く立ち去った。
スミレは、そっと自分の頬に手をやる。
ここに傷がついたなら、もう貴族の相手をせずに、済むのかもしれない。
盆と一緒に落ちたスープ皿に、ちらりと目をやる。
ここで皿が割れていれば、その破片で――。
「いいえ、いけないわ、こんなことを考えては駄目。テオちゃんはまだ、学校に行ったばかりよ。あと数年は、莫大な学費が必要なのだから」
首を横に振るスミレは知らない。
この一年間でカスナー商会の年商は、飛ぶ鳥を落とす勢いの右肩上がりだった。
貴族も通う名門校といえど、テオドールの数年分の学費を、捻出できないはずがない。
そして、伸びた業績のほとんどが貴族相手の契約、つまりはスミレのおかげで締結したものだった。
その身を縛り付けるために、ジークフリートの用意した周到な嘘を、純朴すぎるスミレは信じ込まされていた。
◇◆◇
『お義姉さん、お元気ですか? こちらに来て、もうすぐ二年が経ちます。僕は今、法律と経済の授業を受けていて――』
テオドールから毎週のように届く手紙が、スミレの心の潤いだった。
何度も読み返し、男らしく力強い筆跡を頼もしく思い、その文面をそっと撫でる。
地獄とも言えるカスナー家で、スミレが生き永らえていられるのも、この身がテオドールの役に立っているという矜持があったからだ。
スミレは己に起こっている不幸を悟られぬよう、気をつけて返事を書く。
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『お義姉さん、半纏をありがとう。こちらは凍える寒さなので、毎日愛用しています。僕が半纏を着ていると、物珍しいのかルームメイトたちが集まってきて、「それは何だ?」と聞いてきます。せっかくなので、お義姉さんの実家の商会で購入できるかもしれないよ、と教えておきました――』
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親元を離れた生活は、楽しい日だけではないだろうが、テオドールはスミレになるべく、順風満帆であると伝えたいようだった。
その気持ちを、スミレはありがたく思う。
テオドールの成長だけが、今のスミレの希望だった。
◇◆◇
テオドールにとっても、スミレからの手紙は日々の活力源だった。
貴族と平民が入り乱れて過ごす男子校には、さまざまな思惑が渦巻いている。
身分を笠に着た目上の者からの嘲りや、カスナー商会の金銭を目的としたおもねりなど、決して清廉なだけではない世の中の縮図を、それまで箱入りだったテオドールは身をもって知った。
「今月はまだ、お義姉さんからの手紙が来ないな」
ここのところ、スミレからの手紙が遅れがちだった。
がっかりする気持ちよりも、スミレの身に何かあったのではないか、という不安がテオドールの胸中にこみあげる。
「卒業まで、あと二年。長いな……」
いまだスミレを助けるための、手段も力もテオドールは得ていない。
「早く大人になりたい。そうしたら、僕がお義姉さんを……」
ぐっと奥歯を噛みしめて、テオドールは遠く離れたスミレを想う。
実兄であるジークフリートを凌ぐほどの男になりたい。
そしていつか、スミレをカスナー家から助けて出して――。
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