消えた流れ星

町田 美寿々

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十六、決心

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予想外の展開に心臓が鳴り出した。部屋をうろうろしながら冷静になろうと心がける。


「今どこにいる? 会えそう?」
「二丁目の公園。ちょっと、疲れてて休憩してる」
確かに声にあまり力がない。
「すぐ行く!」
通話を切り、カバンに思いつくだけの持ち物を入れた。ドタドタと階段を降りると台所へ行き、冷蔵庫を開けてスポーツドリンクといくつか食べられそうなものを掴んで、鞄に突っ込んだ。


慌ただしい私を見て、お母さんが「何してんのよ」と困った様子だったが。あの日からまだ私たち家族は冷戦中のため、私は何も言わなかった。リビングにいる真樹姉ちゃんからも「うるさい」とか何とか言われた気がしたけれど、これも無視した。


リビングを出で、玄関に向かう私にお母さんが立ちはだかった。
「あんた、どこ行くのよ」
「友達のところ」
「わざわざ今から?」
「少し話してくるだけ。急いでるからどいてよ」
「ずっと様子おかしいわよ。何も言わないできたけど、いい加減にしないとお父さんに報告しますからね」
「どうせもう言ってるでしょ。すぐ戻るから行かせてよ!」
遠くから姉ちゃんの「もうこんな奴ほっときなってー」という声が聞こえる。
「そんなこと言ったってね」
お母さんがそこまで口を開いた時、唐突に家のチャイムが鳴った。もしかして司くんかもしれないと思った私は「はいはい」と返事をしながら玄関を開けるお母さんに割り込んでドアを開けた。すると、そこには知佳ちゃんが立っていた。


「ひかりちゃん、急にごめんね」
知佳ちゃんは終業式の日から、そのままおばあちゃん家に遊びに行っていた。かなり充実した時間を過ごしたようで、すっかり日焼けしている。  
「お土産。なまものだから早く渡せってお母さんが。急に来てすみません」 
知佳ちゃんは今度はお母さんに頭を下げた。
「いいのよ、知佳ちゃんだったのね。こちらこそわざわざ届けさせちゃってごめんなさいね」
そう言って知佳ちゃんからお土産の紙袋を受け取った。
お母さんは私と知佳ちゃんが中学に入ってからの親友だということをよく知っている。何度か家にも遊びに来たことがあるから、すっかり心を開いている。
「あんた、知佳ちゃんならそう言いなさいよ。もう」
どうやらお母さんは、知佳ちゃんと会うつもりだと思ったらしい。
「うん。ちょっと話してくる。行こう」
靴を履いて、少し強引に知佳ちゃんの最中を押す。一瞬目が合った時に察したのか知佳ちゃんは「お邪魔しました!」とだけ言って、何も言わず外に出てくれた。


「ありがとう、知佳ちゃん、本当にありがとう!」
私は知佳ちゃんの手を握りしめて何度もお礼を言った。
「いいよいいよ、いつもと感じ違ったもん。喧嘩?」
「そんなところ…。あの、今から知佳ちゃんとちょっと話して、すぐ帰ってくるってことにしちゃだめかな?」
「それは全然いいけど、どこか行くの?」
知佳ちゃんは私が肩にかけているバッグを見た。
「うん、ちょっと、友達のところ。困ってるみたいだったから」
「友達って学校の?」
知佳ちゃんにならすべて打ち明けてしまいたいと思ったが、これ以上は言えなかった。司くんとの約束を破るのも嫌だ。
「小学校の時の子」
一応嘘ではないけれど、自分でも下手くそにごまかしてるのが伝わる。知佳ちゃんに申し訳なくなり顔を伏せた。知佳ちゃんは明るい声で言った。
「その子が大変なら行ってあげなきゃ!  私自転車で来たんだけど、途中まで一緒に行く?」
よく見ると、家の門の前に水色の可愛らしい自転車が停めてあった。
「大丈夫、ここから近いから」
本当のことを言えなくてごめん。心の中でそう謝った。
「いいって。あ、そうだ。これだけ渡しとくね」
知佳ちゃんは交換日記のノートを取り出した。  
いろいろあったからだろうか、久しぶりに見たノートに懐かしさと安心感を感じて少し目が潤んだ。
「早く届けたくて持ってきちゃった!」
「絶対読む! ありがとう!」
知佳ちゃんは水色の自転車に跨ると「また遊ぶ日にね!」と手を振って帰って行った。
やっぱり知佳ちゃんといると元気がわいてくる。私は知佳ちゃんが去った道の反対方向を向いて走り出した。


明らかに司くんは元気がなかった。どこか具合が悪いのかもしれない。ごはんは食べているんだろうか。倒れていたらどうしよう。汗だくになりながら足は止めず、走り続けた。


二丁目の公園に着いた時、公園の時計は午後九時十五分を指していた。辺りは昼間と違い、真っ暗でほとんど見えない。ちらほら建てられている街灯を頼りに、司くんを探す。自然とジャングルジムがあったあの場所へ向かう。
私と司くんが唯一遊んだ場所。その記憶も最近まで忘れていたおぼろげな記憶だけど。それほど私たちを繋いでいるものは脆くて細い。
 

ぽっかり何もなくなっているジャングルジムの跡地に来たが、誰もいない。ぐるっと当たりを見渡すと、ベンチに司くんがうなだれるように座っているのが見えた。ベンチから少し離れたところに公衆電話がある。あそこからかけたんだ。


「司くん」
焦るあまり大声を出しそうになったが、なんとか押し殺した。司くんは私の声に気づくと顔を上げた。
顔色はそこまで悪くないが、気分が悪そうだ。疲れきっているような目をしているのが気になる。
「何があったの?」
隣に腰かけながらスポーツドリンクを渡した。
司くんは小声で「ありがとう」と言うと、ごくごくと飲み始めた。私は適当に鞄に突っ込んできた菓子パンや魚肉ソーセージ、ブロックチーズをまとめて司くんに渡した。
「何も食べてなさそう? 大丈夫?」
相当お腹が空いてたのか司くんは「いただきます」と言って菓子パンの袋を開けた。私はただ静かに待っていた。こんな必死な姿も初めて見る。ずっと余裕のあるにこにこした司くんばかり見ていたから。そんな人がここまで必死にならなきゃいけないってどういうことなのだろう。今日の私は何かおかしいのか。また涙が出そうになる。


「ありがとう、本当に助かった」
司くんはスポーツドリンクを飲み干すとそう言った。
「何があったの?」
二本目も渡しながら聞くと、司くんは申し訳なさそうに受け取ると言った。
「ひかりちゃんと別れた後、母さんに会ったんだ」
「あの、お母さんって、もしかして茶色の長い髪の人?
 髪を巻いてて、ワンピース着てて…」
「見たことあるの? そうだよ」
やっぱり司くんの家に行った時、玄関で話した人がお母さんだったんだ。
「そのお母さんが、どうしたの」
「知らない男の人と一緒にいて…それは知ってたんだ。父さん以外の人がいるってことは。だからどうでもよかった」
不倫をしているということだ。そんな話を身近で聞くのが初めてだった私はどう反応したらいいか分からなくなって、ただ真剣に司くんの話を聞くしかできない。
「でも…それで、その時…」
司くんが急に体をぎゅうっと硬直させた。手は強い力で拳を作っている。まるで痛みに耐えているようだ。私はどうしたらいいか分からまま、司くんの背中に手をあてた。小さい頃、お母さんにこうされて安心した記憶があったからだ。
司くんは、はぁっと大きく息を吐いた瞬間、大粒の涙を流した。ずっと堰き止めていたものが流れ出したように見える。最後に泣いたのはいつだったんだろう。ずっと苦しかったはずだ。誰にも言えずに。私は黙って背中をさすった。次に司くんが話始めるまで。黙っていようと思った。何分経ったか分からないまま、まるで私たちだけ時が止まっているようだ。ただ司くんの泣く声が聞こえて、私はただ黙って背中をさすっている。不思議とつかの間の安全地帯のように感じた。
 

何分か経った後、司くんは口を開いた。 
「知らない子だってさ」
「え?」
「知らない子だって言ったんだ。男の前だからだと思う」
言葉が出なかった。何か言いたかったのに。絶句とはこのことなのかなと馬鹿みたいに頭の隅で考えていた。
「子供がいると思われたくなくて、きっと母さんそう言ったんだ」
司くんの嗚咽が酷くなる。息がヒューヒューと言い始めて、苦しそうに呼吸しようとしているができていない。
過呼吸だ。私は司くんの体を少し前かがみにさせると、背中とお腹に両手を回し抱きしめるような形で支えた。背中をさすりながら呼吸が落ち着くのを待った。小学校の頃、過呼吸になった低学年の女の子をおぶって保健室に駆け込んだことがあった。その時の保健の先生がこうしていたのだ。「もう帰ってもいいわよ 」と言われたけれど、女の子が死んでしまうんじゃないかと不安でずっと見ていた。見ていてよかったと心底思った。


呼吸が少しづつ落ち着いてきた。司くんは何度もごめんと言う。
「もう謝らないでいいよ。…だって、そんなの、ひどいよ」
実の母親に不倫相手の前で、自分の子供じゃないと言われて耐えられる子供などいるはずない。計り知れないショックと屈辱だろう。


「母さんを守れるなら、殴られたって、なんだって我慢できたんだ」
司くんがぽつりと言った。
「そう言ったんだ。確かめたかった。僕が耐えていることは家族のために…母さんのためになってるかって」
「お母さん、何て?」
「"頼んでない" って」
司くんの目からまた涙が溢れ出した。
私はもう何も言えなくなっていた。想像を超えるショックに呆然としていたのかもしれない。
「"流れ星" を言い出したのは母さんなのに」
司くんが苦しそうに吐き出した。
まここでその言葉が出てくるとは思いもしなかった。
お母さんがあの痛々しい痣を流れ星と言い出したの? なぜ? 疑問が渦巻くが今は聞かない方がいい。これ以上司くんを追い詰めたくない。


司くんはもう一度大きなため息をつくと、私の顔を見た。涙で目が赤く腫れ、目の奥に悲しみが沈んでいる。
悲しそうな目のまま司くんは笑った。
「もう家にいる理由がなくなった」
その言葉に彼の決心を察した。
そして私自身も。
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