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十二、届かないSOS
しおりを挟む司くんの家は大体どの辺りにあるかは分かっていた。小学生の頃、何度か通りかかった程度の記憶なので、細かいところまでは覚えていないけれど、近くまでいけばきっと記憶が蘇ってくるはずだ。
こういう時の私の大胆さは何なんだろうか。昨日はあんなに怯えていたのに、司くんを助けたいと思うだけで動き出したくなる。あんな人に負けたくない。
私ですら知らない私がいる気がした。
確か二丁目に公園があった。子供たちに人気のジャングルジムがあり、私もよく遊んでいた。『司くんの家は公園が近くていいなー』と他の子たちが言っていたのを思い出した。
公園を見渡すと随分様変わりしていた。ジャングルジムは危険だからと数年前に撤去されてしまったと噂で聞いた。かつて子供たちの人気者がいた場所は空っぽだった。
この辺りの家の表札を見て回ると、司くんの家は案外簡単に見つかった。表札に『藤谷』と書いてある。確かにこの家だった気がする。純和風の日本家屋で、家の周りは手入れされた生垣で囲まれ、ツツジの花が咲いていたのを思い出した。今は生垣にところどころ穴が空いていて花も咲いていなかった。
門の前に立ち、インターホンに指をかけた。ところで何の用で来たことにしよう。司くんの様子を見に来たのが目的だがそのままを言うわけにはいかない。うまい理由を考えてくるのを忘れてしまった。しばらく指をかけたまま硬直していたが、とうとう何も思いつかなかったので、お得意の見切り発車でインターホンを押した。
チャイムが鳴ったが、中から誰も出てくる様子はない。もう一度鳴らす。出ない。諦めきれずもう一度鳴らすとインターホンの通話口から「はぁい?」と間伸びした女性の声が聞こえてきた。
「あ、あの、わた、私は大河ひかりと言います。司くんと同じ学校の、クラスも同じです。つ、かさくんはいますか?」
まさか三度目の正直で出るとは思わなかったので、油断してかなり動揺した話し方になってしまった。女性は何も言わずプツリと通話を切った。すると、パタパタと足音がして玄関の引き戸が開き、華奢で綺麗な女の人が出てきた。パーマがかかった茶色の長い髪が揺れている。どことなくホステスのような雰囲気があった。この人が司くんのお母さん?
「こ、こんにちは。あの、司くんは」
「あのね、今日は司は会えないのよ。ごめんねぇ」
薄手のワンピースにカーディガンを羽織った女性は、寝起きなのかあくびをしながらそう言った。
「そうですか。ありがとうございました」
「ごめんねぇ」
心配ではあるが仕方ない。帰ろうと踵を返す。女性もカラカラと引き戸を閉めようとした時だった。
ドタンッ!!と大きな音がして思わず振り返った。女性も手を止めて家の奥を見ている様子だった。私は昨日のクラクションを思い出した。あの時と似たような何かを感じる。昨日は何もできなかったが、今日はそうなりたくない。
「あの、今の音、大丈夫ですか?」
女性は私の声が聞こえないのか、無視をしているのか家の奥を見つめたままだ。私は勝手に門を開けた。小さな階段を数段上って引き戸の前まで行くともう一度聞いた。
「大きな音がしましたけど大丈夫ですか?」
「きゃ!」
女性は目の前に現れた私に驚いて悲鳴を上げた。
「あ、あー、大丈夫大丈夫」
引き戸が閉められそうになる。その時またドタン! バタン! と大きな音がして、今度は奥から怒鳴り声がかすかに聞こえた。あの人だ。あの熊のような大男の声。
「とにかく今日は忙しいから。もう帰って。ね?」
再びドタドタドタン!と大きな音がして、ついに女性がしびれを切らしたように奥に向かって叫んだ。
「ちょっと! やめてよ! 人が来てるのよ!」
そして引き戸を閉めてしまった。女性は様子を見に行ったのか足音が遠ざかっていく。家の中からは相変わらずただならぬ物音がかすかに聞こえる。嫌な予感がした。私は引き戸に手をかけた。幸い鍵はまだかかっていない。人様の家だと一瞬頭をよぎったが、盗み聞きもした私だ。何を今さら。
えい! と、思い切り引き戸を開けた。
大きな音は止んでいた。玄関から真っ直ぐ言った所に台所のような場所が見える。とりあえずおさまったのかとほっとした瞬間だった。ドン!と音がして台所で誰かが突き飛ばされる姿が視界に入った。あれは間違いなく司くんだ! 飛ばされた司くんを追うようにあの熊のような父親が歩いていくのが見えた。これは現実なのかと一瞬目眩がした。助けなくては、と玄関に足を踏み入れた時さっきの女性が走ってきて私の肩を軽く押した。思わずよろけて玄関から出てしまう。
「悪さして叱られてるのよ。もう帰ってね」
女性は表情のない声でそう言うと、ぴしゃんと引き戸を閉めると今度こそ鍵をかけてしまった。
私は現実に頭が追いつかず、数十秒か一分ほどその場で立ち尽くしていたが、弾かれたように走り出した。虐待だ。紛れもなく虐待の現場を私は目撃したんだ。このままでは司くんが殺されてしまう。全力で家に向かって走った。
玄関を乱暴に開ける。靴を脱ぐのも煩わしく、土足でリビングに飛び込んだ。
「お母さん!!」
お母さんは呑気に情報番組を見ていた。
髪を振り乱し、汗だくの私にぎょっとしていたが足元を見ると鬼の形相に変わった。
「あんた! 何で靴履いてんのよ! 信じられない!」
あーもう! 汚い! と言いながら床についた足跡に悲鳴を上げている。
「お母さん! 司くんが暴力振るわれてる!」
「はぁ? 司くん?」
お母さんは無理矢理私の足を持ち上げて靴を脱がせた。
「それより早く脱ぎなさいよ!」
「藤谷司くん! 小学校から一緒の子! あの子の家が今大変なの! お願い一緒に来てよ!」
「司くん? 覚えてないわねぇ。あんた仲良かったっけ? で、その子がどうしたって?」
お母さんは話半分で聞いているようで雑巾を取りに行ってしまった。
「お父さんに暴力振るわれてるんだってば!」
「ただいまー。うっわ汚な。なにこれ。ていうかあんた何靴履いて上がってんの」
最悪のタイミングで真樹姉ちゃんが帰ってきた。
私は怒りのあまり姉ちゃん向かって叫んだ。
「黙れ!いつもいつもうるさいんだよ!!」
「はぁ?」
私は涙が溢れてきてその場に蹲った。
「ちょっとなにやってんの」
お母さんが呆れながら雑巾を片手に戻ってきた。
「こいつが勝手にキレて勝手に泣き出しただけ」
姉ちゃんはわざと私にぶつかって通り過ぎると、乱暴にソファーに座った。
「ちょっと、ひかり。あんた本当にどうしたの? 」
言いたい事の半分も伝わっていないことに絶望した。
こんな時、お父さんがいたら話を聞いてくれたのに。今日も出張でいない。
諦めたらだめだ。伝えなきゃ司くんの命が危ないかもしれない。できるだけ冷静に努める。
「藤谷司くん。その子がお父さんに殴られてるのを見たの」
「勘違いでしょ」
間髪入れずに姉ちゃんが言った。
「喧嘩かなんかしてただけでしょ。あんたいちいち大げさなのよ。その司ってあんたの彼氏か何か?」
「違う。姉ちゃんと一緒にしないでよ」
「はぁ!?」とヒステリックな声を上げた姉ちゃんをお母さんが制した。
「ええっと、その子はあんたの友達なの?」
「友達…かは分かんない。クラスは同じだけど…。とにかく私、ずっと司くんが虐待を受けてるんじゃないかと思って、図書館でも調べて…」
「へー。彼氏でも友達でもない子のこと、こそこそ調べ回ってたんだ。ああ、部屋にあったあの本ってそういうこと。だとしたらあんたマジキモいよ。勝手に虐待されてるって決めつけてさ。私が守ってあげなきゃって?」
さっきの私の言葉が相当逆鱗に触れたのか、真樹姉ちゃんの攻撃が止まらない。
「ストーカーって言うんだよそういうの」
しん、と部屋が静まり返った。
「真樹、言い過ぎ。謝りなさい」
お母さんが真剣な声で言った。
頭が真っ白になった。外の音がぼんやりとしか聞こえない。お母さんと姉ちゃんが何か言い合っているがもうどうでもよかった。
私はふらふらと自分の部屋に向かった。
お母さんと姉ちゃんの言い合いが激化したらしい。下の階から怒鳴り合う声が聞こえてくる。昨日からもうたくさんだ。みんな大人なのに、親なのに、どうして怒鳴って殴ってまともに話も聞いてくれないのだろう。私たちが子供だからだろうか。
目から涙が出るのを止める気にもならず、ベッドに力無くも突っ伏した。この間にも司くんは酷い目に合っているかもしれないのに、体が動かない。司くんが死んじゃったらどうしよう。
「そうだ、スマホ」
私は馬鹿だ。何のためのスマホなんだ。家になんか帰らず警察に電話すればよかった。あまりに気が動転して忘れていた。今からでも間に合うはずだ。
スマホを手に取るが、ダイヤルボタンを押せなかった。
"そういうのストーカーっていうんだよ" 姉ちゃんに言われた言葉が頭にこだまする。私は本当にストーカーなのかもしれない。頼まれてもいないのに何週間も勝手に調べて、盗み聞きして。挙句の果てに家まで押しかけた。そんな人間の言うことを警察は信じてくれるのだろうか。私の方が捕まってしまうかもしれない。そう思うとこれ以上手が動かなかった。
スマホをベッドに投げ、顔を伏せた。
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