エメラルドの風

町田 美寿々

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昼間のシンデレラ2

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時刻は一時。今日は少し早めに休憩を取ることができた。おそらく数週間後に始まる夏の収穫祭の準備が少しずつ始まっているからだろう。


収穫祭は一年に一度のマルスの大きな祭りで、春から夏までの漁業の収穫に感謝し、秋から冬までの豊作を祈るための一大行事である。この時期になると市場の人間は空いた時間を利用して祭りの準備を始めるため、昼休憩を取る時間が分散されるのだ。


夕方頃まで客足がずるずると途絶えることなくやって来るが、その代わりいつもの洪水のように押し寄せる時間帯がなくなるので、飲食店の人々にとって比較的休憩が取りやすい時期でもあった。


アニーは急いで家に戻りたいところだったが、今日は市場に用があったため市場の人混みの中に足を踏み入れた。家の消耗品のあれこれがなくなりかけているためその補充の買い物である。 


時間もないので足早に目的の店に向かう。使える金額は限られているのでよそ見をせずにただ歩いた。この街に生まれても自由に市場を見たり、買い物をしたことは一度もない。北郊外の人間にとって市場は労働の場所である。
それでも道の先に見える深いブルーの海だけはいつ見ても美しかった。


手際良くいつも立ち寄る店を何件か回って必要なものは調達した。これでなんとかまたしばらくは持つだろう。


アニーは買い物籠を腕に掛けると踵を返してさっさと来た道を戻り始めた。が、ふいに一軒の雑貨店の前で足を止めた。


女性物の雑貨を取り扱っているらしく、女性なら誰もが憧れる小洒落た手鏡や刺繍のハンカチーフやバッグ等がずらりと並んでいる。馴染みのある形のものもあるし、外国から輸入したであろう珍しい装飾が施されたものもあった。その中でアニーの目に飛び込んで来たのは一対のイヤリングだった。


オレンジ色の小ぶりな花に一枚のグリーンの葉が添えられている。よく見ると花と葉の間を繋ぐように一粒の白い小さな真珠のようなものが上品にくっついていた。


繊細なガラスのようなものでできており実際の花かと疑ってしまうほどに精巧に作られている。花はまるでポピーに似ており、見ているだけで春の到来を思わせてくれそうなあたたかみがあった。


貿易が盛んなこの街には見たことのないものなんて山ほど並んでいるが、それにしてもなんて珍しいイヤリングなのだろう。自分の髪と瞳に似た色が使われていることも少なからず気に入った理由だったが、その自意識が恥ずかしくアニーは知らないふりをした。


綺麗で思わずじっと見つめてしまう。ちら、と店主の方を見たが他のお客の相手をしているらしい。お客の身なりからして裕福な様子だった。そこに目ざとく気がついた店主にとって売り込む絶好の機会なのだろう。


店主はアニーの方にもちらと視線を向けたが、これまた身なりでアニーがここにあるものを買えるような人間ではないと察したのか放っておかれていた。それをいいことにアニーはまじまじとイヤリングを見つめる。


もし人生でこんなものを付けられたらどんな気持ちになるのだろう。


そうぼんやりと思う。傍に立てかけられていた値札は見ないことにした。手に入らないことは分かっている。少し見るだけなら罰は当たらないだろう。優しい海風を受けてイヤリングがゆらゆら揺れている。知らぬ間に顔がほころんでいた。


「アニー?」


突然、名前を呼ばれた。反射的に声のした方へ顔を上げるとそこには驚いた顔をしたロベルトがいた。


「ロベルトさん」

「まさか会えるなんて」


ロベルトの声は弾んでいる。
心から再会を喜んでいるかのようだった。


「どうしてここに?」

「市場を回ってたんだ。珍しい雑貨屋だと思って覗いてみたら君がいた」 


ロベルトはアニーの買い物籠に目を向ける。


「アニーは買い物?」

「家のものを買いに、少し」

アニーは買い物籠を隠すように背中に追いやった。二人の間に沈黙が流れる。また会えるとは思いもしなかった。店に来ることもないと思っていたから。きっぱり諦めたはずの心が再び鳴り始める。相変わらずイヤリングはゆらゆらと揺れていた。
沈黙はロベルトが破った。


「何見てたの?」

「あ、えっと…この…」


こんなにも高級なイヤリングを自分のような庶民が見ていたなんて知ったら彼はどう思うだろう? 急に卑屈な気持ちになったアニーは先ほどまで見つめていたイヤリングを指さすことしかできなかった。


「珍しい形だ。外国製かな? 綺麗だね」


アニーの隣に並んでロベルトもイヤリングをまじまじと見た。香水だろうか。ほのかにシトラスグリーンの爽やかな香りがした。アニーの体が固く緊張した。


同時に自分が美しいと思ったものをロベルトも同じように美しいと思ってくれたことに嬉しくなった。


二人でイヤリングを見つめる。先ほどよりも少し緩やかな雰囲気が流れたような気がしてアニーの体が少しだけ緩む。ロベルトはイヤリングを見つめながら続けた。


「実はさっき店に行ったんだ。でも君はもういなくてね」

「来てくださったんですね。今はお昼休みで…あっ」


ロベルトが店に来てくれたことに喜びを感じたのもつかの間、昼休みという言葉に意識が現実に引き戻された。思い切り背伸びをして、ここからかろうじて見える広場の時計塔で時間を確認した。まずい急がないと休憩が終わってしまう。


現実に戻ってきた瞬間、アニーの頭の中が歪み始め不安と心配が全身を駆け巡った。
体から汗がにじむ。


おばあちゃんは無事だろうか?
お父さんが暴力を振るっていたらどうしよう。おばあちゃんは動けないから助けを呼ぶこともできない。


それともお腹を空かせて具合が悪くなっているかもしれない。
そうなったらアニーのせいだ。
ぜんぶぜんぶ寄り道していた自分のせいだ。


頭の中から声がする。男と女の声だ。

"お前のせいだ"

"役立たずで愛想もない"

"なんで私が育てないといけないの?"

"俺がなんでこいつに金を出さなきゃいけないんだよ"


一度声が駆け巡るとなかなか止まってはくれない。不安げなアニーの視線は家路の方へ真っ直ぐと向いた。


「ごめんなさい、失礼します」


アニーはロベルトの横をすり抜けると走り出した。ロベルトが何が言った気がしたが立ち止まる余裕はなかった。





◇◆◇◆◇◆





ロベルトは突然走り出したアニーに不意をつかれて出遅れてしまった。彼女を呼び止めたが小柄な体が人混みの中を走り抜けていく。


追いかけたい。


そう思うか思わないかの間にロベルトはアニーを追いかけていた。しかし市場の人混みに慣れておらずなかなか追いつけない。一方でアニーはものともしないように人々の間をすり抜けていく。
結構たくましいんだな。と口元がゆるんだが、そんな場合ではないと惚けてる自分を叱咤した。


彼女を追いかけて、もう一度話をして…。
客と店員以外なら何でもいい。何か新しい関係性を築きたい。友人でも、知り合いでも、話し相手でもいい。


そうでなければまたすれ違ってしまうような気がした。それほど自分たちを繋ぐ糸はまだ脆い。この糸をこのまま綻ばせたくはなかった。


もう一度彼女の名前を呼んだ。


「アニー!待って!」


思いのほか大きな声だったのだろう。周辺の人々がちらちらとこちらを見ていたがもはや何も気にならなかった。とにかくあの子が立ち止まってこちらを向いてくれるなら何でもよかった。


声はアニーには届かずついに人混みに紛れて見えなくなってしまった。


立ち止まって辺りを見回していると、目の前の露店の女主人が大きな声でロベルトに声を掛けた。


「オレンジ色の髪の子だろう? 市場の入口の方までまっすぐ行ったよ」


市場を走る若い男女は目立ったのだろう。
ロベルトが誰を追いかけているのか一部始終を見られていたらしい。普段なら女性の名前を大声で叫びながら走り回る真似など絶対にしない。そんなことをした日には穴を掘って永遠に眠ってしまいたいが今日は違う。諦めかけそうだった心がまだドクドクと脈打ち始めた。


「マダム、感謝します」

「あの子の走りっぷりときたら。まるでシンデレラみたいね」


女主人はそう言って大笑いしながら"さっさと行きな"と言いたげにロベルトにひらひらと手を振った。
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