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五話-03

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「池にそんなに近づくと、落ちますよ」

 広い庭園の太鼓橋から、下の池を見下ろしていたら急に声をかけられた。真っ黒な着物に薄い羽織、金銀の複雑な紋様の入った細い布が肩から衿のように垂れている。それが水に映るオレの長い耳の後ろにゆらゆらと映ってきたので、ふと顔を上げた。

 また黒髪に黒目の人間だ。常に笑っているような顔の、大きな男がオレの側に立っていた。
 ここには大きな男しかいないのだろうか。それともオレの身体がここの住人に比べて小さいのか?
 
「何を見ていたのですか。鯉なら手を叩けばやってきますよ」
「いや、落ちたら死ぬかなと考えていた」

 そう答えたら、脇を持たれてひょいと担がれ、橋のフチから離されてしまった。

 とん、とん、と大きな手で背を叩かれて、子どものようにあやされているのが判る。でもどれだけ暴れても逃げられそうにない強い腕だった。着物から覗く二の腕が、冬青に近いくらい逞しいのだ。オレの棒きれのような腕とは比べものにならない。

「何故死ぬかと考えたのですか」
「死にたかったからだ」
「……何故ですか。貴方は冬青殿の眷族でしょう。何かお辛いことでも?」

 担がれていたのに突然縦抱きに移動させられ、顔を覗き込まれた。くっきりとした眉は細めで、冬青よりもきぬの雰囲気に近い人間だった。

 しかし体格はかなり立派で逞しく、着物の下の硬い筋肉がごつごつとぶつかってくる。でもこういう身体は温かいので、くっついているのは好きだ。

「今は、何も辛くはない」
「いまは?」
「オレは汚れた半妖だから、早く死ぬしかないんだ」
「……」
「何故?という理由はない。半妖だから、死ななければならない」

 当たり前のことだと、そうきっぱりと言う。すると相手はぎゅっと顔を顰めた。綺麗に弧を描いていた眉が顰められると怒っているかのように見える。

 ぴくっとオレの身体が無意識に身構えた。
 不機嫌な者の側にいると、だいたい八つ当たりで酷い目にあっていたので、条件反射だ。この人間は、どうだろう。苛立ちに任せて手近な半妖をいたぶるだろうか。

「……価値観の違いかもしれませんね」
「かち」
「そうです。妖魔の里ではそう言われていたんですね?それは、判りました。ですが、この屋敷では……いえ、人間の住まう世界では違います」
「……?」
「半妖は、神にも等しい尊い存在です。偶然にでも出会ったら保護して慈しみ、大事に大事に奉り、我らが慈悲を乞いここにいてくれとせがむほどの存在なのですよ」
「……」
「おや、信じられませんか?事実、貴方の母君だというクズノハは女神のような扱いでしたよ。彼女が残した半妖の子ども達も、各家門の始祖となり大きく奉り上げられた。半分とはいえ妖魔の血を引く特別な存在、彼らは『半神』と呼ばれていました。彼らの作った術や武器の基礎が、今の私達を支えています」

 口を開けたまま硬直したオレを見て、男はふふっと穏やかに笑った。肩につくくらいのまっすぐな黒髪が、さらさらと揺れている。

「これでも説法、……いや相談事を聞くのは得意なんです。私でよろしければいつでもお悩みを聞きますよ」
「な、なやみ……?」
「ええ。死にたいなどと思わなくなるよう、手を尽しましょう」
「……」

 死にたいと思わなくなる?そんな事できるだろうか。
 ここ十年近くずっと抱えてきた望みだ。そう簡単に手放せるわけがない。

 じ、と疑りの目で見つめていたらまた男が笑った。

「吸い込まれてしまいそうな瞳ですね。あまり見ないでください。手を出してしまいそうです」
「……おまえ、だれ」
「これは申し遅れました。エンジュ、と申します。えんじゅと書きます。……お気づきですか、この家の血を継ぐ者は全て植物の名を頂きます。遠くクズノハがこの地を訪れた時から、そう決められてきました」
「えん、じゅ」

 あれです、と抱き上げられ庭木のひとつを指さす。そこには細かな白い花を咲かせる背の高い木があった。

「そよごは」
「冬青はあちらです。あの大きな」
「……わ」

 きょろきょろしていたら、エンジュがその木の近くまで抱いて行ってくれた。冬でも葉が茂っているというその木は、赤い実を付けるのだという。見てみたいな、と思いながら垂れ下がる枝の葉に手を伸ばす。

「ハル!」

 焦ったような冬青の声が聞こえて、ビクッと手を引いた。

 え、え、と周囲を見回して自分の咎を探す。鬼族の女は執拗な性格で、何が悪かったかと答えを教えてくれず叱ることがあった。自分で何が悪かったか考えろと言われ、ただただ全てを謝った。

 生きている事から息をしていること、つらくて泣いてしまったこと、苦しい呻き声をあげてしまったこと、あらゆることを謝った。
 地面に額を擦り付けて何度も何度も謝った。

 今は、……何から謝ればいいだろう。ガタガタと震えて手を引っ込めた。
 この木だろうか、冬青と同じ名前の木に触れようとしたから怒っているのか?

「冬青殿、まずはその殺気を鎮めなさい。大事な御方が怯えて震えていますよ」
「……ハルを返してくれ」
「まずは落ち着きなさいと言っている。そんな刺々しい気配の人間に半神様をお渡しできません」



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