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第二章 ツギハギ(38)
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冷たいが不愉快には思えない手が背中を滑る度に、吐き気が落ち着いてくる気がする。
沖田は何度かの嘔吐の後、ようやく汚れた手を口元から遠ざけることができた。
酷い臭いに胃の底が波立つが、外に吐き出せるものはもう何も残っていない。
こんな姿を見られたら、また叱られてしまう。
沖田は姉を思い出す。生まれつきあまり体の強くなかった彼が寝込む度、「みっともない、情けない。」と叱責されたことを。
熱に浮かされ泣いた時も、気分が悪く吐いた時も、姉は決して許してはくれなかった。 思い出された冷たい眼差しに、胸がチクチクと痛み出す。
片付けないと……。
俯いたまま沖田は懐から手拭いを取り出そうとした。
「あ、色んなとこ触るんじゃねぇよ。」
氷のような手が、吐いた物で汚れた幼い手をすかさず掴む。
「ほら、こっち向け。」
顔を上げきる前に、吐瀉物のついた口に手拭いがあてられる。
「じっとしてろよ。」
皮膚がめくれる不安を抱く荒々しい手つきで、鈴音は沖田の口元を鼻から頬も含めて拭う。
同じ手拭いで伸ばすように拭かれたため、吐いた物の臭いが、顔中から漂っている感覚になる。
沖田は眉を下げると、勢いよく頭を後ろに仰け反らせ、鈴音の手を振り切った。
「おいっ。」
鈴音は脱走した顔が戻るのを待つが、中々戻らないため、舌で音を立てると握っている童の手を拭き始める。
先ほどより痛みを感じないため、沖田はゆっくり顎を引き、顔を正しい位置に戻す。
ぼろのような手拭いで、女は顔を拭いてやった時よりも丁寧に、沖田の手を拭っていた。
「こんなもんか。」
臭いだけ残った小さな手を離すと、待ちぼうけをくらっていたもう片方の手が伸ばされてくる。
鈴音はその手を汚れごと握ると、先刻と同じように汚れを手拭いに吸わせていく。
沖田は微量になった擦れる痛みとくすぐったさを覚えながら、鈴音をじっと見つめている。
自分の汚れを片付けてくれている。
姉は片付けるどころか手拭いすらも出してくれなかった。
姉のように口を開かず無口であるが、鈴音の側に居ることは居心地が良く思える。
それは小言を言われたり叱責されないということだけでなく、もっと別の根本からの違いが、そんな風に感じさせるようであった。
体温の感じられない温かな手が、小さな手を離そうとする。
掴んでみたい。
滑るように落ちていく童の手は、形の良い手を握ろうとしたが、機会が合わずそのまま遠退いてしまう。
悲しくもある。
離したくないとも思う。
だが、再び手を伸ばす勇気は沖田の心に起こらない。
「っしょっと。」
彼の吐瀉で汚れた手を、鈴音は吸水性の悪くなった手拭いで、挟むように拭き取る。それは沖田にしたのと同じように丁寧さに欠けた。
皮膚の中まで見えてしまいそうな透明度のある白が、摩擦で赤みを帯びる。
彼女は用が済んだ手拭いを畳に叩きつけるように置いた。
汚れた畳と布団は自分で拭けということだろうか。
姉に染みこまされた習慣通り、残りは自分で片付けようと、丸まった手拭いに手を伸ばそうとしたとき、体が宙に持ち上がる。
見れば脇の下に鈴音が手を差し込み、自分を掲げながら、同時に立ち上がっていく。
完全に膝を伸ばしきると、彼女は沖田を腕の中に抱き込んだ。
まん丸な目を見張った沖田の視線に気付くと、鈴音は何かを探しながら独り言のように話す。
「今拭いて洗ったって、すぐ干せる訳じゃねぇんだから、ほっときゃ良いんだよ。
朝晴れてたら、洗って干しゃ良い。
でも、干してもすぐ乾かねぇかなぁ。
こんな時期じゃ、やんでてもまた降るだろうし。」
沖田は鈴音の肩越しに外の雪を見る。先刻まで緩急を知らなかった雪が、今は間延びをしたようにゆるやかに落ちてきていた。
きれいだなぁ……。
ほんの少し、庭に月明かりが射す。
灰色の雲の間に間から覗く月の光が庭と雪を照らしている。濃い黒に鼠がかった薄明るい色味の世界。くすんだ庭石、緑の柊や枯れた草、冬になると咲く名も分からぬ雑草のような花。
見るものが白に包まれた世界。真っ白な清い世界。その真の姿を照らす細々とした月光。 存在する全てが相俟(あいま)った美しさ。
沖田はもっと見たいと、さらに顔をのぞかすために鈴音の肩にしがみつく。
「あ。」
童は握った肩口の着物を掴んだまま顔を上げる。
「あった、あった。」
お目当ての物を発見した鈴音は、部屋の角に向かいそれを手に取った。
広げられる近藤の褞袍。
それは壬生寺の境内で、鈴音が沖田に羽織らせたものであった。
あの後返す間もなく畳んで部屋の隅に置いていたのを童は思い出す。
そのことを伝えなければ。
身を乗り出そうとした彼の肩にふわりと何かが被さる。
鈴音が広げた褞袍を沖田の背に掛けたのだ。彼女は、そのまま彼を頭からくるむように褞袍を被せ、その前をしっかり合わせては、よいしょと持ち上げて童を抱き直す。
着物越しにも伝わっていた鈴音の冷たい体や手の境に、綿の入った反物が加わると、童は何となく寂しさを感じた。それを感じきらないでいられたのは、彼女が沖田を抱き支える手や腕に力強さがあったからだ。
童はさりげなく、褞袍から頭をはみ出させ女の肩にそれを預ける。
冬の風のせいだけではない冷たさを、耳や頬、頭に感じる。
はっきり言えば、それは寒さを増長させる行いであった。大人の丈で見繕われた褞袍なのだから、すっぽり頭からそれに包まれ暖を取る方が暖かい。
だが沖田にとっては、その得も言われぬ冷えた心地が暖を取るよりも欲しく思えた。
自分の意志もないのに体が勝手に部屋を移動する。
体が傾いたかと思うと鈴の音が何度か鳴った。置いていた刀を鈴音が手に取ったのだ。
そのままゆっくり景色が流れていく。
隔たりのない世界に出ると冷たい風が全身を襲う。
廊下に出た鈴音は庭に降りるため草履を探すが見当たらない。室内を走って沖田の部屋へきたのだから、元より草履など庭に置いてあるはずはない。ないのであるが、上がりかまちの側には、ずぼらな誰かが置き去りにした履き物が、主人を待ちぼうけしていることが多くある。
彼女は、それをあてにしてみたのだ。
だが期待が外れた鈴音は、特に気にすることもしない。
素足のまま庭に降り立った。
踏みしめる白は彼女の重みで崩れていく。
小ぶりな足跡が白色の世界に形を残すが、少し経てばその痕跡は消えていく。
誰もいない。
誰も踏み入れてはいない。
降りしきる雪は、人の穢れを消していく。
人そのものまでもを白き腕が包んでいく。
その存在を許さないかのように、異物を包んで攫ってしまおうとする。
どれだけ強く踏み残そうが、無力のままに失われていく。
後から後から消えていくそんな足形に、見下ろしていた沖田は身を縮ませた。
部屋に戻りたい。
そう思うが、それはこの場所から出るということに繋がる。
沖田は頭を擦り付けるように鈴音を見上げる。
この寒さに顔を赤らめることもなく、素足が雪に沈んでも、顔を歪めることもない。
ただ前を無表情に見つめ雪の中を歩いている。
全てを消し去ろうと降る雪に、怯むことのない真っ直ぐな瞳。
沖田は何度かの嘔吐の後、ようやく汚れた手を口元から遠ざけることができた。
酷い臭いに胃の底が波立つが、外に吐き出せるものはもう何も残っていない。
こんな姿を見られたら、また叱られてしまう。
沖田は姉を思い出す。生まれつきあまり体の強くなかった彼が寝込む度、「みっともない、情けない。」と叱責されたことを。
熱に浮かされ泣いた時も、気分が悪く吐いた時も、姉は決して許してはくれなかった。 思い出された冷たい眼差しに、胸がチクチクと痛み出す。
片付けないと……。
俯いたまま沖田は懐から手拭いを取り出そうとした。
「あ、色んなとこ触るんじゃねぇよ。」
氷のような手が、吐いた物で汚れた幼い手をすかさず掴む。
「ほら、こっち向け。」
顔を上げきる前に、吐瀉物のついた口に手拭いがあてられる。
「じっとしてろよ。」
皮膚がめくれる不安を抱く荒々しい手つきで、鈴音は沖田の口元を鼻から頬も含めて拭う。
同じ手拭いで伸ばすように拭かれたため、吐いた物の臭いが、顔中から漂っている感覚になる。
沖田は眉を下げると、勢いよく頭を後ろに仰け反らせ、鈴音の手を振り切った。
「おいっ。」
鈴音は脱走した顔が戻るのを待つが、中々戻らないため、舌で音を立てると握っている童の手を拭き始める。
先ほどより痛みを感じないため、沖田はゆっくり顎を引き、顔を正しい位置に戻す。
ぼろのような手拭いで、女は顔を拭いてやった時よりも丁寧に、沖田の手を拭っていた。
「こんなもんか。」
臭いだけ残った小さな手を離すと、待ちぼうけをくらっていたもう片方の手が伸ばされてくる。
鈴音はその手を汚れごと握ると、先刻と同じように汚れを手拭いに吸わせていく。
沖田は微量になった擦れる痛みとくすぐったさを覚えながら、鈴音をじっと見つめている。
自分の汚れを片付けてくれている。
姉は片付けるどころか手拭いすらも出してくれなかった。
姉のように口を開かず無口であるが、鈴音の側に居ることは居心地が良く思える。
それは小言を言われたり叱責されないということだけでなく、もっと別の根本からの違いが、そんな風に感じさせるようであった。
体温の感じられない温かな手が、小さな手を離そうとする。
掴んでみたい。
滑るように落ちていく童の手は、形の良い手を握ろうとしたが、機会が合わずそのまま遠退いてしまう。
悲しくもある。
離したくないとも思う。
だが、再び手を伸ばす勇気は沖田の心に起こらない。
「っしょっと。」
彼の吐瀉で汚れた手を、鈴音は吸水性の悪くなった手拭いで、挟むように拭き取る。それは沖田にしたのと同じように丁寧さに欠けた。
皮膚の中まで見えてしまいそうな透明度のある白が、摩擦で赤みを帯びる。
彼女は用が済んだ手拭いを畳に叩きつけるように置いた。
汚れた畳と布団は自分で拭けということだろうか。
姉に染みこまされた習慣通り、残りは自分で片付けようと、丸まった手拭いに手を伸ばそうとしたとき、体が宙に持ち上がる。
見れば脇の下に鈴音が手を差し込み、自分を掲げながら、同時に立ち上がっていく。
完全に膝を伸ばしきると、彼女は沖田を腕の中に抱き込んだ。
まん丸な目を見張った沖田の視線に気付くと、鈴音は何かを探しながら独り言のように話す。
「今拭いて洗ったって、すぐ干せる訳じゃねぇんだから、ほっときゃ良いんだよ。
朝晴れてたら、洗って干しゃ良い。
でも、干してもすぐ乾かねぇかなぁ。
こんな時期じゃ、やんでてもまた降るだろうし。」
沖田は鈴音の肩越しに外の雪を見る。先刻まで緩急を知らなかった雪が、今は間延びをしたようにゆるやかに落ちてきていた。
きれいだなぁ……。
ほんの少し、庭に月明かりが射す。
灰色の雲の間に間から覗く月の光が庭と雪を照らしている。濃い黒に鼠がかった薄明るい色味の世界。くすんだ庭石、緑の柊や枯れた草、冬になると咲く名も分からぬ雑草のような花。
見るものが白に包まれた世界。真っ白な清い世界。その真の姿を照らす細々とした月光。 存在する全てが相俟(あいま)った美しさ。
沖田はもっと見たいと、さらに顔をのぞかすために鈴音の肩にしがみつく。
「あ。」
童は握った肩口の着物を掴んだまま顔を上げる。
「あった、あった。」
お目当ての物を発見した鈴音は、部屋の角に向かいそれを手に取った。
広げられる近藤の褞袍。
それは壬生寺の境内で、鈴音が沖田に羽織らせたものであった。
あの後返す間もなく畳んで部屋の隅に置いていたのを童は思い出す。
そのことを伝えなければ。
身を乗り出そうとした彼の肩にふわりと何かが被さる。
鈴音が広げた褞袍を沖田の背に掛けたのだ。彼女は、そのまま彼を頭からくるむように褞袍を被せ、その前をしっかり合わせては、よいしょと持ち上げて童を抱き直す。
着物越しにも伝わっていた鈴音の冷たい体や手の境に、綿の入った反物が加わると、童は何となく寂しさを感じた。それを感じきらないでいられたのは、彼女が沖田を抱き支える手や腕に力強さがあったからだ。
童はさりげなく、褞袍から頭をはみ出させ女の肩にそれを預ける。
冬の風のせいだけではない冷たさを、耳や頬、頭に感じる。
はっきり言えば、それは寒さを増長させる行いであった。大人の丈で見繕われた褞袍なのだから、すっぽり頭からそれに包まれ暖を取る方が暖かい。
だが沖田にとっては、その得も言われぬ冷えた心地が暖を取るよりも欲しく思えた。
自分の意志もないのに体が勝手に部屋を移動する。
体が傾いたかと思うと鈴の音が何度か鳴った。置いていた刀を鈴音が手に取ったのだ。
そのままゆっくり景色が流れていく。
隔たりのない世界に出ると冷たい風が全身を襲う。
廊下に出た鈴音は庭に降りるため草履を探すが見当たらない。室内を走って沖田の部屋へきたのだから、元より草履など庭に置いてあるはずはない。ないのであるが、上がりかまちの側には、ずぼらな誰かが置き去りにした履き物が、主人を待ちぼうけしていることが多くある。
彼女は、それをあてにしてみたのだ。
だが期待が外れた鈴音は、特に気にすることもしない。
素足のまま庭に降り立った。
踏みしめる白は彼女の重みで崩れていく。
小ぶりな足跡が白色の世界に形を残すが、少し経てばその痕跡は消えていく。
誰もいない。
誰も踏み入れてはいない。
降りしきる雪は、人の穢れを消していく。
人そのものまでもを白き腕が包んでいく。
その存在を許さないかのように、異物を包んで攫ってしまおうとする。
どれだけ強く踏み残そうが、無力のままに失われていく。
後から後から消えていくそんな足形に、見下ろしていた沖田は身を縮ませた。
部屋に戻りたい。
そう思うが、それはこの場所から出るということに繋がる。
沖田は頭を擦り付けるように鈴音を見上げる。
この寒さに顔を赤らめることもなく、素足が雪に沈んでも、顔を歪めることもない。
ただ前を無表情に見つめ雪の中を歩いている。
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