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第二章 ツギハギ(32)
しおりを挟むこの味噌汁の味が失われたら、明日はどうなるのだろう。
斎藤は掌に乗せたままの濁った汁を眺める。
どうにもならず、今日の朝餉までの状態に戻るだけか。
いや……戻るのだろうか。
一度、この味を知ってしまったというのに。
これまでと同じように遠回しの小言だけで済ませてくれるのだろうか。
一人は確実に無理である。
半泣きになりながら食事を再開している永倉を一瞥した。
他の者も気を遣ってはくれるだろうが、きっと隠せない渇望が滲み出てしまう。それが今まで以上に広間の空気を重くしてしまうような、そんな気しかしなかった。
忘れかけていた胃の痛みが蘇る。
ちりちりとする痛み。
弱ったところを見透かした二本目の黒い手が、斎藤の空いた肩に手をかけた。
腹の底で蠢きはするが、ついぞ姿こそ露わにしていなかった、もう一方の手である。
頼めば良い……。
斎藤の目がじろりと鈴音を捉える。女は何を考える素振りもなく、時たま沖田を見やっていた。
別段童に声をかける訳でもなく様子を確認すると、適当に視点の置き場を見つけて定めている。
近藤に何かしらの圧をかけられているのを目視で確認はした。
察するに沖田関連のことか。
斎藤は監察するようにじっくり鈴音の周囲を見つめる。彼女のまわりには何も置かれていない。
近藤の圧で腰を下ろしたからといって彼女の前に膳が運ばれてくることはなかった。
鈴音用の膳は斎藤が連れの女のものと一緒に部屋へ運んだ後である。
当番である彼は取りに行こうかと考えもしたが、食事を取る皆の反応を見たくて仕方がなかったため、それに気付かないふりをしていた。
近藤も膳は運ばれてくるものであろうと思い込んでいるようで何も指示をせず、気付けば山南と楽しそうに食事を行っている。
手持ち無沙汰であるものの、彼女はそれを指摘することをしなかった。
視線を彷徨わせたり、袂の角を伸ばしたり縮めたり、時には沖田の様子を窺ったりと、食膳がないことをとりわけ気にしているようではない。
無関心、いや、無興味なのであろうか。
はっきりとしたことを思えるほど鈴音のことを知らない斎藤ではあったが、あまり細かなことを気にしない性格であることは何となく知れていた。
そんな鈴音に明日も食事の準備をさせれば、同じように上手く作ってくれるであろう。斎藤は昼間の記憶に算段を重ねた。
重ねはするが、すぐさま別の考えが頭をよぎってくる。
いや……しかし、あの女は副長の小姓……。
俺が勝手に用事を言いつけて使って良いものではない。
それが妖物に関することであればまだしも、そうではない。誰もがそれなりにこなしている飯当番である。他の大勢ができることを誰かに委ねたとなれば聞こえも悪い。
当初は体面だけ、名ばかりの小姓ということであったが、実際そうではなくなっている。
その場しのぎで宛てがったものではあるが、小姓の存在というものをそれなりに気に入ったのだろう。
土方は鈴音にできそうなことを見つけては申しつけ、何かと自身の務めを手伝わせていた。
これを協力関係を結んで日の浅い相手が、信用に足るかを探るための行いだと考えることもできる。
だがそれをするには、もっと効率が良く確実な方法が幾つもあり、わざわざ墨をすらせたり書状を片付けさせたりと、時を使うような慎重さを用いることではない。
斎藤は、余計に鈴音を使いにくく思えた。
思えはするが腹の底からわき出たままの二本の腕(かいな)は、彼の肩を揺さぶり頬を撫で付けてくる。
副長達に悟られないように上手くできる方法もあるのではないか。
そうすれば、俺の料理が一番上手いことになる。
心地の良い腕の感覚が、思考を黒い脇道に導いていこうとするが結果として私欲の多い選択で、周囲を謀ったことが発覚するのを思えば、足の動きも遅くなる。
土方の言う飯などというくだらないことのために、多くの眼に見張られた白日に引きずり出され、一生の汚名を着せられることを考えれば、足は自然と止まった。
黒き腕は怯みを見せながらも、斎藤の後ろ髪を撫で付けて一縷の望みにかけている。
そもそも、俺は侍、武士なのだ。
誉れ高き武士、潔白なる潔い道を進みいくのが武士。
新選組の御旗に掲げた『誠』に背くことは、侍として死んだも同然。
斎藤は己の未熟さを恥じた。
自利のためにごまかしを行おうと考えるなど、この新選組にあってはならない。
今回のこと、正しく説明せねば。
斎藤が椀を戻すと勢い余って跳ねた汁が、漆塗りの剥げた膳の木目に染みていく。
彼は意を決し、近藤の方へ向けて顔をあげる。
しかし、そこには誰の姿も見られない。近藤どころか山南の姿もない。
斎藤は慌てて辺りを見回す。
広間には藤堂以外誰も残っていなかった。
長い思案の海を漂っている間に、皆食事を終えて戻るべき場所に戻ったのであろう。
食べ終わりが誰よりも遅い斎藤を、いつも待っていてくれる藤堂が困ったように笑っている。
侍の道に戻り損ねた斎藤は、静かに食事を再開させた。
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