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第二章 ツギハギ(30)
しおりを挟むどこの医者の家が近いだろう。
そんなことを考える男達を置いて、永倉の口元から汁椀が遠退くのにあわせて感嘆の息が吐かれる。
言葉は何もない。
ただ息が漏れた後は、糸のように細められた目が明後日の方に向けられている。
「あ、あの……大丈夫ですか……。」
藤堂が心配のあまり声をかける。
「新八。
山崎、呼んでやろうか。」
永倉と特に仲の良い原田は、彼の隣に座っている。物言わぬ不思議な面持ちの男を見ながら、山崎の居所を頭に巡らす。
敵の根城や町に身を潜め情報を聞き出す隠密役でありながら、医の道に関する知識も持つ山崎であれば、永倉の身に何事かが起きても対処してくれるであろう。
役職柄、その居場所はあまり知られていないことも多く、原田はすぐに山崎の所在に見当をつけられないでいた。
だが、土方であれば分かるであろう。
事は重大と化すかもしれない。
外にいるのであれば、急ぎで呼び戻した方が良いだろう。
原田が神経の太い友のため、土方に声をかけようとした際、その肩がぐっと掴まれる。
横を見れば永倉である。
「どうした……新八……。
川でも見えんのか。」
「左之助……。
たいへんだ……。
左之助……。」
汁椀を持つ手が震え、汁が揺れている。
「しっかりしろ。
なぁ、土方さん、山崎を……。」
事の顚末を見守る多くの眼玉に囲まれながら、無鉄砲な男は緊張感を含んだ声音で、どこか厳かぶっては一言ぽつり。
「うめぇ。」
「へ。」
予想もしていなかった言葉に原田は間抜けな応答をするが、それを見向きもせずに永倉は汁椀に顔面を突っ込んだ。
そうして中身を忙しく箸で口に滑らせていく。
咀嚼の合間合間に、
「たまんねぇ。これはたまんねぇ。」
と独り言を漏らす様子に、一同は呆気に取られ、当事者の一人である斎藤に視線を送る。
料理番の表情は僅かに弛んでこそいるが、その面持ちはいつもと変わらずどこか固さを残したままであった。
ただ、細められた瞼の隙間から見える瞳は、どことなく悦に入ったような色味を帯びている。
これが永倉以外の誰かの言動であれば、疑いが行動を止めはしなかったのであるが、味に感極まっている相手が相手なため、誰も後に続こうとはしない。
得体の知れぬ状態であるから、怯えも増す。
何だかよく分からない状況のなか、踏み切れない男達をそこへ残し小さな侍は味噌汁を口に含んだ。
そんな勇敢な侍の名を呼び止める声もあったが、沖田は気にもとめずに汁を口中に広げた。
昼頃から消えずにいた好奇心が彼を突き動かしたのだ。
子供らしい丸みを帯びた頬がしぼみ、まだ主張をしていない喉仏が、ごくんと波打つ。
小さな唇が開かれた。
そこから吐き出される息は喜悦に満ちている。味を判断する部位と、それを最終的に受け入れる袋からの指示に従い、自然とついた息であった。
好奇心の裏側にある気持ちが胃に流されてしまえば、それをせき止めるものは何もない。
少年はがむしゃらな男に倣うように、椀の中に顔を納めた。
「どうやらいつもとは違うようだね。」
冷静に思考を巡らせていた山南は、椀に手を伸ばす。
「では頂いてみようかな。」
眼鏡の奥で半月に弛んだ目は、やおら汁椀の中に隠れていく。
その月が次に顔を出したとき、多くの者が椀に手をかけた。
そうすることを抑える必要が無い。
山南はそれを促すような面持ちになっていた。
元から柔和な顔つきの男ではあるが、慈愛に満ちた笑みを漆塗りの中に向けているのだ。
理知的な総長に、常ならば世知賢い沖田。この二人が膳に椀を戻さないことは、太鼓判を押したのと同じことである。
波立つ好奇心が押し寄せないよう、傍観者のフリを決めていた者立ちが、自身の椀を掴みその中身を口に運ぶ。
黒光りする円弧をいそいそと唇にあてる者もいれば、おずおずとあてる者。
三者三様な汁椀との対峙であるが、その後の言葉はおかしなほどに皆揃ったものである。
斎藤は堪えきれず綻ぶ。
表情を崩さぬように維持しようと、口端を外側に引いていく力に抗ってはいたが、大差で敗北となった。
侍が一喜一憂を表に見せるなど恥ずべき事と心得ている斎藤ではあるが、このことに関しては表情を隠して喜ばずにはいられない。
彼からすれば、それほどまでにも苦悩している隊務であったのだ。
だから今日くらいは。
そう自身を許してやってはみたものの、完全に喜びきれていない僅かな隙間から、二つの影が手を伸ばしてくる。
そもそも味噌汁は斎藤が作ったものではない。具材こそ切りそろえ、鍋に入れるには入れたが要の味付けをしたのは鈴音である。
皆は、努力が実った、成せば成る、天変地異の前触れだ、と口々に褒めながら汁をすすっているが、その実のところに気付いていない。
自身の手柄にしたいという感情が一分もない訳ではないため、斎藤はこのまま黙ってやり過ごしたい気分でいた。
黙止ておれ。
黒い囁きが耳元でこだまする。
鈴音の方を見ても、この沸き立つ広間の中に昼間のことを主張しようという素振りはみられない。
それどころか勝手場であったことすら覚えてはいないのではないかと、疑いたくなる雰囲気で沖田の後ろに座っている。
加えてもう一人の目撃者も平生であれば丁寧な言葉で嫌味を述べたり、こちらを弄んでくる発言をするところであるが、今はそんな状態ではない。
椀を小刻みに傾け、ちびちびと美味な汁をすすっている。
手前一人で熟させられずにいた果実を、他者が勝手に熟れたものに挿げ替えてくれたのだ。
人間なら誰しもが飼い育てている黒い妖物が、にやにやと笑みながら斎藤の耳元に息を吹きかける。
だが、やり過ごしたところで明日はどうなるであろう。
今日のことを自身の結果にしたからといって、明日からの調理を上手くやり遂げる気概はない。
鈴音は味を調節しながら作れば良い、というようなことを言った。
その時は、確かに、そうだった、と合点し一人胸中で喜びの舞などを披露した。
しかし、斎藤。
舞終わった後にはたと気付く。
そもそも味付けにこだわりを持てないのだから、調節そのものができないということに。
できたもの、だされたものを黙って食す。
どのようなものであれ、それらしい顔で黙って食す。
武士としての潔さを拡大解釈し、あらゆることに利かせている斎藤からすれば、仕上げたもの、完成したそれを食うべきという強い拘りを持っている。
そんな頭の固さが、この問題への解決策を一気に封じ、結果として振り出しに戻ってしまっているのであった。
一本の黒い手が斎藤の肩を掴み揺さぶるなか、歓喜にざわめいていた広間に、悲嘆の色が混ざり出す。
「味噌汁以外、不味いな。」
原田が怪訝そうな顔で、残り僅かな汁に飯を投げ入れる。
「最後の一口に味噌汁を取っておいたが、こんな炊けてないような飯、そのまま食ってらんねぇ。
新八、お前もこうしろよ。」
隣の永倉を見ると、たいそうに頭を抱えて天井を仰いでいる。その姿を見ていると、博打打ちが、身銭を失い店からでてくる姿が思い出された。
永倉が全身で悲壮感を表現している理由を、原田は何となく察しがついていたが、一応尋ねてやる。
「新八……。
どうしたんだ。
聞くまでもねぇが……。」
その問いを待っていましたとばかりに悲劇の男永倉は、原田の肩を鷲づかみにする。
「左之助……。
汁を、味噌汁を……ほんの少しわけてくれっ。」
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