連続殺人は一石四鳥

東山圭文

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連続殺人は一石四鳥

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■8■


 調査の前に桜葉探偵事務所に寄ると、潤也はソファー兼ベッドの上でまだ毛布を掛けて横になっていた。勇治の声で起き上がると、いきなり食って掛かってくる。
「お前、昨日、ずっと家に帰らなかっただろ?」
「えっ、まあ、そうなんだけど……」
 潤也の剣幕に勇治はまごつく。まるで狙っていた獲物を横取りされたような怒りの顔だ。
「どこに行っていた?」
 もちろん大田久美の部屋に行って、肉食獣のように肉を食べて……なんて本当のことなど話せるわけがない。潤也から行くのを禁止されている。さらに潤也が失恋してしまい、潤也の怒りを買ってしまった勇治の調査員という職を失ってしまうかもしれないからだ。
「あ、サウナに行っていた……」
「サウナ?」
「ああ。桜葉から二万も借りられたから、久しぶりに行ったんだ」
「ふ~ん。そうか。だとしたら俺と会わないのもおかしいな。お前が出たあとで十分もしないうちに、俺も行ったのだが?」
 まずい。完全に見抜かれている。このままでは潤也の失恋は仕方ないとして、勇治は職を失ってしまう。もともと優等生だった勇治は、優秀な頭脳をフル回転して、良い言い訳を思いつく。
「桜葉って、いつものサウナに行ったんだろ?」
「ああ。そうだが」
 これでうまく誤魔化せる、と勇治は嘲(あざ)笑う。
「俺、最初は真っすぐ家に帰ろうと思っていたんだけど、駅まで行ったときに気が変わって、サウナに行こうと思ってさ。そしたらいつものところに戻るのも面倒だから、そのまま西口に出て、そっちのサウナに行ったんだよ。だから会わなかったんだな」
 いつものサウナは事務所から近い東口にある。そこはカプセルホテルやレストランも併設されていて給料日の後はよく行くのだが、西口のサウナにはまだ行ったことがない。だけれどもあることは勇治も知っていた。潤也も行くのは決まって東口のサウナだ。
「なるほど。それでお前、昨日と同じ格好か?」
「ああ。そうだよ。起きたら時間ギリギリで、家に帰らず直接ここに来たから」
 これは嘘ではない。起きた場所がサウナのレストルームではなく、久美のベッドの上だったけれど。
「そんな格好で昨日ならともかく、今日は暑くないか。今日は三月の最高気温と同じとかで、けっこう気温が上がるみたいだぞ」
 勇治は昨日に合わせて、コートにジャケットにセーターにシャツに下着という完全防寒の格好だ。潤也の言うとおり、この格好で電車に乗っていたらさすがに寒がりの勇治も汗ばんだ。ここは一枚脱いで出掛けた方が良さそうだ。
「そうだな。桜葉の言うとおりセーターを脱いでいくか」
 潤也はマルボロを銜えて火を点けた。今さら勇治もどうこう言わないが、所長兼調査員自ら『事務所内禁煙』という張り紙に書いた決まりを最近破ってばかりいる。
「ところで、今日でこの仕事も終わりにするよな?」
 潤也の言葉に、セーターを脱ぐ勇治の身体が一瞬固まった。セーターで顔を隠したまま、「ああ。所長の言うとおりにするつもりだよ」と答える。
「だったらよろしい。お前のところにオタクのオオタクミから連絡が来ても、追加の仕事は断れ。いいか?」
「ああ。そうする」
 セーターを脱いで、勇治も煙草を一服する。昨日だけで四万も収入があったから、心おきなく煙草も買える。それも潤也と同じマルボロだ。
「それから今日は俺も調査が入ったから、もしかしたら戻らないかもしれない。だから調査が終わったらメールで簡単に報告して、そのまま帰っていいからな」
 勇治は頷いた。煙草を吸い終わるとさっそく事務所を出て西口に向かった。向かうのは深田みなみの住むマンションの前。西口に出て、商店街を抜けると、昨日みなみが喫煙していた場所に到着した。そこで立ち止まって煙草を吸う。調査中は煙草を吸いたくても、なかなか吸えないからだ。一本だけと思っていたのだけれど、一本目を吸い終わると無意識のうちに二本目を吸っていた。
 結局、立て続けに三本吸って、五分の遅刻で現場に到着。キャバ嬢だから、どうせ午前中はまともな活動をしないに決まっている。五分くらいの遅刻などたいしたことはない。というより、午前中ずっとどこかでサボっていたとしても、大丈夫に決まっている。問題は午後からなのだ。
 昨日と同じように電柱の陰に隠れて、三階のみなみの部屋の窓を確認する。カーテンが閉められていて、在宅なのか不在なのかは分からない。けれどもほぼ百%、いるのだろう。
 とすぐにラインに着信があった。携帯を見ると、河合アリスからだった。この週末、会うことができるかという内容だ。メッセージを見てにんまりとした。正直なところ、会えるかどうかはまだ分からない。もしかしたら、今日にでもみなみと急接近できるかもしれないからだ。彼女と急接近ができて鉄板焼きデートの約束をこぎつけたら、もちろんそちらが優先される。次にパトロン兼保険の久美。何しろアリスは万が一の保険だけなのだから最下位だ。
 というわけで、いったんスルーだ。すべてが決まったら返事する。とにかく今は調査に集中するのみ。
 しばらく動きが無いだろうと思っていたところで、みなみの部屋のドアが開いた。部屋から出てきたのはベージュのコートを着た男だ。勇治はコンビニ袋の中からカメラを取り出して、シャッターを押した。男は丸山亨二ではない。亨二よりは細面で、ずっとイケメンだ。そして男の後ろから、みなみが現れた。二人を画面に収まるようにしてシャッターを押す。笑みを作っている彼女の顔は化粧っ気がなくほぼスッピンだ。スッピンになると化けの皮が剥(は)がれてしまう美女も多いけれど、みなみは違う。スッピンでも美しい。そして化粧をすると、より美しくなる。
 驚いたことに、二人は抱き合ってキスをした。慌ててシャッターを切る。唇が離れると、みなみは甘えるような顔を男に見せた。男は唇に薄い笑みを浮かべて、金髪の小さい頭をポンポンと叩いた。そして手を振ってエレベータに向かっていく。みなみもあどけない笑顔で、男の背中に向かって手の平を振った。その姿もカメラに収める。
 ドアの中にみなみの姿が収まって間もなく、ベージュのコートの男がマンションのエントランスの中から出てきた。勇治は急いでカメラをコンビニ袋の中に仕舞い、電柱の陰になって自分の姿が見えないようにして息を潜(ひそ)めた。そしてスマホを操作する振りをして、伏し目がちに男の姿を追う。男は出てきたときに、横断歩道を渡る子どものように、左右を交互に伺った。その姿は昭和時代の老婆のように腰が曲がっている。何かに怯(おび)えているようにも見えた。
 コートの下の男の格好はスーツだ。ネクタイもきちんと結ばれているのが確認できる。目が切れ長で、顔はまあまあイケメンだけれど、もちろん勇治ほどではない。顔の勝負なら、じゅうぶん彼には勝てる。そんな敗者の彼は先ほどみなみと別れるときとは打って変わって、表情はすっかり曇っている。やはり駅に向かうのだろう。男は案の定、勇治のいるほうにゆっくりと向かっている。そして立ち止まって振り返り、マンションを見やった。おそらくみなみの部屋の窓を眺めているのだろう。でもカーテンは閉じられたままだ。男は名残惜(なごりお)しそうに溜め息を漏(も)らして、コートのポケットに両手を突っ込んで、勇治のほうへ向かって歩き始めた。
 この男なら、顔だけでなく腕力でも勝てる。勇治はそう値踏(ねぶ)みした。背丈は勇治より少し高いが、顔が色白で何よりも身体の線が細い。殆ど、真面目で勤勉なサラリーマンといった風体(ふうてい)だ。喧嘩も絶対に慣れていない。だったらここは男を捕まえて、話を聞くのみだ。
 そうと決まれば勇治は俯(うつむ)き加減で歩く男の前に出た。
「すいません。ちょっと道をお尋ねしたいのですが」
 勇治の言葉に、男は驚いた顔を見せて立ち止まった。「何でしょう?」と聞こえなかったけれど、男の薄い唇がそう動いた。
「この辺に、ジャガーズマンション蒲田西というマンションがあると思うのですが」
「あれですよ」
 男の唇がそう動いき、振り返ってみなみの住むマンションを指した。そして再び俯いて歩みを勧めようとする男の腕を、勇治は思い切り掴(つか)んだ。
「あなた、いまそのジャガーズマンションの深田さんの部屋から出てきましたよね?」
 男の耳元で囁くように言うと、男は引きつかせた顔を勇治に見せた。
「あんた、警察か?」
 小さいながら、男の声がはっきりと勇治の耳に届いた。警察かなんていう想定外の質問に、勇治は狼狽(うろた)えたが、すぐに自分を取り戻した。
「少なくとも警察じゃない」
「だったらヤクザか、それともチンピラか?」
 勇治は吹き出しそうになった。どこからどう見たら、勇治のようなイケメンで善良な市民をヤクザとかチンピラに見えてしまうというのだろうか。勇治は鼻で笑った。
「そんなものではない。善良な市民だ。もし俺が警察とかヤクザだったら、どうするつもりだ?」
「全力で逃げる」
 男は目を伏せた。そして逃げようと試みたので、勇治は力を入れて腕を押さえると、あっさりと男の力が抜けた。男はこの上なく従順な性格で、往生(おうじょう)際(ぎわ)が良さそうだ。
「深田さんとはどういう関係なんだ?」
「客ですよ。キャバクラの……」
「アフターか?」
 男はこくりと頷いた。キャバ嬢がアフターでホテルではなく自分の部屋に客を入れてしまうなんて、常識では考えられない。となると、この男はかなりの上客なのだろうか。
「かなり店で金を使っているのか?」
「ああ。行けば毎回十万は使っている。それも週にだいたい三度だ。それに昨日は誕生日だから、特別にドンペリピンクも入れた」
 週に三十万ということは、一か月でざっと百二十万円だ。それだけの大金をみなみに使うなんて、半端ない熱の入れようだ。おまけにドンペリのピンクだ。入れるだけでおよそ十万円もする酒だ。そんなことができる彼は、かなりの高給取りではないか。それに勇治には敵わないにせよ、そこそこのイケメンだ。そんな経済力を持つそこそこイケメンが恋敵では、勇治が敗北に追い込まれてしまう可能性が高い。何しろ勇治にはイケメンと過去の栄光という武器しか持ち合わせていないのだから。
「ということは、けっこう年収があるのか?」
 答える代わりに男は勇治を睨み付けた。「ところで、おたく、誰?」
 勇治も負けじと睨み付ける。弱きはくじく。それが勇治のやり方だ。
「みなみのフィアンセだ」
 男が目を逸らし、勇治の手に掴まれた腕に力が入り、再び逃れようと試(こころ)みた。その身体を勇治は羽交(はが)い絞めにして抑える。
「け、警察、呼びますよ」
 男の声が震えていた。勇治は男の耳元に顔を近づける。
「こっちはね、人の女を寝取ったあんたの話をもう少し聞きたいだけなんだよ。聞き終わったら解放してやるから大人しくしな」
「ああ。分かった。分かったよ」
 分かってくれなかったら、そのまま解放するしかなかった。男を羽交い絞めにしているところは誰にも見られなかったが、何しろここは往来だ。そんな姿を見られたら、絶対に不審に思われる。だが解放してやると、男は勇治と向き合いながらも顔を俯かせて、逃げなかった。みなみのカレシだという勇治に、後ろめたさがあるのだろう。
 強きには巻かれて、弱きは徹底的にくじく。それが勇治のやり方だ。
「お前、名前は?」
「井村等です……」
「職業は?」
「普通のサラリーマンですが」
「勤めている会社名は?」
「松芝電気……」
 松芝電気と聞いて、勇治は動揺した。そこは勇治が大学を卒業して、二年間勤めた企業だったからだ。辞めた理由は勤め人というのが性分(しょうぶん)に合わなかったから。つまり勇治は単純に怠け者なのである。でも、そのまま辞めずに勤めていたら勇治だって、お気に入りのキャバ嬢のために月に百万円も使えたのかと思うと、ほぞを噛(か)んだ。この等という男も、勇治とさほど年齢は変わらないように見える。
「となると、川崎工場の勤務か?」
「ああ。そうだけど……」
 勇治は当時の工場長の名前を出そうかと思ったがやめた。関係者だと思われたら厄介(やっかい)だ。それよりも等の働いた不貞(ふてい)をとっちめないといけない。勇治は動揺を抑えて、心の態勢を立て直す。
「等さんさあ、そんな大企業で働いて、月に百万もみなみに散財するなんて、たいしたもんだな。月給はどのくらいなんだ?」
「ひ、百五十万……」
 等は唇を震わせて答えた。その金額を聞いて、勇治もショックで全身に震えを覚えた。だとするとボーナス合わせて年収はざっと二千万円。なぜなら、この等という男がそこまで行くのなら、優秀な勇治が我慢して勤めていれば、それ以上の年収に到達するのは間違いないからだ。
 だけれど、そのショックを出してはならない。勇治は必死に冷静を装う。
「だからといって等さんさ。人様の女に手を出しちゃいけないな。人様のお金に手を出しちゃいけないのと同じだよ」
「あ、はい。す、すいませんでした……」
 等は勇治に深々と頭を下げた。彼の身体は明らかに震えている。もしかしたら勇治のことを、本気でヤクザと勘違いしているのかもしれない。
「もう、そんな悪いことはしないと誓えるな?」
「あ、はい。もう金輪際(こんりんざい)いたしません」
「よし。だったら解放してやる」
「ありがとうございました!」
 等は再び深々と頭を下げると、駅に向かって走り去った。勇治はにんまりする。もうこれであの男は、みなみには手を出さないはずだ。そうなればみなみ争奪戦は勇治にとってかなり有利になる。何しろ経済力のある男がこれで脱落してくれ、残るはとてもイケメンとは言い難いチンピラだけになるのだから。
 それから電柱の陰に隠れて、みなみの部屋の調査を再開した。次に動きがあったのは、昨日と同じで午後二時半だった。マンションのドアが開き、みなみが出てきた。
 エレガントな昨日の格好とは違って、今日のみなみはどちらかというとカジュアルだ。黒のコートを着て、膝下までの長いブーツを履いている。サングラスを掛けて、派手なピアスも付けていた。みなみは昨日と同じように、ゆっくりと駅へと向かった。途中、昨日と同じ場所で煙草を一本だけ吸った。
 蒲田駅に着いて電車に乗るのかと思いきや、改札前を通り過ぎて東口に出た。出たところの広場の中にある喫煙所に入って、再び煙草を吸う。おじさんやおばさんだらけの喫煙スペースにいる彼女の美しさは、野ばらの中の一輪の薔薇(ばら)のように、ひときわ目を引いた。彼女の姿に視線を奪われる男も勇治の他に何人かいた。それでも彼女は周りの視線など気にせず、何食わぬ顔で煙草を吸い終えると、夜間はネオンで華やかになる歓楽街に入っていく。そこを真っすぐ行くと、桜葉探偵事務所のある雑居ビルだ。
 みなみはこれから夜の活動を始めようと準備している歓楽街を進んでいく。少しでも目を離してしまうと見失いかねない速さで、しっかりした足取りだ。そして桜葉探偵事務所の入っているビルの前に着く。二階にある事務所の電気は消えているようだ。中に入るのではないかと身構えたが、やはりそんなことはない。スルーして京急蒲田の駅から伸びるアーケード街を行き、京急蒲田の駅に到着した。
 そこで彼女は自動改札をタッチ。スイカもパスモも持っていない勇治は、彼女の行き先を目で追いながら切符を購入する。彼女が向かったのは下り方面のホームだ。後を追うように、長いエスカレータを駆(か)け上る。金髪の黒い背中が見える。その十段くらい後ろの位置で、勇治は止まった。
 ちょうどやって来た快速特急に乗るのかと思いきや、彼女は見送った。乗ったのは空いている各駅停車だ。各駅停車に乗るとなると、彼女が降りる駅は雑色か六郷土手だ。京急川崎よりも先の各停しか停まらない駅は、京急川崎で待ち合わせの各駅停車に乗り換えるのが常識であるからだ。すると行き先は六郷土手なのか。勇治は胸騒ぎを覚えた。六郷土手といえば、佐藤北斗が殺害された現場だからだ。
 京急の各駅停車は急行以上の電車と違って空いているので、乗るドアも気を付けなければならない。彼女の乗るドアと一つずらして、勇治は乗った。彼女は端の座席に長い脚を組んで座った。どうやらコートの下はミニスカートのようだ。彼女の前に立てはひょっとしたら見えるのではないかという衝動に、勇治は駆られる。一歩、足を出したところで、勇治はやっとこさ、踏み止まった。もしここで勇治の行為がみなみにバレてしまったら、勇治は彼女に好色とかスケベとか変態とか痴漢(ちかん)とか変質者とか、とにかくそういう認識を植え付けてしまうことになる。それではみなみと交際して結婚するなんて、夢のまた夢になってしまうからだ。ここは一時の性欲に溺(おぼ)れてしまってはいけないのだ。
 そして悪い予感というものは得てして的中してしまうもの。みなみは六郷土手で下車してしまった。勇治も彼女の背中を追うように電車を降りる。
 犯人は必ず現場に戻ってくるという。そのことは自称名探偵の潤也も勇治に語ったことがある。どうして戻ってくるのか。多くは、犯行自体がバレていないか、警察の捜査が始まっていないか、自分がやったという証拠を残していないか。そういうことを確認するため、つまり自己防衛のために戻ってくるらしい。
 高架(こうか)下の改札口を出て、左に曲がる。商店街を道なりに行き、再び左に曲がった。そこは古い住宅地になっている。尾行するにも注意しなければならない。何しろ道を歩いているのは、みなみと勇治の二人だけだからだ。閑静なという表現はほど遠いが、とにかくひっそりかんとしている住宅地だ。
 じゅうぶんに距離を取りながら、尾行する。彼女が交差点を曲がるたびに、そこまで走る。そして再び距離を取って彼女の姿を追う。そうして着いたのは一軒の建物だ。近づくとアパートだと分かる。薄く『日高荘』と書かれた木の看板が掲げられた、外壁がモルタルづくりのアパートだ。勇治の住むアパートほど年季も入っていないが、それでもゆうに築三十年は経過していると思われる。
 アパートの前に来て、勇治は速足で通り過ぎて電柱の陰に身を潜めた。みなみが一階のいちばん手前のドアの前で立っているので、見つかりそうになったからだ。電柱の陰でカメラを取り出して、その姿を写す。彼女は何度かドアをノックしたようだった。そしてきょろきょろと首を動かして辺りを伺うと、下を見て何かを探しているような格好で、建物の反対側へゆっくりと移動した。そちらには窓がある。その様子もカメラに収める。
 みなみが訪ねているのは、きっと殺された佐藤北斗の部屋だ。ドアをノックしたのも頷ける。元カレだから部屋の合鍵も互いに返してしまったのだろう。そして自分がやったという証拠が残されていないか、不安になってやって来たのだ。いや、違う。勇治はかぶりを振って、みなみ犯人説を振り払った。彼女はドアをノックした。ノックしたのは、彼が生きているかもしれないと思っているからだ。生きているかもしれないと思うことは殺していないからだ。だからこそ、ドアをノックしたみなみはシロだ。我ながら見事な三段論法だと勇治は思った。
 彼女は窓も、閉められた雨戸の上から何度か叩いていた。やはり勇治の推理どおり、彼女は元カレの死を知らされても信じられないのだ。そんな彼女をいたましく感じる。何十年も先の話だけれど、彼女と一緒になった勇治が先に死に、その死が信じられなくて、彼女は泣きながら勇治の死に顔を叩いて起こそうとする。そんな未来を思い描くと、微笑ましい気分になった。
 そして元カレの生存を諦(あきら)めたのか、みなみはアパートの敷地から出てきた。そして再び駅の方へと向かう。駅に向かうと分かれば先回りして切符を買っておいた方がいい。勇治は彼女とは違う道を使って駆け足で駅に行った。
 切符を購入して彼女の到着を待つこと数分で、みなみがやって来た。彼女が改札に入るのに続いて、勇治も入る。下り方面で京急川崎に向かうと思いきや、彼女が向かったのは予想を裏切って上りホームだった。
 そうして京急蒲田で降りて、蒲田の町を歩いて、途中二回ほど煙草を吸い、再びマンションに戻ってきたのは午後四時近くだった。それから三十分ほど、彼女に動きもなく、夕焼け空になってきた。三階の彼女の部屋の窓も、カーテンの隙間から灯りが漏(も)れているのが確認できる。
 そんなとき、いきなり肩を叩かれて、勇治の身体が硬直した。振り向くと、立っていたのは大田久美だった。
「良かった。勇治がいて」
 今日の久美の格好は、魔女でも看護師でも女子高生でもない。普通にコートを着て、その中はスーツ姿のようだ。OLのようにも見える。付けているピアスも小さく控え目だ。
「ああ。深田はこれから出勤するのかな。部屋にいるよ」
「うん。灯りが点いているから分かるよ。それより、これから約束のお肉を食べにいかない? ドレスコードがあるけどカジュアルだから、勇治のその格好でも大丈夫だから。ね、行こ」
「ええ、まあ、そうだね」
 勇治はどっちつかずの返事になる。もちろん肉を食べるのは惹(ひ)かれるけれど、みなみとお近づきなるのはもっと惹かれるからだ。
「じゃあ、決まり」と言って久美は勇治の腕に腕を絡めてくる。パトロン兼保険だというのにすっかりカノジョ気取りだ。「それより勇治って、昨日と服装が一緒だね」
「ああ。家に帰らず、そのまま調査していたから。でも、これで切り上げちゃっていいの?」
 久美に引かれるようにして、すでに勇治の身体は駅の方に向かっていた。目はもうみなみの部屋には向いていない。
「いいの、いいの。この時間からだと、六時過ぎに家を出てお店に向かうだけでしょ。同伴でもないし、誰と会うというわけでもなさそうだから。とにかく五時から銀座にあるステーキハウスの予約が取れたから。その店が、例の最高級のお肉を出す店なの」
「ひょっとして、百グラム一万円の?」
「そう。そのお肉を目の前で焼いてくれるの」
 弾む声で久美が言う。勇治もテンションが上がってきた。
「うん。さすがパト……久美。楽しみだ。ありがとう」
 テンションが上がり過ぎて、危うくパトロンと口が滑りそうになった。必死に言い直したが、久美が歩みを止めてしまう。
「勇治。パトって何?」
「あ、パトラッシュ。パトラッシュのことだよ。フランダースの犬に出てきた犬のこと。その犬と中学時代の久美がよく似ていて、ずっとパトラッシュって久美のことを心の中で呼んでいたからさ。その癖が、久しぶりに出ちゃったみたいだ……」
 もちろんそんな話は嘘。中学時代の久美は、オタクで太っておかめのお面だ。パトラッシュとの共通点は、大型ということだけ。パトラッシュのように愛らしく優しい心だって持ち合わせていなかったはずだ。
「そうなんだあ。嬉しい。勇治がまさかパトカーとか、パテライトなんて言ってくるんじゃないかと思っていたから」
 そうはしゃいだ声で言って、再び勇治の身体に飛び付いてくる。とりあえず勇治の心の内を見透かされていないようで何よりだ。
「パトカーって?」
「そんなこといいから、とにかく急ぎましょ。時間も無いからこれからパトカー並みに、首都高を飛ばしていくわよ」
 とコインパーキングに入っているピンクの軽自動車に乗り込んだ。乗り込むと車は急発進。ちょっと路地をくねくね曲がり環八に出た。久美の家とは逆の羽田空港方面に向かう。
「それで、今日の深田の行動がどうだったか、教えてほしいのだけど」
 久美はまっすぐ前を見ながら聞いてきた。
「うん。今日はいろいろとあったよ。まずは調査を始めて間もなく、部屋から一人の男が出てきた」
「それって、丸山?」
「ううん。違う。井村等っていう名前の彼女の上客だった」
「上客?」
「そう。俺に捕まって、俺のことを警察かヤクザかと間違えたらしくて怯(おび)えていたけれど、月に百万以上、彼女のために店に金を落としているらしい」
「受ける~。あの女にそんなに使っても、カモにされるだけなのに。それ、まじ受ける」
 久美はそう言って可笑しそうにはしゃいだ。だけれど、等は本当にカモにされたのだろうか。カモなら自分の部屋に招待などしないだろう。やはり彼女にとっても、そうとう大切な上客だったのではないのだろうか。
「それで、その井村って男、どんな奴なの?」
「ああ。松芝電気の川崎工場で勤務しているらしい。年齢まで聞いていないけれど、たぶん俺たちと近い年齢だね。でも少なくとも俺と同期ではない」
「勇治と同期でないって?」
 勇治は口を滑らせてしまった。松芝に勤めていたことは話したくなかった。それを明かしてしまうと、次にはどうせ、どうして辞めたのか聞かれるに決まっている。こうなったら、胸を張って過去の輝かしい経歴を語るしかない。
「ああ。別に隠すつもりはなかったんだけど、俺、慶稲田を卒業して、いっかい松芝に就職したんだよ」
「へえ。すご~い。やっぱ勇治って、チョーすごいじゃん。だけど、どうして辞めちゃったの?」
 久美の反応は勇治の予想どおりだ。すごいとはやし立ててからの、お決まりの質問。はやし立てられて気分はいいのだけれど、その質問に答えるにはいつも苦労している。本当のことを言ってしまうと、勇治のクズぶりがバレてしまうからだ。
「何というのかな。俺には社風が合わなかったな。がつがつ体育会系というの、そういう社風が鼻についたんだ」
「そうねえ。勇治はがり勉くんだったけど、運動部でバリバリってわけでもなかったからなあ。で、その井村って男はバリバリ体育会系だった?」
「ぜんぜん。痩せて青白い顔をしていたから。それに実際、俺でも奴の身体を押さえつけることができたからね」
「それで、その後は?」
「二時半ごろかな。外出して四時に戻ったよ。行き先は六郷土手」
「六郷土手って?」
 予想どおり、久美が食い付いてきた。赤信号で停車したと同時に、驚いた顔を勇治に向けた。勇治は大きく頷く。
「日高荘ってアパートだよ」
「それ、佐藤が住んでいたアパートじゃない」
 興奮からか、久美の声が上擦(うわず)った。顔もほのかに赤く染まっている。
「やっぱりそうか。その部屋は一階のいちばん手前の部屋だよね?」
「そうよ。一〇一号室」
「その部屋のドアを叩いたり、反対側に行って窓も叩いたりしていたからね。きょろきょろ辺りを伺っていたし、そこら辺に何か落ちていないか探しているようにも見えたよ」
「それ、決まりじゃない」
と久美が頓狂(とんきょう)な声を上げたと同時に、後ろからクラクションが鳴らされた。目の前の信号が青に変わっていた。久美は前を向き直して、車を発進させる。
「犯人は現場に戻ると言うでしょ。事件のことは報道されていないみたいだし、それでも警察が動いているから、捕まってしまうか心配でどうしようもなくなって、現場に行ったのではないかしら」
 久美も潤也と同じことを言った。
「そう。俺も最初は久美のように思ったけれどね。でもよく考えたら、少し違うのかなと思うようになったんだ」
「違うって?」
 いきなり久美の声が尖(とが)って、勇治に食って掛かっているようだ。フロントガラスを見つめる横顔も、目じりが吊り上がっているように見える。
「ああ。もし殺人犯ならドアとか窓とかを叩くのかなあって。ドアとか窓とかを叩くってことは、部屋の中に生きている人がいるかもしれないと思って叩くと思うんだ。それで、刑事から殺されたことを知らされても、報道管制が敷かれていっさい報道もされていないから、にわかに信じられなくて、佐藤の生死を実際に自分で確かめようとしたのではないかと考えたんだけど……」
「それって、もしかしたら深田が犯人ではないということ?」
 今度は久美の目が潤んでいるように見えた。久美は裏表のある深田が犯人だと、信じて疑わない。そしてそれを否定してしまうと、今後の仕事どころか、今日のお肉も頂けなくなってしまう可能性が高い。そうなれば、みなみと接近するチャンスが無くなってしまうし、久美という絶好のパトロン兼保険も失ってしまう……勇治は大仰にかぶりを振った。首都高に入って、運転により集中し始めた久美には、そんな様子は見えないだろうけれども。
「そんなこと、ないない。着いたときは辺りもきょろきょろ見回して挙動不審だったじゃん。それってやっぱ、後ろめたいことがあるんだと思う」
「でも犯人は現場に戻ると言ったわたしの考えと、勇治は違うと思うようになったと言ったでしょ。あれは?」
 久美の追及に勇治の身体が少しのけ反(ぞ)ってしまった。適当な返す言葉を必死になって探す。そして大学受験や就職活動で見せた火事場の馬鹿力を発揮する。
「ああ。それは心配になって行ったのではないと思ったんだ。そうではなくて、絶対に捕まらないという自分の確信を確かめに行ったのではないかとね」
 しかし咄嗟(とっさ)に思いついた自分の言葉に、勇治は肝を冷やした。この言葉には大きな矛盾をはらんでいるからだ。捕まらないと確信を持った殺人犯が、殺害した相手が生存しているのではないかと思うのがおかしい。
 だけれど、久美の表情が雪解けの春がやって来たかのように和(やわ)らいだ。
「そうかも。勇治の言うとおりかも。深田って、勉強はぜんぜんできなかったけれど、昔からすごくあざとい女だったから」
「うん。そうだよ、きっと」
 勇治は相槌(あいづち)を打ちながら、ホッと胸を撫で下ろした。久美のことを頭が切れる女だと値踏みしていたが、所詮北高出身だ。どこか抜けていて、肝心なところまで思考が及ばない。でも女性は抜け目がないよりも、その方が可愛い。
「それじゃあ、新たな契約をしなくちゃね。桜葉ったら、わざわざわたしに電話してきて、今日で契約は終わりだから、新たな契約はしないからな、なんて言ってきたのよ。わたしのパンティを頭から被(かぶ)ったことがあるクセして」
 久美は途中、潤也の口調を真似て話したみたいだ。あまり似ていなかったけれど。それよりも驚いたのはパンティを頭から被ったことだ。
「久美のパンティ?」
 勇治が聞き返すと、久美の横顔が上気していた。
「そうなの。中学の時と違って、実は桜葉って、高校の時は苛められていたのよ」
「コンドームも被ったんだろ?」
「勇治、知っていたのね」
「ああ。昨日、河合さんから聞いた」
 勇治は楽しくなって頷いた。何しろコンドームの次に出てきたのは、パンティだ。そんななか車は車線変更をこまめにして、どんどん他の車を追い抜いて進んでいく。
「それでね、実はわたしも一年の時は苛められていたの。何しろブスでデブでオタクでバカで運動音痴だったから、丸山たちやアリスたちの男女の不良グループが中心になってね。それで一年生の夏休み明けすぐに、こんなことを言われたのよ。新しい苛めのターゲットを決めたから、そいつにわたしが穿(は)いているパンティを被せたら、もうお前を苛めないって。その新しいターゲットというのが桜葉だったわけ」
「そうだったんだ……」
「それで、勇治と結ぶ契約なんだけど、かなり危険かもしれないけど……」
「危険って?」
 久美の横顔は真剣な面持ちで頷いた。
「どんなふうに危険なのかは、勇治が引き受けるって言ってくれないと言えないわ」
「もちろん深田を調査するんだよね?」
「当り前じゃない」
久美の言葉を聞いて、勇治は唇の端に薄笑いを浮かべた。
「だったら手付金次第かな……」
 とはぐらかしてみる。みなみの調査ならどんな危険があっても引き受けるのだけれど。
「そう。だったらこれでどう?」
 久美は一本だけ指を立てて勇治に示した。その横顔は微笑んでいる。危険と言う割には安すぎないか。勇治が金欠だという足元を見られているのではないだろうか。
「十万か……」勇治は肩を落として言った。
「何を言っているのよ。百万よ。明後日から休日出勤してもらうのだから」
「ひ、百万円! やります。やらせてください。どんな危険なことでもいたします」
 百万円もあれば、桜葉から貰う安月給でも、しばらく遊んで暮らせる。それにあの等のようにはいかないけれども、仕事終わりにみなみの勤めるキャバクラに通い、上客になることだって可能だ。しめしめと、勇治はほくそ笑んだ。
「これで、決まりね。調査の話は明日の夜にするとして。今夜は心おきなく、美味しいお肉を頂きましょう。わたしも久しぶりだし」
「久しぶりって?」
「三か月、いや二か月ぶりかな」
 やはり久美はいいカモだ。パトロンにするには最適だ。勇治の心の笑いが止まらない。
 車はスピードを落として、ゆっくり首都高を出て、蒲田と比べるとずいぶんと上品に見える銀座のネオンの中に滑り込んだ。


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