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「セラフィマ、私との婚約を解消してほしい」
王宮でのいつもの婚約者交流のための二人のお茶会。
その席でわたくしは婚約者からそう言われた。
この婚約は政略に基づくものであって、互いの感情に関係なくそれぞれの父親によって結ばれたもの。
物心つく前に結ばれた婚約なのだから、互いの気持など関係ない。だから、彼がわたくしを厭うたとしても不思議はない。
たとえわたくしの初恋が彼であっても。王太子筆頭候補である彼にふさわしくあるためにわたくしがどれだけの苦労をして今日の立場を築いていたとしても。
わたくしは幼いころから王族に連なるために様々な教育が施されてきた。筆頭公爵家の娘として様々な淑女教育は施されていた。だから、王子妃あるいは王太子妃、将来の王妃としての立ち居振る舞いに問題はなかったと思う。
国内の各貴族の派閥や力関係、各家の家族構成や各領地の特産なども、貴族の令嬢あるいは将来の夫人として必要な情報だから、それを学ぶことも特に面倒とは思わなかった。近隣諸国との付き合いのため、各国の言葉や歴史、特徴、産業、作法を学ぶことも、外交の場に出る可能性のある高位貴族の子女としては当然のことだ。
将来王族に連なるため、一段上の洗練された所作や作法を学ぶことも義務だと理解していたから、それを苦痛だと思うことはなかった。
令嬢たちとの交流も、将来彼女たちを束ねる者として積極的に行なった。言葉の裏を読んだり、表情の下に隠されたものを見抜いたり、とても気楽な茶会とはいえずいつも緊張感に包まれていた。将来の側近候補の令嬢たちとともに先達の王妃殿下や王太子妃殿下、母やその友人の貴婦人方に徹底的に鍛えられたりもした。
それもこれも、わたくしがイシドル殿下の婚約者となったからこその義務だった。彼の婚約者でなければもうワンランクあるいはツーランク下の教育で問題なかったのだ。元々学ぶことが嫌いでもなかったから、苦痛ではなかったけれど。それでも彼の婚約者でなければ、もう少し気楽でいられた。
彼の婚約者だから、周囲はわたくしを将来の王妃候補として見る。当然、その視線は厳しい。敵対する派閥は虎視眈々とわたくしがミスを犯すのを待っている。揚げ足を取る機会を狙っている。そうでなくとも貴族令嬢の手本になって当然という目で見る。
いかにも王子様といった貴公子然としたイシドル殿下に憧れる令嬢は多い。わたくしを蹴落とし、彼の隣に並ぶことを狙う者もいる。あるいは愛妾狙いの者だっている。王子妃になれない下位貴族の娘などはむしろそちらを狙ってくる。
今一つ危機感のない彼に擦り寄るそういった女の管理もわたくしの役目だと、面倒ごとを押し付けられる。まだ婚約者に過ぎないのにそこまで求められるのは正直面倒くさい。
それでもその役目を果たしているのは、わたくしが結局のところ彼をお慕い申し上げているからだ。
なのに、彼は言った。婚約を解消したいのだと。その瞬間、わたくしの心は凍り付いた。わずかな衝撃でもあれば、凍り付いた心は粉々に砕けるだろう。
薄々、こんな日が来るのではないかと予想はしていた。最近、彼にとある伯爵家のご令嬢が侍るようになっていたから。高位貴族の令嬢として人目のあるところではアルカイックスマイルを崩さないわたくしと違って、地方領主の娘であるアデリーナは表情豊かだった。常に政争を意識して揚げ足を取られぬために表情を読ませぬ中央の貴族と違って、地方貴族は感情を素直に表現することが多い。
そんな素直な表現をする彼女たちが中央の高位貴族令息には新鮮に映り、彼らの心に入り込むのもよくあること。歴代王族や高位貴族の愛妾に地方貴族の娘が多いのも、そんな理由があるのだと淑女教育の中で教えられた。感情を隠すことのできぬ彼女たちは社交界で生き抜くことは難しいゆえに、中央では愛妾にしかなれないのだとも。そしてそんな彼女たちに殿方は癒しを求めるのだということも。
イシドル殿下も、殿下のために整えられた正妃としてのわたくしでは癒しを得られなかったんだろう。だから、アデリーナを傍に置いた。まさか、愛ゆえに婚約の解消を求めるほど、王族としての、王太子筆頭候補としての立場を忘れるとまでは予想もしなかったけれど。否、彼女への傾倒ぶりを見れば、万が一の可能性はあるかもしれないと思ってはいた。
「婚約の解消でございますか。それが殿下のご希望であれば、臣下たるわたくしに拒否はできません。しかしながら、わたくし共の婚約は王家並びに公爵家の当主が定めたもの。わたくしの一存ではご返答できかねます。父に報告し、改めて父公爵よりご返答させていただきます」
わたくしはそうお答えし、辞去の挨拶を述べる。たとえ殿下のご希望であれ、この婚約に関する決定権はわたくしにも殿下にもない。だから、当主であるお父様に報告し、お父様から陛下にご返答申し上げるのが当然のことだ。速やかにお父様に報告しなければならない。
「なっ、セラフィマ」
わたくしの態度にイシドル殿下は挙動不審となる。ご自分で言い出したことなのに、何故狼狽えるのか理解できない。
「り、理由を訊かないのか?」
わたくしの態度にイシドル殿下は何故か焦っているようだ。冷静に対応したのがご不満なのだろうか。あるいはすぐに了承しなかったことが? とはいえ、今のわたくしに出来るのは殿下のご希望を当主であるお父様に伝えることだけ。全ての決定は国王陛下とお父様が為されること。本来ならばイシドル殿下はわたくしにではなく、王家側の決定権を持つ国王陛下にご自分のご希望をお伝えになるべきなのに。
「わたくしが理由をお聞きしても何もできませぬゆえ。公爵である父より国王陛下にお伺いし、協議することとなりましょう」
わたくしは改めて辞去の礼をし、この場を辞そうといたしました。
「そなたは! やはり私を愛してなどいないということだな!」
立ち去ろうとしたわたくしに、イシドル殿下は叫ぶように言葉を投げかけた。
「は?」
振り返り、思わず地を這うような淑女らしからぬ低い声が出た。王族に対して不敬であり淑女失格な態度だ。
「私を愛していれば、取り乱すはずだろう!? 婚約の解消を言われたのだぞ! なのにそなたは取り乱しもせず、淡々と受け入れた! 私のことを愛していないからこそなのだろう!」
どこか泣きそうな表情でイシドル殿下はわたくしに言う。その表情は王族失格だ。とはいえ、ここにはわたくししかいない。侍女や侍従、護衛はいるが、彼らはいない者として扱う。二人だけのプライベート空間なのだから、表情に出したとしても咎められることはない。
「……殿下はわたくしの反応を見るために、婚約解消などという愚かなことを仰ったのですか?」
申し出によって凍った心が溶けて消えた。柔らかな心を、イシドル殿下への想いを取り戻したのではない。殿下への想いが凍ったまま消えたのだ。
「婚約解消を告げることで、わたくしがどんな反応をするのか、試されたのですか」
呆れ果て、わたくしの声は乾いた冷たいものとなった。
いくら王子妃教育によって微笑みの仮面をつけるようになったとはいえ、わたくしとて始終その仮面を装着しているわけではない。家族やごく親しい友人、そして婚約者であり恋人でもあった彼の前ではその仮面は外していた。彼だって社交場に出るわたくしの仮面を見てプライベート空間とのギャップに笑っていたではないか。
手紙でも対面でも、わたくしは彼への気持ちを素直に告げていた。お慕い申し上げておりますと、きちんと言葉にして。互いの関係を良好にするためには言葉を惜しんではいけないと理解していたから。特に自分たちの気持ちによらず結ばれた婚約なのだから、好意は自らの言葉で態度で示さなくてはならない。政略だからこそ、己の気持ちを伝える必要があるのだと理解していた。
「わたくしがお伝えしていた言葉も、態度も、殿下には伝わっていなかったのですね」
好きですと、愛していますと言葉にしてお伝えしていた。なのに、殿下は婚約解消という手段でわたくしを試そうとなさったのか。わたくしの言葉を信じてはくださらなかったということか。
殿下の前では仮面ではなく微笑み、時に甘え、時に怒り、感情を示してきた。己の気持ちも素直にお伝えしてきた。それでも殿下はそれを信じられなかったということか。
殿下に対して抱いていた甘やかな気持ちが消えていく。
「御前、失礼いたします」
殿下の前では、二人だけの空間であるこの茶会の席では被ることのなかった淑女の仮面を貼り付け、わたくしは三度辞去の挨拶を告げ、今度こそ王宮を辞した。
あの茶会から一月後、わたくしとイシドル殿下の婚約は白紙撤回された。十六年に及ぶ婚約期間はなかったことにされた。貴族学院の長期休暇中のことであり、イシドル殿下とは一切顔を合わせずに済んだのは幸いだった。
イシドル殿下は頻繁に手紙を寄越し、時には先触れもなく我が家を訪問してわたくしに会おうとなさったが、わたくしが彼と会うことはなかった。もちろん手紙も封を切らずお父様を通して送り返した。
あの日、帰宅してからすぐにお父様に何があったのかを報告した。そして、お父様は殿下のあまりの子供っぽさに呆れていた。わたくしの求めに応じてすぐに王家に婚約解消を求めてくれた。
父から事情を聞いた国王陛下もイシドル殿下の行動には呆れておられたそうだ。そして、イシドル殿下を呼び出し、『そなたの求めに応じて、この婚約は白紙撤回するものとする』と告げられた。
政略的な婚約とはいえ、そこに深い意味はなかった。我が家は王族公爵家だし、謂わば親戚だ。他国や国内の情勢によってはすぐに白紙に戻せるように結ばれた婚約なのだ。第一王子に婚約者がいなければ無用な王妃位争いが起きかねないからと暫定的に結ばれたものだった。もちろん、何事もなければそのまま婚姻に至っただろう。
そんな婚約だからこそ、わたくしは素直にイシドル殿下への恋情をお伝えしてきた。不安定な婚約だからこそ、そうしなければあっさりと解消されると判っていたから。イシドル殿下はこの婚約がそんな不安定な脆いものだとは思っておられなかったのかもしれない。絶対的なものだから、自分が多少無茶なことを言っても解消などされないと高を括っておられたのかもしれない。
陛下から婚約の白紙撤回を告げられたイシドル殿下はそんなつもりではなかったと騒ぎ抵抗したそうだ。学院で親しくしていた伯爵令嬢のアデリーナも、わたくしが嫉妬するのかを確認するために傍に置いていただけ。嫉妬の感情を見せないわたくしに焦った殿下は婚約解消を告げればわたくしが慌てて縋るのだろうと思っていたらしい。
巫戯けるな。
市井で流行っている恋愛小説では、好きな子ほど虐めてしまう少年や、相手の気持ちを試すような行動をとる殿方などの『不器用な恋』というものが一定の需要があるらしい。けれど、それは物語の中だから、架空の世界だから『不器用な恋』などといって許容されるということを理解していない男性は多い。
自分だけを冷遇し虐める男やことあるごとに自分の気持ちを試そうとする男など、面倒で害悪でしかない。現実の女はそんな面倒くさい男など相手にはしない。何故それで愛されると思うのか理解に苦しむ。
試し行動なんてものは、相手が自分を信頼していないからこそのもの。自分を信頼しようとはず、ことあるごとに試そうとする男と、生涯を共にすることなど御免被る。少なくともわたくしには無理だ。
わたくしたちはいずれ国王夫妻となるはずだった。国王が常に王妃を試そうとするなど、国家運営に支障をきたす。試し行動をとられるたびに愛情は目減りしていくし、信頼は一瞬で崩れるだろう。
愛しているはずの王妃さえ信用せずに試し行動をとる国王が、臣下の忠誠を試さずにはいられるだろうか。国王はことあるごとに臣下の忠誠を試そうとするだろう。そんな国王に忠誠を誓い続けることのできる臣下はどれだけいることか。
「言葉でも態度でも示していたはずですのに、足りなかったのでしょうか」
無事に婚約が白紙撤回されて、お母様と二人の茶会で思わず愚痴が漏れる。
「十分に示していたと思いますよ。あなたは恥ずかしがりやなところがあるけれど、イシドル殿下に精一杯の想いを伝えていました。ただ、殿下には物足りなかったのかもしれませんね。あの方は十を伝えれば二十を欲しがり、二十を伝えれば五十を欲しがるような方だった。足るを知るということない、どうしようもない方だったのでしょう」
お母様の言葉に目から鱗が落ちるような気分でした。そのような方であれば、わたくしにはどうしようもございませんわね。
「恋人はね、恋情があればどうとでもなります。けれど夫婦は信頼がなければ円満な関係は望めません。あの方は自分ばかりが欲しがり与えることをなさらぬ方。とても信頼関係を結べる方ではなかったということです。あなたの十六年を無駄にしてしまいましたわね。御免なさいね」
お母様はそう詫びてくださいましたけれど、王子妃教育で学んだことはこれから社交界で生きていくうえで無駄にはなりませんわ。王族と婚姻を結ぶことはないでしょうけれど、いずれは高位貴族夫人となることもございましょうし。イシドル殿下に代わり王太子筆頭候補となられた第二王子殿下のお妃の側近となることもあり得ますしね。
そう、足るを知らず信を知らぬイシドル殿下は王位継承順位を最下位に落とされました。わたくしへの試し行動が他の者にも及ぶことが簡単に予想されたため、国王陛下はイシドル殿下は国王たる資質なしと判断なされたそうです。
「さ、あなたの新たな婚約者を選ばなくてはね」
お母様はにこやかに仰いました。お母様の社交界の人脈、お父様の派閥の人脈、お兄様の学生時代の交友関係。様々なところから持ち込まれる釣書を今回の件で過保護になった家族が吟味してくれております。
次のお相手は信頼関係のある愛情を互いに抱ける方が望ましゅうございますわね。
王宮でのいつもの婚約者交流のための二人のお茶会。
その席でわたくしは婚約者からそう言われた。
この婚約は政略に基づくものであって、互いの感情に関係なくそれぞれの父親によって結ばれたもの。
物心つく前に結ばれた婚約なのだから、互いの気持など関係ない。だから、彼がわたくしを厭うたとしても不思議はない。
たとえわたくしの初恋が彼であっても。王太子筆頭候補である彼にふさわしくあるためにわたくしがどれだけの苦労をして今日の立場を築いていたとしても。
わたくしは幼いころから王族に連なるために様々な教育が施されてきた。筆頭公爵家の娘として様々な淑女教育は施されていた。だから、王子妃あるいは王太子妃、将来の王妃としての立ち居振る舞いに問題はなかったと思う。
国内の各貴族の派閥や力関係、各家の家族構成や各領地の特産なども、貴族の令嬢あるいは将来の夫人として必要な情報だから、それを学ぶことも特に面倒とは思わなかった。近隣諸国との付き合いのため、各国の言葉や歴史、特徴、産業、作法を学ぶことも、外交の場に出る可能性のある高位貴族の子女としては当然のことだ。
将来王族に連なるため、一段上の洗練された所作や作法を学ぶことも義務だと理解していたから、それを苦痛だと思うことはなかった。
令嬢たちとの交流も、将来彼女たちを束ねる者として積極的に行なった。言葉の裏を読んだり、表情の下に隠されたものを見抜いたり、とても気楽な茶会とはいえずいつも緊張感に包まれていた。将来の側近候補の令嬢たちとともに先達の王妃殿下や王太子妃殿下、母やその友人の貴婦人方に徹底的に鍛えられたりもした。
それもこれも、わたくしがイシドル殿下の婚約者となったからこその義務だった。彼の婚約者でなければもうワンランクあるいはツーランク下の教育で問題なかったのだ。元々学ぶことが嫌いでもなかったから、苦痛ではなかったけれど。それでも彼の婚約者でなければ、もう少し気楽でいられた。
彼の婚約者だから、周囲はわたくしを将来の王妃候補として見る。当然、その視線は厳しい。敵対する派閥は虎視眈々とわたくしがミスを犯すのを待っている。揚げ足を取る機会を狙っている。そうでなくとも貴族令嬢の手本になって当然という目で見る。
いかにも王子様といった貴公子然としたイシドル殿下に憧れる令嬢は多い。わたくしを蹴落とし、彼の隣に並ぶことを狙う者もいる。あるいは愛妾狙いの者だっている。王子妃になれない下位貴族の娘などはむしろそちらを狙ってくる。
今一つ危機感のない彼に擦り寄るそういった女の管理もわたくしの役目だと、面倒ごとを押し付けられる。まだ婚約者に過ぎないのにそこまで求められるのは正直面倒くさい。
それでもその役目を果たしているのは、わたくしが結局のところ彼をお慕い申し上げているからだ。
なのに、彼は言った。婚約を解消したいのだと。その瞬間、わたくしの心は凍り付いた。わずかな衝撃でもあれば、凍り付いた心は粉々に砕けるだろう。
薄々、こんな日が来るのではないかと予想はしていた。最近、彼にとある伯爵家のご令嬢が侍るようになっていたから。高位貴族の令嬢として人目のあるところではアルカイックスマイルを崩さないわたくしと違って、地方領主の娘であるアデリーナは表情豊かだった。常に政争を意識して揚げ足を取られぬために表情を読ませぬ中央の貴族と違って、地方貴族は感情を素直に表現することが多い。
そんな素直な表現をする彼女たちが中央の高位貴族令息には新鮮に映り、彼らの心に入り込むのもよくあること。歴代王族や高位貴族の愛妾に地方貴族の娘が多いのも、そんな理由があるのだと淑女教育の中で教えられた。感情を隠すことのできぬ彼女たちは社交界で生き抜くことは難しいゆえに、中央では愛妾にしかなれないのだとも。そしてそんな彼女たちに殿方は癒しを求めるのだということも。
イシドル殿下も、殿下のために整えられた正妃としてのわたくしでは癒しを得られなかったんだろう。だから、アデリーナを傍に置いた。まさか、愛ゆえに婚約の解消を求めるほど、王族としての、王太子筆頭候補としての立場を忘れるとまでは予想もしなかったけれど。否、彼女への傾倒ぶりを見れば、万が一の可能性はあるかもしれないと思ってはいた。
「婚約の解消でございますか。それが殿下のご希望であれば、臣下たるわたくしに拒否はできません。しかしながら、わたくし共の婚約は王家並びに公爵家の当主が定めたもの。わたくしの一存ではご返答できかねます。父に報告し、改めて父公爵よりご返答させていただきます」
わたくしはそうお答えし、辞去の挨拶を述べる。たとえ殿下のご希望であれ、この婚約に関する決定権はわたくしにも殿下にもない。だから、当主であるお父様に報告し、お父様から陛下にご返答申し上げるのが当然のことだ。速やかにお父様に報告しなければならない。
「なっ、セラフィマ」
わたくしの態度にイシドル殿下は挙動不審となる。ご自分で言い出したことなのに、何故狼狽えるのか理解できない。
「り、理由を訊かないのか?」
わたくしの態度にイシドル殿下は何故か焦っているようだ。冷静に対応したのがご不満なのだろうか。あるいはすぐに了承しなかったことが? とはいえ、今のわたくしに出来るのは殿下のご希望を当主であるお父様に伝えることだけ。全ての決定は国王陛下とお父様が為されること。本来ならばイシドル殿下はわたくしにではなく、王家側の決定権を持つ国王陛下にご自分のご希望をお伝えになるべきなのに。
「わたくしが理由をお聞きしても何もできませぬゆえ。公爵である父より国王陛下にお伺いし、協議することとなりましょう」
わたくしは改めて辞去の礼をし、この場を辞そうといたしました。
「そなたは! やはり私を愛してなどいないということだな!」
立ち去ろうとしたわたくしに、イシドル殿下は叫ぶように言葉を投げかけた。
「は?」
振り返り、思わず地を這うような淑女らしからぬ低い声が出た。王族に対して不敬であり淑女失格な態度だ。
「私を愛していれば、取り乱すはずだろう!? 婚約の解消を言われたのだぞ! なのにそなたは取り乱しもせず、淡々と受け入れた! 私のことを愛していないからこそなのだろう!」
どこか泣きそうな表情でイシドル殿下はわたくしに言う。その表情は王族失格だ。とはいえ、ここにはわたくししかいない。侍女や侍従、護衛はいるが、彼らはいない者として扱う。二人だけのプライベート空間なのだから、表情に出したとしても咎められることはない。
「……殿下はわたくしの反応を見るために、婚約解消などという愚かなことを仰ったのですか?」
申し出によって凍った心が溶けて消えた。柔らかな心を、イシドル殿下への想いを取り戻したのではない。殿下への想いが凍ったまま消えたのだ。
「婚約解消を告げることで、わたくしがどんな反応をするのか、試されたのですか」
呆れ果て、わたくしの声は乾いた冷たいものとなった。
いくら王子妃教育によって微笑みの仮面をつけるようになったとはいえ、わたくしとて始終その仮面を装着しているわけではない。家族やごく親しい友人、そして婚約者であり恋人でもあった彼の前ではその仮面は外していた。彼だって社交場に出るわたくしの仮面を見てプライベート空間とのギャップに笑っていたではないか。
手紙でも対面でも、わたくしは彼への気持ちを素直に告げていた。お慕い申し上げておりますと、きちんと言葉にして。互いの関係を良好にするためには言葉を惜しんではいけないと理解していたから。特に自分たちの気持ちによらず結ばれた婚約なのだから、好意は自らの言葉で態度で示さなくてはならない。政略だからこそ、己の気持ちを伝える必要があるのだと理解していた。
「わたくしがお伝えしていた言葉も、態度も、殿下には伝わっていなかったのですね」
好きですと、愛していますと言葉にしてお伝えしていた。なのに、殿下は婚約解消という手段でわたくしを試そうとなさったのか。わたくしの言葉を信じてはくださらなかったということか。
殿下の前では仮面ではなく微笑み、時に甘え、時に怒り、感情を示してきた。己の気持ちも素直にお伝えしてきた。それでも殿下はそれを信じられなかったということか。
殿下に対して抱いていた甘やかな気持ちが消えていく。
「御前、失礼いたします」
殿下の前では、二人だけの空間であるこの茶会の席では被ることのなかった淑女の仮面を貼り付け、わたくしは三度辞去の挨拶を告げ、今度こそ王宮を辞した。
あの茶会から一月後、わたくしとイシドル殿下の婚約は白紙撤回された。十六年に及ぶ婚約期間はなかったことにされた。貴族学院の長期休暇中のことであり、イシドル殿下とは一切顔を合わせずに済んだのは幸いだった。
イシドル殿下は頻繁に手紙を寄越し、時には先触れもなく我が家を訪問してわたくしに会おうとなさったが、わたくしが彼と会うことはなかった。もちろん手紙も封を切らずお父様を通して送り返した。
あの日、帰宅してからすぐにお父様に何があったのかを報告した。そして、お父様は殿下のあまりの子供っぽさに呆れていた。わたくしの求めに応じてすぐに王家に婚約解消を求めてくれた。
父から事情を聞いた国王陛下もイシドル殿下の行動には呆れておられたそうだ。そして、イシドル殿下を呼び出し、『そなたの求めに応じて、この婚約は白紙撤回するものとする』と告げられた。
政略的な婚約とはいえ、そこに深い意味はなかった。我が家は王族公爵家だし、謂わば親戚だ。他国や国内の情勢によってはすぐに白紙に戻せるように結ばれた婚約なのだ。第一王子に婚約者がいなければ無用な王妃位争いが起きかねないからと暫定的に結ばれたものだった。もちろん、何事もなければそのまま婚姻に至っただろう。
そんな婚約だからこそ、わたくしは素直にイシドル殿下への恋情をお伝えしてきた。不安定な婚約だからこそ、そうしなければあっさりと解消されると判っていたから。イシドル殿下はこの婚約がそんな不安定な脆いものだとは思っておられなかったのかもしれない。絶対的なものだから、自分が多少無茶なことを言っても解消などされないと高を括っておられたのかもしれない。
陛下から婚約の白紙撤回を告げられたイシドル殿下はそんなつもりではなかったと騒ぎ抵抗したそうだ。学院で親しくしていた伯爵令嬢のアデリーナも、わたくしが嫉妬するのかを確認するために傍に置いていただけ。嫉妬の感情を見せないわたくしに焦った殿下は婚約解消を告げればわたくしが慌てて縋るのだろうと思っていたらしい。
巫戯けるな。
市井で流行っている恋愛小説では、好きな子ほど虐めてしまう少年や、相手の気持ちを試すような行動をとる殿方などの『不器用な恋』というものが一定の需要があるらしい。けれど、それは物語の中だから、架空の世界だから『不器用な恋』などといって許容されるということを理解していない男性は多い。
自分だけを冷遇し虐める男やことあるごとに自分の気持ちを試そうとする男など、面倒で害悪でしかない。現実の女はそんな面倒くさい男など相手にはしない。何故それで愛されると思うのか理解に苦しむ。
試し行動なんてものは、相手が自分を信頼していないからこそのもの。自分を信頼しようとはず、ことあるごとに試そうとする男と、生涯を共にすることなど御免被る。少なくともわたくしには無理だ。
わたくしたちはいずれ国王夫妻となるはずだった。国王が常に王妃を試そうとするなど、国家運営に支障をきたす。試し行動をとられるたびに愛情は目減りしていくし、信頼は一瞬で崩れるだろう。
愛しているはずの王妃さえ信用せずに試し行動をとる国王が、臣下の忠誠を試さずにはいられるだろうか。国王はことあるごとに臣下の忠誠を試そうとするだろう。そんな国王に忠誠を誓い続けることのできる臣下はどれだけいることか。
「言葉でも態度でも示していたはずですのに、足りなかったのでしょうか」
無事に婚約が白紙撤回されて、お母様と二人の茶会で思わず愚痴が漏れる。
「十分に示していたと思いますよ。あなたは恥ずかしがりやなところがあるけれど、イシドル殿下に精一杯の想いを伝えていました。ただ、殿下には物足りなかったのかもしれませんね。あの方は十を伝えれば二十を欲しがり、二十を伝えれば五十を欲しがるような方だった。足るを知るということない、どうしようもない方だったのでしょう」
お母様の言葉に目から鱗が落ちるような気分でした。そのような方であれば、わたくしにはどうしようもございませんわね。
「恋人はね、恋情があればどうとでもなります。けれど夫婦は信頼がなければ円満な関係は望めません。あの方は自分ばかりが欲しがり与えることをなさらぬ方。とても信頼関係を結べる方ではなかったということです。あなたの十六年を無駄にしてしまいましたわね。御免なさいね」
お母様はそう詫びてくださいましたけれど、王子妃教育で学んだことはこれから社交界で生きていくうえで無駄にはなりませんわ。王族と婚姻を結ぶことはないでしょうけれど、いずれは高位貴族夫人となることもございましょうし。イシドル殿下に代わり王太子筆頭候補となられた第二王子殿下のお妃の側近となることもあり得ますしね。
そう、足るを知らず信を知らぬイシドル殿下は王位継承順位を最下位に落とされました。わたくしへの試し行動が他の者にも及ぶことが簡単に予想されたため、国王陛下はイシドル殿下は国王たる資質なしと判断なされたそうです。
「さ、あなたの新たな婚約者を選ばなくてはね」
お母様はにこやかに仰いました。お母様の社交界の人脈、お父様の派閥の人脈、お兄様の学生時代の交友関係。様々なところから持ち込まれる釣書を今回の件で過保護になった家族が吟味してくれております。
次のお相手は信頼関係のある愛情を互いに抱ける方が望ましゅうございますわね。
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