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王太子と公爵令嬢─つまり為政者側の目線
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それが始まったのは、王朝交代の契機となった茶番劇の三年前のことだった。
王立バッカウゼン学院に入学した王太子フェリクスは学院で一人の女学生と知り合った。貴族令嬢らしからぬ天真爛漫さと無礼さを勘違いした、下位貴族にありがな他力本願の上昇志向の持ち主。それがホル男爵家の庶子であるドリカだった。
フェリクスは決して馬鹿ではない。だから、ドリカが自分の外見と地位と権力と財力に惹かれていることは理解していた。けれど、欲に塗れているとはいえまっすぐに自分を見つめる瞳に恋に落ちた。自分自身を見てくれているなどと勘違いはしない。ドリカは耳に優しい言葉を言う。王太子の重責を担う自分を気遣うようなことを言うが、それは努力し王太子の自覚と誇りを持つ自分には見当はずれの優しさだ。王太子たる自分に必要なのは、時に厳しいことを言い、時にともに悩み、ともに努力する婚約者アンネリーンのような厳しい優しさだ。
それでも耳に心地いい言葉は、隠された自分の劣等感を和らげてくれるような気がした。まるでドリカといるときが本当の自分であるかのように感じていた。ああ、自分は王太子であることを重圧と感じていたのだ。そう気付いた。
しかし、自分が王太子を辞したとして、自分に代わるのは弟のイフナースだ。自分に比べて弟が優れているとは思わない。弟は一歳しか変わらないのに王太子ではないというだけで母に甘やかされている。自尊心の高さ以外は王族として足りないものしか持たない。
自分は王太子として国家の重鎮であるベイレフェルト公爵とエトホーフト公爵に教育され、厳しくも優しく育てられた。王族としての責任を教えられ、それを理解したうえで生きてきたつもりだ。いずれ王となる自分を婚約者であるアンネリーンと幼馴染のクンラートが支えてくれていることも理解している。
だから、弟に王太子位を譲ることは出来ない。既に衰退しかけている王国を弟に渡してしまえば更に滅びへの道を加速することになりかねない。
けれど、ドリカと過ごすうちにフェリクスは王太子であること王族であることに自分が疲れていることに気付いた。このままアンネリーンと結婚して王位に就き、クンラートを補佐に国政を司る。それが正しい道のはずなのに、そうとは思えなくなった。正しい道ではあろうが、それが自分の幸せだとは思えなくなった。
だが、贅沢を好み権力を欲するドリカは自分が王太子を辞すればきっと離れて行ってしまう。今ですら学院で高位貴族への接近を画策している。アンネリーンの兄であるラウレンスやクンラート、弟の第二王子イフナース、他の側近候補の高位貴族令息へ隙あらば近づこうとしている。なんとか常に傍に置くことでそれを阻止しているが、自分が王位に就かないとなれば、きっと弟かクンラートに鞍替えするだろう。
愛しいドリカが他の男のものになることも許せなければ、ドリカのように身分を弁えず王妃の役割の何たるかを理解しない女を次期王位継承者に近づけるわけにもいかない。自分の母も元は男爵家の出身だが、王妃の役割を何一つ果たせず、公務の殆どはベイレフェルト公爵夫人とエトホーフト公爵夫人に任せている。身の程を知っている点だけは評価でき、公式行事の際は父王の隣で穏やかに微笑み、王妃の慈愛の演出だけはなんとかこなしているような母だ。だが、ドリカではその最低限の演出さえも出来るかどうか怪しい。何しろ下位貴族令嬢としての立ち居振る舞いすら出来ていないのだから。母は婚姻後、両公爵夫人に願って最低限の公式の場での立ち居振る舞いだけは身に着けたが、それも無理だろう。
ドリカとともにいたい。けれど、ドリカを王妃には出来ない。権力欲の強いドリカでは側室では満足しないだろうし、ドリカのような女性を側室にすれば王妃であるアンネリーンの苦労が増すだけだ。
散々に悩んだフェリクスは全てを信頼するアンネリーンに相談することにした。この相談が王国の今後を大きく動かすことを理解したうえで。最後の王族としての矜持ともいえた。
フェリクスが心の内をアンネリーンに打ち明けたのは、定例の婚約者同士の茶会の席だった。王宮ではなく、アンネリーンの実家であるベイレフェルト公爵家王都別邸での茶会だ。
心地いい季節でもあり、二人は中庭の四阿で時間を過ごす。周囲にはフェリクスの侍従と護衛騎士、アンネリーンの侍女と護衛騎士がいるが、二人の邪魔をしない距離にいる。声は届くが内容までは聞こえない距離だ。
だがアンネリーンはフェリクスの表情に感じるものがあるのか、認識阻害の結界を張った。これでどんな会話をしようが外に漏れることはない。アンネリーンの僅かな仕草で結界が張られたことに気付き、フェリクスは婚約者の勘の良さに苦笑する。自分が判りやすいのか、アンネリーンが鋭すぎるのか。
「アンネは今の王家どう思ってる?」
結界があることで安心して、フェリクスは直球で問いを投げかけた。この幼馴染の婚約者には信頼を示すためにも遠回しに話すことは無意味だと知っているのだ。
「あら、フェルはわたくしを不敬罪で罰したいのかしら」
余りにもストレートな問いにアンネリーンは苦笑しながらも、直接的ではないものの一切隠していない答えを発する。
「それが答えだね。私も今の王家は潰しちゃったほうがいいと思うんだよね」
自分の問いに王家への忖度なく答えたアンネリーンに笑いつつ、フェリクスもまた率直に己の意志を伝えた。
「後を継ぎたくないと?」
「だって、私は恋愛結婚したいんだ」
学院内で自分とドリカの関係が知れ渡っていることをフェリクスは理解している。というよりもある時期から隠すことをやめたのだ。それがアンネリーンを巻き込んで起こすこれからの騒動に必要だったから。
「わたくしでは不満だと」
流石に婚約者に恋愛対象外だと言われ、アンネリーンの言葉に棘が生える。
「王妃としては不足はないし、人生の相棒としても申し分ないと思うけど、恋愛対象じゃないよね」
しかもこの婚約者、自分が恋愛感情ないからといって相手にもないと思い込んでいるどうしようもない鈍感の朴念仁の唐変木だわとアンネリーンは心の中で毒づいた。『王太子の婚約者』としては評価してくれているらしいが、全く女性としては見ていないと言われ、アンネリーンは傷ついていた。
「王侯貴族に恋愛結婚は必要ありませんわね。国のため、家のためが第一ですもの」
だが、公爵令嬢としての矜持がそれを表に出すことを阻む。いや、女としてのプライドか。
「アンネはそれでいいの?」
「公爵令嬢という立場で生きてまいりましたから、恋愛に二文字はわたくしの人生にはございませんわね」
アンネリーンだって、恋に憧れた時期がないとは言えない。使用人たちの恋愛話を聞き、幼いころには自分もいつかそんな相手に巡り合いたいと思ったこともある。けれど、政略結婚をすることが当然の自分には恋愛など無理だと諦めたのだ。それでも両親のように互いを尊重しあい、敬意を持ち、夫婦としての愛情を育みたいと願ってもいた。
「私もそう割り切れたらいいんだけど、恋愛を諦めたくないんだ。特にドリカと出会ってからそう思うようになった」
フェリクスは恋人を思う。恐らく貴族女性としても人としても目の前のアンネリーンのほうが遥かに勝っている。それでもフェリクスはドリカに恋をした。恋とは理屈ではない。明らかに自分が堕ちていく相手と判っているのに、それでも恋心が已むことはない。
「ああ、あの天真爛漫でえ傍若無人で無礼な娘。ああいう娘がお好みでしたのね」
アンネリーンとしてもドリカの存在は知っている。既に彼女とフェリクスが出会って半年ほどが経過している。恋に落ちたと感じたのはそれから一ヶ月ほど経ってから。暫くは静観していたが、それでもフェリクスには王太子として、婚約者のいる身として弁えて慎むように苦言を呈してきた。けれど、フェリクスは曖昧に誤魔化すだけで一切苦言を聞き入れなかった。
そんな彼と彼女を見て傷ついている自分に気付き、漸くアンネリーンは己の仄かな恋情に気付いたのだ。気付くと同時に失恋とはとこっそり泣いた日もある。しかし、いずれは自分の元にフェリクスは戻ってきてくれるはずだと信じて待っていた。
「うん、あの身の程を弁えない上昇志向とか面白いよね。たださ、私がこのまま自分の恋に突っ走ると確実に王家に迷惑かけるんだよね」
フェリクスは己の恋に夢中になり、アンネリーンの心には気付かない。王妃教育と淑女教育で身に着けた感情を表に出さないある意味微笑みの鉄面皮が我がことながら恨めしくなるアンネリーンである。
と同時に、フェリクスはやはり王族なのだと嬉しく思う。恋に溺れているようで、王族としての自覚もあるし、冷静に己の状況を把握している。ならばいずれ目が覚めてアンネリーンを選び直してくれる日が来るかもしれない。
そう思いつつも、フェリクスが言いたいのはそれとは真逆であることにも気付いている。この唐変木の頓珍漢と心の中で毒づきながらもアンネリーンはフェリクスの望むであろう答えを口にした。
「あら、素敵。廃嫡されようとなさってる? それで後始末をわたくしに押し付けると」
「押し付けられてくれる?」
ああ、やはり、わたくしの元から去ってしまわれるのかと悲しさと寂しさを堪え、アンネリーンはフェリクスの計画を聞き出すために答える。
「お断りします」
「だよねぇ」
アンネリーンのきっぱりとした答えにフェリクスは苦笑する。勿論、全ての後始末をアンネリーンに押し付ける気はない。自分の尻拭いを彼女にさせるわけにはいかない。彼女は自分の我が儘を受け入れてくれる被害者なのだから。けれど、彼女の協力なしでは混乱を収めることは出来ないし、今後の王国のためにはならない。
「ですが、王家の首の挿げ替えは賛同したしますわ」
恐らくこれがフェリクスの望みだ。そう確信してアンネリーンは告げる。それにフェリクスは満足そうに笑った。
「新たな王家は君の家?」
「うちは影の王家のほうが性に合ってますわ。表向きならばエトホーフト公爵家のほうが相応しいかと」
「三代前の王弟の家系か。うん、血筋的には問題ないかな」
前王家であるベイレフェルト家が再度王位に就くよりは現王家に近しいほうが混乱も少ないだろう。それにベイレフェルト次期当主である兄ラウレンスは裏で動くほうが得意だ。表の政治はエトホーフト公爵のほうが得意分野でもある。
「実質的な政務を担っておられますし、実態と形式が一致するので問題もないかと」
「うん、じゃあ、エトホーフト公爵に話持ってくか」
「次期公爵のクンラート様と図ったほうが良いかと。一応殿下の側近でもいらっしゃるし、話を通しやすいのでは?」
「それもそうか。婚約者のティルザ嬢は君の親友だしね」
二人の中でどんどんとこれからの方針が定まっていく。こうして国の未来について話し合うことはこれまで何度もやってきたことだった。けれど、それは飽くまでも国王となるフェリクスと王妃となるアンネリーンとしての会話だった。
きっとこうして国の未来を共に見つめることは今後無くなるのだ。そう思うとアンネリーンの胸は苦しくなる。自分がフェリクスと並び立つことは無くなる。彼の隣には分不相応とはいえ相思相愛の恋人がいるのだ。
「父に話を通しても?」
アンネリーンは今自分が出来ることをフェリクスの未来のためにしようと心に決める。表向きには醜聞ではあろうが、彼は彼なりに国のために動くのだ。自分の自由のための行動のオマケだろうとも、国のためになることには違いない。
「寧ろ通さないと成功しないでしょ」
アンネリーンと公爵家の協力なくしては自分の計画は成功しない。だから、ベイレフェルト公爵やラウレンスに\話を通すことは当然だ。恐らく娘や妹を愛している公爵父子には責められるだろう。殴られるかもしれない。けれど、婚約者以外を愛したのは自分だし、裏切ったのも自分だ。悪いのは全て己だと理解している。おまけに自分の都合にアンネリーンを巻き込み苦労を背負わせることになるのだ。事が終わった後に消されても文句は言えないだろう。
王立バッカウゼン学院に入学した王太子フェリクスは学院で一人の女学生と知り合った。貴族令嬢らしからぬ天真爛漫さと無礼さを勘違いした、下位貴族にありがな他力本願の上昇志向の持ち主。それがホル男爵家の庶子であるドリカだった。
フェリクスは決して馬鹿ではない。だから、ドリカが自分の外見と地位と権力と財力に惹かれていることは理解していた。けれど、欲に塗れているとはいえまっすぐに自分を見つめる瞳に恋に落ちた。自分自身を見てくれているなどと勘違いはしない。ドリカは耳に優しい言葉を言う。王太子の重責を担う自分を気遣うようなことを言うが、それは努力し王太子の自覚と誇りを持つ自分には見当はずれの優しさだ。王太子たる自分に必要なのは、時に厳しいことを言い、時にともに悩み、ともに努力する婚約者アンネリーンのような厳しい優しさだ。
それでも耳に心地いい言葉は、隠された自分の劣等感を和らげてくれるような気がした。まるでドリカといるときが本当の自分であるかのように感じていた。ああ、自分は王太子であることを重圧と感じていたのだ。そう気付いた。
しかし、自分が王太子を辞したとして、自分に代わるのは弟のイフナースだ。自分に比べて弟が優れているとは思わない。弟は一歳しか変わらないのに王太子ではないというだけで母に甘やかされている。自尊心の高さ以外は王族として足りないものしか持たない。
自分は王太子として国家の重鎮であるベイレフェルト公爵とエトホーフト公爵に教育され、厳しくも優しく育てられた。王族としての責任を教えられ、それを理解したうえで生きてきたつもりだ。いずれ王となる自分を婚約者であるアンネリーンと幼馴染のクンラートが支えてくれていることも理解している。
だから、弟に王太子位を譲ることは出来ない。既に衰退しかけている王国を弟に渡してしまえば更に滅びへの道を加速することになりかねない。
けれど、ドリカと過ごすうちにフェリクスは王太子であること王族であることに自分が疲れていることに気付いた。このままアンネリーンと結婚して王位に就き、クンラートを補佐に国政を司る。それが正しい道のはずなのに、そうとは思えなくなった。正しい道ではあろうが、それが自分の幸せだとは思えなくなった。
だが、贅沢を好み権力を欲するドリカは自分が王太子を辞すればきっと離れて行ってしまう。今ですら学院で高位貴族への接近を画策している。アンネリーンの兄であるラウレンスやクンラート、弟の第二王子イフナース、他の側近候補の高位貴族令息へ隙あらば近づこうとしている。なんとか常に傍に置くことでそれを阻止しているが、自分が王位に就かないとなれば、きっと弟かクンラートに鞍替えするだろう。
愛しいドリカが他の男のものになることも許せなければ、ドリカのように身分を弁えず王妃の役割の何たるかを理解しない女を次期王位継承者に近づけるわけにもいかない。自分の母も元は男爵家の出身だが、王妃の役割を何一つ果たせず、公務の殆どはベイレフェルト公爵夫人とエトホーフト公爵夫人に任せている。身の程を知っている点だけは評価でき、公式行事の際は父王の隣で穏やかに微笑み、王妃の慈愛の演出だけはなんとかこなしているような母だ。だが、ドリカではその最低限の演出さえも出来るかどうか怪しい。何しろ下位貴族令嬢としての立ち居振る舞いすら出来ていないのだから。母は婚姻後、両公爵夫人に願って最低限の公式の場での立ち居振る舞いだけは身に着けたが、それも無理だろう。
ドリカとともにいたい。けれど、ドリカを王妃には出来ない。権力欲の強いドリカでは側室では満足しないだろうし、ドリカのような女性を側室にすれば王妃であるアンネリーンの苦労が増すだけだ。
散々に悩んだフェリクスは全てを信頼するアンネリーンに相談することにした。この相談が王国の今後を大きく動かすことを理解したうえで。最後の王族としての矜持ともいえた。
フェリクスが心の内をアンネリーンに打ち明けたのは、定例の婚約者同士の茶会の席だった。王宮ではなく、アンネリーンの実家であるベイレフェルト公爵家王都別邸での茶会だ。
心地いい季節でもあり、二人は中庭の四阿で時間を過ごす。周囲にはフェリクスの侍従と護衛騎士、アンネリーンの侍女と護衛騎士がいるが、二人の邪魔をしない距離にいる。声は届くが内容までは聞こえない距離だ。
だがアンネリーンはフェリクスの表情に感じるものがあるのか、認識阻害の結界を張った。これでどんな会話をしようが外に漏れることはない。アンネリーンの僅かな仕草で結界が張られたことに気付き、フェリクスは婚約者の勘の良さに苦笑する。自分が判りやすいのか、アンネリーンが鋭すぎるのか。
「アンネは今の王家どう思ってる?」
結界があることで安心して、フェリクスは直球で問いを投げかけた。この幼馴染の婚約者には信頼を示すためにも遠回しに話すことは無意味だと知っているのだ。
「あら、フェルはわたくしを不敬罪で罰したいのかしら」
余りにもストレートな問いにアンネリーンは苦笑しながらも、直接的ではないものの一切隠していない答えを発する。
「それが答えだね。私も今の王家は潰しちゃったほうがいいと思うんだよね」
自分の問いに王家への忖度なく答えたアンネリーンに笑いつつ、フェリクスもまた率直に己の意志を伝えた。
「後を継ぎたくないと?」
「だって、私は恋愛結婚したいんだ」
学院内で自分とドリカの関係が知れ渡っていることをフェリクスは理解している。というよりもある時期から隠すことをやめたのだ。それがアンネリーンを巻き込んで起こすこれからの騒動に必要だったから。
「わたくしでは不満だと」
流石に婚約者に恋愛対象外だと言われ、アンネリーンの言葉に棘が生える。
「王妃としては不足はないし、人生の相棒としても申し分ないと思うけど、恋愛対象じゃないよね」
しかもこの婚約者、自分が恋愛感情ないからといって相手にもないと思い込んでいるどうしようもない鈍感の朴念仁の唐変木だわとアンネリーンは心の中で毒づいた。『王太子の婚約者』としては評価してくれているらしいが、全く女性としては見ていないと言われ、アンネリーンは傷ついていた。
「王侯貴族に恋愛結婚は必要ありませんわね。国のため、家のためが第一ですもの」
だが、公爵令嬢としての矜持がそれを表に出すことを阻む。いや、女としてのプライドか。
「アンネはそれでいいの?」
「公爵令嬢という立場で生きてまいりましたから、恋愛に二文字はわたくしの人生にはございませんわね」
アンネリーンだって、恋に憧れた時期がないとは言えない。使用人たちの恋愛話を聞き、幼いころには自分もいつかそんな相手に巡り合いたいと思ったこともある。けれど、政略結婚をすることが当然の自分には恋愛など無理だと諦めたのだ。それでも両親のように互いを尊重しあい、敬意を持ち、夫婦としての愛情を育みたいと願ってもいた。
「私もそう割り切れたらいいんだけど、恋愛を諦めたくないんだ。特にドリカと出会ってからそう思うようになった」
フェリクスは恋人を思う。恐らく貴族女性としても人としても目の前のアンネリーンのほうが遥かに勝っている。それでもフェリクスはドリカに恋をした。恋とは理屈ではない。明らかに自分が堕ちていく相手と判っているのに、それでも恋心が已むことはない。
「ああ、あの天真爛漫でえ傍若無人で無礼な娘。ああいう娘がお好みでしたのね」
アンネリーンとしてもドリカの存在は知っている。既に彼女とフェリクスが出会って半年ほどが経過している。恋に落ちたと感じたのはそれから一ヶ月ほど経ってから。暫くは静観していたが、それでもフェリクスには王太子として、婚約者のいる身として弁えて慎むように苦言を呈してきた。けれど、フェリクスは曖昧に誤魔化すだけで一切苦言を聞き入れなかった。
そんな彼と彼女を見て傷ついている自分に気付き、漸くアンネリーンは己の仄かな恋情に気付いたのだ。気付くと同時に失恋とはとこっそり泣いた日もある。しかし、いずれは自分の元にフェリクスは戻ってきてくれるはずだと信じて待っていた。
「うん、あの身の程を弁えない上昇志向とか面白いよね。たださ、私がこのまま自分の恋に突っ走ると確実に王家に迷惑かけるんだよね」
フェリクスは己の恋に夢中になり、アンネリーンの心には気付かない。王妃教育と淑女教育で身に着けた感情を表に出さないある意味微笑みの鉄面皮が我がことながら恨めしくなるアンネリーンである。
と同時に、フェリクスはやはり王族なのだと嬉しく思う。恋に溺れているようで、王族としての自覚もあるし、冷静に己の状況を把握している。ならばいずれ目が覚めてアンネリーンを選び直してくれる日が来るかもしれない。
そう思いつつも、フェリクスが言いたいのはそれとは真逆であることにも気付いている。この唐変木の頓珍漢と心の中で毒づきながらもアンネリーンはフェリクスの望むであろう答えを口にした。
「あら、素敵。廃嫡されようとなさってる? それで後始末をわたくしに押し付けると」
「押し付けられてくれる?」
ああ、やはり、わたくしの元から去ってしまわれるのかと悲しさと寂しさを堪え、アンネリーンはフェリクスの計画を聞き出すために答える。
「お断りします」
「だよねぇ」
アンネリーンのきっぱりとした答えにフェリクスは苦笑する。勿論、全ての後始末をアンネリーンに押し付ける気はない。自分の尻拭いを彼女にさせるわけにはいかない。彼女は自分の我が儘を受け入れてくれる被害者なのだから。けれど、彼女の協力なしでは混乱を収めることは出来ないし、今後の王国のためにはならない。
「ですが、王家の首の挿げ替えは賛同したしますわ」
恐らくこれがフェリクスの望みだ。そう確信してアンネリーンは告げる。それにフェリクスは満足そうに笑った。
「新たな王家は君の家?」
「うちは影の王家のほうが性に合ってますわ。表向きならばエトホーフト公爵家のほうが相応しいかと」
「三代前の王弟の家系か。うん、血筋的には問題ないかな」
前王家であるベイレフェルト家が再度王位に就くよりは現王家に近しいほうが混乱も少ないだろう。それにベイレフェルト次期当主である兄ラウレンスは裏で動くほうが得意だ。表の政治はエトホーフト公爵のほうが得意分野でもある。
「実質的な政務を担っておられますし、実態と形式が一致するので問題もないかと」
「うん、じゃあ、エトホーフト公爵に話持ってくか」
「次期公爵のクンラート様と図ったほうが良いかと。一応殿下の側近でもいらっしゃるし、話を通しやすいのでは?」
「それもそうか。婚約者のティルザ嬢は君の親友だしね」
二人の中でどんどんとこれからの方針が定まっていく。こうして国の未来について話し合うことはこれまで何度もやってきたことだった。けれど、それは飽くまでも国王となるフェリクスと王妃となるアンネリーンとしての会話だった。
きっとこうして国の未来を共に見つめることは今後無くなるのだ。そう思うとアンネリーンの胸は苦しくなる。自分がフェリクスと並び立つことは無くなる。彼の隣には分不相応とはいえ相思相愛の恋人がいるのだ。
「父に話を通しても?」
アンネリーンは今自分が出来ることをフェリクスの未来のためにしようと心に決める。表向きには醜聞ではあろうが、彼は彼なりに国のために動くのだ。自分の自由のための行動のオマケだろうとも、国のためになることには違いない。
「寧ろ通さないと成功しないでしょ」
アンネリーンと公爵家の協力なくしては自分の計画は成功しない。だから、ベイレフェルト公爵やラウレンスに\話を通すことは当然だ。恐らく娘や妹を愛している公爵父子には責められるだろう。殴られるかもしれない。けれど、婚約者以外を愛したのは自分だし、裏切ったのも自分だ。悪いのは全て己だと理解している。おまけに自分の都合にアンネリーンを巻き込み苦労を背負わせることになるのだ。事が終わった後に消されても文句は言えないだろう。
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