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第四話……三方ヶ原の戦い

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武田勢魚鱗備えは、最先鋒小山田信茂。右翼前衛に馬場信春、右翼予備に諏訪勝頼、左翼前衛に山県昌景、左翼予備に内藤昌豊。その後ろに信玄の本隊が控え、さらに後ろ備えとして穴山信君が控えた。



 対する徳川勢鶴翼備えは、中央に石川数正。右翼に酒井忠次と織田家の援軍など、左翼に本多忠勝や榊原康政など、中央後方に家康率いる本隊が構えた。





――三方ヶ原の戦いは、既に夕刻に近い時間に始まる。

 先ずは武田軍から仕掛けた。



 最先鋒小山田信茂の隊が、徳川軍中央部隊に石を投げかけた。

 武田軍は投石部隊という、強肩の者を集めた専門集団を育成していたのだ。



 石とは言え、負傷者が続出。

 この投石攻撃に堪らず、石川数正の隊が小山田隊に突入。

 先端が開かれる。



 数が少ないにもかかわらず、鶴のように両翼を拡げた徳川勢にとって、守って勝つことは能わない。

 石川数正隊の攻勢に続き、酒井隊や本多隊も続き、小山田隊を大いに押しまくった。



 これに堪らず、武田方も山県隊と馬場隊を戦場に投入。

 ここまでは一見、互角の戦いだった。





 ……しかし、織田家の援軍が一向に戦おうとしない。

 佐久間信盛の隊に限っては、何時でも逃げようとの雰囲気さえあった。



 これを信玄が見逃すはずは無かった。





「内藤隊を佐久間隊に攻め寄せさせよ!」



「はっ!」



 伝令役の百足衆が走る。

 すぐさま、内藤隊が山県隊の左後ろを迂回して、佐久間隊に突入した。



 戦国最強と聞く、武田軍団。

 その矛先が自分に向かったと感じた佐久間信盛は怯えてしまい、なんと一戦も戦うことなく戦場を離脱。





「馬鹿な!?」



 これに驚いた家康。

 自ら率いる本隊をもって右翼の援軍に向かうしかなくなってしまう。



 もちろん、それを見逃す信玄では無かった。





「今だ! 勝頼に敵左翼を突かせい!」



――出番来たる!



 徳川軍の予備隊は右翼の援軍に行ったため、勝頼の眼前には薄く伸びた徳川勢しかいなかった。





「寄せよ! 寄せよ!」



――ドンドンドン



 馬場隊の右後背から、徳川左翼に攻めかかる勝頼。

 武田の押し太鼓が轟音を響かせる。 

 勝頼の前衛部隊は、主に諏訪衆が務めた。



 諏訪法性の旗を掲げ、徳川勢に火の玉のように突っ込む諏訪衆。

 矢を多数射かけ、敵が崩れたところを、槍衾をつくって徳川左翼を突き崩した。

 崩れたところに、騎馬武者が次々に雪崩れ込む。





「御館様! 勝頼様が敵左翼を破りましたぞ!」



「うむ、そのまま敵後背に回り込めと伝えよ!」



「はっ!」



 勝頼隊に後背を脅かされた徳川勢は一斉に浮足立った。

 徳川方の足軽は、武器を捨て逃げ始める。



 この時代の主力部隊は、近代的な徴兵制に支えられた軍隊ではない。

 いわゆる地方豪族の寄り集まりである。

 負けと判れば、我先にと将を置いて逃げるのが、この時代の武士の常だった。





「退くな! 戦え!」



 徳川勢の上級武士が踏みとどまろうとするも、守る下級兵士たちが逃げ去る為、次々にあえなく打ちとられる。





「平手汎秀様、お討ち死に!」



 なんと、織田家からの援軍の大将まで討ち死にしてしまう。





「もはや逃げること能わぬ! 死して名を残さん!」



「なりませぬ! ここで死んではなりませぬ!」



 若い家康が武田勢に突入するのを、家臣が必死に押しとどめる。

 結局、家康は供回り数名を従えて逃走。



 一般的に退却時には殿しんがり部隊という、敵を食い止める部隊を定めるのが通例だが、この時すでに徳川勢は大混乱を起こしており、本陣からの退却の指示さえ届かない。





「一気に蹴散らせ!」



 信玄の指示に、武田勢は猛然と逃げ遅れた徳川勢に襲い掛かった。



 結局、徳川勢は譜代の重臣を含め多数が戦死。

 家康生涯最大の敗戦となった。





「お館様! 追撃を!」



「ならぬ! 同士討ちを避けよ!」



 家康にとって幸運だったのは、開戦時がすでに夕刻であり、敗走したのが日の入りだったのだ。

 慎重な信玄は、家臣からの夜間追撃の進言を退ける。





「勝鬨!」



「「「えい、えい、えい!」」」



 この戦いにおいて、信玄本隊と後ろ備えの穴山隊は一歩も動いていない。

 武田勢前衛部隊だけによる、圧倒的で一方的な勝利だった。



 ……しかし、馬上で瘦せこけた信玄の肩にうっすらと雪が積もっていた。


 




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 人物コラム『山県昌景』



武田軍の最精鋭【赤備え】を兄虎昌から受け継ぐ。

甲斐軍団最強との評価も高い。



三方ヶ原にて家康に、「さても恐ろしきは山県」と言わしめる。

飛騨攻めや東海地方の支配にも尽力。

外交案件も携わった。

腕を銃弾で撃ち抜かれても、口に軍配をくわえて戦い続けたという。



天正3年(1575)長篠の戦いにて戦死。
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