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~南方編~
第八十六話……陛下とブタ
しおりを挟む今日の天気は晴れ。
水平線の向こうまで夕焼けが続いている。
メナド砦は堅守されたため、アルサン侯爵領の各前線部隊はおおむね無事に撤退することができた。
しかしながら、アルサン侯爵領の各上級指揮官たちは兵を見捨て早々にジャムシードに帰っていた。それを阻止できなかった総指揮官たるアルサン侯爵の責任はやはり免れないだろう。
前線よりメナド砦に戻った兵たちのアルサン侯爵に対する視線はやはり冷たかった。
しかしアルサン侯爵はメナド城塞の塔に立ち続け、海風にうたれながら退却する兵たちを出迎えた。それは3日3晩に及んだ。
――4日目の晩。
「こちらでございます」
正装したモロゾフが恭しく上座を勧める老人。彼は金糸刺繍であしらわれた蒼い衣を着ていた。蒼く染めることのできる染料は貴重で、それを纏うものはだいたいに上流階級と決まっていた。
「おもてをあげい……」
か弱くも威厳のある声がメナド砦の広間に静かに響いた。
アルサン侯爵以下、ブタ達も一斉に、そしてゆっくりと顔を上げた。
彼の名は、トリグラフ二世。先のトリグラフ帝国皇帝であり、現在は上帝と称していた。
彼は上背も無く、やせ細っていた。髪も白く、眼と顔に覇気があるタイプではない。
しかし、彼こそがモロゾフの頼みをきいて、益があるわけでもなくこのメナド砦に援軍に来てくれたのだ。人は見かけだけではないと言えるだろう。
現在彼は、現皇帝の一家臣である立場であると言われる。
「この度は、このメナド砦をお救い頂きまして誠にありがとうございます」
アルサン侯爵が上帝の前に跪き、恭しくお礼を述べた。
「うむ」
上帝は一言だけ発した。そして面倒くさそうにあごひげをさすり二三頷く。
「モロゾフがのぉ、助けてくれと言ってきたでのぉ……」
上帝は頬杖をつき嬉しそうに目を細めた。
「全然利益になりませぬが、是非にも出兵しましょう、お願いしますとな……」
「ははは……」
アルサン侯爵は苦笑いする。ブタにも上帝は何を言いたいのか分からない。
「しかしの、民草を導くものは100年先も案じねばならぬ。分が悪い戦をせねばならんときもある。自分の利益にもならぬ戦は多々あろうのう、アルサン殿」
「お恥ずかしい限り……」
「でだ、アイスマン子爵殿」
「ブヒ?」
いきなり話を振られて動揺するブタ。何しろ彼は彼の主君たるハリコフ王にも会ったことがないのだ。やんごとない相手を前にして嫌な汗が背中を流れる。
「まぁ、そんなに緊張するな。ブタ殿、これでいいか?」
呼び方を『ブタ殿』に改め、上帝は気さくに笑って見せた。人の好いおじいさんといった感じを受ける。
「この度はわが国の功臣であるモロゾフを雇ってもらい感謝に堪えぬ、感謝に堪えぬぞ」
モロゾフに対し、功に報いなかった帝国の自責の念はとても大きいようだった。
「我が国の功臣の面倒を見てもらっておるのだ。なにか欲しいものはないか?」
上帝は気持ち椅子から身を乗り出しブタに問うた。
「ブヒ……」
折角だから、なにをねだろうかとブタが思案していると。
「我が殿にそのような欲はござらぬ。この度の御援軍だけで勿体ない仕儀」
Σ( ̄□ ̄|||) ぇ~!?
ザムエルがブタにかわって、あっさりと断ってしまった。たしかに助けてもらったことはとてもうれしいのだけれど、せっかくだからなにか欲しいブタであった。
「しかしの、我が国の英雄の新たな主君に対し、少し戦で加勢しただけで良いとは朕は思わぬ」
上帝は随行してきた書記官を呼び寄せる。ちなみに文字を操る書記官は地位がかなり高い。皆が文字を操れるわけではない世界なのだ。大臣の末席に位置する書記官もいたほどだ。
書記官は巻物を上帝に広げ、何やら耳元に囁いている。
「よかろう」
上帝は書記官の拡げた巻物にサインを施した。書記官はそれを頂き、巻物をまき直しブタに手渡した。
「ブタ殿よ、今日から其方はこの朕の家臣ぞ!」
ブタは巻物の中に書かれているものに目を通した。ブタを帝国の名誉子爵に任ずると書かれている。他には上帝の親衛隊の一員とも書かれていた。
貴族は一つの独立領主である。主が誰であるかはその領主が決めることであって、主君が強制するのは近世での中央集権体制になってからである。この世界においては主君が複数いることもよくある一つの形だった。沢山の貴族をまとめ上げるには、王に強烈なカリスマが求められる世界だったのだ。
「ブヒ……!?」
困惑するブタだったが、ザムエルが受諾するよう目で合図してきた。
「謹んでお受けいたしますブヒ」
「そうか、そうか、朕は優秀な家臣を得て嬉しいぞ」
上帝はとてもご機嫌になった。まさかブタが爵位より北国の美味しい食べ物を所望していようとしていたことはまさに秘中の秘であった……。
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