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~南方編~

第七十九話……宰相殿のご神算

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今日の海は晴れ渡る。
純白の船の帆のように。




「それでは各々方、頼みまするぞ!!」
「「「応!」」」

 スプールアンス軍政長は会議を取りまとめ、主人であるアルサン候爵を無視して作戦開始の号令を発し、またそれに諸将も応えた。

 ジャムシードの港町では、次々と船に帆が張られ、勇ましく出航していった。


――ただ一人、その景色を政庁の窓から見下ろすアルサン侯爵の姿は寂しそうではあったが。




「すみませんな」

 諸将が出払った政庁の一室で、リーリヤたちとくつろぐブタに、老紳士はお茶を入れてくれた。緑色の湖に波紋が広がる。
 老紳士の名はレオナルドといった。白髪交じりの淑女うけしそうな男だった。


「あの話は本当ブヒ?」

 お茶の器を手にしたブタから静かに話を切り出した。

「ええ、二つのお礼は必ずしますとも」

 レオナルドは明るく、そして快活に答えた。

「そうじゃなくて、アルサン侯爵……」
「……ええ」

 二人とも歯切れが悪い会話が続いた。
 先の会議中に老紳士ことレオナルドがブタにお願いしたこととは『味方よりアルサン侯爵様を守ってほしい』とのことだった。
 えもいわれぬ会議室の空気も相まって、それを聞いたブタはアルサン候と同じ場所に布陣することを慌てて申し出て許可された。

「そんなに味方が信じられないブヒ?」

 珍しくブタが眉間にしわを寄せる。それはリーリヤたちが煩いせいもあるのだが、

「ええ、そう思われて構わないかと。子爵様もお館様に肩入れするなら、このジャムシードの町の夜道は気を付けられた方がいいですぞ」

 レオナルドは冗談めいて笑ってそういったが、

「ブヒ!?」

 ブタはとてもびっくりした。元来ブタは不動の山のごとく豪胆といったタイプではない。人通りの少ない夜道も怖い、中身が中学二年生の男の子だ。
 
「なんでそんなに味方と仲が悪いブヒ?」

 ブタは心を鎮めるために、コップの中のお茶を忙しなく匙でかき混ぜる。

「はっきり言いますと、もともとが敵同士なのですよ」

 レオナルドはびっくりしているブタを上から笑うようにそういった。
 レオナルドが言うにはアルサン侯爵領とは、ハリコフ王国に臣従した小さな王国が祖であるそうだ。
 長らく平和であったが、宰相がドロー公爵になってから重臣ポストがハリコフ出身者で占められるようになったという。

「もともとの重臣さんはどこへいったブヒ?」

 ブタは若干この男との話つらさを感じるも続けた。

「……」

 きこえない。レオナルドは見かけによらず声が小さいのもあるが、近くであそんでいるリーリヤとウサがとてもうるさいのだ。

「ブヒ?」

 ブタはしかたなく身を乗り出した。

「いえ、今回の反乱勢力のいくつかは当家の元重臣でして」

 レオナルドは人ごとのように笑いながら告げた。が、ブタが白い眼をしているのに気づき、大きなため息をつき元の沈んだ顔つきに戻り話をつづけた。

「その昔、ドロー公爵は当時19歳であった若きアルサン侯爵に目を付けまして、その地位と政治背景をもとに強引な求婚をしたのです」
「しかし、当時のアルサン侯爵の重臣たちはそれを頑なに跳ねのけまして、ドロー公爵はそれを根に持ち今に至るわけです」

「ドロー公爵はそんなアホブヒ?」

 ブタが不思議そうに問うと、

「いかに神算能う知者であっても、感情には勝てません。それが人間というものです」

 レオナルドはブタに『まだお若いですな』と優しく諭したかったようだった。

「でも、アルサン侯爵を殺すまではしないと思うブヒ」

「わたしも今まではそこまではないと思ってはいたのですが……」

 老紳士はそういい、一枚の羊皮紙をブタの前に示した。それはハリコフ王国の財政状態を端的に示したものだった。

「ブヒ? 真っ赤赤ブヒ!」

 クローディス商館で少し帳簿を学んだブタはその酷さにびっくりした。

「そうですな、昨今の不作にも関わらず南方のアーベルム港湾自治都市に海上にて大敗を2回。で、この度トリグラフ帝国に実質上敗北しておりますれば……」

「とてもお金ないブヒ? ……ということは?」

「そうです、ここアルサン侯爵領はハリコフ王直轄地についで豊かな地でございますよ、子爵様」



 ドロー公爵は数々の失政のツケと、大きく傾いた王都の財政の帰結地として、この豊かなアルサン侯爵領を欲しているのだ。レオナルドの示唆するところの危機はあながち嘘ではない、ブタはそう思ったのだった。
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