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さくらいろ
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「良くて半年です」
はーちゃんはもうすぐ死ぬらしい。
一緒に先生の話を聞いていた時、はーちゃんは余命宣告されたというのにおかしいくらい落ち着いていて、わたしばかりが混乱していた。だって、はーちゃんはまだ二十代そこそこで、病気だって今まで無かったのに、突然死ぬなんて。
部屋から出ると、はーちゃんは自分が宣告された側だと言うのに、わたしを気遣うように言った。大丈夫だよ、と。わたしはそれになんと返事したのか覚えていない。ただこの言葉だけは覚えている。
「今から準備、していかないと」
わたしはそんな準備、少しだってしたくないよ。はーちゃん。
「コウ! なに!? この書類!」
樫井葉月はテーブルに書類を叩きつけた。駅から徒歩五分、電車の線路横にあるマンションに二人で住み始めてから早五年。テーブルの向かいで花宮コウは今日も何が楽しいのかニコニコしている。
「何ってー、婚姻届? ウチの親がそろそろはーちゃんを彼女としてウチに連れてきなさいって勧めてくれた! 流石生まれてからすぐの付き合いともなると話が早いよね!」
「私はそんなの一切聞いてない!」
「言ってないもん」
コウとは実家が隣同士、誕生日も同じ、ついでに生まれた病院も同じ、親同士がとにかく運命的な出会いをし、生まれてからすぐに顔合わせをさせられた所謂幼馴染だ。大変不本意だが。
「なんでそういう大事な話をいつもしないの!」
「サプライズって大事じゃん?」
昔からそうだった。コウはいつも自分の後をついてきて、幼稚園小学校はまだしも、中学、高校も同じところを選び、挙句の果てには進学先を秘密にしていたというのに、どこから情報が漏れたのか東京にある高校まで追って来た。そんな生活に嫌気がさして、高校の、進路を決める頃。私はコウに嘘の進路先を教えた。芸術系大学を選んだから、万が一バレても追っては来られないと思っていた。
結果は、私がバカを見た。甘く見ていたとも言って良い。確かにコウはぽやぽやしていて何も考えていない、頭のネジをどっかに置いてきたようなバカだが、コイツは成績だって「廊下に張られる成績のランキングもはーちゃんの隣が良いから」とか言ってテストの点を調整してくる奴なのだ。これもどこから話が漏れたのか、入学当日。人生で初めてコウが居ないキャンパスを最高の気分で歩いていた時。「はーちゃん!」と正面から手を振って駆け寄られた時は膝から崩れ落ちた。
コウは私の志望大学に特待生枠で入学してきた。「流石に大学は本気でやらなきゃいけなかったから成績隣にするの無理だったー」とか報告してきた日には殺意が湧いた。
それから何がどうなったのか自分でもわからないうちに何故か、女同士だと言うのに付き合うことになり、就職を機に同棲した。ルームシェアと言い張りたかったが「同棲だよお」と言われて反論できなかったのは忘れられない。
毎日の様に告白してくるコウに根負けして交際を始めたが、コウの事は嫌いでもないが好きでもない。ただの腐れ縁としか見れなかった。世の中には便利な言葉があるもので「同棲している幼馴染」と言うのが私から見た自分たちの関係だ。だがコウはそれでは不満らしい。現にこうして籍まで変えようとしている。紙はほぼ記入済、残りは私の記入欄だけで本当に親まで話が行っているのかと眩暈を起こしそうになった。
「ねえ、はーちゃん。もうすぐ誕生日でしょ? それに合わせて籍入れるのはどうかな」
「まるで結婚するみたいな言い方」
「同義じゃん」
「嫌よ! そんなの出しても何の意味も無いし、第一親に改めて言う意味がわからない!」
「決意表明だよ~」
「とにかく絶対書かない!」
「いけず~」
コウは頬を膨らませてそういうと机に顔を伏せた。どんなにぐずられても折れるつもりはない。傷つけたくないから。
『良くて半年です』
最初は、身体が上手く動かなくなったのが始まりだった。でも、元々強い身体ではなかったから、またいつもの事かと放っておいた。それがいけなかった。症状が悪くなってコウに病院に無理矢理連れて行かれ、やっと病気が判明した。
まあ、この辺が妥当か。と思った。昔から身体が弱くて長生きはできないだろうというのは心のどこかで察していたしショックはあまりなかった。それよりも一緒にいたコウが錯乱してしまって、自分が悲しむ余裕が無かったのもあった。
(……次のさくらは見れないなあ)
そろそろ、自分は死ぬ。延命治療や入院は選ばなかった。今まで夢も目標も無く生きてきた。そんな無気力な自分が最後にあがくのもカッコ悪いと思ったから。コウも自宅にいるのには賛成していた。勿論、定期的な通院は口を酸っぱくするほど強制された上での条件だけども。花宮コウは少し前まで、一部の界隈の話題をかっさらっている大人気アイドルだった。自宅療養は家にいる時間が短い彼女にとっては、一緒にいる時間が少しでも増えるから嬉しいと言っていた。その勢いで、急に半年前アイドル活動をいきなり無期限停止。理由は自分の為だと悟った。そんなことは望んでいなかったのに。
死ぬのが怖いという気持ちは無い。気になるのは、コウが自分が死んだ後どうなるか。それだけだった。
(ま、あの子にはあの子の夢があるしね)
トップアイドルになるという夢。昔から言っていた、彼女の目標。
「誰かを元気にさせるトップアイドルになります!」
中学校の頃、将来の夢を発表する、と言う授業があった。私はどうでもよかったから適当にお嫁さんとか言った気がするし、周りの子もそんな感じだったけれど、私の真後ろの席の彼女は、堂々と言い切った。みんなバカみたいと笑う。だって、特別可愛いわけでないコウが、アイドルだなんて。馬鹿らしい。現実を見れてない。そうクスクスを笑われながらも恥ずかしがらずに彼女は続ける。
「どんなに笑われても構いません! わたしは絶対、テレビに出れるアイドルになります!」
それでまだ夢の途中とは言え、アイドルに本当になってしまうのだから世の中は不思議だ。
自分が死んだら、そりゃコウは悲しむだろうけれどあの子は強い子だ。恋人の死を乗り越えて前に進むに違いない。それだけのメンタルがあの子にはある。
(私は私のやることがあるし)
コウが家事をしている間、私は生前整理を進める。どうせ死ぬのだから物を捨てるだけなのだが、これがなかなか骨が折れる。ゴミの分別は大変だ。
(これはいらない、これもいらない、これは欲しがっていたし知り合いにあげよう。これは……)
一本のペンライト。これは捨てられない。
これは、数年前。初めてコウがライブをした時に買ったペンライトだ。カラーはさくらに似たピンク。まだ地下でアイドルやっていた、アイドルになりたてのころの品だ。コウのサイン付きだからフリマアプリで売ればそこそこの値段が付くだろうけど。
(これは……、一緒に燃やしてもらおう)
今でも覚えている。フリフリの衣装を着て、似合わない汗の粒を浮かべて、ステージの上で歌う姿。運動神経悪いくせに、ステージの上ではキレッキレで、どれだけ努力して板に上がったのか、最前列で私は見せつけられた。数十人の客の中で泣いていたのは自分一人で恥ずかしかったけれど、誇らしかった。私の幼馴染は、最高なんだぞって叫びたかったくらいだった。
――思い出のこれは捨てられない。
(死んだら、もう見られないのか)
死ぬのは怖くない。ずっとわかってたから。わかってたから、自分は自分の中での全ての選択を後悔しないように舵を切って生きてきた。でも。
(私が死んでも、物語は続くんだ……)
コウはきっと前に進んでいく。それを最前列で見られないのが、恐らく私にとって唯一の悔やまれること。
その日は雨が降っていた。
気圧のせいか具合がいつも以上に悪い。気分も身体も重い。コウはベッドから出られない私を気遣ってかいがいしく世話をしてくれる。申し訳なさで死にそうだった。
昔からコウにはお世話になりっぱなしだった。なのに、離れようとして、冷たくして、交際が始まっても恋人の様に甘えられずで、私はコウになにもしてあげられていない。だけど、この性格は変えられない。だって、これは鎧だから。
プライドが高いのは自覚している。
でも、そうでもしないと心が壊れてしまいそうになる。
昔から嫌いだった。病弱で守られてか弱いヒロインが。
どうして抗わない、他人に何かを求める前にやることがあるだろう。そう思うと同時に、自分がそのポジションに立っている事を嫌でも自覚する。
病弱な事を理由に何も努力してこなかった。
コウに守られてばかりで、何もしてこなかった。
運命に抗うことを諦めた。
だって、物語は思い通りにいかないじゃない。抗ったところで病気は治るの? 奇跡は起こるの? 何も変わらないでしょう?
だから、ツンケンした鎧を被ってきた。大丈夫、自分は最後の矜持だけは守り抜く。か弱いヒロインにはなりはしない。それでも、思うことがあるのだ。
二十年とちょっと生きることができた。小さいころ告げられた予想を超えた大往生だ。だけど、その代わり何も残せなかった。ただ、毎日を死を乗り越えながら生きる。それしか出来なかった。生きていた証なんて何も残せていない。
まだ現実が見られない小学生の時の話。私はテレビで見るアイドルに憧れた。私も希望を与えられる存在になりたい、と。
――でも、私にはアイドルになるなにもかもが無かった。
練習に耐えられる身体が無かった。実行に移す覚悟が無かった。諦めない才能が無かった。
だから妥協して昔は作詞家になりたかった。 机の上でも書ける作詞を選んだ。作曲も出来たけれど、高校生の時にコウに実力の差を見せつけられて辞めた。あの子は、アイドルとしては凡だけれど、作曲の才能は誰よりもあった。それでもアイドルであることを選ぶのだからおかしな話だ。
私の書いたうたを歌うコウはやがて才能のかけらを拾われる。事務所の用意した曲を中心に歌うようになったコウに私のうたは必要なくなった。
彼女と違って、私は何も残せなかった。きっと私の存在は大多数の思い出にも残らない。身内だって、しばらくしたら私を置いて前に進むだろう。
「私って生きてる意味あったのかな……」
気が付いたら声に出ていた。
何も残せなかった。誰にも何かを与えることが出来なかった。そんな存在に存在価値はあったのだろうか。いや、わかっているのだ。自分の存在価値を他人に見出すなんて馬鹿げている。自分の価値は自分で作るものだ。そんなことはわかっている。
でも私は、寂しい。全て理解した上で自分の存在がやがて風化していくのが寂しくて、怖い。
誰だって死ねば存在は風化してゆく。それが適応されないのなんて歴史上の偉人くらいだろう。大多数の人間は人知れず消えていく。存在など周りの人間以外に認知されないまま。
私はそれが苦しい。
人間関係の幅が少ないのも要因にはあると思う。両親とコウ、彼女の親、医師。私の人生に深くかかわったのなんかそれくらいの人数で、裏を返せば私が死んでもその程度の人数しか悲しまない。
だから「意味」が欲しかった。誰かに生きていた証を依存したかった。
……馬鹿な話だ。
「何も残せないなら、生きてた意味なかったな」
闘病は頑張った。それは評価しよう。でも、それだけだ。
自分だけで完結したこの人生に意味なんかない。
「はーちゃん……?」
気が付けばコウが寝室の入り口で立ち尽くしていた。
「……聞いてた?」
無言の意味は肯定。コウは涙を浮かべながら私に駆け寄る。それから私を何も言わずに抱きしめた。耳元でぐすぐすと泣く声がする。
「ごめんね……、何もできなくてごめん……」
コウ、何も言えなくてごめん。大丈夫、伝わってるよ。
こっちの胸が痛くなるくらい。
病状は悪化していった。最低限の治療しかしていないんだから当然だ。
「はーちゃん……」
「気にしてないよ。わかってたから」
病院の帰り道で私達は無駄話をしながら、ケーキを買って帰った。お高いフルーツ専門店のホールケーキ。今までだったら買わなかったけれど、もうすぐ食べれなくなると宣言されると逆に食べたくなって買ってしまった。四号で大体四千円。見栄えするし、地元のケーキ屋よりこっちにしとけばよかったなとか今更思ったり思わなかったり。
「はーちゃん、本当に入院しなくていいの? 入院したらもっと長く生きられるかもしれないんだよ?」
「好き勝手生きたいの、コウが一番知ってるでしょ。私はギリギリまでコウと一緒にいる」
お嫁さんは叶わなかった。外堀から埋めていくコウから逃げきれなくて少女漫画みたいな恋も出来なかった。でも、まあいっか。と思う。一種の諦めだ。
――私は、別に不幸じゃない。やることはやった。
医者が言うには、あと二、三ヶ月。何もやることはないけれど、仕事は辞めたし、衣食住は仕送りと貯金とコウの金でどうにかなる。久しぶりに会えてなかった友達に声かけて遊ぶかとも思ったけれど、やめた。この間まで元気だった人の訃報を聞くなんて悲しくなるだろう。コウでこれなのだ、もう悲しむ人を増やしたくはない。
「はーちゃん」
「何?」
「わたし、明日からちょっと家開けるから。でも夜は絶対帰ってくるから家事任せていい?」
「わかった」
余命は確定した。そろそろ彼女も復帰を考えなければならないのだろう。恐らくその為の準備でもするつもりなのではないだろうか。恐らく、次のステージに自分は行けない。だから何も言及することはない。
思えば、モブみたいな人生だった。
結果として女性と付き合っていて身体が弱く余命宣告されている。字面だけを見れば見事な悲恋物語の主人公で、他人と違うけれども、それ以外は他と変わらない。むしろ、設定凝ったせいで中身は空っぽ。誰がどう見てもつまらない人間が、可愛そうな女の要素が書かれた入れ子の中の一番奥にに入っている。そんな自分を嫌ったことはなかったけれど、特段好きになったこともない。つまらない。生きてる意味なんて会ったのだろうか。短い命なら、最初から産まれさせなければよかったのに。と神様に言ってみる。まあ、いるかもわからない神にそんなこと言っても意味ないけど。
「……はーちゃん、電話してきたよ。ケーキ食べよう」
「うん」
キッチンで用事の電話をしてきたらしいコウが切られたケーキを持ってくる。桜色の限定ケーキは思い出のサイリウムの色に似ていた。
「ん~っ! ふわっふわ! 奮発してよかった~! ね、はーちゃんも思うでしょ?」
「うん、おいしいね」
コウに、言っていないことがある。
味覚が、もう機能していない事。SNS映えするかなと思って買ったけれど、私にはこのクソ高い、パティシエが趣向を凝らしたケーキの何の味もわからない事。
医者はストレスだろうと言っていた。こうやって、味覚が無くなって、目も見えなくなって、耳が聞こえなくなって、そして心臓が止まってゆくのだろう。
——大丈夫、私は意味は見いだせなかったけど、後悔はしない生き方をした。
そう自分に言い聞かせる。そうしなければ泣いてしまいそうになるから。
生前整理も大分片付いた。
「……いつ死んでも大丈夫ね」
残った荷物は段ボールみっつ。これは親に処分をお願いしている。それから、一緒に焼いてほしい小物が数個。そこにはコウのペンライトも含まれている。
「……いつ死んでも」
私は、もうすぐ死ぬ。そういう運命だ。覆せない。これがハッピーエンドの物語でない限り。これが小説や漫画ならば、ご都合主義で病気が治るんだろうけれど、夢見る年齢はもう終わって、私は現実を知る年齢になった。
これは現実だ。
だから、病気を治してくれる天才医師も現れないし、最後の最後に幸せにしてくれる王子様も現れないし、奇跡的とかも起こらない。認めなければいけない。自分が本当に、本当に死んでしまう事。
「……っ」
怖い。
後悔しない生き方はした。心残りもない。形あるものも、無いものも整理できるものは整理した。あとはもう死ぬだけ。
怖い。
自室には、段ボールがみっつ。それだけ。それだけしか残らなかった。私の人生、これだけしか残らなかった。
「……っ、なんでよ……」
なんにものこせなかった。なんにもなれなかった。ぜんぶあきらめた。
「なんで……っ、わたしばっかり……っ!」
世界には“普通”の女の子が大多数で。こんなのレアケースだ。
でも私は知っている。
同じ境遇であっても、頑張った子、生きた証を残した子はいる事。
この結果は、私の自業自得だ。
「仕方ないじゃない……っ!」
私は無意味な行動は嫌いだ。怖かったのだ。頑張る途中ですべて失うのが。だから避けて、避けて、避けて生きてきた結果がこれ。
「……はーちゃん、なんで泣いてるの……?」
洗濯籠を横に置いたコウが扉の前で立ち尽くしている。扉は閉めていたのに。
「泣き声がしたから開けてみたら……どうしたの……!? どこか痛い!?」
どうして勝手に開けるの。隠させなさいよ。見せたくないのよ。こんな姿。
——特にアンタには。
「来ないでっ!」
喉の奥から出てきたのは泣きそうな震えを含んだ叫び声。自分でも驚いた。こんな、情けない声を自分が出すなんて。カッコ悪い所なんて、見せたくないのに。見せてしまった。
そう思うとあふれ出してくる。今まで塞いでいたモノ、全部。
「あ、あんたはいいわよね、『これから』があるんだもの」
「……はーちゃん?」
噴水みたい。汚い噴水。
「私には、何も残らなかった……。なにこれ、こんな段ボールみっつが『私』なの……?」
「それはちが」
「ちがくないッ!」
ねえ、私ね。こんな醜態は誰にもさらしたこと無いの。
「アンタに私の気持ちがわかるッ!? 明日死ぬかもしれない、明日は動けないかもしれない、来年の保証はない! そんな状況で挑戦なんかできないわよッ……!」
「……っ」
私は、冷静な私でいたいの。こんなのは私じゃない。
「そしたら、なにも……なんで何も残らないの……。わたしってなに……?」
お願い、見ないで。こんな情けない本当の私を見ないで。
「アンタは夢に向かって走れたっ! そこで見る景色はどう!? 男のファンもついてさぞ気分いいでしょうね!? 私の事が好きって言うけど、私が死んだら男に乗り換えるに決まって――」
パシンと、静かな部屋に音が響いた。頬に痛みが走る。コウは無表情で私を見ていた。
「……あ」
「…………」
無言でコウは私を見据える。こんな表情、私は知らない。どうしたらいいのかもわからない。訂正すればいい? いったいどこから。
だって、今のは全部、私の――。
「いくらでも本音はぶつけていいよ」
コウはそう言って、未だにジンジンと痛みを主張する私の頬に手を当てる。その手は先ほどとは違い、優しかった。それでも目は真剣で、声もいつものふわふわしたものではなく、尖っている。そう思えるような通った声だった。
「でも、わたしを勝手に決めつけないで。わたしのやることはわたしが決める」
そして、コウは私を突き放す。
「わたしは、明日死ぬって状況でもステージの上に上ろうと努力はしたよ」
「ッ!」
言われた。一番聞かれたくない言葉を、言われてしまった。
そうだ。全て私のせいだ。
この結末は、私が選んだ。
その絶望が目の前を真っ暗にする。だから私は部屋を去っていく彼女の最後の言葉を噛み砕けず耳に通すことしか出来なかった。
「アンタは、何も残せなかったわけじゃない」
コウはその日、帰ってこなかった。
あれから、コウとはすれ違う気まずい日々が続いている。このまま死にたくないな、と初めて心に引っかかるものが出来た。謝りたい。仲直りがしたい。でも、プライドが許さない。コウから話しかけてくれれば返してもいいけど、と思ったけれどコウはあれから私が寝る時間まで帰ってこない。
「自宅で、と言う意思は変わらないんですか」
「はい」
医者とのこれは何度目の問答になるだろう。私はもういつ来るかわからない死を待つだけになっていた。明日、いや数分後に死んでもおかしくない身体は日に日に動くのが辛くなっている。それでも、薬以外で医者に頼る気はなかった。
「別にいつ死んでもいいんで」
親には勿論泣かれた。実家にいなさいと。いてくれと。でも、一緒にいたら嫌でも死を意識して悲しくなるじゃないか。身内の泣き顔なんか見たくない。
「死んだら使える臓器は適当に使ってください。それくらいしか私の価値ないでしょうし」
それを聞いた医者は複雑な表情をする。何浸ってんだよ、アンタは仕事で見てきただろ。こういう人間を山ほど。
会計をして、スマートフォンを確認する。電話が一件入っていた。コウからだ。なんだろう。慌てて履歴を見るに着信自体は数分前のものなので、まだスマートフォンをを手放していないだろうと推測し、リダイアルする。予想通りコウはワンコールで出た。
「もしもし、コウ? 診察終わったけど何の用——」
『はーちゃん』
電話越しのコウは真剣な声色をしていた。それに圧倒され、出てくる言葉に動揺が混じってしまう。いつものふわふわ、ほわほわした雰囲気は無い。
『今日の夜六時、ライブハウスに来て。ペンライト持って』
「は……?」
『今から地図送る』
そうして送られてきたのは都内の小さなライブハウスの地図だった。初めてコウがステージに立ったあの場所。ここから近くもないが遠くもない。行くのは可能だが、まさかライブでもやるつもりなのか? そう聞くとコウはハッキリと答える。
『うん、ライブやるの。だから来て。待ってるから』
そう言って彼女は電話を切った。なんなんだ一体。ライブをやるという事はアイドル活動を復帰するつもりなのだろう。大方、そのリハーサルを見て欲しいとかだろうか。
まあ、きっと今日を逃せば次は無いし。定期券を改札にタッチして自宅方面へ向かう列車のホームに向かう。ペンライトは部屋にある。
ライブハウスは昔と変わってなかった。相変わらず小さい。
まあ、リハだろうしな。受付さえいないライブハウスに少しだけきょどりながらも中に入る。客スペースには誰もいなかった。照明すら消されている。足元を照らすためにペンライトをつけた。さくら色。最初はライブにペンライト持ってくるなんて文化わかんなくて当日に急いで電気屋に向かったっけ。
そんなくだらないことを思い出す。あの時は、まだ死ぬとかぼんやりとしか思ってなかったな。
——もう私には関係ないことだけど。
そう考えた時だったステージに人の気配がして、証明がステージの中心を照らす。その下にいたのはあの日と同じフリフリのさくら色の衣装を着たコウだった。彼女はとびっきりの笑顔を貼り付けて客席に手を振る。
「今日は来てくれてありがと~っ!! コウはとっても嬉しいよ~! だって、今日はコウの最初からのファンの人の為に考えて、考え抜いたライブなんだから!」
(リハだし、私しかいないけどな)
実際の所、動員は何人くらいなのだろう。SNSのフォロワーは数万人だけど久々だし。当日にぎやかしに来てやるか。生きてたらの話だけど。
「今日の為に作曲は自分でやって、振りも考えてきました!」
歌詞は外注したんだな、暗にそういう事を言ってしまう馬鹿さに笑ってしまう。確かにコウは楽器を演奏できるし振りも考えられるけど、昔から文章だけはてんで無理だった。私の作ったうたで路上で歌って、それでアイドルにスカウトされたんだっけ。
「それじゃあ、うたいますっ!」
息を吸った音をスピーカーが拾った。イントロが流れる。Aメロで気づいた。この曲は。
「……っ、なん、で……! そんなことすんのよ……っ!」
路上ライブの時よりもっと前、彼女にプレゼントしたうただった。
はーちゃんは、昔から身体が弱かった。
「はい、プリント」
「こーちゃん、ありがと。明日は多分行けるから。って言うか行く。国語あるし」
はーちゃんは勉強が好きだった。自他共に頭ぽわぽわなわたしと違って努力して成績を残すタイプで、いつだってテストは満点。そのかわりすぐ熱出しちゃうから、学校にはあんまり来なかったけど。そういう時、ご近所さんであるわたしがいつもプリントを届けに行く。はーちゃんはどんな時もテレビでアイドル番組を見ていた。
「……アイドル好きなの?」
わたしにはよくわからない。テレビの中で歌ってる人、自分には全く関係ない世界の住人というイメージしかない。はーちゃんがそこまで好きになる理由がわからなかった。
「……もし、元気な身体があればアイドルになりたかったのよ」
「はーちゃん美人だもんね」
「でも私には元気な身体がない。アイドルにはなれない」
それは残念な事で。わたしの夢はお嫁さんだ。女なら家庭に入って素敵な旦那さんと結婚して子供産んで幸せになる。それが義務だと思うからはーちゃんの気持ちはわからない。全く。
「で、それは?」
ベッドサイドテーブルの上には一枚の紙。そこには何か文章が書かれている。
『希望を失わないで 願いはきっと叶うから』
センスの無い文章。なにかのポエムだろうか。
それを凝視していると、はーちゃんは腕でそれを慌てて隠して、気まずそうに言った。
「アイドルにはなれない、から。私はうたを書く人になりたいの。私の作ったうたでこの子達が輝けたら素敵だなあっておもって」
「ふーん」
わたしにはよくわからなかった。わかったのは小学校六年生の時。一緒に遊んでいる最中にはーちゃんが発作で倒れた時だった。はーちゃんのお母さんに「葉月は長生きできないの」って聞かされて、それで。やっと彼女が作詞家を目指していた意味が分かった。わたしが思うより、神様は酷い事をする。夢を見る権利すら奪われた後の妥協案が作詞だったのだ。自分のうたで誰かを。
わたしはその時思った。誰かよくわからない男か女だかに彼女のうたを使われるなら、彼女の想いを多少なりとも知っているわたしが、誰かに彼女の宝石や金みたいなキラキラしたものを届けるつばめでありたいと。
「はーちゃん」
「……何? 迷惑かけるのやめろって? だったらアンタが私から離れなさいよ だいたい――」
「わたし、アイドルになる」
「……は?」
わたしは美人じゃない。将来の夢はアイドルには絶対許されないお嫁さんだし、素敵な恋愛もしたい。旦那さんはイケメンがいいし、運動も歌も努力も大嫌い。普通の暮らしがしたい。でも、それでも。
「はーちゃん、わたしにうたをちょうだい。わたし、完璧に歌ってみせるから」
それでも、わたしは、彼女のうたを届けたい。はーちゃんが生きてた証を残したい。他の誰かじゃダメだ。はーちゃんの近くで、はーちゃんの本気を知ってて、はーちゃんの人生を全力で知っているわたしじゃないと、彼女の「詩」は輝かせない。いや、言い換える。わたしが彼女のうたを輝かせたい!
はーちゃんのうたは、わたし以外に歌わせない。だから、わたしはトップアイドルになる。
——そして、いつか死んじゃうはーちゃんの夢を叶える。
彼女は、わたしのその想いを今も知らないだろう。死ぬまで、死んでからも知ることはない。彼女はそんな事実を知ったら怒るだろうし、きっと自責の念に囚われる。私がいなければコウは毎日泣かなかったのに、って。
事務所の言う事は聞く。でも、わたしの希望があれば、はーちゃんのうたを歌うことを条件に、地下から上がって上に来てからも、毎日泣いた。毎日ダメだしされた。才能無いとも言われた。でも、諦めなかった。絶対はーちゃんのうたを届ける。それはわたし以外の誰にもやらせはしない。
肝心の本人は忘れてしまったかもしれない。「うた」を書くのはわたしの趣味に付き合ってやってる、その程度の気持ちだったかもしれない。でもね、はーちゃん。わたしは――。
「は、は……! 聞き逃すなよ……!」
一曲目が終わり、しん、とステージが静まる。私はその空間でマイクを取った。一曲目から全力で歌って踊ったから疲れる。いつもこうだ。わたし、アイドルに向いてない。でも。
「わたしがっ! わたしこそがっ! 樫井葉月のうたを一番うまく歌える人間だーッ!」
ハウリングするマイクに向かってそう叫ぶ。
「わたしがここに立って歌ってるのは、はーちゃんが生きてたからッ! わたしが生きて歌っている限りはっ! はーちゃんの輝きを永遠にできるから! 何をやっても、泥水啜ってもッ! 絶対にステージに立ち続けるッ! 誰に揶揄されても、惨めでも!」
はーちゃん、わたしはね。
他の同業のみたいにアイドルが好きだとか、ちやほやされたいとか、なんかかっこいい理由なんて持ち合わせてない、他のアイドルから見たら嫌われるような理由でアイドルやってるけど。
――わたしは、この理由を一度だって間違ったと思った事は無いし、後悔だってしてないって言いきれる。
「そして――いつかトップに立ってやるッ! はーちゃんの人生に意味がなかったなんて言わせない! トップに立って、はーちゃんの書いたうたで、人を元気にできるようなアイドルになるッ! そして、この花宮コウを生んだ人間が確かに居たことを残してやるッ! 今日ここで誓うよ、だからその為に色々な人にかけあって、はーちゃんだけのライブを作ってもらった!」
「…………ば、かじゃないの?」
きったない顔。美人が台無しじゃん。はーちゃんは顔を歪ませて、メイクを涙でボロボロにしてしゃくりあげた。あーあ。鼻なんか啜って。ここがステージの上じゃなければ傍に言ってハンカチを差し出すことが出来たのに。
「なに、わたしのため、だったの……? ぜんぶ……わたしの、むかしのゆめ……」
「違うよ、これはわたしのエゴ。わたしね、はーちゃんが好き。樫井葉月の事が好きだよ」
勘違いしないで欲しい。誰かの為なんてそんな綺麗な理由でここに立てるほど、わたしは主人公じゃない。ただのフツーのモブが星に手を伸ばしてるだけだ。だけど、モブに星に手が届かないなんて誰が言った?
「アンタが残したんだよ、樫井葉月。このトップアイドルになる予定の花宮コウを。段ボールみっつじゃない。世界を笑顔にする人間と、希望を与えるうたを、アンタが残した」
この世界でわたしは主人公じゃない。だけど「花宮コウ」の人生での主役は、いつだってわたしだ。予想していた未来じゃなかった。昔に望んだ夢ともかけ離れて、キャリアと共にこれからいろんなものを失って取り返しのつかないところに向かって行くと思う。
「だから、安心して死ね。段ボールみっつなんかじゃない。ファンの人全員が、アンタの残したうたを心に残してる。……わたしがここで主張し続ける限りは、アンタは永遠になる。だから、わたしは何があろうとステージを降りない。一生をアンタの人生に捧げることを誓うよ」
本当はね、お姫様になりたかったんだ。王子様みたいなかっこいいイケメンに見初められて幸せになって。それ、諦めたよ。だってさ。
『こーちゃん』
自分の全部をあげても良いと思うくらい、はーちゃんの事が大事なんだ。好きだよ。大好き。絶対、わたしは「わたし」を殺しても、樫井葉月を幸せにする。
わたしはくるりと周り、とびきり可愛い顔で客席に向かって叫んだ。
「はーちゃん、はーちゃんはそこで見ててね! わたしが、かっこ悪くても歌ってる姿を!」
これが主人公だったら、成功してたのかな。
人を引き付ける魅力があって、愛されて、誰かに選ばれて。
でもわたし、主人公じゃないから全部要らないや。
「かっ、こわるいなんて……、いうわけ、ないじゃん……!」
わたしの色、さくら色のペンライトを両手に握ったはーちゃんが震えた声で言う。
「せかいでっ、っ……! せ、かいでっ! こーちゃんは……っ! いちばんだよ……!」
主人公じゃないからさ、その一本のさくらがあれば十分なんだよ。
多分、はーちゃんは本物のさくらが見られる時まで生きられない。それはわかってる。わかってるから、わたしはさくらを咲かす。
「……っ!」
照明さんが作ってくれたピンクのライトに満開のさくらの影。わたしはそれをバックに全力で歌う。春が来ないならわたしが呼んでやる。それをやれる力が、わたしにはある。
口角が上がるのが自分でもわかる。不謹慎だけど、今までで最高のライブだよ。好きな子の為だったら何でもできるって本当だったんだなあ。
「五曲続けていくよーッ! スタッフのみんなっ! そしてはーちゃんッ! 今日のわたしを目に焼き付けて! 全力で湧いてくれよなああああ!!」
ダンスをする身体がしんどい。声が嗄れてうまく出ない。マラソンを全力疾走した時くらい身体が悲鳴を上げているのがわかる。 体力はとっくの昔に底をついている。
それでも。
「『希望を失わないで! 願いはッ! きっと叶うからッ!』
ねえ、はーちゃん。はーちゃんの願いは叶ったかな。
わたし、アイドルになって歌ってるよ。はーちゃんがなりたかった『理想のアイドル』とは遠いかもしれないけど、わたしははーちゃんに笑顔を与えられたかな。
「『笑って! 貴方の為のアイドルはいつだって傍に居るからっ!』」
泣き顔じゃわかんないよ。
ねえ、はーちゃん。
わたし、アイドルの心構えとかわかんないけど。
はーちゃんの目にはちゃんと映ってるかな。わたしっていう、樫井葉月の為のアイドルに。
「……今まで、ありがとうね。コウちゃん」
「はい、こちらこそです。むしろすみません。死に目に立ち会えなくて」
「いいのよ、あの子もコウちゃんには会いたくないって言ってたから」
はーちゃんは、桜の開花を待たずに亡くなった。医者曰く、よく頑張った方らしい。わたしは死に目には会えなかった。いや、故意に会わなかった。
『明日、多分死ぬから』
体調が悪くなって、最後まで抵抗したけど無理矢理入院になって、その日の夜にはーちゃんから電話が入った。
「……予想より長生きしたね」
『そうね、それで明日なんだけど復活ライブと被るじゃない』
「中止だよ、死に目に会えないとか絶対後悔するし」
『来ないで欲しいの、ライブに行って』
そう言うだろうな、とは思っていた。はーちゃんはプライドが高いから弱ってるところとか特に見せたくないだろうし。でも、ライブを優先したらわたしはきっと現実を見れずに生きていくことになるだろう。はーちゃんがいない世界を実感できなくて、新しいうたは、あがらなくて、一番好きな人が隣にいない世界。何回も想像してきたけれど、実感はできなかった。それを一生持っていけと言うのか。
『あのね、私の願いはコウがアイドルやって、沢山のさくら色に囲まれることだよ。叶えてよ、私の夢』
「……でも」
『私が居なくなっても、“私”は残るでしょ?』
「……そうだね」
ステージにいる限り、はーちゃんはわたしの傍に居る。それは確かだ。でも、人間の倫理観が、常識が、はーちゃんを否定する。
物語なら、好きな人を看取ってハッピーエンドだろう。わたしは、看取る事すらできないのか。
そう言うと、はーちゃんは笑った。お願い聞いてよ、って軽い口調で。
『新曲作ったの。音楽まで勉強したのよ? 作曲作詞全部私。私の人生全部詰めたそれ、ファンに向けて歌ってよ』
わたしは、ただひとりに届けばよかったのに。その人から否定されたら。
『ねえ、ネガティブなこと考えてるでしょ』
長年の付き合い彼女は、わたしの心を見たように言い当てる。
『私は、こう言ってんのよ。“私を死んでも傍に置いて”って』
「……酷いこと言うなあ。流石のわたしも死に目に来るなとか言われるとか思わなかったよ」
一生、後悔するだろう。
一生、枕を涙を濡らすだろう。
一生、傷は治らないだろう。
――だけど、ここでやらなきゃ絶対もっと後悔する。
「わかった。わたし、歌うよ」
電話が終わり、メールでファイルを受け取って、中身を見た時にひとりぼっちの部屋でわんわん泣いた。曲のタイトルは『さくらいろ』だった。
「あはは……センスないなあ……」
そう呟いた時『肝心のファイル忘れてたわ』とメールで音源が添付されてきた。ダウンロードして再生ボタンを押す。それで、全部納得いった。
――大丈夫。わたしは、歌える。
わたしはその日、歌いきった。
訃報を聞いたのはそれからすぐ後だ。
「……そうですか」
わたしの喉から出た声は、思っていたより落ち着いていた。
「はーちゃん、頑張ったんですね」
はーちゃんのお母さんが嗚咽を漏らす。わたしは涙すら出なかった。ただ、はーちゃんはもう死んだのだと、それだけ理解した。泣きわめくことはしなかった。本当は噛み砕けていなかったのかもしれない。好きな人が死んだという事実が。
通話を終えて、息をつく。笑いが誰もいない控室に響いた。
「あーあ! 婚姻届、結局書いてもらえなかったや!」
あんなものに効力なんて無い。ただ、証が欲しかった。心が折れそうなとき、どうしてもダメになったとき、頑張れるきっかけだ。記憶は風化するから、どうしても形に残るものが欲しくて。欲しかったんだよな。はーちゃんから「好き」なんて聞かないからさ。
「でもダイジョーブ! コウにはちゃんと思い出があるもんね!」
一緒に過ごした日々や、彼女の声、顔、大丈夫。ちゃんとまだ覚えてる。
まだ。
「……まだ大丈夫……。大丈夫……わたしは……」
好きだった。彼女の書くうたが好きで、笑う顔が好きで、初ライブで泣いてくれた彼女が大好きでたまらなかった。必死で捕まえて、どうにか付き合うまでに至った。けど、わたしは最後まで「好き」を聞いていない。
「はーちゃんは、幸せだったのかな……」
わたしは幸せだった。でも、はーちゃんは?
どっかのしょーもない男に渡せばよかったか? 嫌だ。はーちゃんを一番幸せにできる人間はわたしだ。それは断言できるけど、彼女の気持ちは結局わからないまま。
わたしは葬式に行けなかった。
ステージには立てる癖に葬式には行けなかった。
死体の顔なんか見たら、泣いてしまいそうだから。わかって、それで、絶望してしまうから。絶望したら歌えない。わたしは絶対にマイクを放してはいけないから、だから行けない。両親とあちらのご両親はわたし達が付き合っていたのを知っていたから、辛いだろうと無理矢理わたしを引っ張り出すような事はしなかった。
結局、わたしは桜が咲くまで彼女には会わなかった。
彼女の夢を見るまで。
『ねえ、コウ』
夢の中で彼女はパイプ椅子に座っていた。
『アンタ、私のことなにもわかってないわね』
はーちゃんの事なら何でも知ってるよ、わたしはそう言った。
『どうかしら、私の事理解してるなら一回くらい会いに来なさいよ』
だって。わたしはそう言って、何も言えなかった。彼女が笑う。
『現実見なさいよ。アンタも前をむかないと』
ごめん。
『桜、咲いちゃったわよ。ウチの桜も見ごろかもね』
彼女が立ち上がって、白い世界に消えてしまう。待って、行かないで。
はーちゃん、お願い。
行かないで。
目が覚めたら朝だった。窓から見える東京の桜は満開だった。きっと隣県の桜も見ごろだろう。夢にまで出させてしまった。もう、逃げるのはおしまいの時間だ。
「桜、咲きましたね」
「そうねえ」
はーちゃんに線香を上げに来た時、はーちゃんのお母さんが庭の桜を見て言った。昔は樫井家の桜を見てお花見とかしたっけ。もうすることはないだろうけど。
「……コウちゃん、精神は落ち着いた?」
「そこそこです」
「見てもらいたいものがあるの」
お母さんはスマートフォンを取り出すと、軽く操作をしてわたしに渡す。そこには、はーちゃんと彼女が持つタブレット。タブレットにはあの日のステージが映っていた。
「え……」
「事務所にお話ししたの。映像くださいって。そしたら生ライブを送ってくれてね」
そんなのきいてない。きいてないよ。
「本当は病院はダメなんだけど事情が事情だし、個室だから特例で。葉月ね、笑ってたわ」
画面の中のはーちゃんが微笑む。
『ねえ、見て。綺麗なさくらでしょ? この歌、私も関わってるの』
客席のサイリウムがピンク色で、電池の減り具合とかでわずかに色が変わるまばらなピンク色は確かにさくらと言っても過言ではない。彼女は、あのライブを見ていたのか。
『私ね、こんなに早死にするなら生まれてこない方が良かったって何回も思ったけど』
白い歯が覗く満面の笑みで彼女は言った。
『ちゃんと残せたものはあったのね。これを見る為に生まれてきたなら満足だわ』
そこから容体は急変したようで画面が真っ暗になって終わり。三分に満たない映像でわたしの顔はアイドルにあるまじき不細工な顔をしていたと思う。
しゃくりあげるわたしをお母さんは背中をさすって慰める。
「それからね、これ」
クリアファイルに入った婚姻届を渡される。そこにはちゃんと「樫井葉月」の字が、彼女の字で書かれていた。
「あの子、最期の日これ書いてたわ。本当にコウちゃんの事が好きだったのね」
「……はーちゃんは」
「ん?」
「……はーちゃんは、わたしの事好きだったと思いますか……? 幸せだったと、思いますか……?」
はーちゃんと一緒にいたくて、恋人の座に無理矢理ついた。けど、思うのだ。自分の好意は奥にしまって、彼女に一般的な幸せをあげられたら、わたしが我慢さえすれば彼女はもっともっと幸せになれたんじゃないかなって。はーちゃんは美人だからかっこいい彼氏も出来てさ、幸せになれたんじゃないかなって。想わずにはいられない。
そう言うとお母さんは呆れたように笑う。
「もし、後悔してたらきっとこの紙なんか書かないわ。酷いことを言うようだけど、婚姻届なんて書いたところで、世間に認められることはないし、自分は死んじゃうしであの子にメリットはないのよ。むしろ、コウちゃんに呪いをかける良くない行為だと、私は思う。でもね、それでもあの子がこれを用意したのは最後に伝えたかったからだと思うの」
「何を……」
「もし、奇跡が起きて生きれたら。そしたらコウちゃんに私の一生をあげるって」
本当の所はわからない。だってはーちゃんはもう死んじゃって確かめるすべなんて無いんだから。でもね、思うんだ。
――わたし、はーちゃんを好きになってよかった。
夢は叶わなかった。かっこいい王子様みたいな旦那さんは現れなかったし、はーちゃん以上に好きな人なんてできないから家庭を持つことも出来ないだろう。周りは結婚とか、子どもとか、家とか。そういうステージにいるのにわたしひとりが夢を追いかけ続けてる。アイドル界には十代の子がどんどん入ってきて、わたしなんか「いつまでしがみついてるんだか」って笑われたりする。諦めろって言われたりもしなくはないよ。最低の日々だ。でもね、わたしが「わたし」を辞めることは一生無い。断言できる。あの日の一本の「さくら」の色に誓うよ。
ねえ、はーちゃん。はーちゃんの言う通り、わたし、わかってなかったね。
ちゃんと好きでいてくれたんだ。一方通行じゃなかったんだ。はーちゃん、幸せになれたんだ。
わたし、全部、忘れないよ。
わたし、毎年さくらを見る度にはーちゃんの事を思い出すよ。だからわたしがわたしを辞めるまで、一緒にいようね。
宣言通りの長い時間、わたしは貴方の生きてた証を残し続けるよ。
見ててもいいよ、だって、わたしは何があっても絶対に膝をつかないから。
――あの一本の「さくら」が目に焼き付いてはなれない。
いつまでも、いつまでも。
はーちゃんはもうすぐ死ぬらしい。
一緒に先生の話を聞いていた時、はーちゃんは余命宣告されたというのにおかしいくらい落ち着いていて、わたしばかりが混乱していた。だって、はーちゃんはまだ二十代そこそこで、病気だって今まで無かったのに、突然死ぬなんて。
部屋から出ると、はーちゃんは自分が宣告された側だと言うのに、わたしを気遣うように言った。大丈夫だよ、と。わたしはそれになんと返事したのか覚えていない。ただこの言葉だけは覚えている。
「今から準備、していかないと」
わたしはそんな準備、少しだってしたくないよ。はーちゃん。
「コウ! なに!? この書類!」
樫井葉月はテーブルに書類を叩きつけた。駅から徒歩五分、電車の線路横にあるマンションに二人で住み始めてから早五年。テーブルの向かいで花宮コウは今日も何が楽しいのかニコニコしている。
「何ってー、婚姻届? ウチの親がそろそろはーちゃんを彼女としてウチに連れてきなさいって勧めてくれた! 流石生まれてからすぐの付き合いともなると話が早いよね!」
「私はそんなの一切聞いてない!」
「言ってないもん」
コウとは実家が隣同士、誕生日も同じ、ついでに生まれた病院も同じ、親同士がとにかく運命的な出会いをし、生まれてからすぐに顔合わせをさせられた所謂幼馴染だ。大変不本意だが。
「なんでそういう大事な話をいつもしないの!」
「サプライズって大事じゃん?」
昔からそうだった。コウはいつも自分の後をついてきて、幼稚園小学校はまだしも、中学、高校も同じところを選び、挙句の果てには進学先を秘密にしていたというのに、どこから情報が漏れたのか東京にある高校まで追って来た。そんな生活に嫌気がさして、高校の、進路を決める頃。私はコウに嘘の進路先を教えた。芸術系大学を選んだから、万が一バレても追っては来られないと思っていた。
結果は、私がバカを見た。甘く見ていたとも言って良い。確かにコウはぽやぽやしていて何も考えていない、頭のネジをどっかに置いてきたようなバカだが、コイツは成績だって「廊下に張られる成績のランキングもはーちゃんの隣が良いから」とか言ってテストの点を調整してくる奴なのだ。これもどこから話が漏れたのか、入学当日。人生で初めてコウが居ないキャンパスを最高の気分で歩いていた時。「はーちゃん!」と正面から手を振って駆け寄られた時は膝から崩れ落ちた。
コウは私の志望大学に特待生枠で入学してきた。「流石に大学は本気でやらなきゃいけなかったから成績隣にするの無理だったー」とか報告してきた日には殺意が湧いた。
それから何がどうなったのか自分でもわからないうちに何故か、女同士だと言うのに付き合うことになり、就職を機に同棲した。ルームシェアと言い張りたかったが「同棲だよお」と言われて反論できなかったのは忘れられない。
毎日の様に告白してくるコウに根負けして交際を始めたが、コウの事は嫌いでもないが好きでもない。ただの腐れ縁としか見れなかった。世の中には便利な言葉があるもので「同棲している幼馴染」と言うのが私から見た自分たちの関係だ。だがコウはそれでは不満らしい。現にこうして籍まで変えようとしている。紙はほぼ記入済、残りは私の記入欄だけで本当に親まで話が行っているのかと眩暈を起こしそうになった。
「ねえ、はーちゃん。もうすぐ誕生日でしょ? それに合わせて籍入れるのはどうかな」
「まるで結婚するみたいな言い方」
「同義じゃん」
「嫌よ! そんなの出しても何の意味も無いし、第一親に改めて言う意味がわからない!」
「決意表明だよ~」
「とにかく絶対書かない!」
「いけず~」
コウは頬を膨らませてそういうと机に顔を伏せた。どんなにぐずられても折れるつもりはない。傷つけたくないから。
『良くて半年です』
最初は、身体が上手く動かなくなったのが始まりだった。でも、元々強い身体ではなかったから、またいつもの事かと放っておいた。それがいけなかった。症状が悪くなってコウに病院に無理矢理連れて行かれ、やっと病気が判明した。
まあ、この辺が妥当か。と思った。昔から身体が弱くて長生きはできないだろうというのは心のどこかで察していたしショックはあまりなかった。それよりも一緒にいたコウが錯乱してしまって、自分が悲しむ余裕が無かったのもあった。
(……次のさくらは見れないなあ)
そろそろ、自分は死ぬ。延命治療や入院は選ばなかった。今まで夢も目標も無く生きてきた。そんな無気力な自分が最後にあがくのもカッコ悪いと思ったから。コウも自宅にいるのには賛成していた。勿論、定期的な通院は口を酸っぱくするほど強制された上での条件だけども。花宮コウは少し前まで、一部の界隈の話題をかっさらっている大人気アイドルだった。自宅療養は家にいる時間が短い彼女にとっては、一緒にいる時間が少しでも増えるから嬉しいと言っていた。その勢いで、急に半年前アイドル活動をいきなり無期限停止。理由は自分の為だと悟った。そんなことは望んでいなかったのに。
死ぬのが怖いという気持ちは無い。気になるのは、コウが自分が死んだ後どうなるか。それだけだった。
(ま、あの子にはあの子の夢があるしね)
トップアイドルになるという夢。昔から言っていた、彼女の目標。
「誰かを元気にさせるトップアイドルになります!」
中学校の頃、将来の夢を発表する、と言う授業があった。私はどうでもよかったから適当にお嫁さんとか言った気がするし、周りの子もそんな感じだったけれど、私の真後ろの席の彼女は、堂々と言い切った。みんなバカみたいと笑う。だって、特別可愛いわけでないコウが、アイドルだなんて。馬鹿らしい。現実を見れてない。そうクスクスを笑われながらも恥ずかしがらずに彼女は続ける。
「どんなに笑われても構いません! わたしは絶対、テレビに出れるアイドルになります!」
それでまだ夢の途中とは言え、アイドルに本当になってしまうのだから世の中は不思議だ。
自分が死んだら、そりゃコウは悲しむだろうけれどあの子は強い子だ。恋人の死を乗り越えて前に進むに違いない。それだけのメンタルがあの子にはある。
(私は私のやることがあるし)
コウが家事をしている間、私は生前整理を進める。どうせ死ぬのだから物を捨てるだけなのだが、これがなかなか骨が折れる。ゴミの分別は大変だ。
(これはいらない、これもいらない、これは欲しがっていたし知り合いにあげよう。これは……)
一本のペンライト。これは捨てられない。
これは、数年前。初めてコウがライブをした時に買ったペンライトだ。カラーはさくらに似たピンク。まだ地下でアイドルやっていた、アイドルになりたてのころの品だ。コウのサイン付きだからフリマアプリで売ればそこそこの値段が付くだろうけど。
(これは……、一緒に燃やしてもらおう)
今でも覚えている。フリフリの衣装を着て、似合わない汗の粒を浮かべて、ステージの上で歌う姿。運動神経悪いくせに、ステージの上ではキレッキレで、どれだけ努力して板に上がったのか、最前列で私は見せつけられた。数十人の客の中で泣いていたのは自分一人で恥ずかしかったけれど、誇らしかった。私の幼馴染は、最高なんだぞって叫びたかったくらいだった。
――思い出のこれは捨てられない。
(死んだら、もう見られないのか)
死ぬのは怖くない。ずっとわかってたから。わかってたから、自分は自分の中での全ての選択を後悔しないように舵を切って生きてきた。でも。
(私が死んでも、物語は続くんだ……)
コウはきっと前に進んでいく。それを最前列で見られないのが、恐らく私にとって唯一の悔やまれること。
その日は雨が降っていた。
気圧のせいか具合がいつも以上に悪い。気分も身体も重い。コウはベッドから出られない私を気遣ってかいがいしく世話をしてくれる。申し訳なさで死にそうだった。
昔からコウにはお世話になりっぱなしだった。なのに、離れようとして、冷たくして、交際が始まっても恋人の様に甘えられずで、私はコウになにもしてあげられていない。だけど、この性格は変えられない。だって、これは鎧だから。
プライドが高いのは自覚している。
でも、そうでもしないと心が壊れてしまいそうになる。
昔から嫌いだった。病弱で守られてか弱いヒロインが。
どうして抗わない、他人に何かを求める前にやることがあるだろう。そう思うと同時に、自分がそのポジションに立っている事を嫌でも自覚する。
病弱な事を理由に何も努力してこなかった。
コウに守られてばかりで、何もしてこなかった。
運命に抗うことを諦めた。
だって、物語は思い通りにいかないじゃない。抗ったところで病気は治るの? 奇跡は起こるの? 何も変わらないでしょう?
だから、ツンケンした鎧を被ってきた。大丈夫、自分は最後の矜持だけは守り抜く。か弱いヒロインにはなりはしない。それでも、思うことがあるのだ。
二十年とちょっと生きることができた。小さいころ告げられた予想を超えた大往生だ。だけど、その代わり何も残せなかった。ただ、毎日を死を乗り越えながら生きる。それしか出来なかった。生きていた証なんて何も残せていない。
まだ現実が見られない小学生の時の話。私はテレビで見るアイドルに憧れた。私も希望を与えられる存在になりたい、と。
――でも、私にはアイドルになるなにもかもが無かった。
練習に耐えられる身体が無かった。実行に移す覚悟が無かった。諦めない才能が無かった。
だから妥協して昔は作詞家になりたかった。 机の上でも書ける作詞を選んだ。作曲も出来たけれど、高校生の時にコウに実力の差を見せつけられて辞めた。あの子は、アイドルとしては凡だけれど、作曲の才能は誰よりもあった。それでもアイドルであることを選ぶのだからおかしな話だ。
私の書いたうたを歌うコウはやがて才能のかけらを拾われる。事務所の用意した曲を中心に歌うようになったコウに私のうたは必要なくなった。
彼女と違って、私は何も残せなかった。きっと私の存在は大多数の思い出にも残らない。身内だって、しばらくしたら私を置いて前に進むだろう。
「私って生きてる意味あったのかな……」
気が付いたら声に出ていた。
何も残せなかった。誰にも何かを与えることが出来なかった。そんな存在に存在価値はあったのだろうか。いや、わかっているのだ。自分の存在価値を他人に見出すなんて馬鹿げている。自分の価値は自分で作るものだ。そんなことはわかっている。
でも私は、寂しい。全て理解した上で自分の存在がやがて風化していくのが寂しくて、怖い。
誰だって死ねば存在は風化してゆく。それが適応されないのなんて歴史上の偉人くらいだろう。大多数の人間は人知れず消えていく。存在など周りの人間以外に認知されないまま。
私はそれが苦しい。
人間関係の幅が少ないのも要因にはあると思う。両親とコウ、彼女の親、医師。私の人生に深くかかわったのなんかそれくらいの人数で、裏を返せば私が死んでもその程度の人数しか悲しまない。
だから「意味」が欲しかった。誰かに生きていた証を依存したかった。
……馬鹿な話だ。
「何も残せないなら、生きてた意味なかったな」
闘病は頑張った。それは評価しよう。でも、それだけだ。
自分だけで完結したこの人生に意味なんかない。
「はーちゃん……?」
気が付けばコウが寝室の入り口で立ち尽くしていた。
「……聞いてた?」
無言の意味は肯定。コウは涙を浮かべながら私に駆け寄る。それから私を何も言わずに抱きしめた。耳元でぐすぐすと泣く声がする。
「ごめんね……、何もできなくてごめん……」
コウ、何も言えなくてごめん。大丈夫、伝わってるよ。
こっちの胸が痛くなるくらい。
病状は悪化していった。最低限の治療しかしていないんだから当然だ。
「はーちゃん……」
「気にしてないよ。わかってたから」
病院の帰り道で私達は無駄話をしながら、ケーキを買って帰った。お高いフルーツ専門店のホールケーキ。今までだったら買わなかったけれど、もうすぐ食べれなくなると宣言されると逆に食べたくなって買ってしまった。四号で大体四千円。見栄えするし、地元のケーキ屋よりこっちにしとけばよかったなとか今更思ったり思わなかったり。
「はーちゃん、本当に入院しなくていいの? 入院したらもっと長く生きられるかもしれないんだよ?」
「好き勝手生きたいの、コウが一番知ってるでしょ。私はギリギリまでコウと一緒にいる」
お嫁さんは叶わなかった。外堀から埋めていくコウから逃げきれなくて少女漫画みたいな恋も出来なかった。でも、まあいっか。と思う。一種の諦めだ。
――私は、別に不幸じゃない。やることはやった。
医者が言うには、あと二、三ヶ月。何もやることはないけれど、仕事は辞めたし、衣食住は仕送りと貯金とコウの金でどうにかなる。久しぶりに会えてなかった友達に声かけて遊ぶかとも思ったけれど、やめた。この間まで元気だった人の訃報を聞くなんて悲しくなるだろう。コウでこれなのだ、もう悲しむ人を増やしたくはない。
「はーちゃん」
「何?」
「わたし、明日からちょっと家開けるから。でも夜は絶対帰ってくるから家事任せていい?」
「わかった」
余命は確定した。そろそろ彼女も復帰を考えなければならないのだろう。恐らくその為の準備でもするつもりなのではないだろうか。恐らく、次のステージに自分は行けない。だから何も言及することはない。
思えば、モブみたいな人生だった。
結果として女性と付き合っていて身体が弱く余命宣告されている。字面だけを見れば見事な悲恋物語の主人公で、他人と違うけれども、それ以外は他と変わらない。むしろ、設定凝ったせいで中身は空っぽ。誰がどう見てもつまらない人間が、可愛そうな女の要素が書かれた入れ子の中の一番奥にに入っている。そんな自分を嫌ったことはなかったけれど、特段好きになったこともない。つまらない。生きてる意味なんて会ったのだろうか。短い命なら、最初から産まれさせなければよかったのに。と神様に言ってみる。まあ、いるかもわからない神にそんなこと言っても意味ないけど。
「……はーちゃん、電話してきたよ。ケーキ食べよう」
「うん」
キッチンで用事の電話をしてきたらしいコウが切られたケーキを持ってくる。桜色の限定ケーキは思い出のサイリウムの色に似ていた。
「ん~っ! ふわっふわ! 奮発してよかった~! ね、はーちゃんも思うでしょ?」
「うん、おいしいね」
コウに、言っていないことがある。
味覚が、もう機能していない事。SNS映えするかなと思って買ったけれど、私にはこのクソ高い、パティシエが趣向を凝らしたケーキの何の味もわからない事。
医者はストレスだろうと言っていた。こうやって、味覚が無くなって、目も見えなくなって、耳が聞こえなくなって、そして心臓が止まってゆくのだろう。
——大丈夫、私は意味は見いだせなかったけど、後悔はしない生き方をした。
そう自分に言い聞かせる。そうしなければ泣いてしまいそうになるから。
生前整理も大分片付いた。
「……いつ死んでも大丈夫ね」
残った荷物は段ボールみっつ。これは親に処分をお願いしている。それから、一緒に焼いてほしい小物が数個。そこにはコウのペンライトも含まれている。
「……いつ死んでも」
私は、もうすぐ死ぬ。そういう運命だ。覆せない。これがハッピーエンドの物語でない限り。これが小説や漫画ならば、ご都合主義で病気が治るんだろうけれど、夢見る年齢はもう終わって、私は現実を知る年齢になった。
これは現実だ。
だから、病気を治してくれる天才医師も現れないし、最後の最後に幸せにしてくれる王子様も現れないし、奇跡的とかも起こらない。認めなければいけない。自分が本当に、本当に死んでしまう事。
「……っ」
怖い。
後悔しない生き方はした。心残りもない。形あるものも、無いものも整理できるものは整理した。あとはもう死ぬだけ。
怖い。
自室には、段ボールがみっつ。それだけ。それだけしか残らなかった。私の人生、これだけしか残らなかった。
「……っ、なんでよ……」
なんにものこせなかった。なんにもなれなかった。ぜんぶあきらめた。
「なんで……っ、わたしばっかり……っ!」
世界には“普通”の女の子が大多数で。こんなのレアケースだ。
でも私は知っている。
同じ境遇であっても、頑張った子、生きた証を残した子はいる事。
この結果は、私の自業自得だ。
「仕方ないじゃない……っ!」
私は無意味な行動は嫌いだ。怖かったのだ。頑張る途中ですべて失うのが。だから避けて、避けて、避けて生きてきた結果がこれ。
「……はーちゃん、なんで泣いてるの……?」
洗濯籠を横に置いたコウが扉の前で立ち尽くしている。扉は閉めていたのに。
「泣き声がしたから開けてみたら……どうしたの……!? どこか痛い!?」
どうして勝手に開けるの。隠させなさいよ。見せたくないのよ。こんな姿。
——特にアンタには。
「来ないでっ!」
喉の奥から出てきたのは泣きそうな震えを含んだ叫び声。自分でも驚いた。こんな、情けない声を自分が出すなんて。カッコ悪い所なんて、見せたくないのに。見せてしまった。
そう思うとあふれ出してくる。今まで塞いでいたモノ、全部。
「あ、あんたはいいわよね、『これから』があるんだもの」
「……はーちゃん?」
噴水みたい。汚い噴水。
「私には、何も残らなかった……。なにこれ、こんな段ボールみっつが『私』なの……?」
「それはちが」
「ちがくないッ!」
ねえ、私ね。こんな醜態は誰にもさらしたこと無いの。
「アンタに私の気持ちがわかるッ!? 明日死ぬかもしれない、明日は動けないかもしれない、来年の保証はない! そんな状況で挑戦なんかできないわよッ……!」
「……っ」
私は、冷静な私でいたいの。こんなのは私じゃない。
「そしたら、なにも……なんで何も残らないの……。わたしってなに……?」
お願い、見ないで。こんな情けない本当の私を見ないで。
「アンタは夢に向かって走れたっ! そこで見る景色はどう!? 男のファンもついてさぞ気分いいでしょうね!? 私の事が好きって言うけど、私が死んだら男に乗り換えるに決まって――」
パシンと、静かな部屋に音が響いた。頬に痛みが走る。コウは無表情で私を見ていた。
「……あ」
「…………」
無言でコウは私を見据える。こんな表情、私は知らない。どうしたらいいのかもわからない。訂正すればいい? いったいどこから。
だって、今のは全部、私の――。
「いくらでも本音はぶつけていいよ」
コウはそう言って、未だにジンジンと痛みを主張する私の頬に手を当てる。その手は先ほどとは違い、優しかった。それでも目は真剣で、声もいつものふわふわしたものではなく、尖っている。そう思えるような通った声だった。
「でも、わたしを勝手に決めつけないで。わたしのやることはわたしが決める」
そして、コウは私を突き放す。
「わたしは、明日死ぬって状況でもステージの上に上ろうと努力はしたよ」
「ッ!」
言われた。一番聞かれたくない言葉を、言われてしまった。
そうだ。全て私のせいだ。
この結末は、私が選んだ。
その絶望が目の前を真っ暗にする。だから私は部屋を去っていく彼女の最後の言葉を噛み砕けず耳に通すことしか出来なかった。
「アンタは、何も残せなかったわけじゃない」
コウはその日、帰ってこなかった。
あれから、コウとはすれ違う気まずい日々が続いている。このまま死にたくないな、と初めて心に引っかかるものが出来た。謝りたい。仲直りがしたい。でも、プライドが許さない。コウから話しかけてくれれば返してもいいけど、と思ったけれどコウはあれから私が寝る時間まで帰ってこない。
「自宅で、と言う意思は変わらないんですか」
「はい」
医者とのこれは何度目の問答になるだろう。私はもういつ来るかわからない死を待つだけになっていた。明日、いや数分後に死んでもおかしくない身体は日に日に動くのが辛くなっている。それでも、薬以外で医者に頼る気はなかった。
「別にいつ死んでもいいんで」
親には勿論泣かれた。実家にいなさいと。いてくれと。でも、一緒にいたら嫌でも死を意識して悲しくなるじゃないか。身内の泣き顔なんか見たくない。
「死んだら使える臓器は適当に使ってください。それくらいしか私の価値ないでしょうし」
それを聞いた医者は複雑な表情をする。何浸ってんだよ、アンタは仕事で見てきただろ。こういう人間を山ほど。
会計をして、スマートフォンを確認する。電話が一件入っていた。コウからだ。なんだろう。慌てて履歴を見るに着信自体は数分前のものなので、まだスマートフォンをを手放していないだろうと推測し、リダイアルする。予想通りコウはワンコールで出た。
「もしもし、コウ? 診察終わったけど何の用——」
『はーちゃん』
電話越しのコウは真剣な声色をしていた。それに圧倒され、出てくる言葉に動揺が混じってしまう。いつものふわふわ、ほわほわした雰囲気は無い。
『今日の夜六時、ライブハウスに来て。ペンライト持って』
「は……?」
『今から地図送る』
そうして送られてきたのは都内の小さなライブハウスの地図だった。初めてコウがステージに立ったあの場所。ここから近くもないが遠くもない。行くのは可能だが、まさかライブでもやるつもりなのか? そう聞くとコウはハッキリと答える。
『うん、ライブやるの。だから来て。待ってるから』
そう言って彼女は電話を切った。なんなんだ一体。ライブをやるという事はアイドル活動を復帰するつもりなのだろう。大方、そのリハーサルを見て欲しいとかだろうか。
まあ、きっと今日を逃せば次は無いし。定期券を改札にタッチして自宅方面へ向かう列車のホームに向かう。ペンライトは部屋にある。
ライブハウスは昔と変わってなかった。相変わらず小さい。
まあ、リハだろうしな。受付さえいないライブハウスに少しだけきょどりながらも中に入る。客スペースには誰もいなかった。照明すら消されている。足元を照らすためにペンライトをつけた。さくら色。最初はライブにペンライト持ってくるなんて文化わかんなくて当日に急いで電気屋に向かったっけ。
そんなくだらないことを思い出す。あの時は、まだ死ぬとかぼんやりとしか思ってなかったな。
——もう私には関係ないことだけど。
そう考えた時だったステージに人の気配がして、証明がステージの中心を照らす。その下にいたのはあの日と同じフリフリのさくら色の衣装を着たコウだった。彼女はとびっきりの笑顔を貼り付けて客席に手を振る。
「今日は来てくれてありがと~っ!! コウはとっても嬉しいよ~! だって、今日はコウの最初からのファンの人の為に考えて、考え抜いたライブなんだから!」
(リハだし、私しかいないけどな)
実際の所、動員は何人くらいなのだろう。SNSのフォロワーは数万人だけど久々だし。当日にぎやかしに来てやるか。生きてたらの話だけど。
「今日の為に作曲は自分でやって、振りも考えてきました!」
歌詞は外注したんだな、暗にそういう事を言ってしまう馬鹿さに笑ってしまう。確かにコウは楽器を演奏できるし振りも考えられるけど、昔から文章だけはてんで無理だった。私の作ったうたで路上で歌って、それでアイドルにスカウトされたんだっけ。
「それじゃあ、うたいますっ!」
息を吸った音をスピーカーが拾った。イントロが流れる。Aメロで気づいた。この曲は。
「……っ、なん、で……! そんなことすんのよ……っ!」
路上ライブの時よりもっと前、彼女にプレゼントしたうただった。
はーちゃんは、昔から身体が弱かった。
「はい、プリント」
「こーちゃん、ありがと。明日は多分行けるから。って言うか行く。国語あるし」
はーちゃんは勉強が好きだった。自他共に頭ぽわぽわなわたしと違って努力して成績を残すタイプで、いつだってテストは満点。そのかわりすぐ熱出しちゃうから、学校にはあんまり来なかったけど。そういう時、ご近所さんであるわたしがいつもプリントを届けに行く。はーちゃんはどんな時もテレビでアイドル番組を見ていた。
「……アイドル好きなの?」
わたしにはよくわからない。テレビの中で歌ってる人、自分には全く関係ない世界の住人というイメージしかない。はーちゃんがそこまで好きになる理由がわからなかった。
「……もし、元気な身体があればアイドルになりたかったのよ」
「はーちゃん美人だもんね」
「でも私には元気な身体がない。アイドルにはなれない」
それは残念な事で。わたしの夢はお嫁さんだ。女なら家庭に入って素敵な旦那さんと結婚して子供産んで幸せになる。それが義務だと思うからはーちゃんの気持ちはわからない。全く。
「で、それは?」
ベッドサイドテーブルの上には一枚の紙。そこには何か文章が書かれている。
『希望を失わないで 願いはきっと叶うから』
センスの無い文章。なにかのポエムだろうか。
それを凝視していると、はーちゃんは腕でそれを慌てて隠して、気まずそうに言った。
「アイドルにはなれない、から。私はうたを書く人になりたいの。私の作ったうたでこの子達が輝けたら素敵だなあっておもって」
「ふーん」
わたしにはよくわからなかった。わかったのは小学校六年生の時。一緒に遊んでいる最中にはーちゃんが発作で倒れた時だった。はーちゃんのお母さんに「葉月は長生きできないの」って聞かされて、それで。やっと彼女が作詞家を目指していた意味が分かった。わたしが思うより、神様は酷い事をする。夢を見る権利すら奪われた後の妥協案が作詞だったのだ。自分のうたで誰かを。
わたしはその時思った。誰かよくわからない男か女だかに彼女のうたを使われるなら、彼女の想いを多少なりとも知っているわたしが、誰かに彼女の宝石や金みたいなキラキラしたものを届けるつばめでありたいと。
「はーちゃん」
「……何? 迷惑かけるのやめろって? だったらアンタが私から離れなさいよ だいたい――」
「わたし、アイドルになる」
「……は?」
わたしは美人じゃない。将来の夢はアイドルには絶対許されないお嫁さんだし、素敵な恋愛もしたい。旦那さんはイケメンがいいし、運動も歌も努力も大嫌い。普通の暮らしがしたい。でも、それでも。
「はーちゃん、わたしにうたをちょうだい。わたし、完璧に歌ってみせるから」
それでも、わたしは、彼女のうたを届けたい。はーちゃんが生きてた証を残したい。他の誰かじゃダメだ。はーちゃんの近くで、はーちゃんの本気を知ってて、はーちゃんの人生を全力で知っているわたしじゃないと、彼女の「詩」は輝かせない。いや、言い換える。わたしが彼女のうたを輝かせたい!
はーちゃんのうたは、わたし以外に歌わせない。だから、わたしはトップアイドルになる。
——そして、いつか死んじゃうはーちゃんの夢を叶える。
彼女は、わたしのその想いを今も知らないだろう。死ぬまで、死んでからも知ることはない。彼女はそんな事実を知ったら怒るだろうし、きっと自責の念に囚われる。私がいなければコウは毎日泣かなかったのに、って。
事務所の言う事は聞く。でも、わたしの希望があれば、はーちゃんのうたを歌うことを条件に、地下から上がって上に来てからも、毎日泣いた。毎日ダメだしされた。才能無いとも言われた。でも、諦めなかった。絶対はーちゃんのうたを届ける。それはわたし以外の誰にもやらせはしない。
肝心の本人は忘れてしまったかもしれない。「うた」を書くのはわたしの趣味に付き合ってやってる、その程度の気持ちだったかもしれない。でもね、はーちゃん。わたしは――。
「は、は……! 聞き逃すなよ……!」
一曲目が終わり、しん、とステージが静まる。私はその空間でマイクを取った。一曲目から全力で歌って踊ったから疲れる。いつもこうだ。わたし、アイドルに向いてない。でも。
「わたしがっ! わたしこそがっ! 樫井葉月のうたを一番うまく歌える人間だーッ!」
ハウリングするマイクに向かってそう叫ぶ。
「わたしがここに立って歌ってるのは、はーちゃんが生きてたからッ! わたしが生きて歌っている限りはっ! はーちゃんの輝きを永遠にできるから! 何をやっても、泥水啜ってもッ! 絶対にステージに立ち続けるッ! 誰に揶揄されても、惨めでも!」
はーちゃん、わたしはね。
他の同業のみたいにアイドルが好きだとか、ちやほやされたいとか、なんかかっこいい理由なんて持ち合わせてない、他のアイドルから見たら嫌われるような理由でアイドルやってるけど。
――わたしは、この理由を一度だって間違ったと思った事は無いし、後悔だってしてないって言いきれる。
「そして――いつかトップに立ってやるッ! はーちゃんの人生に意味がなかったなんて言わせない! トップに立って、はーちゃんの書いたうたで、人を元気にできるようなアイドルになるッ! そして、この花宮コウを生んだ人間が確かに居たことを残してやるッ! 今日ここで誓うよ、だからその為に色々な人にかけあって、はーちゃんだけのライブを作ってもらった!」
「…………ば、かじゃないの?」
きったない顔。美人が台無しじゃん。はーちゃんは顔を歪ませて、メイクを涙でボロボロにしてしゃくりあげた。あーあ。鼻なんか啜って。ここがステージの上じゃなければ傍に言ってハンカチを差し出すことが出来たのに。
「なに、わたしのため、だったの……? ぜんぶ……わたしの、むかしのゆめ……」
「違うよ、これはわたしのエゴ。わたしね、はーちゃんが好き。樫井葉月の事が好きだよ」
勘違いしないで欲しい。誰かの為なんてそんな綺麗な理由でここに立てるほど、わたしは主人公じゃない。ただのフツーのモブが星に手を伸ばしてるだけだ。だけど、モブに星に手が届かないなんて誰が言った?
「アンタが残したんだよ、樫井葉月。このトップアイドルになる予定の花宮コウを。段ボールみっつじゃない。世界を笑顔にする人間と、希望を与えるうたを、アンタが残した」
この世界でわたしは主人公じゃない。だけど「花宮コウ」の人生での主役は、いつだってわたしだ。予想していた未来じゃなかった。昔に望んだ夢ともかけ離れて、キャリアと共にこれからいろんなものを失って取り返しのつかないところに向かって行くと思う。
「だから、安心して死ね。段ボールみっつなんかじゃない。ファンの人全員が、アンタの残したうたを心に残してる。……わたしがここで主張し続ける限りは、アンタは永遠になる。だから、わたしは何があろうとステージを降りない。一生をアンタの人生に捧げることを誓うよ」
本当はね、お姫様になりたかったんだ。王子様みたいなかっこいいイケメンに見初められて幸せになって。それ、諦めたよ。だってさ。
『こーちゃん』
自分の全部をあげても良いと思うくらい、はーちゃんの事が大事なんだ。好きだよ。大好き。絶対、わたしは「わたし」を殺しても、樫井葉月を幸せにする。
わたしはくるりと周り、とびきり可愛い顔で客席に向かって叫んだ。
「はーちゃん、はーちゃんはそこで見ててね! わたしが、かっこ悪くても歌ってる姿を!」
これが主人公だったら、成功してたのかな。
人を引き付ける魅力があって、愛されて、誰かに選ばれて。
でもわたし、主人公じゃないから全部要らないや。
「かっ、こわるいなんて……、いうわけ、ないじゃん……!」
わたしの色、さくら色のペンライトを両手に握ったはーちゃんが震えた声で言う。
「せかいでっ、っ……! せ、かいでっ! こーちゃんは……っ! いちばんだよ……!」
主人公じゃないからさ、その一本のさくらがあれば十分なんだよ。
多分、はーちゃんは本物のさくらが見られる時まで生きられない。それはわかってる。わかってるから、わたしはさくらを咲かす。
「……っ!」
照明さんが作ってくれたピンクのライトに満開のさくらの影。わたしはそれをバックに全力で歌う。春が来ないならわたしが呼んでやる。それをやれる力が、わたしにはある。
口角が上がるのが自分でもわかる。不謹慎だけど、今までで最高のライブだよ。好きな子の為だったら何でもできるって本当だったんだなあ。
「五曲続けていくよーッ! スタッフのみんなっ! そしてはーちゃんッ! 今日のわたしを目に焼き付けて! 全力で湧いてくれよなああああ!!」
ダンスをする身体がしんどい。声が嗄れてうまく出ない。マラソンを全力疾走した時くらい身体が悲鳴を上げているのがわかる。 体力はとっくの昔に底をついている。
それでも。
「『希望を失わないで! 願いはッ! きっと叶うからッ!』
ねえ、はーちゃん。はーちゃんの願いは叶ったかな。
わたし、アイドルになって歌ってるよ。はーちゃんがなりたかった『理想のアイドル』とは遠いかもしれないけど、わたしははーちゃんに笑顔を与えられたかな。
「『笑って! 貴方の為のアイドルはいつだって傍に居るからっ!』」
泣き顔じゃわかんないよ。
ねえ、はーちゃん。
わたし、アイドルの心構えとかわかんないけど。
はーちゃんの目にはちゃんと映ってるかな。わたしっていう、樫井葉月の為のアイドルに。
「……今まで、ありがとうね。コウちゃん」
「はい、こちらこそです。むしろすみません。死に目に立ち会えなくて」
「いいのよ、あの子もコウちゃんには会いたくないって言ってたから」
はーちゃんは、桜の開花を待たずに亡くなった。医者曰く、よく頑張った方らしい。わたしは死に目には会えなかった。いや、故意に会わなかった。
『明日、多分死ぬから』
体調が悪くなって、最後まで抵抗したけど無理矢理入院になって、その日の夜にはーちゃんから電話が入った。
「……予想より長生きしたね」
『そうね、それで明日なんだけど復活ライブと被るじゃない』
「中止だよ、死に目に会えないとか絶対後悔するし」
『来ないで欲しいの、ライブに行って』
そう言うだろうな、とは思っていた。はーちゃんはプライドが高いから弱ってるところとか特に見せたくないだろうし。でも、ライブを優先したらわたしはきっと現実を見れずに生きていくことになるだろう。はーちゃんがいない世界を実感できなくて、新しいうたは、あがらなくて、一番好きな人が隣にいない世界。何回も想像してきたけれど、実感はできなかった。それを一生持っていけと言うのか。
『あのね、私の願いはコウがアイドルやって、沢山のさくら色に囲まれることだよ。叶えてよ、私の夢』
「……でも」
『私が居なくなっても、“私”は残るでしょ?』
「……そうだね」
ステージにいる限り、はーちゃんはわたしの傍に居る。それは確かだ。でも、人間の倫理観が、常識が、はーちゃんを否定する。
物語なら、好きな人を看取ってハッピーエンドだろう。わたしは、看取る事すらできないのか。
そう言うと、はーちゃんは笑った。お願い聞いてよ、って軽い口調で。
『新曲作ったの。音楽まで勉強したのよ? 作曲作詞全部私。私の人生全部詰めたそれ、ファンに向けて歌ってよ』
わたしは、ただひとりに届けばよかったのに。その人から否定されたら。
『ねえ、ネガティブなこと考えてるでしょ』
長年の付き合い彼女は、わたしの心を見たように言い当てる。
『私は、こう言ってんのよ。“私を死んでも傍に置いて”って』
「……酷いこと言うなあ。流石のわたしも死に目に来るなとか言われるとか思わなかったよ」
一生、後悔するだろう。
一生、枕を涙を濡らすだろう。
一生、傷は治らないだろう。
――だけど、ここでやらなきゃ絶対もっと後悔する。
「わかった。わたし、歌うよ」
電話が終わり、メールでファイルを受け取って、中身を見た時にひとりぼっちの部屋でわんわん泣いた。曲のタイトルは『さくらいろ』だった。
「あはは……センスないなあ……」
そう呟いた時『肝心のファイル忘れてたわ』とメールで音源が添付されてきた。ダウンロードして再生ボタンを押す。それで、全部納得いった。
――大丈夫。わたしは、歌える。
わたしはその日、歌いきった。
訃報を聞いたのはそれからすぐ後だ。
「……そうですか」
わたしの喉から出た声は、思っていたより落ち着いていた。
「はーちゃん、頑張ったんですね」
はーちゃんのお母さんが嗚咽を漏らす。わたしは涙すら出なかった。ただ、はーちゃんはもう死んだのだと、それだけ理解した。泣きわめくことはしなかった。本当は噛み砕けていなかったのかもしれない。好きな人が死んだという事実が。
通話を終えて、息をつく。笑いが誰もいない控室に響いた。
「あーあ! 婚姻届、結局書いてもらえなかったや!」
あんなものに効力なんて無い。ただ、証が欲しかった。心が折れそうなとき、どうしてもダメになったとき、頑張れるきっかけだ。記憶は風化するから、どうしても形に残るものが欲しくて。欲しかったんだよな。はーちゃんから「好き」なんて聞かないからさ。
「でもダイジョーブ! コウにはちゃんと思い出があるもんね!」
一緒に過ごした日々や、彼女の声、顔、大丈夫。ちゃんとまだ覚えてる。
まだ。
「……まだ大丈夫……。大丈夫……わたしは……」
好きだった。彼女の書くうたが好きで、笑う顔が好きで、初ライブで泣いてくれた彼女が大好きでたまらなかった。必死で捕まえて、どうにか付き合うまでに至った。けど、わたしは最後まで「好き」を聞いていない。
「はーちゃんは、幸せだったのかな……」
わたしは幸せだった。でも、はーちゃんは?
どっかのしょーもない男に渡せばよかったか? 嫌だ。はーちゃんを一番幸せにできる人間はわたしだ。それは断言できるけど、彼女の気持ちは結局わからないまま。
わたしは葬式に行けなかった。
ステージには立てる癖に葬式には行けなかった。
死体の顔なんか見たら、泣いてしまいそうだから。わかって、それで、絶望してしまうから。絶望したら歌えない。わたしは絶対にマイクを放してはいけないから、だから行けない。両親とあちらのご両親はわたし達が付き合っていたのを知っていたから、辛いだろうと無理矢理わたしを引っ張り出すような事はしなかった。
結局、わたしは桜が咲くまで彼女には会わなかった。
彼女の夢を見るまで。
『ねえ、コウ』
夢の中で彼女はパイプ椅子に座っていた。
『アンタ、私のことなにもわかってないわね』
はーちゃんの事なら何でも知ってるよ、わたしはそう言った。
『どうかしら、私の事理解してるなら一回くらい会いに来なさいよ』
だって。わたしはそう言って、何も言えなかった。彼女が笑う。
『現実見なさいよ。アンタも前をむかないと』
ごめん。
『桜、咲いちゃったわよ。ウチの桜も見ごろかもね』
彼女が立ち上がって、白い世界に消えてしまう。待って、行かないで。
はーちゃん、お願い。
行かないで。
目が覚めたら朝だった。窓から見える東京の桜は満開だった。きっと隣県の桜も見ごろだろう。夢にまで出させてしまった。もう、逃げるのはおしまいの時間だ。
「桜、咲きましたね」
「そうねえ」
はーちゃんに線香を上げに来た時、はーちゃんのお母さんが庭の桜を見て言った。昔は樫井家の桜を見てお花見とかしたっけ。もうすることはないだろうけど。
「……コウちゃん、精神は落ち着いた?」
「そこそこです」
「見てもらいたいものがあるの」
お母さんはスマートフォンを取り出すと、軽く操作をしてわたしに渡す。そこには、はーちゃんと彼女が持つタブレット。タブレットにはあの日のステージが映っていた。
「え……」
「事務所にお話ししたの。映像くださいって。そしたら生ライブを送ってくれてね」
そんなのきいてない。きいてないよ。
「本当は病院はダメなんだけど事情が事情だし、個室だから特例で。葉月ね、笑ってたわ」
画面の中のはーちゃんが微笑む。
『ねえ、見て。綺麗なさくらでしょ? この歌、私も関わってるの』
客席のサイリウムがピンク色で、電池の減り具合とかでわずかに色が変わるまばらなピンク色は確かにさくらと言っても過言ではない。彼女は、あのライブを見ていたのか。
『私ね、こんなに早死にするなら生まれてこない方が良かったって何回も思ったけど』
白い歯が覗く満面の笑みで彼女は言った。
『ちゃんと残せたものはあったのね。これを見る為に生まれてきたなら満足だわ』
そこから容体は急変したようで画面が真っ暗になって終わり。三分に満たない映像でわたしの顔はアイドルにあるまじき不細工な顔をしていたと思う。
しゃくりあげるわたしをお母さんは背中をさすって慰める。
「それからね、これ」
クリアファイルに入った婚姻届を渡される。そこにはちゃんと「樫井葉月」の字が、彼女の字で書かれていた。
「あの子、最期の日これ書いてたわ。本当にコウちゃんの事が好きだったのね」
「……はーちゃんは」
「ん?」
「……はーちゃんは、わたしの事好きだったと思いますか……? 幸せだったと、思いますか……?」
はーちゃんと一緒にいたくて、恋人の座に無理矢理ついた。けど、思うのだ。自分の好意は奥にしまって、彼女に一般的な幸せをあげられたら、わたしが我慢さえすれば彼女はもっともっと幸せになれたんじゃないかなって。はーちゃんは美人だからかっこいい彼氏も出来てさ、幸せになれたんじゃないかなって。想わずにはいられない。
そう言うとお母さんは呆れたように笑う。
「もし、後悔してたらきっとこの紙なんか書かないわ。酷いことを言うようだけど、婚姻届なんて書いたところで、世間に認められることはないし、自分は死んじゃうしであの子にメリットはないのよ。むしろ、コウちゃんに呪いをかける良くない行為だと、私は思う。でもね、それでもあの子がこれを用意したのは最後に伝えたかったからだと思うの」
「何を……」
「もし、奇跡が起きて生きれたら。そしたらコウちゃんに私の一生をあげるって」
本当の所はわからない。だってはーちゃんはもう死んじゃって確かめるすべなんて無いんだから。でもね、思うんだ。
――わたし、はーちゃんを好きになってよかった。
夢は叶わなかった。かっこいい王子様みたいな旦那さんは現れなかったし、はーちゃん以上に好きな人なんてできないから家庭を持つことも出来ないだろう。周りは結婚とか、子どもとか、家とか。そういうステージにいるのにわたしひとりが夢を追いかけ続けてる。アイドル界には十代の子がどんどん入ってきて、わたしなんか「いつまでしがみついてるんだか」って笑われたりする。諦めろって言われたりもしなくはないよ。最低の日々だ。でもね、わたしが「わたし」を辞めることは一生無い。断言できる。あの日の一本の「さくら」の色に誓うよ。
ねえ、はーちゃん。はーちゃんの言う通り、わたし、わかってなかったね。
ちゃんと好きでいてくれたんだ。一方通行じゃなかったんだ。はーちゃん、幸せになれたんだ。
わたし、全部、忘れないよ。
わたし、毎年さくらを見る度にはーちゃんの事を思い出すよ。だからわたしがわたしを辞めるまで、一緒にいようね。
宣言通りの長い時間、わたしは貴方の生きてた証を残し続けるよ。
見ててもいいよ、だって、わたしは何があっても絶対に膝をつかないから。
――あの一本の「さくら」が目に焼き付いてはなれない。
いつまでも、いつまでも。
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