53 / 53
エピローグ
しおりを挟む
「僕はずっと父の影を張り付けて書いていたんです。官能小説家の父が死んでからずっと」
ことり先生が、唐突にそう切り出した。
彼はコーヒーをとっくに飲み終えていて、私の前のフラペチーノは残り三分の一ほどになっていた。
「影、ですか」
「影です。イメージとしては体の後ろにこう、背負うみたいにして張り付けていました」
「見守ってもらっていたってことですか?」
話の先が見えなくて、そう問うと、ことり先生は静かに首を横に振った。
「世界が見えないように、後ろから目を覆ってくれていたような感じです。僕の世界には僕と父と父の小説しかなかった。父が死んでから、ひとりで放り出された世界に耐えられなかったんですね」
肩をすぼめて、ことり先生が自嘲気味に笑う。
「お父様が大好きだったんですね」
「分かりません。それしか無かっただけですから。でも、鹿ノ子さんのおかげで……」
そう言ってことり先生が顔を上げる。正面から、目が合った。
「鹿ノ子さんのおかげで、父の影を、背中から下ろせた気がします」
「私のおかげ、ですか? ことり先生が頑張っただけだと思うのですが」
思わず首をかしげると、ことり先生は腕をぐるっと回した。マッサージのあとで、肩こりが軽くなった人がやるみたいに。
「鹿ノ子さんは、観覧車でのこと、覚えていますか? てっぺんで僕が目をつぶっていたこと。怖くて目を開けられない僕に、景色を教えてくれました。あのときにまぶたの内側に広がっていた景色は、鹿ノ子さんが居なかったら、見られなかったものです。一人で自分の世界に籠もっていたら見られない景色があることを教えてもらったんです」
「ことり先生……」
言葉につまる私を見て、ことり先生の顔がほころぶ。彼の手が、テーブルの上に置かれる。開いた形で置かれた手の上に、私は、自然と手を重ねていた。
両手を握り合って、見つめ合って。なんだかすごくいい雰囲気になってしまった。
「鹿ノ子さん……」
「はい……」
何を言うんだろう。何か言われたとして、私はどう返事を返すんだろう。
緊張してことり先生の言葉を待つ。彼が、声をひそめて言った。
「次は鹿ノ子さんが官能小説を書いてみましょうよ」
「へ?」
「『乱れ牡丹』からの『鳴門』でしたっけ? 中学生にしてはセンスがあると思うんですよね。読んでみたいけどなあ」
「ひ、人の黒歴史を掘り返さないでください! なんでそんな事、覚えてるんですか!」
思わず手を離して、抗議の気持ちで拳を握る。
「なんでって、興味のある人が話したことは覚えています」
からかっているのか、天然なのか。キョトンとした顔でそんなことを言うことり先生が憎らしい。
「あーもー知りません! 書きませんし書いたとしても読ませません!」
「なんでですか! 資料送りますから。今度こそくじらの丸呑みを探しておきます!」
「だから、くじらは性癖じゃないですってば!」
オフィスの入っているビルにあるカフェだということを忘れて、私は大声でニッチな性癖を否定することになったのだった。
ことり先生が、唐突にそう切り出した。
彼はコーヒーをとっくに飲み終えていて、私の前のフラペチーノは残り三分の一ほどになっていた。
「影、ですか」
「影です。イメージとしては体の後ろにこう、背負うみたいにして張り付けていました」
「見守ってもらっていたってことですか?」
話の先が見えなくて、そう問うと、ことり先生は静かに首を横に振った。
「世界が見えないように、後ろから目を覆ってくれていたような感じです。僕の世界には僕と父と父の小説しかなかった。父が死んでから、ひとりで放り出された世界に耐えられなかったんですね」
肩をすぼめて、ことり先生が自嘲気味に笑う。
「お父様が大好きだったんですね」
「分かりません。それしか無かっただけですから。でも、鹿ノ子さんのおかげで……」
そう言ってことり先生が顔を上げる。正面から、目が合った。
「鹿ノ子さんのおかげで、父の影を、背中から下ろせた気がします」
「私のおかげ、ですか? ことり先生が頑張っただけだと思うのですが」
思わず首をかしげると、ことり先生は腕をぐるっと回した。マッサージのあとで、肩こりが軽くなった人がやるみたいに。
「鹿ノ子さんは、観覧車でのこと、覚えていますか? てっぺんで僕が目をつぶっていたこと。怖くて目を開けられない僕に、景色を教えてくれました。あのときにまぶたの内側に広がっていた景色は、鹿ノ子さんが居なかったら、見られなかったものです。一人で自分の世界に籠もっていたら見られない景色があることを教えてもらったんです」
「ことり先生……」
言葉につまる私を見て、ことり先生の顔がほころぶ。彼の手が、テーブルの上に置かれる。開いた形で置かれた手の上に、私は、自然と手を重ねていた。
両手を握り合って、見つめ合って。なんだかすごくいい雰囲気になってしまった。
「鹿ノ子さん……」
「はい……」
何を言うんだろう。何か言われたとして、私はどう返事を返すんだろう。
緊張してことり先生の言葉を待つ。彼が、声をひそめて言った。
「次は鹿ノ子さんが官能小説を書いてみましょうよ」
「へ?」
「『乱れ牡丹』からの『鳴門』でしたっけ? 中学生にしてはセンスがあると思うんですよね。読んでみたいけどなあ」
「ひ、人の黒歴史を掘り返さないでください! なんでそんな事、覚えてるんですか!」
思わず手を離して、抗議の気持ちで拳を握る。
「なんでって、興味のある人が話したことは覚えています」
からかっているのか、天然なのか。キョトンとした顔でそんなことを言うことり先生が憎らしい。
「あーもー知りません! 書きませんし書いたとしても読ませません!」
「なんでですか! 資料送りますから。今度こそくじらの丸呑みを探しておきます!」
「だから、くじらは性癖じゃないですってば!」
オフィスの入っているビルにあるカフェだということを忘れて、私は大声でニッチな性癖を否定することになったのだった。
0
お気に入りに追加
5
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
乙男女じぇねれーしょん
ムラハチ
青春
見知らぬ街でセーラー服を着るはめになったほぼニートのおじさんが、『乙男女《おつとめ》じぇねれーしょん』というアイドルグループに加入し、神戸を舞台に事件に巻き込まれながらトップアイドルを目指す青春群像劇! 怪しいおじさん達の周りで巻き起こる少女誘拐事件、そして消えた3億円の行方は……。
小説家になろうは現在休止中。
マキノのカフェ開業奮闘記 ~Café Le Repos~
Repos
ライト文芸
カフェ開業を夢見たマキノが、田舎の古民家を改装して開業する物語。
おいしいご飯がたくさん出てきます。
いろんな人に出会って、気づきがあったり、迷ったり、泣いたり。
助けられたり、恋をしたり。
愛とやさしさののあふれるお話です。
なろうにも投降中
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる