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45話 帆を広げた船
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十月末日が締め切りの長編賞の結果発表は、翌年四月に発行の春号合わせになる。
長編賞の、一次選考、二次選考、三次選考の通過作まではリリンWebの方で経過の発表が行われる。年に一度の長編賞は、リリンとしても気合いを入れて選考する賞なのだ。長編賞受賞作は、基本的にリリン文庫から出版もされる。作家デビューとなる賞なのだ。
――という情報を、もちろん、ことりさんは知らなかった。
今まで短編賞にしか送っていなかったのもあるし、賞についてもう少し詳しく知ろうとしていれば、そもそも官能小説を送り続けるようなことはしていないのだから。
年が明けて一月のある週末、私たちは横浜港ちかくの観光地に来ていた。
びゅう、という音をたてて潮の香りをのせた風が、後ろから吹きつけてくる。風によって後方から流された髪が、目にかかって視界を覆う。ベレー帽が飛ばされないようにと、片手で抑えながら身を縮こませた。
「ひゃあー! 寒いですね!」
「海沿いだからでしょうね」
悲鳴に近い私の言葉に、ことりさんが冷静に寒さの理由を返してくる。
頭上では、一月の晴れた空に、子供が綿を好き勝手にちぎったみたいな雲がまばらに浮かんでいる。冬の装いの雲が、空をますます高く見せている。
明るい景色に似合わず、気温は低く、風は冷たい。
「あらためて、二次選考通過おめでとうございます」
駅前の広場を歩きながら伝えた。リリンWebでの発表時にリンクを添えてメッセージではお祝いしていたが、やっぱり直接会って伝えたかった。
「ありがとうございます」
ことりさんが軽く頭を下げた。今日のことりさんは、スーツに合わせる用だろうというコートを、ネルシャツの上に羽織っている。
今日ここに来たのは、デート……などでは無い。四月末に締め切りのリリン短編賞にむけて、取材に行きたいという申し出がことりさんから有ったのだ。
承諾したときにやけに驚いていたのは、思うに、二人三脚で作った作品はすでに応募済みで、私が取材に付き合う義理がないとことりさんが考えていたからだろう。なにやら言い出しにくそうに切り出していたし。
私は、ことりさんが私の夢を乗せて『美少女怪盗チャント』を作り上げてくれたことに、感謝している。それを忘れるほど不義理じゃない。それに、あの日編集長の前で一緒に原稿を持って見つめ合ったとき、確かなキズナを感じたのだ。取材に付き合うくらい、お安いご用だ。
「それにしても、本物の帆船がいつでも見られるってすごいですね! こんなに駅近くにあるなんて知りませんでした」
「船内の見学も出来ますが、帆をはる作業も見られます。ボランティアの方が行っている展帆訓練ですが、うん、ちょうど始まる時間に着けそうですよ」
駅前の広場の正面は、横浜港から続く細い湾になっている。右手には、ビルと道路橋梁に閉じ込められた海がある。ぱっと見には湖のようだが、たたえられた水の色と匂いは海水以外のなにものでもない。
左手前方には真っ白な帆船が、重なる緑の影から覗いている。
展示されている帆船は海水に浮かんだ状態であり、緑豊かな広場のなかにある人工的に作られた細い湾に、船は係留されていた。どこかきゅうくつそうにも感じる一方で、小さな籠のなかで丸くなって眠る動物のようにも見える。
「この辺りでいいかな。寒くないですか?」
帆船の前の広場の階段に腰掛けながら、ことりさんが訊ねる。
「はい!」
と元気よく答えたものの、展帆とかいう作業をたっぷり一時間以上も見る羽目になるとは予想していなかった。
高い空の下、白い帆が次々に張られていくのを眺めるのは楽しいけれど、ダウンコートの下のワンピースが半袖であることを後悔した。なんとなく、なんとなーく選んだワンピースで、別にオシャレしようとかそういう気持ちは無い。うん。
作業の様子を動画に収めるべくスマートフォンを構えた指先が凍える。
ホットコーヒーの一杯でも買ってくればよかった……いや、買ってもらいに行くか? と半ば睨むようにして隣のことりさんを見ると、冷たい空気にさらされた鼻先を赤くしながら、またもメモを取るのに忙しそうだ。
はあ、とため息を一つつくと、私は自分のスマートフォンを構え直して、引き続き、展帆作業の様子を動画撮影した。
「一連の動きは大体分かりました。鹿ノ子さんの方はどうですか?」
帆を広げ終えて、たたむ作業に入ってからしばらくしてからのことだった。
ことりさんがそう声をかけてきた。
「撮れてますよ。ていうか、寒くないですか?」
「寒いですね」
手をすり合わせてから、耳を覆うような仕草をしながらことりさんが言う。意外に高い鼻先だけでなく、むき出しの耳もキンキンに冷えて赤くなっていた。一応ファーのベレー帽を被っている私よりも、頭と耳は無防備みたいだ。なお、このベレー帽もなんとなく被ったもので、別にオシャレとかではないつもりだ。
「行きましょう。船内の見学が出来るようになるまで、まだ少し時間があります。帆をたたみ終えて訓練が終了するまで中に入れませんからね」
「内部も見るんですか?」
「はい、今度は帆船乗りの少女の話が書きたいんです。未知の世界に飛び込んで、夢を叶える女の子の話です」
立ち上がったことりさんが手を差し出してきたので、冷え切った手でその手を取る。
「凍えそうなんで、暖かい飲み物でも奢って下さい」
そう言って私も立ち上がる。ことりさんは当然というようにうなずくと、地図アプリを立ち上げて、喫煙ブースのある喫茶店に向けて歩き出した。
公園内の道をショートカットするように、芝生の生えた丘を斜めに昇っていくことりさんの後を追う。
公園を出るまで、私たちは無言で歩いた。
アスファルト敷きの道路に戻ったところで、ことりさんはふと振り向いた。
「来てくださって、良かったです。賞への応募が済んでから、疎遠にされていた気がしたので」
「そうですか?」
「そうですよ。やっぱり編集部に行ったのは、キモかったのかなって心配になりました」
「驚きはしましたけど、キモいなんてありえないですよ。連絡したのは私の先輩でしょうし」
かっこよかったですよ、という言葉は飲み込んでおいた。
ただ、とぼけてはみたものの、実際にあえて私からの連絡を控えていたのは本当だ。
ことりさんの原稿には関わらないものの、選考作業自体には、高野先輩のアシスタントとして関わっている。そうである以上、ことりさんとやりとりがあった際に、自分がなにか漏らしてしまうのが怖かった。
一次選考、二次選考、と結果が出るたびに、私は自分が浮かれておかしなことをしないかとそればかりが心配だった。リリンWebに公式情報を出した日の夜に、ことりさんにリンクを送りつけるくらいのことでも、いちいち高野先輩に確認をとらないと安心出来なかった。
そして週末にこの帆船取材をひかえた金曜日のこと、ことりさんが三次選考を通過したことを、部内情報で知ってしまったのだ。
だから今日は、少しでも浮かれた姿は見せないように気を引き締めていないといけないのだ。
ああ、なんで会う日の直前に知ってしまったんだろう。ポーカーフェイスは大の苦手だ。
「それなら良いんですけど、なんか、鹿ノ子さん今日不機嫌っぽいので」
「寒いからじゃないですか?」
そう答えて、さっさとナビをするようにことりさんの背中を押した。
長編賞の、一次選考、二次選考、三次選考の通過作まではリリンWebの方で経過の発表が行われる。年に一度の長編賞は、リリンとしても気合いを入れて選考する賞なのだ。長編賞受賞作は、基本的にリリン文庫から出版もされる。作家デビューとなる賞なのだ。
――という情報を、もちろん、ことりさんは知らなかった。
今まで短編賞にしか送っていなかったのもあるし、賞についてもう少し詳しく知ろうとしていれば、そもそも官能小説を送り続けるようなことはしていないのだから。
年が明けて一月のある週末、私たちは横浜港ちかくの観光地に来ていた。
びゅう、という音をたてて潮の香りをのせた風が、後ろから吹きつけてくる。風によって後方から流された髪が、目にかかって視界を覆う。ベレー帽が飛ばされないようにと、片手で抑えながら身を縮こませた。
「ひゃあー! 寒いですね!」
「海沿いだからでしょうね」
悲鳴に近い私の言葉に、ことりさんが冷静に寒さの理由を返してくる。
頭上では、一月の晴れた空に、子供が綿を好き勝手にちぎったみたいな雲がまばらに浮かんでいる。冬の装いの雲が、空をますます高く見せている。
明るい景色に似合わず、気温は低く、風は冷たい。
「あらためて、二次選考通過おめでとうございます」
駅前の広場を歩きながら伝えた。リリンWebでの発表時にリンクを添えてメッセージではお祝いしていたが、やっぱり直接会って伝えたかった。
「ありがとうございます」
ことりさんが軽く頭を下げた。今日のことりさんは、スーツに合わせる用だろうというコートを、ネルシャツの上に羽織っている。
今日ここに来たのは、デート……などでは無い。四月末に締め切りのリリン短編賞にむけて、取材に行きたいという申し出がことりさんから有ったのだ。
承諾したときにやけに驚いていたのは、思うに、二人三脚で作った作品はすでに応募済みで、私が取材に付き合う義理がないとことりさんが考えていたからだろう。なにやら言い出しにくそうに切り出していたし。
私は、ことりさんが私の夢を乗せて『美少女怪盗チャント』を作り上げてくれたことに、感謝している。それを忘れるほど不義理じゃない。それに、あの日編集長の前で一緒に原稿を持って見つめ合ったとき、確かなキズナを感じたのだ。取材に付き合うくらい、お安いご用だ。
「それにしても、本物の帆船がいつでも見られるってすごいですね! こんなに駅近くにあるなんて知りませんでした」
「船内の見学も出来ますが、帆をはる作業も見られます。ボランティアの方が行っている展帆訓練ですが、うん、ちょうど始まる時間に着けそうですよ」
駅前の広場の正面は、横浜港から続く細い湾になっている。右手には、ビルと道路橋梁に閉じ込められた海がある。ぱっと見には湖のようだが、たたえられた水の色と匂いは海水以外のなにものでもない。
左手前方には真っ白な帆船が、重なる緑の影から覗いている。
展示されている帆船は海水に浮かんだ状態であり、緑豊かな広場のなかにある人工的に作られた細い湾に、船は係留されていた。どこかきゅうくつそうにも感じる一方で、小さな籠のなかで丸くなって眠る動物のようにも見える。
「この辺りでいいかな。寒くないですか?」
帆船の前の広場の階段に腰掛けながら、ことりさんが訊ねる。
「はい!」
と元気よく答えたものの、展帆とかいう作業をたっぷり一時間以上も見る羽目になるとは予想していなかった。
高い空の下、白い帆が次々に張られていくのを眺めるのは楽しいけれど、ダウンコートの下のワンピースが半袖であることを後悔した。なんとなく、なんとなーく選んだワンピースで、別にオシャレしようとかそういう気持ちは無い。うん。
作業の様子を動画に収めるべくスマートフォンを構えた指先が凍える。
ホットコーヒーの一杯でも買ってくればよかった……いや、買ってもらいに行くか? と半ば睨むようにして隣のことりさんを見ると、冷たい空気にさらされた鼻先を赤くしながら、またもメモを取るのに忙しそうだ。
はあ、とため息を一つつくと、私は自分のスマートフォンを構え直して、引き続き、展帆作業の様子を動画撮影した。
「一連の動きは大体分かりました。鹿ノ子さんの方はどうですか?」
帆を広げ終えて、たたむ作業に入ってからしばらくしてからのことだった。
ことりさんがそう声をかけてきた。
「撮れてますよ。ていうか、寒くないですか?」
「寒いですね」
手をすり合わせてから、耳を覆うような仕草をしながらことりさんが言う。意外に高い鼻先だけでなく、むき出しの耳もキンキンに冷えて赤くなっていた。一応ファーのベレー帽を被っている私よりも、頭と耳は無防備みたいだ。なお、このベレー帽もなんとなく被ったもので、別にオシャレとかではないつもりだ。
「行きましょう。船内の見学が出来るようになるまで、まだ少し時間があります。帆をたたみ終えて訓練が終了するまで中に入れませんからね」
「内部も見るんですか?」
「はい、今度は帆船乗りの少女の話が書きたいんです。未知の世界に飛び込んで、夢を叶える女の子の話です」
立ち上がったことりさんが手を差し出してきたので、冷え切った手でその手を取る。
「凍えそうなんで、暖かい飲み物でも奢って下さい」
そう言って私も立ち上がる。ことりさんは当然というようにうなずくと、地図アプリを立ち上げて、喫煙ブースのある喫茶店に向けて歩き出した。
公園内の道をショートカットするように、芝生の生えた丘を斜めに昇っていくことりさんの後を追う。
公園を出るまで、私たちは無言で歩いた。
アスファルト敷きの道路に戻ったところで、ことりさんはふと振り向いた。
「来てくださって、良かったです。賞への応募が済んでから、疎遠にされていた気がしたので」
「そうですか?」
「そうですよ。やっぱり編集部に行ったのは、キモかったのかなって心配になりました」
「驚きはしましたけど、キモいなんてありえないですよ。連絡したのは私の先輩でしょうし」
かっこよかったですよ、という言葉は飲み込んでおいた。
ただ、とぼけてはみたものの、実際にあえて私からの連絡を控えていたのは本当だ。
ことりさんの原稿には関わらないものの、選考作業自体には、高野先輩のアシスタントとして関わっている。そうである以上、ことりさんとやりとりがあった際に、自分がなにか漏らしてしまうのが怖かった。
一次選考、二次選考、と結果が出るたびに、私は自分が浮かれておかしなことをしないかとそればかりが心配だった。リリンWebに公式情報を出した日の夜に、ことりさんにリンクを送りつけるくらいのことでも、いちいち高野先輩に確認をとらないと安心出来なかった。
そして週末にこの帆船取材をひかえた金曜日のこと、ことりさんが三次選考を通過したことを、部内情報で知ってしまったのだ。
だから今日は、少しでも浮かれた姿は見せないように気を引き締めていないといけないのだ。
ああ、なんで会う日の直前に知ってしまったんだろう。ポーカーフェイスは大の苦手だ。
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