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40話 タイダイの海に沈む

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 神智大学の取材の後、ことりさんの筆はまた動き始めた。応募締め切りが迫る中、エンジンがかかったのだろうか、筆は乗っていた。
 四半期決算の締め前という、ことりさんの仕事の繁忙期でもあったけれど、それでも毎日、進んだ分が共有されてくる。時間は夜中のこともあったし、早朝のこともあった。
 ラストシーンまで初稿を書き終えたところで、87,457文字。それからは、構成全体を見ての修正、表現の確認、不足部分の加筆や、過剰部分の削除を行う。それを受けて、矛盾点を再度チェック。もちろん、誤字脱字衍字えんじのチェックも抜かりなく。
 と、私も全力以上でフォローした。
 
 応募締め切り日まで、あと三日に迫っていた。今日は退社後、夜にファミリーレストランにて待ち合わせて、打ち出した紙原稿を二人がかりで確認して、最後の修正箇所を見つける予定だ。
 
 ことりさんも繁忙期だが、私の業務の方もかなり忙しくなっていた。
 季刊発行の『リリン』の次号である冬号の発売は、十月。冬号の発売に向けて、私はSNSでの宣伝業務に奔走していた。編集部アカウントの『中の人』になったわけではないけれど、投稿内容の提案はさせてもらっている。
 正式な『中の人』である森さんに提出。OKが出たら編集長に申請書を持っていって、印鑑を貰えたら、それをまた森さんに戻す。
 唯一の男性部員である森さんは、私より三年先輩らしい。自由な社風とはいえ、緑色の長髪を一つに縛っていて、耳はピアスだらけ。服はオレンジ色のタイダイ染のTシャツだ。
 向こうの景色が見えそうな大きな径の黒い輪っかのピアスが耳たぶにはまっていて、耳にダイソンついてるなあ、と見るたびに思う。
 
「次号の表紙が上がりましたので、目次ページ画像と合わせて、特集を紹介する文章を作りました。内容確認をお願いします」

「はい、どうも」

 クリップボードに挟んだ申請書を森さんに渡す。森さんはこちらを振り向かず、手だけをひらひらとしてボードを受け取ろうとする。森さんの耳たぶにはまった輪っかが目みたいに私を見ている。
 黒い輪っかを見つめかえしていると、それが二つになって、よく見ると輪だけではなくて耳たぶも二つになっている。
 おかしいな、と見つめていると輪っかは知恵の輪みたいに絡まりだして、福耳はお餅みたいにでろでろ伸びる。
 もみあげの髪の、根本だけがぎざぎざと黒い。その先の、緑の部分がバラン(お弁当に入っているプラスチックの葉っぱだ)みたいに見える。バランがもみあげからぺらっと剥がれて、私の顔の前に飛んでくる。

 ガシャン!

 と派手な音がして、それはすぐ近くで鳴ったみたいでもあったし、ずっと遠くで鳴ったようでもあった。
 目の前にオレンジ色のタイダイがあった。
 鼻からぬるい液体が垂れて、タイダイに赤い点を落とした。
 インクが垂らされた水面のように、タイダイがゆれた。でも赤い点は水に溶けたみたいに広がらなかった。

奔馬ほんばさん?! 奔馬さん?! 聞こえる?!」
 
 森さんの声がする。今度はすぐに音の位置は分かったけれど、水の中みたいにぼわぼわしている。頭がゆすられる。
 
「揺らさない!」
 
 と、急に葉山編集長の整った顔がカットインしてくる。編集長は森さんを押しのけると、私の頭の後ろに手を回して固定した。
 
「名前は言える? これは何本?」

 目の前に細い指が立てられる。
 
「ほんば……かのこです。ゆびは、」

 指の像がぶれて見える。数えにくいけれど、手の形から判断して、「さんぼん?」と答えた。
 近くで、高野先輩が電話で救急車を呼んでいる声が聞こえる。

「答えるのに、時間がかかりすぎてる」

 苦々しく呟いた編集長は、しかし、救急車の到着まで私のそばについてずっと声をかけ続けてくれていた。
 
「ちゃんと寝てないでしょう。自分に出来るだけの無理をしなさい、ずっと続く仕事なんだから」

 タンカで運ばれる際、そう言って手を握って、見送ってくれた。
 いつも完璧にセットされている外ハネの黒髪が乱れているのを、初めて見た。
 
 *

 診断結果は疲労と貧血。
 貧血で鼻血って出るものだっけ、と思ったら、鼻は倒れた際に森さんの肩に強打したというだけらしい。一応、検査のため一晩の入院になった。
 
 白いカーテンにかこまれた病院のベッドからは、天井と、自分の腕から伸びる点滴の管しか見えない。
 搬送中から気を失っていた私は、気付いたらベッドに仰向けに寝かされていて、看護師さんから状況を聞いたという次第。
 彼女が持ってきた入院にあたっての書類にサインをしながら、何かを忘れている気がする、なんてその時は、モヤがかかったみたいな頭でいた。
 あ、会社への連絡だ! と気付いた私は、一緒に搬送されてきたバッグのなかから社用のスマートフォンを探って、まずは葉山編集長へ個別にお礼と謝罪と状況連絡。それから森さんと高野先輩にも個別にメール。森さんには服を汚してしまったご迷惑をお詫びする。これは後で、クリーニング代もお渡ししなくては。
 葉山編集長からすぐに返信がきて、部内と総務への連絡は編集長から送っておくので、総務からの返信を待つこと、とあった。ありがたく、そのとおりにさせてもらう。
 
 ふ、と脱力しかけたときだった。
 
 バッグの中から、ぽこん、とメッセージの受信を告げる音がする。
 プライベート用のスマートフォンの方に、メッセージがあったらしい。開いてみると、雑貨屋さんの公式アカウントからの宣伝だったので、放置……しようとしたところで、思い出した。
 ことりさんに、連絡をしないといけない。
 時刻表示を確認すると、十六時を回ったところだった。
 
『すみません、職場で倒れてしまって一日入院になったので、今夜は行けなくなりました。最終の打ち合わせなのに、本当にすみません』
 
 紙に打ち出した原稿を持って、出社しているであろうことりさんを想像しながら送信ボタンを押す。ことりさんは仕事を終えてからこのメッセージを見るだろう。
 未読のまま置かれているメッセージ画面を開いているのが虚しくて、すぐにアプリを閉じた。

 一気に連絡を済ませたところで、猛烈なだるさに襲われる。観念して体を横たえると、また、視界は白いカーテンに区切られた天井だけになる。
 仕事も、ことりさんのサポートも、これからというところで倒れてしまった。今はただ寝転がっていることしか出来ない。
 知らずに流れた涙が顔の側面を伝い、耳の穴にむかって降りていった。
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