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39話 人には人のキュンがある
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Side:田原小鳩
シャッシャッという、ボールペンのペン先がノートをかすめる音が教会に響く。
紙を引っかくペンの感触が指先に伝わるタイミングが、音とほんの少しずれているような気がするが、果たしてどちらがどれだけ先に脳に届いているのか分からない。
ただ、ズレて届いているという感覚があるということだけが分かる。
隣に眠る鹿ノ子さんは、始めは前後に揺れていた。それから歌舞伎の連獅子みたいにぐるんぐるんと頭を回し初めて、後頭部を堅い背もたれにぶつけた。背もたれは彼女の肩より少し低いくらいなので、ちょうど角にあたるところにぶつけたのだと思う。
起きるのかと思いきや、「うう~」と声を漏らした後に今度は横揺れになる。揺れは大きくなり、メトロノームのように腰から左右に折れる。体が柔らかいらしい。
ぐっと右側――僕と反対の側――に倒れたときに、膝丈のワンピースの裾が引き上げられて、太ももが露わになる。目を逸らしながら、彼女の肩に両手を置いて体を起こさせ、真っ直ぐになおそうとした。
起こした勢いで、彼女の頭は僕の側に傾き、結局、僕の肩に収まった。
シャッシャッ。
こんなに細かく線を引いて影をつける必要などない。取材としては、メモ程度のスケッチで足りるはずだ。天井や椅子、講壇に、壁の装飾物などそれらは大体の位置と形をとってある。
だけど僕は、スケッチという作業から離れられない。
皮膚の感覚は、肩ではなく指先に、耳は、彼女の寝息ではなくペンの音に、目は、少し首を捻れば見えるであろう彼女のまつげではなくスケッチの対象に。それぞれ固定しておかないと、ひどい間違いを起こしそうだ。
「僕にはやっぱり、キュンなんて気持ちは分かりません」
講壇の後ろにかけられた十字架に目をやりながら呟く。
彼女がキュンを実体験として知っていそうなことに、僕は始め、狼狽した。それから、実はキュンについては先輩の受け売り知識だと聞いて、ほっとした。そして今は、頭が彼女のことでいっぱいになって、風船みたいに膨らんで破裂するんじゃないかという気持ちになっている。
「キュンなんてきれいな音ではありません。ボンッです。頭が今すぐ吹っ飛びそうです」
おお神よ、なんて言うつもりは無いが、懺悔したいような気持ちにさせられるのは、教会という場所の持つ力だろうか。
鹿ノ子さんは恋が分かるのかと思ったら、急に気持ちがしおれてしまって、一作入魂のはちまきも見ているのが辛くなってしまった。なんで僕はこうなんだ。キュンとする話を書こうとすればするほど、自分の情けなさがつきつけられていく。
鹿ノ子さんに手厚くサポートしてもらったのに、今度は鹿ノ子さんが気になって、手が止まってしまったなんて、どう説明したらいいのか分からない。だから、キュンが分からなくて筆が止まってしまった、と、彼女にはそう伝えた。これからどうしたら良いのか、さっぱり分からない。
気づけば、もうスケッチするべき線は一本も無かった。
「本当の理由を話したら、きっと嫌われる」
そう言って、膝に広げたノートの上にペンを転がしたときだ。
「んむにゃ、……なにがですかぁ」
目を覚ました彼女が、いつの間にか僕の肩から頭をどけて、こちらを見ていた。
ノートを覗き込んで「力作ですね!」と歓声を上げる。
「いや、なんでも無いんです。……よく眠れましたか?」
「あ、はい、お陰様で。すみません、私どのくらい眠ってました?」
「三十分くらいですから、気にしないで下さい。出ましょう、そろそろ閉館時間ですから」
そう言って、ノートをリュックにしまって立ち上がる。彼女は僕の顔をじっと見上げて、動こうとしない。
どうでもいいが、口の端によだれの跡があるのを指摘していいのか迷う。
関係性と、指摘する側と、指摘される側の条件が揃わないと、これはただ気まずくなるだけだ。天馬だったら、物語のなかの不遜なイケメンの彼だったら、ヒロインの聖歌に少し意地悪く伝えたり出来るのだろう。
『夢のなかで何でも食ってんの?』なんて笑いながら言いそうだ。
「そうか! それだ」
エウレーカ!
聖歌のモデルである鹿ノ子さんをイメージして、聖歌を言動を書く。鹿ノ子さんの理想のヒーロー像をイメージして、天馬の言動を書く。これで天馬と聖歌のやりとりを作っていける。
背負いかけたリュックを再び置いて、ノートの、教会のスケッチの隅に書きつける。
聖歌=K
天馬:Kのヒーロー
鹿ノ子さんが見る可能性も考えて、暗号めいたメモにする。
僕がショックを受けて動けなくなっていたのは、鹿ノ子さんをモデルにした聖歌の相手役に、自分を重ねようとしていたからだ。見苦しい自分の感情と向き合うことになるんだから、筆が止まって当たり前だ。
「どうしたんですか? このKとは?」
案の定、メモの内容を覗き込んできた鹿ノ子さんがたずねるが、正しい答えを説明することはしない。
ただ、「書けそうな気がしてきました」とだけ返した。
「そうですか」
と呟いて、今度は僕より先に立ち上がった鹿ノ子さんが、自分の頭を指さして、言った。
「ボンッてなるのも、いいと思いますけどね」
「え、あ、な……」
リュックに再度しまおうとしたノートが音を立てて落ちる。
「人には人のキュンがありますから」
乳酸菌みたいに言って、彼女が笑う。よだれ跡はついたままだけど、それをどう指摘するかなんてどうでも良くなるような笑顔だった。
シャッシャッという、ボールペンのペン先がノートをかすめる音が教会に響く。
紙を引っかくペンの感触が指先に伝わるタイミングが、音とほんの少しずれているような気がするが、果たしてどちらがどれだけ先に脳に届いているのか分からない。
ただ、ズレて届いているという感覚があるということだけが分かる。
隣に眠る鹿ノ子さんは、始めは前後に揺れていた。それから歌舞伎の連獅子みたいにぐるんぐるんと頭を回し初めて、後頭部を堅い背もたれにぶつけた。背もたれは彼女の肩より少し低いくらいなので、ちょうど角にあたるところにぶつけたのだと思う。
起きるのかと思いきや、「うう~」と声を漏らした後に今度は横揺れになる。揺れは大きくなり、メトロノームのように腰から左右に折れる。体が柔らかいらしい。
ぐっと右側――僕と反対の側――に倒れたときに、膝丈のワンピースの裾が引き上げられて、太ももが露わになる。目を逸らしながら、彼女の肩に両手を置いて体を起こさせ、真っ直ぐになおそうとした。
起こした勢いで、彼女の頭は僕の側に傾き、結局、僕の肩に収まった。
シャッシャッ。
こんなに細かく線を引いて影をつける必要などない。取材としては、メモ程度のスケッチで足りるはずだ。天井や椅子、講壇に、壁の装飾物などそれらは大体の位置と形をとってある。
だけど僕は、スケッチという作業から離れられない。
皮膚の感覚は、肩ではなく指先に、耳は、彼女の寝息ではなくペンの音に、目は、少し首を捻れば見えるであろう彼女のまつげではなくスケッチの対象に。それぞれ固定しておかないと、ひどい間違いを起こしそうだ。
「僕にはやっぱり、キュンなんて気持ちは分かりません」
講壇の後ろにかけられた十字架に目をやりながら呟く。
彼女がキュンを実体験として知っていそうなことに、僕は始め、狼狽した。それから、実はキュンについては先輩の受け売り知識だと聞いて、ほっとした。そして今は、頭が彼女のことでいっぱいになって、風船みたいに膨らんで破裂するんじゃないかという気持ちになっている。
「キュンなんてきれいな音ではありません。ボンッです。頭が今すぐ吹っ飛びそうです」
おお神よ、なんて言うつもりは無いが、懺悔したいような気持ちにさせられるのは、教会という場所の持つ力だろうか。
鹿ノ子さんは恋が分かるのかと思ったら、急に気持ちがしおれてしまって、一作入魂のはちまきも見ているのが辛くなってしまった。なんで僕はこうなんだ。キュンとする話を書こうとすればするほど、自分の情けなさがつきつけられていく。
鹿ノ子さんに手厚くサポートしてもらったのに、今度は鹿ノ子さんが気になって、手が止まってしまったなんて、どう説明したらいいのか分からない。だから、キュンが分からなくて筆が止まってしまった、と、彼女にはそう伝えた。これからどうしたら良いのか、さっぱり分からない。
気づけば、もうスケッチするべき線は一本も無かった。
「本当の理由を話したら、きっと嫌われる」
そう言って、膝に広げたノートの上にペンを転がしたときだ。
「んむにゃ、……なにがですかぁ」
目を覚ました彼女が、いつの間にか僕の肩から頭をどけて、こちらを見ていた。
ノートを覗き込んで「力作ですね!」と歓声を上げる。
「いや、なんでも無いんです。……よく眠れましたか?」
「あ、はい、お陰様で。すみません、私どのくらい眠ってました?」
「三十分くらいですから、気にしないで下さい。出ましょう、そろそろ閉館時間ですから」
そう言って、ノートをリュックにしまって立ち上がる。彼女は僕の顔をじっと見上げて、動こうとしない。
どうでもいいが、口の端によだれの跡があるのを指摘していいのか迷う。
関係性と、指摘する側と、指摘される側の条件が揃わないと、これはただ気まずくなるだけだ。天馬だったら、物語のなかの不遜なイケメンの彼だったら、ヒロインの聖歌に少し意地悪く伝えたり出来るのだろう。
『夢のなかで何でも食ってんの?』なんて笑いながら言いそうだ。
「そうか! それだ」
エウレーカ!
聖歌のモデルである鹿ノ子さんをイメージして、聖歌を言動を書く。鹿ノ子さんの理想のヒーロー像をイメージして、天馬の言動を書く。これで天馬と聖歌のやりとりを作っていける。
背負いかけたリュックを再び置いて、ノートの、教会のスケッチの隅に書きつける。
聖歌=K
天馬:Kのヒーロー
鹿ノ子さんが見る可能性も考えて、暗号めいたメモにする。
僕がショックを受けて動けなくなっていたのは、鹿ノ子さんをモデルにした聖歌の相手役に、自分を重ねようとしていたからだ。見苦しい自分の感情と向き合うことになるんだから、筆が止まって当たり前だ。
「どうしたんですか? このKとは?」
案の定、メモの内容を覗き込んできた鹿ノ子さんがたずねるが、正しい答えを説明することはしない。
ただ、「書けそうな気がしてきました」とだけ返した。
「そうですか」
と呟いて、今度は僕より先に立ち上がった鹿ノ子さんが、自分の頭を指さして、言った。
「ボンッてなるのも、いいと思いますけどね」
「え、あ、な……」
リュックに再度しまおうとしたノートが音を立てて落ちる。
「人には人のキュンがありますから」
乳酸菌みたいに言って、彼女が笑う。よだれ跡はついたままだけど、それをどう指摘するかなんてどうでも良くなるような笑顔だった。
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