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19話 雨上がり
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「すみません、僕を理解しようとして買った本なのに、そのせいで嫌な思いをされて」
そう囁くために顔を寄せてきた田原小鳩からも、ごま団子匂いがしておかしかった。その奥にはかすかに雨の匂いがある。
彼の手のひらは私の耳を柔らかく覆うだけなので、音の遮蔽については、あまり意味はない。
でも物理的に耳が覆われているというだけで、私は一人じゃないという気持ちになれた。
教室で一人きりになったあのときの私と違う。心配してくれる人が居る。それだけでこんなにも心強いものなのかと驚いた。
無意識に、私の耳に当てられていた彼の手を握っていた。
「少しだけ、こうしていてもいいですか。震えが収まるまで」
小声で訪ねると、田原小鳩は生真面目な顔でうなずいて言った。
「もちろんです。その本、僕、持って帰りますよ。無理をして読まない方が良いです。僕の感覚っていうか、全部かな、人生全部がきっと普通じゃないっていうのは分かってるから。僕が何かしようとするといつもその壁にぶつかる。今回だってご迷惑を……」
「迷惑なんかじゃないです。それで言ったら私の方がよっぽどめちゃくちゃですから」
「あ、それはまあそうですね」
正直者の彼は正直にそう答えた。
やっぱり迷惑だしめちゃくちゃだと思われているんだ、私。と思ったらなぜか面白くなってきて、さっきまでの不安がふわりと解けた。自然と笑いがせり上がってきて、頬が緩むころには、私の震えは止まっていた。
それから、私は気になっていた田原小鳩の言葉に触れた。
「人生全部が普通じゃないって、それが壁になるって、どういうことですか?」
「それは、いいじゃないですか。他人に語るようなことじゃないです」
私の耳から手を離して、座席から浮かせていた腰を下ろした田原小鳩は、分かりやすく表情を曇らせた。
彼の触れられたくない部分に、踏み込んでしまったのかもしれない。
「すみません、そうですよね、そんなこと語ることじゃないですよね……」
湯気がおさまって湿った紙だけが残された蒸籠を挟んで、一瞬気まずい雰囲気が漂った。
田原小鳩が逃げるように、ドリンクのおかわりに席を立とうとしたときだ。
「語ることじゃないかもしれないですけど、私の思い出話を聞いてもらってもいいですか?」
グラスを持ったまま一瞬固まった田原小鳩は、分かりました、と口の中で呟いて座った。
それから語ったのは、私の中学生の頃の例のトラウマだ。性的なものが全部苦手になってしまったきっかけの事件。
以前は性的なものに興味津々だったし、そういった描写を入れた物語だって自分で作っていたということ。
そんなトラウマがあって、えっちなものを見聞きすると身体が拒絶反応を示してしまうこと。
「でも、田原さんの応募原稿は読まないといけないと思ったんです。ただのイタズラかどうかこの目で確かめないまま、だれにも読まれないで捨てられる原稿なんてあったらいけないと思ったから」
「そこまでしてもらうようなものじゃないですよ、僕なんて……」
「卑下しないでください! 押し付けがましく聞こえたら申し訳ないんですけど、体調を崩しながらでも、読み切れたんです。夢中で読めたんです。田原さんの……巌流島さんの物語は、イタズラなんかじゃないって分かって……だから、読まれないまま捨てられるのが悔しかった。半人前以下の私が言っても、誰も聞いてくれないですけどね、へへ」
なんとか笑ってみせようとしたけれど、感情が昂ってしまって、涙声になるのを抑えられなかった。無言で手渡された紙ナプキンを受け取って、鼻をかむ。
情けなかった。なにも出来ないまま空回りをしている自分が。
「二年……」
ずび、と鼻をすすりながら、思わず呟いていた。
あらたに数枚のナプキンをナプキン立てから抜き取ろうとしていた田原小鳩が、たずね返す。
「え? なんですか?」
「あ、いえ、なんでも無いんです。それよりも田原さん、本当に、書かないんですか? まだ何か書きたいことがあるんじゃないですか? 書くことが溢れてたまらないから、五年も送り続けられたんじゃないですか?」
田原小鳩の手の中のナプキンが、くしゃっという音をたてて握りしめられた。
「本当は、考えては、いるんです。でも他人に迷惑をかけたっていうのを思い出して、手が止まるんです。書きたいけど、書けない。苦しいですよ。頭の中にあることが出せないんだから」
「それは送り先をおふらんす書房さんに変えると考えてもですか」
「そうですね、僕としてはリリンさんにご迷惑をおかけしたっていう恥の感情が、とにかく辛いので」
「じゃあやっぱり、リリンのトラウマはリリンで解消するしか無いんじゃないでしょうか」
また無言の間だ。
後ろの席で一人で酒を飲んでいたサラリーマンが、席を立つ音、傘を引きずって歩いていく音。通路を挟んだ隣の席の学生集団が、飲み放題のメニューを回し見する声。
そこら中に響く、食器の金属音。
私達のテーブルの食器を下げる、ヒトの店員。
音とヒトが動き回る空間で、私たちのテーブルだけ、一瞬、時が止まっていた。
「……でも僕には、普通が分からないし、少女小説なんてきっと僕から一番遠いですよ」
かさ、かさ、と田原小鳩の手の中でもまれる紙ナプキンが音を立てる。
彼の目は、自分のカバンに注がれている。恐らくそこにしまった、『海のまち』について考えている。
もうひと押しだと思った。
「遠くないですし、書けます。そのサポートのために、少女小説オタクの私を使うのはどうですか? 書けなくなった理由の半分は私ですから、そのくらいのお詫びはさせてください。田原さんを書けなくしてしまったのが、自分自身ゆるせないんです」
上目遣いの田原小鳩と目が合った。
ずり下がった眼鏡から覗く瞳は、私を見定めるように細かく動く。
警戒心を解くべきか迷っている、動物みたいに。
「……そういった形でお詫びをしていただくとしたら、やっぱりここは割り勘ですね。奢られる理由が無くなりましたから」
たっぷり時間をかけてからそう言った田原小鳩が、テーブルの上の伝票を手に取った。
「! ありがとうございます!!」
「別に、本当に書けるようになるかは、まだ分からないですけど」
顔を隠すように眼鏡を押し上げる彼の後ろについて、店を出る。
降り続いていた雨はようやく止んでいた。
そう囁くために顔を寄せてきた田原小鳩からも、ごま団子匂いがしておかしかった。その奥にはかすかに雨の匂いがある。
彼の手のひらは私の耳を柔らかく覆うだけなので、音の遮蔽については、あまり意味はない。
でも物理的に耳が覆われているというだけで、私は一人じゃないという気持ちになれた。
教室で一人きりになったあのときの私と違う。心配してくれる人が居る。それだけでこんなにも心強いものなのかと驚いた。
無意識に、私の耳に当てられていた彼の手を握っていた。
「少しだけ、こうしていてもいいですか。震えが収まるまで」
小声で訪ねると、田原小鳩は生真面目な顔でうなずいて言った。
「もちろんです。その本、僕、持って帰りますよ。無理をして読まない方が良いです。僕の感覚っていうか、全部かな、人生全部がきっと普通じゃないっていうのは分かってるから。僕が何かしようとするといつもその壁にぶつかる。今回だってご迷惑を……」
「迷惑なんかじゃないです。それで言ったら私の方がよっぽどめちゃくちゃですから」
「あ、それはまあそうですね」
正直者の彼は正直にそう答えた。
やっぱり迷惑だしめちゃくちゃだと思われているんだ、私。と思ったらなぜか面白くなってきて、さっきまでの不安がふわりと解けた。自然と笑いがせり上がってきて、頬が緩むころには、私の震えは止まっていた。
それから、私は気になっていた田原小鳩の言葉に触れた。
「人生全部が普通じゃないって、それが壁になるって、どういうことですか?」
「それは、いいじゃないですか。他人に語るようなことじゃないです」
私の耳から手を離して、座席から浮かせていた腰を下ろした田原小鳩は、分かりやすく表情を曇らせた。
彼の触れられたくない部分に、踏み込んでしまったのかもしれない。
「すみません、そうですよね、そんなこと語ることじゃないですよね……」
湯気がおさまって湿った紙だけが残された蒸籠を挟んで、一瞬気まずい雰囲気が漂った。
田原小鳩が逃げるように、ドリンクのおかわりに席を立とうとしたときだ。
「語ることじゃないかもしれないですけど、私の思い出話を聞いてもらってもいいですか?」
グラスを持ったまま一瞬固まった田原小鳩は、分かりました、と口の中で呟いて座った。
それから語ったのは、私の中学生の頃の例のトラウマだ。性的なものが全部苦手になってしまったきっかけの事件。
以前は性的なものに興味津々だったし、そういった描写を入れた物語だって自分で作っていたということ。
そんなトラウマがあって、えっちなものを見聞きすると身体が拒絶反応を示してしまうこと。
「でも、田原さんの応募原稿は読まないといけないと思ったんです。ただのイタズラかどうかこの目で確かめないまま、だれにも読まれないで捨てられる原稿なんてあったらいけないと思ったから」
「そこまでしてもらうようなものじゃないですよ、僕なんて……」
「卑下しないでください! 押し付けがましく聞こえたら申し訳ないんですけど、体調を崩しながらでも、読み切れたんです。夢中で読めたんです。田原さんの……巌流島さんの物語は、イタズラなんかじゃないって分かって……だから、読まれないまま捨てられるのが悔しかった。半人前以下の私が言っても、誰も聞いてくれないですけどね、へへ」
なんとか笑ってみせようとしたけれど、感情が昂ってしまって、涙声になるのを抑えられなかった。無言で手渡された紙ナプキンを受け取って、鼻をかむ。
情けなかった。なにも出来ないまま空回りをしている自分が。
「二年……」
ずび、と鼻をすすりながら、思わず呟いていた。
あらたに数枚のナプキンをナプキン立てから抜き取ろうとしていた田原小鳩が、たずね返す。
「え? なんですか?」
「あ、いえ、なんでも無いんです。それよりも田原さん、本当に、書かないんですか? まだ何か書きたいことがあるんじゃないですか? 書くことが溢れてたまらないから、五年も送り続けられたんじゃないですか?」
田原小鳩の手の中のナプキンが、くしゃっという音をたてて握りしめられた。
「本当は、考えては、いるんです。でも他人に迷惑をかけたっていうのを思い出して、手が止まるんです。書きたいけど、書けない。苦しいですよ。頭の中にあることが出せないんだから」
「それは送り先をおふらんす書房さんに変えると考えてもですか」
「そうですね、僕としてはリリンさんにご迷惑をおかけしたっていう恥の感情が、とにかく辛いので」
「じゃあやっぱり、リリンのトラウマはリリンで解消するしか無いんじゃないでしょうか」
また無言の間だ。
後ろの席で一人で酒を飲んでいたサラリーマンが、席を立つ音、傘を引きずって歩いていく音。通路を挟んだ隣の席の学生集団が、飲み放題のメニューを回し見する声。
そこら中に響く、食器の金属音。
私達のテーブルの食器を下げる、ヒトの店員。
音とヒトが動き回る空間で、私たちのテーブルだけ、一瞬、時が止まっていた。
「……でも僕には、普通が分からないし、少女小説なんてきっと僕から一番遠いですよ」
かさ、かさ、と田原小鳩の手の中でもまれる紙ナプキンが音を立てる。
彼の目は、自分のカバンに注がれている。恐らくそこにしまった、『海のまち』について考えている。
もうひと押しだと思った。
「遠くないですし、書けます。そのサポートのために、少女小説オタクの私を使うのはどうですか? 書けなくなった理由の半分は私ですから、そのくらいのお詫びはさせてください。田原さんを書けなくしてしまったのが、自分自身ゆるせないんです」
上目遣いの田原小鳩と目が合った。
ずり下がった眼鏡から覗く瞳は、私を見定めるように細かく動く。
警戒心を解くべきか迷っている、動物みたいに。
「……そういった形でお詫びをしていただくとしたら、やっぱりここは割り勘ですね。奢られる理由が無くなりましたから」
たっぷり時間をかけてからそう言った田原小鳩が、テーブルの上の伝票を手に取った。
「! ありがとうございます!!」
「別に、本当に書けるようになるかは、まだ分からないですけど」
顔を隠すように眼鏡を押し上げる彼の後ろについて、店を出る。
降り続いていた雨はようやく止んでいた。
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