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15話 おふらんす書房のポポン文庫
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警察を呼ばれなかっただけでも、幸いと思おう。
濡れた外階段を降りきったとき、私はそう気持ちを持ち直していた。なにしろ、突然押しかけたあげくにドアの隙間に足を挟み込むという強硬手段にまで及んだのだから。
土地勘が無いので、地図アプリに頼って大きな道路に出るのが無難だけれど、しかし……。
スマホ画面についた水滴を指で繋げて一つのおおきな水滴にしながら、考える。
次から次へと吹き付けてくる雨水が、無限に画面上に現れるパズルみたいだ。
集めて大きく育った水滴を一気に拭き取ったところで、あるルートが目に入った。
「あ、こっちの方が近道っぽい。タクシー探すよりも早いかも」
小雨になってきていた、という状況が生んだ楽観もあっただろうし、このままタクシーに乗って自動的に帰路に運ばれてしまうことへの抵抗感もあった。
少しでも田原小鳩のいる街にとどまる時間を伸ばしたかった。
そのための理由が欲しかった。
あのメモを渡したことで、なにか伝わったかもしれない。ただ伝わったとしても、田原小鳩から『リリン』の奔馬鹿ノ子にアクションを取ってくることは、期待できないだろう。
だから物理的に近いところに、少しでも長い時間留まっていることしか出来ない。
そんなことを考えながら、ぼんやりと傘をさしていたからだろうか。
風が強くなっていることに気が付かなかった。頬を濡れた木の葉がかすめていったときにも、私はちょっと痛いなあとしか思っていなかった。
次の瞬間に正面から突風を受けて、傘の骨が全部逆側に折れたところでやっと気がついた。
これ、傘をさしてのんびり歩いている場合じゃないのでは? と。
ずぶ濡れの状態でどうにかして駆け込んだのは、駅の向かいにある書店だった。
折れて使い物にならなくなった傘を、傘立てに置いて店内に入る。
入り口のところで、まずスーツとカバンについた雫をハンカチタオルで拭う。ハンカチタオルがすでに水びたしになっていて、ろくな吸水力を発揮してくれない。
「なんか他に、他……あ、これ、持って帰ってきてたんだっけ」
スカートのポケットの中に入っていたのは、田原小鳩から借りたハンカチ。
借りた時にはアイロンがかけられて、きれいに折りたたまれていたハンカチは、ポケットのなかでくしゃくしゃになっていた。
暗い水色に濃いブルーの線でチェック模様が入っているハンカチに、私の血が赤い染みをつけている。
田原小鳩と私をつなぐ唯一の物であるそれで、拭ききれなかった雫を拭き取る。
これでやっと書店に入れる程度には水気がとれた。
知らない書店の、知らない棚の間を歩く。
いつも見るような棚じゃなくて、探すのはあるジャンルのある出版社の棚。
どんどんと店の奥の方に誘導されていく。そして見つけたのだ、黒い背表紙のぎっしりつまった一角を。
漢字だらけの背表紙をにらみ、そのうちの一冊に手をのばしたときだ。
「奔馬、さん……?」
背後から、彼の声がした。
「田原さん。追ってきて下さったんですか」
「メモが、その、気になって。まさか書店に居るとは思わなかったですけど、傘が……外にあったので。あ、なんかキモいですね、すみません」
そう言って田原小鳩は被っていたフードを取って髪を乱暴にかいた。うねった前髪から雫がたれて、意外に高い鼻梁と目の間の渓谷に細い川を作る。
レインコートを着こんできたらしく、全身に水滴をまとっていた。
「レインコート、入り口で拭いてきてください!」
「え? なんでですか?」
「ここが紙の本を扱う場所だからです! そんなびっしょびしょでいて言い訳ないでしょ!」
「そういうものなんです? って押さないで下さいよ」
困惑する田原小鳩の背を押して、入り口に押しやる。
「ちょ、ちょっと、奔馬さん力強っ! これ本屋の常識なんですか? 僕、本屋の常識とか知らないんですけど」
「知らないならこれから知って下さい!」
ん? なんだか今、気になることを聞いた気がする。
「……って、田原さん本屋初めてなんですか? ガチ勢じゃない的な意味じゃなくて?」
「はい、こんなに本がたくさんある場所、高校の図書室以来ですよ。図書室も一回くらいしか入ったことないけど」
例の黒い背表紙の文庫がたくさん詰められた一角で、私と田原小鳩は声を潜めて言い合っていた。
店内にはまばらにお客さんが居るけれど、この場所には人が寄り付かない。正確にいえば、気にして通りがかる人はいるものの、私の姿を認めて立ち去っていくのだ。
「なるほど。だから誤解があったんですね。田原さん、メモをご覧になって来てくれたんですよね、どうですか? 私のヒント、伝わりました?」
「それが分からないから、聞きに来た。ちょっと不親切なメモだよ」
田原小鳩が差し出したメモは、水に濡れてうねっていたけれど、文字は判別できる。
私が書いた文字は以下の通りだ。
◯ ポポン ← こっち
✕ リリン
うーん、読み返してみると、確かに不親切かもしれない。
そこで私は、先程、田原小鳩に声を掛けられる前に手に取りかけていた文庫を手に取った。
「これですよ、田原さんが言っていた、お父様の部屋にあった文庫。リリンではなく、おふらんす書房さんのポポン文庫です」
そう言って差し出した本の表紙には、『邪淫真珠泥棒~海女さんのあわび貝~』のタイトルがおどろおどろしく踊っている。
表紙絵はもちろん、すっけすけの白木綿の着物だ。
なつかしいなあ、と無邪気に本を受け取る田原小鳩の表情とのギャップがすごい。
「……コホン。ちなみにこちらが、リリン文庫の『海のまち』シリーズです。ね、全然違うでしょう?」
カバンから私物の本を取り出す。
布製カバーを外すと、そこに現れたのはエメラルドグリーンの爽やかな背表紙の文庫本だ。私のお気に入りの『海のまち』シリーズの一巻。マイ・バイブルだ。
リリン文庫を左手に、ポポン文庫を右手に持って、田原小鳩はしげしげと両者をながめた。
ため息をついて、本を返そうとしてくるのを押し戻す。
「ポポンの方は、私が勉強のために買います。私の知らない分野……避けてきた分野ですから。田原さんを理解するのに、必要でしょう。リリン文庫の方は私物ですが、よろしければ田原さんに持っていて欲しいです」
私の言葉に、田原小鳩は小さく何度も瞬きした。
それから軽く肩をすくめて言った。
「何をしたいのか分からないけれど、僕はもう、書けないですよ」
「書けます。調べたら、おふらんす書房さんも新人賞やってますし、持ち込みも受け付けています」
「だから!」
田原小鳩が突然大きな声を上げた。店内の棚の隙間からいくつかの視線がよこされる。
「だから、僕はもう書けないんですってば! 書こうと思うと、セクハラ扱いされた恐怖がよみがえるんですよ! 分からないでしょう、僕がどれだけショックだったか」
「分からないです。でも、分かろうとはしたいです」
「……欺瞞じゃないですか」
『海のまち』一巻を握る彼の手が震えていた。
無意識に、その手に、私の手を重ねていた。
「欺瞞ですけど、分かりたいです。書けない状況から抜け出すための方法も、一緒に探したいです」
田原小鳩の手はかさついていて、大きかった。
この手で、五年間もの間、黙々と作品を作っていたんだ。誰にも――少なくともリリン編集部の中では――求められなかった作品を。
そんなの悔しいじゃないか。見せつけてやりたいと、思わないだろうか。
「例えば、リリンで読まれる作品を一度出してみて、本気を見せるとか」
思わず出た言葉に、田原小鳩の瞳が揺れた。
濡れた外階段を降りきったとき、私はそう気持ちを持ち直していた。なにしろ、突然押しかけたあげくにドアの隙間に足を挟み込むという強硬手段にまで及んだのだから。
土地勘が無いので、地図アプリに頼って大きな道路に出るのが無難だけれど、しかし……。
スマホ画面についた水滴を指で繋げて一つのおおきな水滴にしながら、考える。
次から次へと吹き付けてくる雨水が、無限に画面上に現れるパズルみたいだ。
集めて大きく育った水滴を一気に拭き取ったところで、あるルートが目に入った。
「あ、こっちの方が近道っぽい。タクシー探すよりも早いかも」
小雨になってきていた、という状況が生んだ楽観もあっただろうし、このままタクシーに乗って自動的に帰路に運ばれてしまうことへの抵抗感もあった。
少しでも田原小鳩のいる街にとどまる時間を伸ばしたかった。
そのための理由が欲しかった。
あのメモを渡したことで、なにか伝わったかもしれない。ただ伝わったとしても、田原小鳩から『リリン』の奔馬鹿ノ子にアクションを取ってくることは、期待できないだろう。
だから物理的に近いところに、少しでも長い時間留まっていることしか出来ない。
そんなことを考えながら、ぼんやりと傘をさしていたからだろうか。
風が強くなっていることに気が付かなかった。頬を濡れた木の葉がかすめていったときにも、私はちょっと痛いなあとしか思っていなかった。
次の瞬間に正面から突風を受けて、傘の骨が全部逆側に折れたところでやっと気がついた。
これ、傘をさしてのんびり歩いている場合じゃないのでは? と。
ずぶ濡れの状態でどうにかして駆け込んだのは、駅の向かいにある書店だった。
折れて使い物にならなくなった傘を、傘立てに置いて店内に入る。
入り口のところで、まずスーツとカバンについた雫をハンカチタオルで拭う。ハンカチタオルがすでに水びたしになっていて、ろくな吸水力を発揮してくれない。
「なんか他に、他……あ、これ、持って帰ってきてたんだっけ」
スカートのポケットの中に入っていたのは、田原小鳩から借りたハンカチ。
借りた時にはアイロンがかけられて、きれいに折りたたまれていたハンカチは、ポケットのなかでくしゃくしゃになっていた。
暗い水色に濃いブルーの線でチェック模様が入っているハンカチに、私の血が赤い染みをつけている。
田原小鳩と私をつなぐ唯一の物であるそれで、拭ききれなかった雫を拭き取る。
これでやっと書店に入れる程度には水気がとれた。
知らない書店の、知らない棚の間を歩く。
いつも見るような棚じゃなくて、探すのはあるジャンルのある出版社の棚。
どんどんと店の奥の方に誘導されていく。そして見つけたのだ、黒い背表紙のぎっしりつまった一角を。
漢字だらけの背表紙をにらみ、そのうちの一冊に手をのばしたときだ。
「奔馬、さん……?」
背後から、彼の声がした。
「田原さん。追ってきて下さったんですか」
「メモが、その、気になって。まさか書店に居るとは思わなかったですけど、傘が……外にあったので。あ、なんかキモいですね、すみません」
そう言って田原小鳩は被っていたフードを取って髪を乱暴にかいた。うねった前髪から雫がたれて、意外に高い鼻梁と目の間の渓谷に細い川を作る。
レインコートを着こんできたらしく、全身に水滴をまとっていた。
「レインコート、入り口で拭いてきてください!」
「え? なんでですか?」
「ここが紙の本を扱う場所だからです! そんなびっしょびしょでいて言い訳ないでしょ!」
「そういうものなんです? って押さないで下さいよ」
困惑する田原小鳩の背を押して、入り口に押しやる。
「ちょ、ちょっと、奔馬さん力強っ! これ本屋の常識なんですか? 僕、本屋の常識とか知らないんですけど」
「知らないならこれから知って下さい!」
ん? なんだか今、気になることを聞いた気がする。
「……って、田原さん本屋初めてなんですか? ガチ勢じゃない的な意味じゃなくて?」
「はい、こんなに本がたくさんある場所、高校の図書室以来ですよ。図書室も一回くらいしか入ったことないけど」
例の黒い背表紙の文庫がたくさん詰められた一角で、私と田原小鳩は声を潜めて言い合っていた。
店内にはまばらにお客さんが居るけれど、この場所には人が寄り付かない。正確にいえば、気にして通りがかる人はいるものの、私の姿を認めて立ち去っていくのだ。
「なるほど。だから誤解があったんですね。田原さん、メモをご覧になって来てくれたんですよね、どうですか? 私のヒント、伝わりました?」
「それが分からないから、聞きに来た。ちょっと不親切なメモだよ」
田原小鳩が差し出したメモは、水に濡れてうねっていたけれど、文字は判別できる。
私が書いた文字は以下の通りだ。
◯ ポポン ← こっち
✕ リリン
うーん、読み返してみると、確かに不親切かもしれない。
そこで私は、先程、田原小鳩に声を掛けられる前に手に取りかけていた文庫を手に取った。
「これですよ、田原さんが言っていた、お父様の部屋にあった文庫。リリンではなく、おふらんす書房さんのポポン文庫です」
そう言って差し出した本の表紙には、『邪淫真珠泥棒~海女さんのあわび貝~』のタイトルがおどろおどろしく踊っている。
表紙絵はもちろん、すっけすけの白木綿の着物だ。
なつかしいなあ、と無邪気に本を受け取る田原小鳩の表情とのギャップがすごい。
「……コホン。ちなみにこちらが、リリン文庫の『海のまち』シリーズです。ね、全然違うでしょう?」
カバンから私物の本を取り出す。
布製カバーを外すと、そこに現れたのはエメラルドグリーンの爽やかな背表紙の文庫本だ。私のお気に入りの『海のまち』シリーズの一巻。マイ・バイブルだ。
リリン文庫を左手に、ポポン文庫を右手に持って、田原小鳩はしげしげと両者をながめた。
ため息をついて、本を返そうとしてくるのを押し戻す。
「ポポンの方は、私が勉強のために買います。私の知らない分野……避けてきた分野ですから。田原さんを理解するのに、必要でしょう。リリン文庫の方は私物ですが、よろしければ田原さんに持っていて欲しいです」
私の言葉に、田原小鳩は小さく何度も瞬きした。
それから軽く肩をすくめて言った。
「何をしたいのか分からないけれど、僕はもう、書けないですよ」
「書けます。調べたら、おふらんす書房さんも新人賞やってますし、持ち込みも受け付けています」
「だから!」
田原小鳩が突然大きな声を上げた。店内の棚の隙間からいくつかの視線がよこされる。
「だから、僕はもう書けないんですってば! 書こうと思うと、セクハラ扱いされた恐怖がよみがえるんですよ! 分からないでしょう、僕がどれだけショックだったか」
「分からないです。でも、分かろうとはしたいです」
「……欺瞞じゃないですか」
『海のまち』一巻を握る彼の手が震えていた。
無意識に、その手に、私の手を重ねていた。
「欺瞞ですけど、分かりたいです。書けない状況から抜け出すための方法も、一緒に探したいです」
田原小鳩の手はかさついていて、大きかった。
この手で、五年間もの間、黙々と作品を作っていたんだ。誰にも――少なくともリリン編集部の中では――求められなかった作品を。
そんなの悔しいじゃないか。見せつけてやりたいと、思わないだろうか。
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