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令和を待たずに逝ってしまった貴方へ
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これは、平成24年3月「ちゃーちゃん!、、、脳腫瘍になっちゃった」震える様な電話の声が、今も忘れられません。
これが始まりでした。
平成31年4月25日までの39歳で亡くなった元お嫁ちゃんの、7年間の壮絶な闘いです。
第一章 関係
元お嫁ちゃんの聖子は、大分複雑な家庭だった様で、聖子が小学校の頃、両親は子供達を残して蒸発してしまい、高校まで養護施設にいました。
私の長男と高校が一緒で、付き合う様になりました。
「同情で付き合うならやめなさいよ!」 と息子に言いましたが「同情なんかじゃないよ」と言うので、お互い好き同士ならしかたないと思い、見守る事にしました。
私が仕事で疲れて、ウトウト寝てしまったりしていると、頭痛いのかと思って、って夕飯作ってくれたり、妹弟に何かあれば助けてくれたり、優しい子なのですが、欲しいものがあれば、せっせっと働く、でも手に入るとやめてしまう。
そんな息子が、ちゃんと結婚生活が出来ると思いませんでしたので、聖子に、付き合うのは良いけど結婚は賛成出来ない、聖子には幸せになって欲しい!と言ったことがありました。
お嫁ちゃんとは嫁、姑と言うより友達?って感じでした。
長男が留守でも遊びに来てお茶しながら話したり、長男ぬきで、娘と次男と私とお嫁ちゃんと一緒にカラオケに行ったりもしました。
私の離婚が決まったのと同じ頃
「子供が出来た!結婚する!ちゃんとするから」と言われ、2人の笑顔に反対できず、
私が借りた借家の近くに越して新婚生活を初め長男幸平が生まれました。
私が40歳だったので、おばーちゃんと言うのは抵抗があると言う事で、ちゃーちゃんになりました。
思った通り息子はお父さんになれず、聖子は苦労してた様です。
家賃も払えなくなり、元夫の家に入り、2人目も生まれなんとか生活してしていました。
が、上手くいかず6年程たった頃「離婚する」とお嫁ちゃんから報告がありました。
私も経験ずみでしたので、何の援助も貰えず一人で子供達を育てるのはとても大変で、
覚悟が必要だ。と反対しましたが気持ちは固まっていました。
息子は、車を持たせてあげるのが精一杯で、他は何もしてやれませんでした。
私も離婚して10年間、昼、夜、夜中まで、
死ぬほど働きました。
そんな中、尊敬できる人に出会えて再婚しました。
そのせいもあり、私を頼ってきました。
息子が何もしてやってないし、と思い、自分で出来る範囲で、助けていましたが、余りにも頼って来るので、聖子とは距離を置くようにして、孫達のお年玉や誕生日、入学やら何やらで大変な時位の孫達との付き合いをしていました。
聖子も昼、夜働きながら何とかやっていける様になっていったみたいです。
そんな中、長男、幸平中学3年、長女、姫乃小学5年の冬、聖子が夜、知り合いと長電話してた時、倒れて救急車ではこばれ、検査結果は脳腫瘍からのてんかんだった様です。
久しぶりの聖子からの電話が
「ちゃーちゃん...脳腫瘍になっちゃった!」
震える様な声での連絡でした。
最初に話した様に、複雑な家庭の子なので、面倒見てくれる人もいないし、
今の主人には何の関係もない子達ですが、主人に、私が面倒見たいと思う、と相談した所、「迎えに行って、病院連れてくの大変だぞ!往復だけで4時間はかかるんだぞ!
覚悟決めてやるなら良いけど、、、」って言ってくれました。
第二章 手術
平成24年4月、右前頭葉から中心までの7センチもの腫瘍摘出手術、12時間もかかる手術でしたが、脳の一番大事な部分まで深重してて、そこまで取ってしまうと植物人間になってしまうと言う事で、残ってしまってる所は抗がん剤と放射線で、治療するとの事で一応手術は無事終わりましたが、左半身麻痺が残ってしまいました。
治療やリハビリで入院が少し長くなるから、一週間ほど一旦家に戻りましょう。と病院からの提案があり、半身麻痺なので私が居る事が条件でした。
夫が「行ってやれ」と言ってくれて、お陰で一週間サポートに行く事が出来ました。
この先どうしたらいいのか、取り敢えずはやれるだけのことを、やるしかないのですが...
家に戻ったついでに、必要になるであろう所に、私の娘の旦那さんが、大工でしたので、手すりを付けてもらったり、この先働く事が出来ないので、生活保護の申請やら、その為の面接などがあり「今あるお金がなくなってからの支援になります...」って!初めてしりました。
子供達は、施設へと言われましたが、施設の事を一番知ってる聖子が、施設は行かせたくない、と言う事で、すぐ近くに仲の良いいとこ3人が居るのでその子達と何とか暮らしていました。
左半身麻痺で、イライラするでしょうに、ごめんねありがとう、とニコニコして、家に帰って来た事を喜んでみせてました。
病院に戻り放射線やリハビリを相当頑張った様で、一見普通に見えるほどまでに回復しました。
「余命5年ですが、10年だったり、このまま治ったり色々なので、前向きに治療頑張りましょう」と先生に言って頂き、3ヶ月で退院できました。
良い方ばかり考えて抗がん剤は飲み薬で月5日間、病院は放射線のために月一回、髪は抜けてしまいましたが、2年間の抗がん剤治療も放射線も無事終わり、月一回の病院通いも一ヶ月おきになりました。
近くに、手作りパンの美味しいお店があり、
帰りに、子供達へのお土産パンを、どれにしようか、と美味しそうなパンをお土産に買って帰るのが病院へ行く唯一の楽しみでした。
時がたつのは早いもので、平成27年、長男幸平は高校生、長女姫乃の小学校の卒業式は一緒に行って来ました。
卒業式に行けたのが嬉しかったのでしょう
走れないはずなのに、小走りしてるし、もう心配です。
このまま何事もありません様にと祈るばかりでした。
第三章 再発
てんかんで何度か倒れて、救急車で運ばれたりしながらも6年が経っていました。
大変な思いをしながらも、幸平は無事高校を卒業して、正社員として仕事も決まり、ママの事は心配だけど働き手が居ると生活保護が打ち切られてしまうので、家を出て一人で生活することになり、夫も私も仕事を引退していて無職でしたので、保証人は娘夫婦になってもらい、何とか気に入ったアパートが決まり、姫乃も大変な中、無事
高校生になりました。
が、平成30年4月再発です。
手術が出来ると言う事なのでお願いする事にしました。
2回目の手術、今回は麻痺も起こらず、一ヶ月程で退院できて、抗がん剤は今回は点滴でと言う事で、月一回大学病院で抗がん剤治療が始まり、大変だけど今度こそ大丈夫と安心していました。
しかし、3回目位の抗がん剤の後、手術した傷が、開いて来てしまいました。
抗がん剤の副作用、って事もある様ですが、一回目の手術後の放射線治療で、頭皮が薄くなってた事もあり、2回目だと頭の皮膚が大分引っ張られてたみたいで、10月頃、一旦抗がん剤を中止して太ももの後ろの皮膚を頭に移植する手術を、する事になりました。
この時ばかりは、相当痛かったのでしょう「痛い!痛い!何で私ばっかり」
と嘆いていました。
抗がん剤は中止したままでした。
聖子が「抗がん剤ができないと不安だな!」と独り言の様に言っていました。
脳外科と形成外科へ、月2回の病院通いになってしまいました。
この年は、私が体調不良だったりで、2回ほど幸平が病院へ連れて行ってくれました。
第四章 再再発
飲み薬の抗がん剤は始まりましたが、自分で感じていたんだと思います。
11月形成外科へ行った時、左へ左へ行ってしまうので、支えて歩いていました。
丁度抗がん剤を飲んでた時だったので、そのせいだと思っていました。
「帰りに、免許返納したいから、警察署よってくれる?」と言うので、好きな様にさせようと連れて行きました。
それから一週間後位だったでしょうか
高校生になってた姫乃から朝早く電話があり「ママがトイレに行こうとして、動けなかったみたいで毛布にくるまってベッドからおちちゃっててどうすれば良い?!」今にも泣き出しそうに、電話をかけて来ました。
通っている大学病院に連絡して救急車で運んでもらい、私も病院へ向かいました。
検査の結果、再再発です...。
「今回は手術もできません。余命6ヶ月です。」と本人と一緒に聞かされました。
聖子はもう覚悟してた様で、冷静に聞いていました。
短い間に、2回の大手術して頑張ったのに、何で!何で!私が受け入れられず貧血をおこしそうになったのを覚えています。
「もう治療も出来ないので、家でお世話する人が居ないなら、ホスピス病棟のある病院を紹介します。」と言われて紹介されたのは、救急車で何度かお世話になった病院でした。
12月半ばには転院になり、大学病院を出る時は平日だったので、まだ小さい子供が居る私の娘が来てくれて助かりました。
荷物もあるし、この頃はもう書く事も上手くできず、書類には聖子に確認して私がサインをしていましたし、移動は車椅子でしたので、車を取ってくる時など一人にしないですんで本当に助かりました。
転院先に着いた時は私だけなので、手続きして、まず本人を部屋へ連れて行き、荷物を取りに行ったり、あれやこれやで疲れてぐだぐだになっている私を見て笑っていました。
そのころはまだ少し歩けるし、一般病棟でしたので「何処が悪いの?」と同じ部屋の人が不思議がる程でした。
私も皆んなも、半身麻痺になっても頑張って歩ける様になったし、奇跡が起こるんじゃないかと期待もしていました。
第五章 ホスピス病棟
平成31年「お正月に帰りたい。」と言う事で、私が居るのを条件で一泊ニ日、31日、1日の午後9時までに、病院へ戻る事でOKを貰い、福祉課で車椅子を借りて私のもう1人の息子が、運転してくれて愛犬も連れて、小さい子供が居る私の娘も来てくれて、いとこ3人も来てくれて、3人のお父さんに挨拶しに行きたい。と言うので、幸平が連れて行ってくれました。
挨拶出来たとニコニコして帰って来ました。(良かったね)
姫乃がトイレとか色々良く動いてくれて助かりました。
「腫瘍のせいで暴言言ったり、汚い言葉言ったりします。」と病院から言われましたが、一切そう言う事もなく、友達も逢いにきてくれて、楽しいひと時を過ごし、にぎやかに年を越し、平成31年1月1日の、午後8時半頃病院に送り、後は2.3日おき位に病院に行きました。
病院に行くだけなら高速道路はつかいますが、1時間で着きますのでまめに行く事が出来ます。
腫瘍のせいでたまに、ん?と思う事「もう病院出てってくれって言われた」とか「大学病院の形成外科に行かないと」などを言ったりする様になって来ました。
そのたびに確認はしましたが、腫瘍のせいでしょうとの事でした。
2月にもう一度家に帰りたいと言われて、病状が進んでしまっていて一人で立つ事も出来なくなっていましたので、
今回連れてってやらないと、もう帰れないんじゃないかと思い、2月9日、10日で許可を貰い、雪予報でしたが、チェーンを用意したり、また、福祉課で車椅子を借りて、今回も息子が運転してくれて、愛犬も一緒に、幸平は熱を出してしまい、かかりつけの病院へ連れて行き、インフルエンザだったので、薬を貰い、心配でしたがアパートへ帰ってもらい、部屋を消毒して、姫乃も一緒に聖子を迎えに行って、食べたいと言うハンバーガーを買いに行き、お寿司も買いに車椅子ですが、一緒に中まで行ったり、次の日の昼間、一緒にお風呂に入り、スッキリして、病院に送って行ったら、部屋の移動がしてありホスピス病棟の近い部屋になっていました。
「もうパンツ式ではなくオムツにして下さい。」と看護師さんに言われ、さっきまで、手を貸してはいましたがトイレへ行ったりしてたのに!
ショックでした。
一番辛いのは聖子だよね。
この後は、ベットから降りる事も出来なくなりました。
それから一週間後、ホスピス病棟に移り、
数日後「腕が上がらないので前空きの下着とパジャマを用意して下さい。」と言われ、近くのお店で用意しました。
ご飯も、余り食べられず、好きな飲み物とスナック菓子位になっていました。
今回は、奇跡は起きないかもしれない。
誰も口には出さないけど、私たちも受け入れるしかないんだな、と皆、思っていたとおもいます。
2月後半には、喋る事も難しくなっていて、
唯一操作出来てたスマホも、持てなくなってしまい、
ベッドに付いてる、テーブルに付ければ何とか操作出来るかも?
と思い、スポンジと紐で付けてみたら操作出来た!...
でもちゃんと固定出来ない。
数日後、私の娘がお見舞いに来てくれた時、「固定する物売ってるよ!」
って言うので早速買いに連れてって貰ったら、スマホを固定する物売ってるんですね!ビックリ!!
しっかり固定出来ました!。
行かない日も、毎日LINEでやりとりしていましたが、3月初め頃から、訳の分からない絵文字が膨大に送られて来る様になり、
中旬頃から返事が、来なくなってしまいました。
意識はちゃんとしてるのに、何処も動かせない、喋れない、何て残酷なんだ、と涙が止まらなくなってしまい、部屋に戻れず談話室にいた時、
看護師さんが来てくれて「一人で抱え込まず私達に吐き出して下さい。お母さんがまめに来てくれるし、聖子さんは幸せだと思いますよ。」
と言ってくれて、優しくしていただいたら、余計に涙が止まらなくて、私まで看護師さんのお世話になってしまいました。
ありがとうございました。
孫達は、人の死がぴんとこないのか、分かってないのか、分かりたくなかったのかな?
余りママの所に行かないので「後で後悔するのは自分なんだよ!」と2人とは随分喧嘩もしました。
私以上に、心が痛く、辛かったでしょう。
気持ちに余裕がなくて、孫達に寄り添ってあげる事が出来ていませんでした。
ごめんね。
第6章 お別れ
平成31年4月23日、この日は物凄く何か言いたそうでした。
うんうんと聞いてあげても、分からない、
こっちが一方的に、あーかな?こーかな?話しかけるけど合ってるか分からない。
帰るまで、ずっと何か言おうとしていました。
この日、看護師さんに、亡くなった後の事を聞かれ、えー!
病院では、紹介してませんと言われたので、市役所へ行って 葬儀屋さん聞いて、まだ生きてるのに、って思いながら葬儀屋さんに電話してる自分がいて、25日に、見積もりしてもらうことになり伺うことになりました。
この日のことは、幸平と姫乃にも報告して、次の日 (24日)は姫乃が学校終わったら一番で行くって言うので、少し安心しました。
24日、17時頃病院から電話があり「今夜辺り危ないかと思います。」と言われて、「姫乃は来てますよね」と聞いたらまだ来ていませんとの事、連絡入れたらまだ学校にいた。
怒りたかったけど、大至急病院へむかえ!と言っていました。
私が慌ててる様に、見えたのでしょう、主人が乗せてってくれる事になりました。
幸平は、仕事で連絡が取れずLINEで状態を入れました。
18時頃病院につきました。
姫乃はもう着いていました。(ほっ)
私は残る事にして、主人は聖子と面会して帰りました。
大分息が荒くなっていましたが、意識はちゃんとしてる(本当に残酷です。)
2人部屋だったのですが、「最後は一人部屋に移って貰います」と言われていました。
聖子も聞いていた事なので、
意識があるうちは、移動しないでほしいとお願いしたら、隣の患者さんを移動してくれました。
会いたいであろう人に連絡しても、明日朝行くって返事ばかり。
幸平は仕事が終わり8時頃来ました。
孫達は「身体に悪いから寝てほしいんだよね。」
聖子はもうすぐ長い眠りに着くから起きていたいんじゃない?と言おうとしましたが、なぜだか言えなくって。
言わなかった事、とても後悔しています。
身体は冷たいのに、手には汗をかいていて、ずっと汗をふいていました。
やっぱり何か言いたそうなんだけど、分からない。
うんうんと返事はするけど、分からないごめんね。
25日朝6時、オムツを変えてくれて向きも変えてってくれた。
30分後位だったと思います。何か息遣いが違う!!
急いで幸平、姫乃、いとこのれいらを起こし最後のときを過ごしました。
何とか間に合い、最期は子供達に看取られ、静かに眠る様に、逝きました。
葬儀屋さんに電話して、9時頃までに病院へきてくれるよう頼んで、見積もりどころか本番になってしまいました。
意識は有るのに、少しずつ出来てた事が出来なくなる。
どんなに悲しかったか、どんなに悔しかったか、それでも最後まで泣き言一つ言わずニコニコして本当に強い人でした。
運び出される前に先生が走って来て「この人はいつも前向きで最後まで立派でしたよ!」と言いにきてくれました。
余計に涙があふれてしまいました。
幸平は長男として、立派に喪主を務めましたよ。
聖子は友達多かったんだね。
思った以上に会いに来てくれたよ。
お金は主人が出してくれました。
集まったお金はこれから二人で暮らすアパートを借りるのに使えって、孫達にくれましたよ。
第七章 新生活
聖子が借りてた県営住宅に、姫乃がいられるのは3ヶ月だと、市役所で言われたので、幸平はこの年の11月で20歳になるので、まだ19歳でしたが、幸平には自分でやらせなくてはと、アパート探しも口を出さずに待っていました。
しかし、連絡が無いので電話したら、おさえた部屋の返事待ちが1ヶ月たっても無いんだ。と言う事で、電話番号を聞いて私が電話をしました。
そしたらなんと、
「その部屋なら他の人で決まっちゃいました。」
「はぁー?!
孫の事、若いから馬鹿にしたんでしょ!
こっちは必死でさがしてるんだよ!
ふざけた仕事してるんじゃないよ!!」
久しぶりにキレましたね(笑)
知り合いの不動産屋さんとは言っても主にマンション物件でしたので、どうかな?と思いましたが、事情を説明したらすぐに動いてくれて、ちゃっちゃと進めてくれて気に入ったアパートもすぐ見つかり一件落着。ポンポン
引っ越しも皆んな来てくれて無事終了しました。
お墓がないので聖子も一緒に引っ越しです。
聖子が国民年金払ってたみたいで姫乃が18歳になるまで遺族年金もらえる様で姫乃と手続きに行きました。
亡くなっても、子供達をたすけてあげられるんだね。
自由になりましたか?
先に逝ってるお兄ちゃんとは会えましたか?
子供達は2人でなんとかやっています。
幸平も20歳になり、姫乃も仕事も決まり、スーツを一緒に買いに行ってきたよ。
運転免許もとりましたよ。
彼女、彼氏居るみたいですよ!よーく見ててあげてね。
幸平は会社の人達にも恵まれて、思った以上にしっかりしてます。
幸平の成人式、写真でしか見ていませんがイケメンでかっこよかったですよ😍
姫乃の成人式の時は、こちらから何も言ってないのに、ママの写真も連れて晴れ姿を見せに来てくれました。
綺麗で可愛いくて自慢の孫達です😊
あー!それと 平成24年3月最初の入院の時に書いた日記と手紙が家の片付けしてたら出て来た様で、私達には心配させまいと泣き言も愚痴も言わずいつもニコニコして、前向きでしたが、内心はやはり怖くて子供達が心配でたまらなかったんだよね。
ごめんね...と何度もかいてありました。
弱気にもなったのでしょう。
「もし このまま死ぬなら
どうか どうか幸平と姫乃の病気と不幸を
私に下さい!
持っていくから 私に下さい!
幸平と姫乃に幸せをあげてください!」
とあなたの本当の気持ちが書いてありました。
リハビリも辛くて諦めそうになっても、小さい子が泣きながらリハビリ頑張ってるのを見て、自分、頑張ってない!
頑張れ自分!って言い聞かせながら頑張ったから普通に見える位まで回復できたんだね。やっぱりあなたはすごい人です。
手紙もありがとうね。
あの時はごめんなさい。
って書いてあるんですが、あの時がどの時かわからないですが、了解です。
私の孫が産めて良かったとも書いてありました。
こちらこそ産んでくれてありがとう。
大分前に書いたのでしょう。
綺麗な字で書いてありました。
ちゃんと受けとりました。ありがとう。
強く、優しく、小さな身体で頑張り屋さんの聖子に捧げます。
これが始まりでした。
平成31年4月25日までの39歳で亡くなった元お嫁ちゃんの、7年間の壮絶な闘いです。
第一章 関係
元お嫁ちゃんの聖子は、大分複雑な家庭だった様で、聖子が小学校の頃、両親は子供達を残して蒸発してしまい、高校まで養護施設にいました。
私の長男と高校が一緒で、付き合う様になりました。
「同情で付き合うならやめなさいよ!」 と息子に言いましたが「同情なんかじゃないよ」と言うので、お互い好き同士ならしかたないと思い、見守る事にしました。
私が仕事で疲れて、ウトウト寝てしまったりしていると、頭痛いのかと思って、って夕飯作ってくれたり、妹弟に何かあれば助けてくれたり、優しい子なのですが、欲しいものがあれば、せっせっと働く、でも手に入るとやめてしまう。
そんな息子が、ちゃんと結婚生活が出来ると思いませんでしたので、聖子に、付き合うのは良いけど結婚は賛成出来ない、聖子には幸せになって欲しい!と言ったことがありました。
お嫁ちゃんとは嫁、姑と言うより友達?って感じでした。
長男が留守でも遊びに来てお茶しながら話したり、長男ぬきで、娘と次男と私とお嫁ちゃんと一緒にカラオケに行ったりもしました。
私の離婚が決まったのと同じ頃
「子供が出来た!結婚する!ちゃんとするから」と言われ、2人の笑顔に反対できず、
私が借りた借家の近くに越して新婚生活を初め長男幸平が生まれました。
私が40歳だったので、おばーちゃんと言うのは抵抗があると言う事で、ちゃーちゃんになりました。
思った通り息子はお父さんになれず、聖子は苦労してた様です。
家賃も払えなくなり、元夫の家に入り、2人目も生まれなんとか生活してしていました。
が、上手くいかず6年程たった頃「離婚する」とお嫁ちゃんから報告がありました。
私も経験ずみでしたので、何の援助も貰えず一人で子供達を育てるのはとても大変で、
覚悟が必要だ。と反対しましたが気持ちは固まっていました。
息子は、車を持たせてあげるのが精一杯で、他は何もしてやれませんでした。
私も離婚して10年間、昼、夜、夜中まで、
死ぬほど働きました。
そんな中、尊敬できる人に出会えて再婚しました。
そのせいもあり、私を頼ってきました。
息子が何もしてやってないし、と思い、自分で出来る範囲で、助けていましたが、余りにも頼って来るので、聖子とは距離を置くようにして、孫達のお年玉や誕生日、入学やら何やらで大変な時位の孫達との付き合いをしていました。
聖子も昼、夜働きながら何とかやっていける様になっていったみたいです。
そんな中、長男、幸平中学3年、長女、姫乃小学5年の冬、聖子が夜、知り合いと長電話してた時、倒れて救急車ではこばれ、検査結果は脳腫瘍からのてんかんだった様です。
久しぶりの聖子からの電話が
「ちゃーちゃん...脳腫瘍になっちゃった!」
震える様な声での連絡でした。
最初に話した様に、複雑な家庭の子なので、面倒見てくれる人もいないし、
今の主人には何の関係もない子達ですが、主人に、私が面倒見たいと思う、と相談した所、「迎えに行って、病院連れてくの大変だぞ!往復だけで4時間はかかるんだぞ!
覚悟決めてやるなら良いけど、、、」って言ってくれました。
第二章 手術
平成24年4月、右前頭葉から中心までの7センチもの腫瘍摘出手術、12時間もかかる手術でしたが、脳の一番大事な部分まで深重してて、そこまで取ってしまうと植物人間になってしまうと言う事で、残ってしまってる所は抗がん剤と放射線で、治療するとの事で一応手術は無事終わりましたが、左半身麻痺が残ってしまいました。
治療やリハビリで入院が少し長くなるから、一週間ほど一旦家に戻りましょう。と病院からの提案があり、半身麻痺なので私が居る事が条件でした。
夫が「行ってやれ」と言ってくれて、お陰で一週間サポートに行く事が出来ました。
この先どうしたらいいのか、取り敢えずはやれるだけのことを、やるしかないのですが...
家に戻ったついでに、必要になるであろう所に、私の娘の旦那さんが、大工でしたので、手すりを付けてもらったり、この先働く事が出来ないので、生活保護の申請やら、その為の面接などがあり「今あるお金がなくなってからの支援になります...」って!初めてしりました。
子供達は、施設へと言われましたが、施設の事を一番知ってる聖子が、施設は行かせたくない、と言う事で、すぐ近くに仲の良いいとこ3人が居るのでその子達と何とか暮らしていました。
左半身麻痺で、イライラするでしょうに、ごめんねありがとう、とニコニコして、家に帰って来た事を喜んでみせてました。
病院に戻り放射線やリハビリを相当頑張った様で、一見普通に見えるほどまでに回復しました。
「余命5年ですが、10年だったり、このまま治ったり色々なので、前向きに治療頑張りましょう」と先生に言って頂き、3ヶ月で退院できました。
良い方ばかり考えて抗がん剤は飲み薬で月5日間、病院は放射線のために月一回、髪は抜けてしまいましたが、2年間の抗がん剤治療も放射線も無事終わり、月一回の病院通いも一ヶ月おきになりました。
近くに、手作りパンの美味しいお店があり、
帰りに、子供達へのお土産パンを、どれにしようか、と美味しそうなパンをお土産に買って帰るのが病院へ行く唯一の楽しみでした。
時がたつのは早いもので、平成27年、長男幸平は高校生、長女姫乃の小学校の卒業式は一緒に行って来ました。
卒業式に行けたのが嬉しかったのでしょう
走れないはずなのに、小走りしてるし、もう心配です。
このまま何事もありません様にと祈るばかりでした。
第三章 再発
てんかんで何度か倒れて、救急車で運ばれたりしながらも6年が経っていました。
大変な思いをしながらも、幸平は無事高校を卒業して、正社員として仕事も決まり、ママの事は心配だけど働き手が居ると生活保護が打ち切られてしまうので、家を出て一人で生活することになり、夫も私も仕事を引退していて無職でしたので、保証人は娘夫婦になってもらい、何とか気に入ったアパートが決まり、姫乃も大変な中、無事
高校生になりました。
が、平成30年4月再発です。
手術が出来ると言う事なのでお願いする事にしました。
2回目の手術、今回は麻痺も起こらず、一ヶ月程で退院できて、抗がん剤は今回は点滴でと言う事で、月一回大学病院で抗がん剤治療が始まり、大変だけど今度こそ大丈夫と安心していました。
しかし、3回目位の抗がん剤の後、手術した傷が、開いて来てしまいました。
抗がん剤の副作用、って事もある様ですが、一回目の手術後の放射線治療で、頭皮が薄くなってた事もあり、2回目だと頭の皮膚が大分引っ張られてたみたいで、10月頃、一旦抗がん剤を中止して太ももの後ろの皮膚を頭に移植する手術を、する事になりました。
この時ばかりは、相当痛かったのでしょう「痛い!痛い!何で私ばっかり」
と嘆いていました。
抗がん剤は中止したままでした。
聖子が「抗がん剤ができないと不安だな!」と独り言の様に言っていました。
脳外科と形成外科へ、月2回の病院通いになってしまいました。
この年は、私が体調不良だったりで、2回ほど幸平が病院へ連れて行ってくれました。
第四章 再再発
飲み薬の抗がん剤は始まりましたが、自分で感じていたんだと思います。
11月形成外科へ行った時、左へ左へ行ってしまうので、支えて歩いていました。
丁度抗がん剤を飲んでた時だったので、そのせいだと思っていました。
「帰りに、免許返納したいから、警察署よってくれる?」と言うので、好きな様にさせようと連れて行きました。
それから一週間後位だったでしょうか
高校生になってた姫乃から朝早く電話があり「ママがトイレに行こうとして、動けなかったみたいで毛布にくるまってベッドからおちちゃっててどうすれば良い?!」今にも泣き出しそうに、電話をかけて来ました。
通っている大学病院に連絡して救急車で運んでもらい、私も病院へ向かいました。
検査の結果、再再発です...。
「今回は手術もできません。余命6ヶ月です。」と本人と一緒に聞かされました。
聖子はもう覚悟してた様で、冷静に聞いていました。
短い間に、2回の大手術して頑張ったのに、何で!何で!私が受け入れられず貧血をおこしそうになったのを覚えています。
「もう治療も出来ないので、家でお世話する人が居ないなら、ホスピス病棟のある病院を紹介します。」と言われて紹介されたのは、救急車で何度かお世話になった病院でした。
12月半ばには転院になり、大学病院を出る時は平日だったので、まだ小さい子供が居る私の娘が来てくれて助かりました。
荷物もあるし、この頃はもう書く事も上手くできず、書類には聖子に確認して私がサインをしていましたし、移動は車椅子でしたので、車を取ってくる時など一人にしないですんで本当に助かりました。
転院先に着いた時は私だけなので、手続きして、まず本人を部屋へ連れて行き、荷物を取りに行ったり、あれやこれやで疲れてぐだぐだになっている私を見て笑っていました。
そのころはまだ少し歩けるし、一般病棟でしたので「何処が悪いの?」と同じ部屋の人が不思議がる程でした。
私も皆んなも、半身麻痺になっても頑張って歩ける様になったし、奇跡が起こるんじゃないかと期待もしていました。
第五章 ホスピス病棟
平成31年「お正月に帰りたい。」と言う事で、私が居るのを条件で一泊ニ日、31日、1日の午後9時までに、病院へ戻る事でOKを貰い、福祉課で車椅子を借りて私のもう1人の息子が、運転してくれて愛犬も連れて、小さい子供が居る私の娘も来てくれて、いとこ3人も来てくれて、3人のお父さんに挨拶しに行きたい。と言うので、幸平が連れて行ってくれました。
挨拶出来たとニコニコして帰って来ました。(良かったね)
姫乃がトイレとか色々良く動いてくれて助かりました。
「腫瘍のせいで暴言言ったり、汚い言葉言ったりします。」と病院から言われましたが、一切そう言う事もなく、友達も逢いにきてくれて、楽しいひと時を過ごし、にぎやかに年を越し、平成31年1月1日の、午後8時半頃病院に送り、後は2.3日おき位に病院に行きました。
病院に行くだけなら高速道路はつかいますが、1時間で着きますのでまめに行く事が出来ます。
腫瘍のせいでたまに、ん?と思う事「もう病院出てってくれって言われた」とか「大学病院の形成外科に行かないと」などを言ったりする様になって来ました。
そのたびに確認はしましたが、腫瘍のせいでしょうとの事でした。
2月にもう一度家に帰りたいと言われて、病状が進んでしまっていて一人で立つ事も出来なくなっていましたので、
今回連れてってやらないと、もう帰れないんじゃないかと思い、2月9日、10日で許可を貰い、雪予報でしたが、チェーンを用意したり、また、福祉課で車椅子を借りて、今回も息子が運転してくれて、愛犬も一緒に、幸平は熱を出してしまい、かかりつけの病院へ連れて行き、インフルエンザだったので、薬を貰い、心配でしたがアパートへ帰ってもらい、部屋を消毒して、姫乃も一緒に聖子を迎えに行って、食べたいと言うハンバーガーを買いに行き、お寿司も買いに車椅子ですが、一緒に中まで行ったり、次の日の昼間、一緒にお風呂に入り、スッキリして、病院に送って行ったら、部屋の移動がしてありホスピス病棟の近い部屋になっていました。
「もうパンツ式ではなくオムツにして下さい。」と看護師さんに言われ、さっきまで、手を貸してはいましたがトイレへ行ったりしてたのに!
ショックでした。
一番辛いのは聖子だよね。
この後は、ベットから降りる事も出来なくなりました。
それから一週間後、ホスピス病棟に移り、
数日後「腕が上がらないので前空きの下着とパジャマを用意して下さい。」と言われ、近くのお店で用意しました。
ご飯も、余り食べられず、好きな飲み物とスナック菓子位になっていました。
今回は、奇跡は起きないかもしれない。
誰も口には出さないけど、私たちも受け入れるしかないんだな、と皆、思っていたとおもいます。
2月後半には、喋る事も難しくなっていて、
唯一操作出来てたスマホも、持てなくなってしまい、
ベッドに付いてる、テーブルに付ければ何とか操作出来るかも?
と思い、スポンジと紐で付けてみたら操作出来た!...
でもちゃんと固定出来ない。
数日後、私の娘がお見舞いに来てくれた時、「固定する物売ってるよ!」
って言うので早速買いに連れてって貰ったら、スマホを固定する物売ってるんですね!ビックリ!!
しっかり固定出来ました!。
行かない日も、毎日LINEでやりとりしていましたが、3月初め頃から、訳の分からない絵文字が膨大に送られて来る様になり、
中旬頃から返事が、来なくなってしまいました。
意識はちゃんとしてるのに、何処も動かせない、喋れない、何て残酷なんだ、と涙が止まらなくなってしまい、部屋に戻れず談話室にいた時、
看護師さんが来てくれて「一人で抱え込まず私達に吐き出して下さい。お母さんがまめに来てくれるし、聖子さんは幸せだと思いますよ。」
と言ってくれて、優しくしていただいたら、余計に涙が止まらなくて、私まで看護師さんのお世話になってしまいました。
ありがとうございました。
孫達は、人の死がぴんとこないのか、分かってないのか、分かりたくなかったのかな?
余りママの所に行かないので「後で後悔するのは自分なんだよ!」と2人とは随分喧嘩もしました。
私以上に、心が痛く、辛かったでしょう。
気持ちに余裕がなくて、孫達に寄り添ってあげる事が出来ていませんでした。
ごめんね。
第6章 お別れ
平成31年4月23日、この日は物凄く何か言いたそうでした。
うんうんと聞いてあげても、分からない、
こっちが一方的に、あーかな?こーかな?話しかけるけど合ってるか分からない。
帰るまで、ずっと何か言おうとしていました。
この日、看護師さんに、亡くなった後の事を聞かれ、えー!
病院では、紹介してませんと言われたので、市役所へ行って 葬儀屋さん聞いて、まだ生きてるのに、って思いながら葬儀屋さんに電話してる自分がいて、25日に、見積もりしてもらうことになり伺うことになりました。
この日のことは、幸平と姫乃にも報告して、次の日 (24日)は姫乃が学校終わったら一番で行くって言うので、少し安心しました。
24日、17時頃病院から電話があり「今夜辺り危ないかと思います。」と言われて、「姫乃は来てますよね」と聞いたらまだ来ていませんとの事、連絡入れたらまだ学校にいた。
怒りたかったけど、大至急病院へむかえ!と言っていました。
私が慌ててる様に、見えたのでしょう、主人が乗せてってくれる事になりました。
幸平は、仕事で連絡が取れずLINEで状態を入れました。
18時頃病院につきました。
姫乃はもう着いていました。(ほっ)
私は残る事にして、主人は聖子と面会して帰りました。
大分息が荒くなっていましたが、意識はちゃんとしてる(本当に残酷です。)
2人部屋だったのですが、「最後は一人部屋に移って貰います」と言われていました。
聖子も聞いていた事なので、
意識があるうちは、移動しないでほしいとお願いしたら、隣の患者さんを移動してくれました。
会いたいであろう人に連絡しても、明日朝行くって返事ばかり。
幸平は仕事が終わり8時頃来ました。
孫達は「身体に悪いから寝てほしいんだよね。」
聖子はもうすぐ長い眠りに着くから起きていたいんじゃない?と言おうとしましたが、なぜだか言えなくって。
言わなかった事、とても後悔しています。
身体は冷たいのに、手には汗をかいていて、ずっと汗をふいていました。
やっぱり何か言いたそうなんだけど、分からない。
うんうんと返事はするけど、分からないごめんね。
25日朝6時、オムツを変えてくれて向きも変えてってくれた。
30分後位だったと思います。何か息遣いが違う!!
急いで幸平、姫乃、いとこのれいらを起こし最後のときを過ごしました。
何とか間に合い、最期は子供達に看取られ、静かに眠る様に、逝きました。
葬儀屋さんに電話して、9時頃までに病院へきてくれるよう頼んで、見積もりどころか本番になってしまいました。
意識は有るのに、少しずつ出来てた事が出来なくなる。
どんなに悲しかったか、どんなに悔しかったか、それでも最後まで泣き言一つ言わずニコニコして本当に強い人でした。
運び出される前に先生が走って来て「この人はいつも前向きで最後まで立派でしたよ!」と言いにきてくれました。
余計に涙があふれてしまいました。
幸平は長男として、立派に喪主を務めましたよ。
聖子は友達多かったんだね。
思った以上に会いに来てくれたよ。
お金は主人が出してくれました。
集まったお金はこれから二人で暮らすアパートを借りるのに使えって、孫達にくれましたよ。
第七章 新生活
聖子が借りてた県営住宅に、姫乃がいられるのは3ヶ月だと、市役所で言われたので、幸平はこの年の11月で20歳になるので、まだ19歳でしたが、幸平には自分でやらせなくてはと、アパート探しも口を出さずに待っていました。
しかし、連絡が無いので電話したら、おさえた部屋の返事待ちが1ヶ月たっても無いんだ。と言う事で、電話番号を聞いて私が電話をしました。
そしたらなんと、
「その部屋なら他の人で決まっちゃいました。」
「はぁー?!
孫の事、若いから馬鹿にしたんでしょ!
こっちは必死でさがしてるんだよ!
ふざけた仕事してるんじゃないよ!!」
久しぶりにキレましたね(笑)
知り合いの不動産屋さんとは言っても主にマンション物件でしたので、どうかな?と思いましたが、事情を説明したらすぐに動いてくれて、ちゃっちゃと進めてくれて気に入ったアパートもすぐ見つかり一件落着。ポンポン
引っ越しも皆んな来てくれて無事終了しました。
お墓がないので聖子も一緒に引っ越しです。
聖子が国民年金払ってたみたいで姫乃が18歳になるまで遺族年金もらえる様で姫乃と手続きに行きました。
亡くなっても、子供達をたすけてあげられるんだね。
自由になりましたか?
先に逝ってるお兄ちゃんとは会えましたか?
子供達は2人でなんとかやっています。
幸平も20歳になり、姫乃も仕事も決まり、スーツを一緒に買いに行ってきたよ。
運転免許もとりましたよ。
彼女、彼氏居るみたいですよ!よーく見ててあげてね。
幸平は会社の人達にも恵まれて、思った以上にしっかりしてます。
幸平の成人式、写真でしか見ていませんがイケメンでかっこよかったですよ😍
姫乃の成人式の時は、こちらから何も言ってないのに、ママの写真も連れて晴れ姿を見せに来てくれました。
綺麗で可愛いくて自慢の孫達です😊
あー!それと 平成24年3月最初の入院の時に書いた日記と手紙が家の片付けしてたら出て来た様で、私達には心配させまいと泣き言も愚痴も言わずいつもニコニコして、前向きでしたが、内心はやはり怖くて子供達が心配でたまらなかったんだよね。
ごめんね...と何度もかいてありました。
弱気にもなったのでしょう。
「もし このまま死ぬなら
どうか どうか幸平と姫乃の病気と不幸を
私に下さい!
持っていくから 私に下さい!
幸平と姫乃に幸せをあげてください!」
とあなたの本当の気持ちが書いてありました。
リハビリも辛くて諦めそうになっても、小さい子が泣きながらリハビリ頑張ってるのを見て、自分、頑張ってない!
頑張れ自分!って言い聞かせながら頑張ったから普通に見える位まで回復できたんだね。やっぱりあなたはすごい人です。
手紙もありがとうね。
あの時はごめんなさい。
って書いてあるんですが、あの時がどの時かわからないですが、了解です。
私の孫が産めて良かったとも書いてありました。
こちらこそ産んでくれてありがとう。
大分前に書いたのでしょう。
綺麗な字で書いてありました。
ちゃんと受けとりました。ありがとう。
強く、優しく、小さな身体で頑張り屋さんの聖子に捧げます。
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