Wild Frontier

beck

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第四章

re:署名と契約

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「これは……確かに協会発行の魔法紙ですね。つまり本物です」

 セレナが持ってきた契約書を、マティアスが確認する。
 ロルフは既に確認済みだったようで、何の意義も挟まない。

「いつかは話さなければと思っていたのだが、話す機会を逸してしまってだな──」
「だがセレナ。俺はそんな契約にサインした覚えは無いぞ」

 セレナとやり取りをしつつ、マティウスから契約書を受け取り確認する。

「ありがとうございます」

(ん? この紙には見覚えが──)

「もしかしてこれは──」
「ああそうだ」

 まず一目見て、書面のサインの位置に見覚えがあった。
 そしてその中の一つは、間違いなく俺による署名オートグラフ

「馬車の提供時に、父アーネストによって準備された契約書だ」
「そんな……俺は確か、セレナに交渉を頼んだのだよな?」
「ああ、間違いない。だがその時にも話をしたと思うが、私は読み書きが苦手でな。父に全部任せていたのだ」

 つまり──


(アーネストに一杯食わされていたって事か!)


 信用していた相手だけにショックは隠せない。


(だが──それも契約内容次第)


「……この契約内容なのですが……なんというか、今回我々がお願いしているものと同じくらいの緩さですね」
「緩い? と申しますと?」
「ちょっと条文を読み上げましょうか」

 マティウスが読み上げてくれた内容は以下の通りだった。



・ヒースとセレナの婚約を署名者全員が認める事
・ヒースとセレナに商会の行商を全委任する事
・馬車や旅の費用は、全てアーネスト商会が持つ事
・旅先での商談はヒースと相談の上、最終的にセレナが決定する事
・正式な婚姻の時期は、ヒースに一存する事
・婚約が破棄された時点で本契約は効力を失う事
・契約を破棄する場合、ヒースはかかった全費用をアーネストへ返還する事



「つまりですよ、ヒース様はセレナ様との婚約を、旅にかかった実費を支払うだけで一方的に破棄出来るわけです。そう考えますと──どちらかと言えばヒース様の身分を保証する意味合いのほうが強いのではないかと思いますね」
「そうなのですか?」
「ええ。アーネスト商会はトーラシアでは知らない者がいないくらい有名で、我が領地も以前から懇意にさせていただいておりました。もしヒース様が何か交渉をしようとした時にこの契約書があれば、商談はスムーズに……ってロルフ、この契約書ってまさか!?」
「そうだ。ヘイデンに土地を渡さないための対抗策で照会させていただいたものだな。実際にはこれと為替かわせ証書を根拠にして、接収された土地の権利者切り替えを行ったのだが」
「あの書状の内容はセレナ殿のお力添えがあっての事だったと──」

 確かに土地についてはセレナと話はしていた。
 入手出来る土地があれば、なるべく手に入れておくべきだと。

「なるほど、そういう事だったのですね。でしたら何の問題もございません。ウェーバー家はヒース殿とセレナ殿のご婚約を心から祝福いたしますぞ」
「いえ……しかしそれではシアさんとの婚約の話は……」

 俺の言葉に、不思議な表情をするマティウス。

「何も問題はないかと思いますが?」
「つまり、シアさんとの話は無しという事ですか?」
「いえいえ、それは困ります! この町屈指の地主となるアーネスト商会のセレナ嬢に加え、我が娘であるシアの配偶者となっていただければ、トレバーにとって最高の慶事になるという事です!」

 疑問に思う俺に、ロルフが解説をしてくれた。

「販売力の強いアーネスト商会がトレバーに拠点を持つ。これはトレバーが大口の販路を確保した事に他ならず、結果的にこの町への商業的な注目度が上がります。投資の動きも活発になるでしょうし、各地から多くの人が集まってくるでしょう。何しろアーネスト商会と領主が、ヒース様という英雄を介してタッグを組んでいるようなものですからね。これは非常に大きいですよ」

 その話でようやく理解した。

 この世界は一夫多妻ではあるが、その婚姻形態によっては、妻の財産や権利まで夫に一極集中するわけではないのだ。
 俺がアーネスト商会の人間として契約を結べば、それはアーネスト商会のものになるし、領主の夫として何か契約するならば、それは領地に関わるものとなる。

 そしてそれらの契約は混同されないよう、魔法協会が管轄する文書によって明確に管理される。

(富の独占などに興味の無い俺にとっては、むしろ都合が良かったのかもな)

 とにかく現在はっきりしているのは、俺とセレナが既に婚約していた事実。
 これはもう曲げられないし、俺に全旅費を払える能力などない。

 そしてもう一点は──
 マティウスもアーネストも、俺を家に縛り付けるつもりは全く無いという事だ。

 マティウスに関しては、こうして契約前に話をしているから問題無い。
 俺の気持ちを汲んだ上で、話を進めてくれようとしている。


 だがアーネストとの契約はどうだ?
 彼の場合、自分の要求を一方的に全て叶えられる立場にいたはずだ。

 そもそも彼は長女や三女との結婚を望んでいて、実際俺に対して婿養子になって欲しいという要望を強く押し出していた。
 にも関わらず、彼の要求は破棄可能な契約内容のみ。


(ああそうか。彼には俺の記憶について話をしたっけ……)


 結局アーネストは、俺の事を考えて契約内容を決めてくれたのだ。


 どこの馬の骨ともわからない。
 なんの身寄りも無い俺の、正式な後見人となるために。


(ダンケルドにはまた、必ず戻らないといけないな)



 法的に問題が無い。
 そして本人達の意思に反する事も無い。



(そして確認する事がもう何も無い。ならば、俺の答えは)



「わかりました。シアさんとの婚約の話、謹んでお受けいたします」
「おおっ!」


 同時に声を上げて喜ぶ、シアの保護者二名。
 そしてなぜかセレナも一安心しているようだ。

 ベァナは既に気持ちを固めていたのだろうか?
 喜びこそしないが、特に悲しむ様子も無かった。


「ただ一つだけ条件を付けさせてくれませんか」
「条件……ですか?」

 不安な表情を見せるマティウス。

「はい。私にとって、これはとても重要な事です」


 誰かの気持ちを犠牲にするなんて事はしたくない。
 だから俺は、俺の気持ちもしっかりと伝えたいと思う。


「婚約するからには結婚前提でお付き合いをするつもりです。破棄する事など、全く考えておりません。ですが──」

 その場の全員が俺の話に耳を傾ける。

「実際に婚姻を結ばせていただくタイミングだけは、どうか私に決めさせてくれませんか? 私の望みはそれだけです」

 ほっと胸をなでおろすマティウス。

「それはもう当然! 何しろ破棄されても仕方がないと考えていましたので!」

 再び相好を崩すマティウス。
 ロルフも喜びの表情を見せていたが、何か聞きたい事があったらしい。

「ヒースさん、ちょっとお伺いしたいのですが、よろしいですか?」
「はい」
「婚姻のタイミングをお決めになりたいというのは、何か特別なご理由でも?」


 俺とロルフの今までのやりとりから考えると、興味本位というよりは俺に何かの計画があるのではないか、と踏んでいるようだった。


「特別な理由……そうかも知れません。でも早い話が私の気持ちの問題です」
「そういう事ですか。それは大切な事ですね、失礼いたしました」




 結局、話はそこで終了し、会合はお開きになった。






    ◆  ◇  ◇






「セレナさんはあれで良かったんですか?」

 借りている宿舎に戻ったセレナとベァナ。
 人数の関係で、ここを借りた時からずっと相部屋だ。

「そうだな……さすがに始めは面食らったが、まぁうちの父にしては随分まともな契約内容だったし、なかなか絶妙な落し処だったのでは無いかと考えているぞ」
「えーっと、そういうのじゃなくてですね……」

 セレナの家は大規模な商家だ。
 アーネスト個人の考えもあって家にお妾さんこそいなかったが、婚姻に関する貴族や商家の習わしにはある程度、セレナにも理解があった。
 つまり親が決めた相手との結婚について、制度自体に疑問を持ってはいない。

「つまりその、結婚の仕方とか……あと相手とか?」
「ああそういう事か。私もこれでもな、昔は多くの縁談話が来ていたのだ」
「そうなのですか!? その話、もっと聞きたいです!」

 ベァナの出身であるアラーニ村は、五十人程度の小さな集落だ。
 結婚の話自体もそうだが、縁談話などはほとんど無かった。
 他に選択肢が無いからである。

「おおそうか? それでその為に花嫁修業なるものもしてはいたのだが──これでも家や領地の為に命を張れる男性であれば、喜んでお請けしようと考えていたのだぞ? ところが──まぁひどい相手ばかりでな」
「断っちゃったんですか?」
「ああ。全て断った。それで花嫁修業を一切辞め、剣の道一本に絞ったのだ。そして私は決めた。自分が尊敬出来るような男性に出会うまで、異性の事は考えまいと」
「そうだったのですか……」

 セレナもベァナも、自分からこういった話を振るタイプではない。
 そのせいもあり、今まで恋愛話をする機会など一切無かった。

「なんかすまぬな。ベァナ殿はヒース殿の事を慕っておいでだったのだろう?」
「うっ……なぜにおわかりですか……」
「これだけ一緒にいればわかるだろう。わたしとヒース殿が剣術の稽古をしているときも、結構鋭い視線を感じていたからな!」
「うううっ……気付かれていたのですね……」
「ははっ」

 あっけらかんと笑うセレナ。

「あの契約を結んだ時──その内容までは知らなかったわけだが──既にその時には彼に対し、ちょっとした尊敬の念と仲間意識は持っていたのだ」
「そうだったのですか?」
「ああ。もちろん類稀なる剣士だったという事も理由の一つだが──それより私が感銘を受けたのは、彼の考え方だ。他の男共とはまるで違っていてな」
「それ、とてもわかりますっ! なんていうか、今までちょっと違和感を持っていた事に対しての、わかりやすい回答を持っているというか……」
「ベァナ殿もそう感じたか。実はな。彼とは結婚後の女性像について、少し話をした事があるのだが……」
「……そうなんですか! でもヒースさんらしいですね! 私は……」


 結局そのまま、夜遅くまで語り合う二人。


 考え方が違う部分ももちろんある。
 しかし、互いの根底に同じものが流れている事を悟るのに、そう長い時間はかからなかった。


「……つまり私はこう思っているのだ。ヒース殿の気持ちを一番最初に理解したのがベァナ殿で、ヒース殿は貴殿を一番大切に思っていると」
「そんな……そんな事ありませんよ」
「いや。貴殿を特に大事にしている事くらい鈍感な私にでもわかる。シア殿もそれに気付いていたからこそ、あんなに焦ってヒース殿に迫っていたんだと思うぞ? 何しろ彼女には期限があったからな」
「シアさんに関してはそうなんでしょうけれど……私にはヒースさんの気持ちがまだよくわかりません……」
「彼はな、女性に対して軽々しく好きだとか、愛しているといった歯の浮くようなセリフを言わない男なのだ。というか彼がそう話す姿を想像してみろ?」


 その言葉と同時に、二人はその姿を想像し始めるが……


「ぷっ!」
「だめっ! おかしすぎますっ!」
「だっ、だろう? 私も自分で振っておいて腹が痛いっ!」


 笑いが収まったと思った途端、片方が吹き出すという事を暫く繰り返す二人。
 より長く引きずっていたのはベァナだった。

 暫くはそんな状態が続いていたのだが……

「そろそろ真面目な話に戻るが、彼が結婚のタイミングを自分で決めさせてくれと言った意味がわかるか?」

 その質問によって、ベァナはようやく平静を取り戻す。

「ああ、ヒースさんのあの話ですか? 旅の目的が達成するまで待ってくれ、という事じゃないかと思っていたのですが」
「違うよ。あれは間違いなく、ベァナ殿を気遣っての事だ」
「わたしを?」
「ああ。だって考えてもみろ。私の婚約に関しては父が仕組んだものだったという事は、昼の話でわかっただろう?」
「はい」
「そしてシア殿の婚約話に関しても、父のマティウス殿立っての願いでもあった」
「そうですね」
「つまりだな。私とシア殿の場合は実際に親から了承を得ていて、あとは書面として取り交わされるだけという状態なわけだ。私の方は既に終わっているが」
「はい。ずるいです」
「まぁそれは不可抗力だ、勘弁して欲しい。だが例えばだ、ヒース殿がベァナ殿と結婚したいとする」
「はっ、はい」

 突然の指名に気恥ずかしさを感じるベァナ。

「だがそれを認めてくれる者は誰だ? 確か母君はご存命とお聞きしたが」
「そうですね。母か、または家長であるお爺様でしょうか?」
「なるほど。では結婚を認めてくれるとして、その契約を結べるのはいつだ?」
「あっ……」

 村長である祖父が、ヒースとの結婚を拒む事は無い。
 というのも、ベァナの旅立ちに反対していた村長を説得する条件が『ヒースを村に連れて帰る』というものだったからだ。
 そしてそれは元々、母であるブリジットの入れ知恵である。

「彼はおそらく君と結ばれるまでは、私やシアと正式に婚姻を結ぶ事はしないだろう。彼はマティウス殿に対して、婚約破棄などしないし、結婚前提でお付き合いさせていただくと言い切ったのだ。であればすぐに結婚したって、特に問題は無いはずだろう?」
「確かにそうとも取れますが……」
「心配するな。彼にはもう既に二名の婚約者がいるのだ。今更一人二人増えたところで……」
「セレナさんはもうご契約済みだから、そうやって余裕でいられるんですよっ」
「そんな事は無いぞ? 私とてヒース殿から直接、愛の告白を受けたわけでは無いのだからな」
「愛の告白……」

 ベァナがそう言うと、再び二人の脳内にヒースの姿が浮かぶ。




「「ぷっ!」」




 時は既に夜半過ぎ。




 二人の笑い声は、隣室で研究に勤しむヒースの耳にも届く勢いだった。



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