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第三章
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ポタポタと雫が落ちる音がする。
耳元では苦しそうな荒い息遣いが聞こえてくる。
自分の体にもたれかかり喘ぐような呼吸を続けるヤナギの重みを春太は一身に受け止めていた。
(自分は今、何をした?)
生ぬるい感触が手にこびりついていた。
自分のしたことを訴えかけるかのように。
「は…るた…」
ヤナギの声に全身がビクリと硬直する。
歯の根が合わず、カチカチと音がした。
自分は何に恐怖しているというのだ。
この状況で、一体何を。
「俺……は……」
気が動転して上手く言葉が出てこない。
どうしようという言葉ばかりがぐるぐると頭を駆け巡っていく。
春太はとにかくナイフを抜かなきゃと、ヤナギの腹に突き立てたナイフを引き抜いた。嫌な感触と共に熱い液体がどろりと溢れ、春太の手を濡らす。
ぐっとヤナギが呻き声を上げ、よろめいた。
「春太…落ち着け…大丈夫…だから」
傷口をおさえながらヤナギは無理に笑ってみせる。心配させまいとするヤナギの優しさはかえって春太の罪悪感に拍車をかけた。
ヤナギが一歩近づくと、春太も一歩後ずさる。
完全なる膠着状態となった。
「助けて…ねえ、雪帆……」
春太の口から突然出てきた雪帆という名前。
濡れたナイフを握りしめたまま春太がそう呟いたことで、ようやくヤナギは春太の置かれた状況をのみこむことができた。この森に住まう夢魔のやり口と考えると、大まかなところはヤナギにも想像がついた。
「…そういうことかよ。胸糞わりぃな」
ヤナギはそう吐き捨てると、腕を伸ばし、そのまま弱々しい力で春太の胸ぐらを掴んだ。そして驚きに見開かれた春太の目をまっすぐに見て言った。
「なあ春太、お前いい加減目覚ませよ。お前の探してる雪帆って奴は、事情がどうあれ自分の大事な人間に、人殺させるような奴なのか?」
春太は握りしめたままのナイフを取り落とした。
カランと音を立てて、ナイフが床に落ちる。
ヤナギの手が離れ、春太はふらりとよろめいた。
「…ちがう、雪帆は…そんなこと…言わない」
春太の目から一筋の涙がこぼれた。
自分は本当に何をしているんだ。
どうしてそんな簡単なことにすら気付けなかったのだろう。
春太は震える両手を見下ろした。
真っ赤に染まった自分の手。
「俺…取り返しのつかないことを…」
ぎゅっと目を瞑りそう呟いた瞬間、絶望に染まった自分の中で、何かが嗤った気がした。
とりこまれる、そう思った時だった。
「春太」
ギリギリのところでヤナギの声がして、目を開けた。
「春太、大丈夫。大丈夫だから」
ヤナギは春太の体を強く抱きしめた。
いつもは熱いくらいのヤナギの手が、今は死んだように冷たい。
きっともう、立っているのもやっとのはずだった。それでも、ヤナギは力一杯春太のことを抱きしめる。
必死に、春太を繋ぎ止めようとするように。
「今度こそ…お前を守るから。俺は絶対に死なない。お前を一人にしたりしない。だから惑わされるな。ちゃんと現実に帰ってこい、春太」
ヤナギのくれた言葉で、春太はようやく救われたような気がした。
闇の中に一筋の光が射す。
「ヤナ…」
春太はヤナギの名前を呼ぼうとした。
しかしその刹那、がくんと膝が折れて、ヤナギの体から力が抜けた。抱きしめてくれた手がほどけ、滑り落ちていく。
ヤナギはそのまま床に崩折れた。
「ヤナギ…?」
春太の中で、絶望と罪悪感が一気に膨れ上がった。
春太の中に巣食うそれは、本来この瞬間を待ち望んでいたはずだったが、想定を遥かに上回る思いの強さにかえって押し潰されそうになる。
「ひっ…!!」
思わず声を上げ、追い出されるように春太の中からずるりと姿を表した敵をヤナギは見逃さなかった。
力を振り絞り、ヤナギは叫ぶ。
「師匠、今だ!!」
その声と同時に、どこかに潜んでいたハクが突然飛び出してきた。
ハクは姿を表した夢魔に向かって素早くひと飛びし、パクリとその口に咥える。そのままゴクンと一息にそれを飲み込んだ。
ぎゃっ!という間抜けな声が奴の最期の言葉となった。
「ヤナギ、大丈夫か!」
ハクは地面に着地するやいなや、ヤナギを振り返った。
ヤナギは冷汗を流しながら床に座り込み、壁にもたれるようにしてどうにか呼吸を整えようとしている。
春太はただ呆然と目の前の出来事を眺めることしか出来ないでいた。
「どういうこと…?」
ヤナギは痛みに顔を歪ませながらも春太を見て言った。
「師匠と組んでたんだよ。春太が帰ってきた時、なんかあんだろうなって分かってはいたから」
「そんな…」
「ずっと隙を狙ってた。どうせなんか仕掛けてくると思ってたし、それならこっちから接触して機会を作ろうと思って。そうしないとあいつはお前の中から出ていかねえし、あんまり長く取り憑かれたままだと体に障る。本当はもっと早くにどうにかしてやりたかったんだけど、糸口がなくて」
「それじゃヤナギは最初から…俺に何かされるつもりだったの?」
「ああ。まさか…あんな容赦なくブッ刺されるとは思わなかったけどな」
ははっと笑うヤナギの元に春太はすとんと座りこむ。怒っていいのか悲しんでいいのか分からなくて、とりあえずボロボロと泣いた。
「なんて顔してんだよ。つーかお前、いつも泣いてばっかだな」
「誰のせいだと思って…!」
春太が言い返そうとすると、ようやくヤナギは安心したように笑った。
伸ばした手が春太の目から涙を拭う。
「とりあえずお前さ、こんなくだらねえ幻影に惑わされてんじゃねえよ。この森で生き残りたいなら、信じるものを間違えるな」
その言葉は今の春太には重く響いた。
頷く春太にヤナギがくしゃりと笑う。
「本当に理解してんのか、ばーか」
そういうなりヤナギはぐらりと倒れ込んだ。
春太はそれをなんとか受け止める。
随分と体が冷たい。まるで氷のようだと思った。
「ヤナギ!」
大声で名を呼ぶ春太にヤナギは顔を顰めた。
「あーうっせぇ…大丈夫だっつーの。言っただろ?俺はお前ほどヤワじゃねえ」
「でも…」
「疲れた。少し寝たら…治るから」
消え入るような声に春太は焦った。
このまま眠って、目が覚めなかったらどうしよう。
「…春太」
眠そうに目を閉じたまま、ヤナギが春太を呼んだ。春太が「なに?」と返すと、口元だけでふっと笑った。
「おかえり」
春太はヤナギの手を握ってそれに答える。
「うん、ただいま」
***
「春太、とにかく今は早くヤナギの手当てをしよう。思っていたより出血がひどい」
ハクに言われて春太はベッドにヤナギを運び、手当てを手伝った。
ハクは春太に休んだらどうかと言ったが、春太はそれを頑なに拒み、ヤナギのそばを離れようとしなかった。
手を握り、髪を撫でる。
サラリとした髪の感触に触れ、春太はふと雪帆のことを思い出した。眠る時の顔がなんとなく二人は似ていると思った。
-春太は変わったね。
夢の中の雪帆は結局本物の雪帆ではなかったけれど、あの夢で言われた言葉が、目覚めた後もずっと頭から離れなかった。
ーヤナギって人といる時の春太、とても楽しそうだった。俺のことなんか忘れちゃったみたいに。
夢の中の偽雪帆はそう言った。
春太はあの時、それを雪帆の嫉妬だと捉えていた。
でも、落ち着いてみればみるほど、本当にそうなのだろうかと自分に問いかけずにはいられなくなった。
あの夢の中で、春太がまっさきに助けを求めたのは他の誰でもないヤナギだった。
それに、あの映像が流れた時、ヤナギのことだけはすぐに偽物だと確信が持てた。
偽雪帆にはコロリと騙されてしまったというのに。
雪帆を忘れたというわけではない。
大好きなことは変わらないし、今でも会いたいと思っている。
だけど…
(俺、もしかして…)
怖くなって春太は考えることを止めた。
椅子の上で膝を抱えてうずくまる。
「ちがう、そんなはずない…俺は…雪帆が好きなんだ」
言葉にするほど自信が持てなくなっていく。
だって、そう言っているそばから春太の頭に浮かんでくるのはヤナギのことばかりだったから。
「俺が…本当に好きなのは…」
結局、春太はその先を言えなかった。
まるで見えない迷宮にでも迷い込んでしまったかのように自分の気持ちが分からなくなった。
耳元では苦しそうな荒い息遣いが聞こえてくる。
自分の体にもたれかかり喘ぐような呼吸を続けるヤナギの重みを春太は一身に受け止めていた。
(自分は今、何をした?)
生ぬるい感触が手にこびりついていた。
自分のしたことを訴えかけるかのように。
「は…るた…」
ヤナギの声に全身がビクリと硬直する。
歯の根が合わず、カチカチと音がした。
自分は何に恐怖しているというのだ。
この状況で、一体何を。
「俺……は……」
気が動転して上手く言葉が出てこない。
どうしようという言葉ばかりがぐるぐると頭を駆け巡っていく。
春太はとにかくナイフを抜かなきゃと、ヤナギの腹に突き立てたナイフを引き抜いた。嫌な感触と共に熱い液体がどろりと溢れ、春太の手を濡らす。
ぐっとヤナギが呻き声を上げ、よろめいた。
「春太…落ち着け…大丈夫…だから」
傷口をおさえながらヤナギは無理に笑ってみせる。心配させまいとするヤナギの優しさはかえって春太の罪悪感に拍車をかけた。
ヤナギが一歩近づくと、春太も一歩後ずさる。
完全なる膠着状態となった。
「助けて…ねえ、雪帆……」
春太の口から突然出てきた雪帆という名前。
濡れたナイフを握りしめたまま春太がそう呟いたことで、ようやくヤナギは春太の置かれた状況をのみこむことができた。この森に住まう夢魔のやり口と考えると、大まかなところはヤナギにも想像がついた。
「…そういうことかよ。胸糞わりぃな」
ヤナギはそう吐き捨てると、腕を伸ばし、そのまま弱々しい力で春太の胸ぐらを掴んだ。そして驚きに見開かれた春太の目をまっすぐに見て言った。
「なあ春太、お前いい加減目覚ませよ。お前の探してる雪帆って奴は、事情がどうあれ自分の大事な人間に、人殺させるような奴なのか?」
春太は握りしめたままのナイフを取り落とした。
カランと音を立てて、ナイフが床に落ちる。
ヤナギの手が離れ、春太はふらりとよろめいた。
「…ちがう、雪帆は…そんなこと…言わない」
春太の目から一筋の涙がこぼれた。
自分は本当に何をしているんだ。
どうしてそんな簡単なことにすら気付けなかったのだろう。
春太は震える両手を見下ろした。
真っ赤に染まった自分の手。
「俺…取り返しのつかないことを…」
ぎゅっと目を瞑りそう呟いた瞬間、絶望に染まった自分の中で、何かが嗤った気がした。
とりこまれる、そう思った時だった。
「春太」
ギリギリのところでヤナギの声がして、目を開けた。
「春太、大丈夫。大丈夫だから」
ヤナギは春太の体を強く抱きしめた。
いつもは熱いくらいのヤナギの手が、今は死んだように冷たい。
きっともう、立っているのもやっとのはずだった。それでも、ヤナギは力一杯春太のことを抱きしめる。
必死に、春太を繋ぎ止めようとするように。
「今度こそ…お前を守るから。俺は絶対に死なない。お前を一人にしたりしない。だから惑わされるな。ちゃんと現実に帰ってこい、春太」
ヤナギのくれた言葉で、春太はようやく救われたような気がした。
闇の中に一筋の光が射す。
「ヤナ…」
春太はヤナギの名前を呼ぼうとした。
しかしその刹那、がくんと膝が折れて、ヤナギの体から力が抜けた。抱きしめてくれた手がほどけ、滑り落ちていく。
ヤナギはそのまま床に崩折れた。
「ヤナギ…?」
春太の中で、絶望と罪悪感が一気に膨れ上がった。
春太の中に巣食うそれは、本来この瞬間を待ち望んでいたはずだったが、想定を遥かに上回る思いの強さにかえって押し潰されそうになる。
「ひっ…!!」
思わず声を上げ、追い出されるように春太の中からずるりと姿を表した敵をヤナギは見逃さなかった。
力を振り絞り、ヤナギは叫ぶ。
「師匠、今だ!!」
その声と同時に、どこかに潜んでいたハクが突然飛び出してきた。
ハクは姿を表した夢魔に向かって素早くひと飛びし、パクリとその口に咥える。そのままゴクンと一息にそれを飲み込んだ。
ぎゃっ!という間抜けな声が奴の最期の言葉となった。
「ヤナギ、大丈夫か!」
ハクは地面に着地するやいなや、ヤナギを振り返った。
ヤナギは冷汗を流しながら床に座り込み、壁にもたれるようにしてどうにか呼吸を整えようとしている。
春太はただ呆然と目の前の出来事を眺めることしか出来ないでいた。
「どういうこと…?」
ヤナギは痛みに顔を歪ませながらも春太を見て言った。
「師匠と組んでたんだよ。春太が帰ってきた時、なんかあんだろうなって分かってはいたから」
「そんな…」
「ずっと隙を狙ってた。どうせなんか仕掛けてくると思ってたし、それならこっちから接触して機会を作ろうと思って。そうしないとあいつはお前の中から出ていかねえし、あんまり長く取り憑かれたままだと体に障る。本当はもっと早くにどうにかしてやりたかったんだけど、糸口がなくて」
「それじゃヤナギは最初から…俺に何かされるつもりだったの?」
「ああ。まさか…あんな容赦なくブッ刺されるとは思わなかったけどな」
ははっと笑うヤナギの元に春太はすとんと座りこむ。怒っていいのか悲しんでいいのか分からなくて、とりあえずボロボロと泣いた。
「なんて顔してんだよ。つーかお前、いつも泣いてばっかだな」
「誰のせいだと思って…!」
春太が言い返そうとすると、ようやくヤナギは安心したように笑った。
伸ばした手が春太の目から涙を拭う。
「とりあえずお前さ、こんなくだらねえ幻影に惑わされてんじゃねえよ。この森で生き残りたいなら、信じるものを間違えるな」
その言葉は今の春太には重く響いた。
頷く春太にヤナギがくしゃりと笑う。
「本当に理解してんのか、ばーか」
そういうなりヤナギはぐらりと倒れ込んだ。
春太はそれをなんとか受け止める。
随分と体が冷たい。まるで氷のようだと思った。
「ヤナギ!」
大声で名を呼ぶ春太にヤナギは顔を顰めた。
「あーうっせぇ…大丈夫だっつーの。言っただろ?俺はお前ほどヤワじゃねえ」
「でも…」
「疲れた。少し寝たら…治るから」
消え入るような声に春太は焦った。
このまま眠って、目が覚めなかったらどうしよう。
「…春太」
眠そうに目を閉じたまま、ヤナギが春太を呼んだ。春太が「なに?」と返すと、口元だけでふっと笑った。
「おかえり」
春太はヤナギの手を握ってそれに答える。
「うん、ただいま」
***
「春太、とにかく今は早くヤナギの手当てをしよう。思っていたより出血がひどい」
ハクに言われて春太はベッドにヤナギを運び、手当てを手伝った。
ハクは春太に休んだらどうかと言ったが、春太はそれを頑なに拒み、ヤナギのそばを離れようとしなかった。
手を握り、髪を撫でる。
サラリとした髪の感触に触れ、春太はふと雪帆のことを思い出した。眠る時の顔がなんとなく二人は似ていると思った。
-春太は変わったね。
夢の中の雪帆は結局本物の雪帆ではなかったけれど、あの夢で言われた言葉が、目覚めた後もずっと頭から離れなかった。
ーヤナギって人といる時の春太、とても楽しそうだった。俺のことなんか忘れちゃったみたいに。
夢の中の偽雪帆はそう言った。
春太はあの時、それを雪帆の嫉妬だと捉えていた。
でも、落ち着いてみればみるほど、本当にそうなのだろうかと自分に問いかけずにはいられなくなった。
あの夢の中で、春太がまっさきに助けを求めたのは他の誰でもないヤナギだった。
それに、あの映像が流れた時、ヤナギのことだけはすぐに偽物だと確信が持てた。
偽雪帆にはコロリと騙されてしまったというのに。
雪帆を忘れたというわけではない。
大好きなことは変わらないし、今でも会いたいと思っている。
だけど…
(俺、もしかして…)
怖くなって春太は考えることを止めた。
椅子の上で膝を抱えてうずくまる。
「ちがう、そんなはずない…俺は…雪帆が好きなんだ」
言葉にするほど自信が持てなくなっていく。
だって、そう言っているそばから春太の頭に浮かんでくるのはヤナギのことばかりだったから。
「俺が…本当に好きなのは…」
結局、春太はその先を言えなかった。
まるで見えない迷宮にでも迷い込んでしまったかのように自分の気持ちが分からなくなった。
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