惑いの森と勿忘の花

有村朔

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第二章

1

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春太が後ろを振り返った時、通ってきたはずの扉は跡形もなく消えていた。もう引き返すことはできない、その事実に恐怖し、足がすくんだ。
森の中は暗く、なんの物音もしない。
風の音ひとつない完全なる静寂は、呼吸する生き物を殺そうとしているように感じた。どこかから見られているような不安を感じ、春太は逃げるように歩速を上げた。

怖い。怖い。怖いーー。

似たような景色ばかりが続く森の中では方向感覚をすぐに失ってしまう。背の高い木々のせいで周囲は薄暗く、十分な光は届かないようだ。

今は昼だろうか、夜だろうか。
方向感覚だけでなく、時間の感覚すらも薄れていく。段々と自分の存在までもが曖昧な何かに変わってしまうような気がして、春太はいつのまにか走り出していた。
手足が先の方から冷え切っていくのを感じる。
空間がねじ曲がっているような不快感に襲われ、何度も躓いた。孤独に押しつぶされそうになり発狂しそうになった。

さすがにずっと走り続けるわけにもいかず、春太は立ち止まった。
汗がどっと吹き出して、喉はカラカラに乾いていた。

「雪帆…どこだよ雪帆…!!頼むから返事してよ!!」

叫ぶようにして名前を呼んだ。

「雪帆…!ねえ、雪帆…!!」

それでも返ってくる声はない。
絶望を感じた。

-そうだよ。お前はもう二度と会えやしないさ。

陰湿に笑うクスクスという音と共に、どこからともなく卑しい声が聞こえてきた。
ハッとして周囲を見回すがあたりに人の気配はない。しかしたしかに春太は何者かの声を聞いた気がした。

気のせいだろうかと思ったが、声はまた聞こえてきた。今度は耳元で囁くほど近い距離だった。

-こんなところまで来たのに、かわいそう。独りだね。寂しいねぇ。

「やめて…」

春太は耳を塞いでしゃがみ込んだ。
それでもクスクスという笑い声は頭に直接響くみたいで防ぐことができない。
神経を逆撫でするようなゾクリとするイヤな声。それは細菌のように頭の中で増殖し、春太を内から壊そうとする。

もうダメだと春太が目を瞑った、その時だった。
塞いだ耳にかすかに別の声が届いた。

強い力で引っ張られ、春太は驚いて目を開けた。
無理やりその場に立たされる。

「おい、走れるか?」

開けた視界には綺麗な銀色の髪をした男がいた。
その突然現れた誰かは春太の手を掴むやいなや、春太が答えるよりも先に走り出した。

「ちょっと…!」

春太は目の前の男に手を引かれるまま走るしかなかった。今は何を聞いても答えてくれそうにない。
この男について行くことに不安がないわけではなかったが、ただこの手を伝わる温もりを今だけはどうしても手放せそうになかった。

***

「お前馬鹿か!死にてえのかよ!」

しばらく走り続けて、春太も男もさすがにヘトヘトになって地面に座り込んだ。
息も絶え絶えの状態で、二人は森の中でも少しだけ開けた明るい場所に出ていた。

そして開口一番に春太は目の前の男から怒鳴られたのである。
春太はなんでそんなことを言われるのか理由が分からずただ狼狽えるばかりだ。

「えっと…」
「あんな大声出して、ここに餌があるぞってアピールでもしてたつもりか?自殺してぇんなら他所でやれよ」

春太は困惑と苛立ちからついつい棘のある言い方になる。

「あの、さっきから何言ってんのか全然分かんないんだけど、なに?一体何の話?」

そこで目の前の男はようやく言葉を止めた。

「もしかして、あんたここに来たばっかなのか?」

戸惑いながら頷く。
男は春太を上から下まで眺めまわして大きくため息をついた。

「ああーそういうことね。めんどくせえ拾いもんしちまったな」

さすがに普段は温厚な春太もその物言いにはムッとした。

「助けてくれたのはありがたいけど、俺もう大丈夫なんで」
「ああ?大丈夫なわけねぇだろ。お前この森ナメてると死ぬぞ」
「死ぬって…そんな大袈裟な」
「大袈裟なんかじゃねえ。現に今、お前危なかったんだぞ。俺が助けてやんなかったらお前はこの森に喰われてた。感謝するんだな」

男はそういうと腕を組み、心底面倒臭いという顔でじっと春太のことを見た。
面倒だからといって春太をそのまま放っておくという選択肢はないようだった。

「仕方ねぇ。ついてこい」

男は立ち上がると、乱暴に春太に手を差し伸べた。春太は一瞬だけ躊躇したものの、このまま一人で彷徨い歩いても埒があかないと思いその手をとった。

立ち上がると、男と目が合った。
乱暴で横柄な印象の男だったが、悪い男ではないようだ。その目はどこか雪帆に似ていた。

「お前、名前は?」
「…春太」
「そうか。俺はヤナギって呼ばれてる。とりあえず、事情は知らねえけどお前はここのことをもっと知る必要がある。俺の師匠に会わせてやるから、ついてこい」

ヤナギは春太にそれだけ言うとさっさと歩き始めた。

「ねえ」

ヤナギは一定の間隔をあけながら春太の前を歩いた。春太が歩速を上げるとヤナギも早足になり、かといって春太が足を止めるとぴたりとその場に立ち止まり、春太のことをじっと待っている。

「ねえってば。ヤナギ」

何度か呼びかけてヤナギはようやく足を止めた。相変わらずめんどくさそうに「なんだよ」と答える。

「その、会った時からずっと聞きたかったんだけどさ」

春太は目の前でゆさゆさと揺れている物をじっと見つめながら、ようやく意を決してについて触れた。

「ヤナギのその耳と尻尾は…本物?」
「はあ?当たり前だろ。贋物をわざわざつける意味がわからん」

犬というより狐なのだろうか。
ヤナギにはそういう耳と尻尾がついていた。
ふさふさとした尻尾は柔らかそうな毛並みで、頭の上にはちょこんと三角形の耳が生えている。
どちらも揃いの白色で、髪の毛の銀色と相まって、神話なんかに出てくる神獣を彷彿とさせた。

「尻尾、ちょっとだけ触っちゃダメ?」
「ころすぞ」

すごい剣幕で睨まれて、春太は素直に謝った。

「ここの人はみんなそんな風に耳とか尻尾が生えてるの?」
「そういうわけじゃねえ。俺は半獣だから人と違う。それだけだ」
「半獣?」
「人間と獣のハーフ」

神話や童話の中に出てくるような存在が目の前にいるというのはどうにも妙な感じがした。

「そういう半獣?っていうのは多いの?」
「さあな。俺も別にここに長いってわけじゃねえから」
「えっ?」
「ついたぞ。続きはあとだ。ちょっと待ってろ」

たどり着いたのは小さな木製のコテージのような場所だった。
外観だけでいえば大人三人が入りきるのか少し不安になるくらいのコンパクトなサイズ感。

ヤナギは春太を外に待たせてその中に入っていき、すぐにまたひょこりと顔を出し、手招きをした。
どうやら入れということらしい。

春太は緊張しながらも、そろそろと建物の中に入っていった。

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