惑いの森と勿忘の花

有村朔

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第一章

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基樹と別れた春太は地図を頼りに街中を彷徨っていた。その間に何度もスマホは確認したが、やはりただの一度も雪帆からの連絡はない。
会いたいという気持ちばかりが募って焦りを生んだ。

(このままもしも会えなかったら、俺は…)

弱気になるたびに何度も首を振り自分を奮い立たせる。
がむしゃらに歩を進めた。
それ以外に出来ることなどなかった。

日が暮れる頃には、基樹からもらった地図は汗で湿りくしゃくしゃになっていた。
もうすぐ夜になる。
食事も忘れてひた走ったために、あともう一箇所でこのマップに描かれた印の場所は全てまわり終えてしまう。
そうしたら今度こそ、雪帆に繋がるかもしれない手掛かりは消える。

確認するのが怖かった。
これでダメならもう手はない。
雪帆と二度と会えない人生を受け入れるしかないのかもしれない。
足が止まった。

「雪帆…」

思わず名前を呟いた、その時だった。
どこからか、ふわりと甘い花の香がした。
春太は呼ばれたような気がしてその香りのする方へ歩いていった。

「これは…」

春太の目の前には不思議な光景が広がっていた。
マップから外れたその場所は、言ってしまえば廃墟だった。
崩れかけた外壁はスプレーで描かれたらしい落書きでみっちりと埋め尽くされている。
その中に、うっすらと発光する扉の絵があった。
吸い寄せられるみたいに春太はその扉の前に立つ。
近づいて見てみてもやはりただの絵でしかない。
それなのに、春太は目の前の扉の絵に手を伸ばさずにはいられなかった。

扉はひとりでに開いた。わずかに開いた隙間から先程の花の香が強く芳香を放つ。
こっちへおいで、そう誘うみたいに。

春太はその細い隙間を広げようと扉を押してみることにした。
ただの絵のはずなのに、扉を押し開ける感触がしっかりと手のひらに伝わる。
向こう側に空間があるという感触が。

そうして開いた扉の向こうには、見知らぬ森が続いていた。
ひんやりと湿った空気が、向こう側の世界に干渉している腕のあたりに絡みつく。

-望みはあるか?

不意にどこからともなく声が聞こえた。
春太は怖気付いたものの、引き返すわけにもいかなかった。

-選ばれし御子よ。代償を支払ってでも叶えたい願いはあるか?

その声がなにを言っているのかは春太にもよく分からなかった。
それでも春太はうなずいた。

「願いならある。雪帆に会いたい」

-ならばこちらに来るといい

必要な者の前にだけ現れる扉。
忘却の呪いのかかった惑いの森。

基樹はたしかにそう言っていた。
この扉を抜けた先には一体なにが待ち受けているというのだろう。
本当に、行けば願いが叶うのだろうか。

『愛してる』

最後の夜、たしかに聞いた雪帆の声。
いつも少し物憂げな横顔。
春太の前でだけ見せる屈託のない笑み。

(大丈夫、忘却の呪いだろうがなんだろうが、俺が雪帆のことを忘れるなんてありえない)

春太はそう確信していた。
だって、もうこんなにも全身に刻まれた記憶なのだから。

扉は開かれている。
行けばもう戻れないかもしれない。
雪帆がいる保証だってない。
あるのは会えるかもしれないというわずかな望みだけだ。
それでも、雪帆のいない人生をこの先も生きることを想像すると、たとえ会えなくともこのまま雪帆を探しに行ってしまう方がずっとマシな選択肢に思えた。

そこでようやく、春太は覚悟を決めた。

「待ってて、雪帆」

意を決して、春太は扉の向こうに進んでいった。
そうして春太の体が扉の向こうに飲み込まれた瞬間、扉から光は消え、そこにはひっそりとした闇と薄汚れた壁だけが残った。
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